――探偵企画では、ミステリにおける「探偵」の存在について考えていくことを検討してきた。性別や外見、年齢や職業などの、キャラクターとしての差異に加えて、謎やストーリー全体に対するスタンスの違いなどにより、様々な探偵像が生み出されてきた。我々はこうした「探偵」の姿について、是非それを生みだすミステリ作家の方にお話を伺ってみたいと考えていた。
こうした中、まずお話を伺いに行ったのが、『氷菓』『インシテミル』で知られる米澤穂信先生だ。ご多忙の中取材をお引き受けいただいた先生に。「探偵」を始めとする各キャラクター、及び彼らを取り巻く世界観をどう生みだしていったのか。じっくりと語っていただいた。
米澤穂信
1978年生まれ。岐阜県出身。2001年、『氷菓』で第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞を受賞してデビュー。「日常の謎」を扱った青春ミステリと呼ばれるジャンルの作品を数多く発表している。代表作に『春期限定いちごパフェ事件』(〈小市民〉シリーズ)、『さよなら妖精』『折れた龍骨』(2011年、第64回日本推理作家協会賞受賞)。『氷菓』に始まる〈古典部〉シリーズは2012年、京都アニメーションによってTVアニメ化され、大きな話題を呼んだ。
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1 ミステリについて
──まず先生の「探偵」観についてお伺いします。<古典部>シリーズの折木奉太郎(※1)、<小市民>シリーズの小鳩常悟朗(※2)、<S&R>シリーズの紺屋長一郎(※3)など、謎に対して正面から向き合っていこうとしない「探偵」キャラクターが登場しますが、そうした多くの個性的な探偵を作り上げた先生の「探偵」に対する見解及びスタンスについて伺いたいのですが。
ミステリーというジャンルにおいて「探偵」というものに向き合う際に、探偵を万能の存在として真っ向から描くという姿勢はミステリの初期から見られました。しかし黄金期の後半、アントニー・バークリー(※4)が出てきたような時代になってくると、それはちょっと現実的な態度ではない、それ以前に食傷気味である、逆にそれをユーモラスに受け取ろうという態度が、アメリカを中心に出てきていたんです。ただ私は、そのアメリカの問題意識を取り入れようとしたわけではありません。ある程度ミステリを読んでいく内に、「名探偵」という存在に対してシニカルな態度を取らざるを得なくなってきたんです。探偵の万能性をつきつめて本当に「神」のように描いてしまうか、そうでなければ従来の探偵像から外してしまうということは、別に特別な動機が必要というわけではなく、むしろ自然な意識なのではないかと思います。
──以前あるインタビューで、米澤先生はチタウィック(※5)的な探偵がお好きだと伺ったんですが、一方ではシェリンガム(※6)的な探偵がお好きだとも伺っています。
僕としてはチタウィック的探偵を想像していたんです。正確な統計を取っているわけではないですが、ロジャー・シェリンガムは、ある程度自信を持って事件に挑みながら、二回に一回は失敗するんです。これが非常に面白い。警官がごくまっとうに捜査して、普通に結論を出してしまうこともある。それはミステリーに対する非常に面白いアプローチであると考えています。
逆にチタウィックという人は、本人は自分を名探偵とは思っていないし、『毒入りチョコレート事件』(※7)でも、自分は場違いな存在だなぁと思っている。でも彼は一度も推理を外したことが無い。後期クイーン的問題(※8)が出る前の、「名探偵が言ったことは、それなりに正しいとしていい」という、いわば古典的価値観に沿っているんですね。どちらかというと自分が書いてるモノは、シェリンガム的な物より、チタウィック的に近いものが多いのではないかと思っています。
──今の話ですと、「シェリンガム的探偵」よりも「チタウィック的探偵」の方を態度として好んで取られている場合が多いということですが、そうした姿勢はミステリの中における、登場人物の謎に対してのそれにも現われるものなのでしょうか。
ミステリに対する態度というよりは、ミステリと小説の兼ね合いだと思うんです。もしミステリがただの推理クイズだとすれば、探偵という存在は自由に謎を解くことが出来ます。ところが実際のミステリはただの推理小説ではなく、「小説」である側面を必ず持っている。率直に言ってしまえば、現代を舞台にした小説で刑法に触れるような事件が起きたら、それは言うまでもなく警察の仕事なんです。主人公が解決したらそれは違法だよねという話です。法の問題はさておくとしても、一個人である「探偵」は実際に謎を解くことが許されるのか、それは他人の心やプライバシーに土足で踏み込むことではないのか、という問題意識と探偵役というものの兼ね合いを考えた時、謎に対する取り組み方が立ち上がってきます。
