1. 新宗教をどう見るか
D 大学に入って新歓が始まると、いろいろな宗教の勧誘も始まると思います。そういう中で勧誘されるなど、新宗教と出会ったとき、新宗教とどう向き合えばよいのでしょうか。島田先生(以下、敬称略) 一番いいのは、勧誘されたらあえて引っかかることだね。勧誘されたら引っかかると原則として決めといて、気軽にみんなで行って引っかかれば、別になんてことないと思う。そのほうが、新宗教がどういうものだかわかる。新宗教を恐れたってしょうがない。
D そういった場合問題がいろいろあると思うのですが。
島田 そんなに難しい世界ではないから、問題は見ればわかる。見ないからみんなわからないのであって、見に行けばいい。宗教といっても、出家して入るのと在家のまま入るのではかなり違う。出家の場合は勧誘もしてくれず、自分で行っても受け付けてもくれず、非常に敷居が高い。でも一般の新宗教はみな在家だから、資格がいるわけではなく、普通の人が普通に入る。入ること自体は非常に簡単。大学みたいに入試はなく、みなウェルカムで、来てくれたらうれしいという感じで、いくらでも親切にしてくれる。そのなかに入り込んでしまう人というのは、さみしいからなど、個々人それぞれの目的がある。あるいは、親の影響で入ることはとても多く、創価学会の場合だと親族がみんな中にいるから当たり前に入る。入っている人それぞれは個々の人間だから、かなり違う。そういうものは見てみるとよくわかる。
D 先生も実際にそういうところで見たものが大きいのですか。
島田 やはりそれしかないですね。宗教は生ものだから、表面に出ている教えとかを見てもわからない。数値に表してそこの意識がどうのこうのといったってわからないし、教義を見たってわからないし、建前の部分を見てもまったくわからないけれど、中に入ると本音というか、ああこういうものなのか、というのがわかる。大学の場合だって同じでしょ。僕が日本女子大で教えていた時のこと。学生は、中からも来る人がいるのですが、外から来た人は、ほかの大学の入試を落ちて入ってくることが多かった。それで基礎ゼミのときに学生に他大学にもぐり聴講をさせた。自分の好きな大学に行けといってもぐりで聴講させると、ああ大学なんてそんなにたいして変わらないと、早稲田だろうと東大だろうとたいしたことないということがわかる。
K 東大だってそうですよね。
島田 東大だからって、そうそう立派な授業をしているわけではない。それで結構、びっくりする人もいるわけでしょ。そういうようなもので、みんな幻想を抱いているわけ。なんとなく新宗教とはこういうものという、『20世紀少年』にでてくる「ともだち」の教団のような、非常にステレオタイプなイメージがある。しかし現実にはそんなことはなく、そのイメージとのズレは大きいと思う。そういう風に報道されているところも大きい。その幻想があって宗教が成り立っている部分もあり、それを報道するジャーナリズムもそれで成り立っている、という部分もある。
D では、中に入ったら新宗教なんてたいしたことないと思う場面もしばしばあるのですか。
島田 そんなことばっかりじゃないですか。基本的には、みんな救われてない。宗教に入ると救われるとみんな勝手に思っているが、そう簡単に救われるわけではない。救われた人はすぐ出てきてしまう。医者にかかっていて、そのままずっと医者に行く人はいないでしょ。治ったら出てきてしまう。救われないから居続ける。
2. 新宗教の人間関係
D 先生はどんどん入って行けという考えなのでしたら、先生が文春でカルト対策について書いた文章はどういう意図で書きましたか。島田 明るく引っかかるというのが大切であって、一人で本当に引っかかると危ない。引っかかるものだと思って引っかかるのと、引っかかりたくないと思って引っかかるのでは、えらく違う。一本釣りされて、面倒見てもらうなどして、だんだん深くはまっていってしまうと、結構厄介なことになる。学業とか仕事捨てることになってしまうなどといったことになる。
D ということは、最初にいった「みんなで」引っかかるということも重要なのですか。
島田 ほかの人に行っているといわなければならない。人に隠したり、秘密にいったりするとだめ。
D では中に行っても外の人との関係を保ち続けるのは重要ですか。
島田 当然でしょ。それが切れちゃうと囲い込まれてしまう。いろいろな社会関係があるなかで、家族や友人との関係をきってそれだけになっちゃうのはおかしい。それがなければ本来問題は起きないと思う。
D いわゆるカルト教団は周りとの関係を積極的に切ってくると聞きますが、カルト教団がカルトといわれるのはそういうところが大きいのですか。
島田 そう。集団のためにその人間を利用するために関係を切らせる。あるいは関係が切れている人だからそういうところに引っかかる。
D そういう教団は正体を隠して勧誘してくると思います。正体を隠してくると気が付かないうちに関係を切ってしまって、ということになりませんか。
島田 みんなで探しにいけばいいのでは。ここの正体はどうなのか、どんどんひっくり返していくことをしてみればいい。そういうサークルがあってもいいのではないかな。そういう変なのがあると勧誘する側もやりにくいと思う。それに、みんなものを考えてないからそういうのにやられてしまうという、それだけの気もする。人間の後生とか、人生の意味とか言われると、そんなことで動揺する必要はないのに、みんな妙に動揺したりするから、そこに取り込まれてしまう。手口なんかそんなたいしたことない。需要がないところにはやはり取り込まれないよね。本人がそういうようなものを求めていない限りなかなかいかない。行く人はどこかそういうものを求めている。だから正体を隠さなくても行く人は行くんじゃない。
D 確かに自分は正体を隠されなくてもいっちゃいそうで恐ろしいです。
K おもしろいのは、後藤君は宗教にネガティブなイメージを持っている。一方で土井君はポジティブなイメージを持っているから企画を進めてきた。山田さんは社会人で、何か持っているんでしょうね。だからこういうところにわざわざ足を運んで…。
Y ええ。実は、いい宗教があったら紹介してもらいたいと思って…。信じられるものがあったら生きていけそうな気がするんです。私は厭世家ですから。
島田 そういう人には、僕が入っていた山岸会とかいいんじゃない。でも責任持たないよ。全財産持ってかれるから(笑)。山岸会には一週間の特講というのがあるんだけど、一回行くと免疫ができるんだ。あそこ一番効くんだよね。腹が立たなくなるには、とかやるわけ。これを経験しておくと、ほかのところも同じだから。ほかのところに影響されることはないよ。悲観論者にだっていいんじないかな。
K 一週間とか合宿とかで参加できますか。
島田 できるよ。
K それは今の大学生みんな行ったほうがいいかもしれない。
D 宗教とか求めている人は多いと思います。僕も勧めてほしい気持ちがないわけではないです。でもオウムの事件とかすごく危険なイメージがありますし、実際中に入ってサリンまく羽目になっても困ります。
島田 犯罪にかかわらなかった信者にとっては、オウムだってとてもよいところに映っていた。女の子だってかわいいし。
K そこ詳しく聞きたいです(笑)。学会とかはすごく人柄いい人が多いですが。
島田 それよりももっと現代的な感じ。だからひっかかるのはしょうがないよね。宗教はとにかくやさしくしてくれる。心地いいから、だんだん傾倒していき、ほかの人間関係よりそちらのほうがよくなる。だから現世、娑婆における人間関係で悩んでいるとそういうところに行ってしまう。
D そういうところでは現世のような人間関係は起こらないのですか。
島田 その中も固有の人間関係があるわけだから、問題は起こるよ。必ずしもみないい人ばかりじゃない。確かに人間関係でいろいろ軋轢も起こるけれど、そういうものを変える余地もある。理想を掲げているから。企業ならうちは人間関係良いとか言わないでしょ。宗教は素晴らしい世界がありますよっていうから。その方向に進んでいるような気になるし、問題はそちらへ行くことによって解決するのではないかという希望を託せる。そこが普通の人間関係と違ってくる。
K そういう中では、人間関係がぎくしゃくしてもそれが受け皿になると。
島田 それを真剣に変えようということにもなる。ただ複雑なのは、そういうところに入っても落ちこぼれる人もいる。落ちこぼれてやめる人もいればやめない人もいる。人間って面白い。元統一教会の仲正昌樹さん、彼って大学の落ちこぼれで、統一教会の落ちこぼれでもある。読んでいるとつらかったんだろうなと思う。でも統一教会にずっといた。
G 抜け出せないということはないのですか。
島田 抜け出せないというのは主に心理的なもの。物理的に抜け出せないようにするのは無理。人間関係はいったんできたらそう簡単に切れない。それが濃密にあれば、一回そういう世界に入ったら、簡単に、じゃあさよなら、というようにはいかない。
D では、逃げたらサタン、というような教義よりはむしろ、人間関係の方が重要なのですか。
島田 もちろん教義的なものもあるかもしれないけど、でもそれはあくまで一つの理由であって、本質的には人間関係の方が大きいのではないかな。
Y 宗教はそうかもしれないけど、会社はどうでしょうか。送別会とか盛大にやって、でも、辞めてっちゃうと連絡も全然しないなんてよく聞く話です。だから人間関係で切れないかっていうと、意外と冷めているところがあるように思います。
島田 会社はね。
G 宗教が人間のつながりを提供する場ってことですか。
島田 問題の起こった宗教って大体共同生活しているよね。共同生活ってことになって、人の関係が密になると、社会と遮断されて、そこだけが個人の中で大きくなってしまうから、抜けることが難しくなる。抜けることが全てを捨てるってことを意味するようになる。会社だって共同生活すればそういう風になる。