──「素人探偵」(高校生の折木、小鳩)と「職業探偵」(紺屋)の違いについては、どのように捉えていらっしゃるんでしょうか。
まず前提ですが、『犬はどこだ』の主人公・紺屋長一郎は職業探偵ではない、もともと探偵業を営もうと思っているわけではないんです。あくまで犬探しをやろうと思っている。なぜ「探偵役」と「探偵業」を分けて考えなければいけないかというとそれは単純明快で、警察組織というものが非常に進展しているからなんですね。これはミステリの生まれに関することでもあるんですが、「19世紀の中ごろにスコットランド・ヤード(※9)が生まれるまでは、ミステリは生まれる余地が無かった、なぜなら警官が生まれる前に警官について書くわけにはいかないからだ」という論があります。実際にミステリは警察組織とともに生まれ、そして育ってきました。
ですが、今現在、私立探偵は現実には存在しません。いえ、存在はするのですが、ミステリで解かれるような謎に対してアプローチするような、私の好きな存在ではありません。彼らがそのような謎に直面したら、セコムのようにすぐ警察に通報しなくてはならないですよね。職業探偵というものを考える場合、社会的状況にのっとれば、彼らは事件にアプローチできない。それをもし何とかしようとするならば、社会的状況とはかけ離れたミステリにおける、理想的な探偵というものを想像しなければならない。これは麻耶雄嵩(※10)さんがよくやられています。
逆にその二つを組み合わせようとした例として、小説上では理想的な名探偵を想像するんだけども、それは実際的な社会状況にはなじんでいない、上手くやっていけてないという状況があります。これには北村薫さんの巫弓彦(かんなぎゆみひこ)を主人公とした『冬のオペラ』(※11)などがあてはまっていると思います。
──小市民シリーズも古典部シリーズも長編を書く一方で、短編集も多くあります。短編と長編について明確な考え方の違いというか、作り方の違いというものはありますか。
それはありますね。
──他の作家さんが仰っていたことなのですが、「短編小説だと、長編に出来るようなネタを短編に落とすのは、非常に贅沢な手法である」と聞いたことがあります。それでも短編を書く意味は何なんでしょうか。短編小説の醍醐味のようなものがあれば教えていただきたいです。
うーん、思いつくことはあるんですけど……アンブローズ・ビアス(※12)という元ジャーナリストの作家が、著作の『悪魔の辞典』の中で、「長編小説(ノベル)」の定義として、「引き延ばされた短編小説」と書いているんですね。完全に同意はしませんが、「短編小説はそれだけ濃度は濃いものである」、というイメージに関しては多少同意できるかもしれないです。「これを書く」という明確なシチュエーションがあるんです。短編はせいぜい60枚から100枚、あっても120枚。それ以上は中編になってしまいます。「これを書く」という出発点から到着点に向かって、一直線とは言わないまでも、筋道がはっきりします。その「構造美」もはっきり現われますし、文章も濃密になる。ダラダラと情景描写を連ねていくことも暇もない。「濃さ」というところでは僕も好きですね。
──以前あるインタビューで、「短編は風景を切り取った物、長編は景勝地を歩くようなもの」と仰っていましたが。
我ながらいいこと言いますね(笑)
──「日常の謎は短編でこそ味が出る」(※13)とも仰っていましたが、それはどのような繋がりになるんでしょうか。
……これは古典的な考え方ですし、必ずしもそうではないとは考えているんですが、「ある程度人が死ぬようなショッキングな話でないと、600枚を作り上げる力は出ない」という、技術的な問題があると思うんです。ただそれは100%全ての作品には当てはまるわけではなく、自分の好きな『六の宮の姫君』(※14)という作品が、長編小説として一人も死なないってことを考えると、「全て日常の謎は短編が向いていて、長編にはなりえない」っていうことは言いきれないんです。あくまでも「その傾向が強い」という風に受け取っていただければ幸いですね。
(注一覧――特定の作品について述べているものについて、作者名を記していない物は、全て米澤先生の著作です)
※1 『氷菓』に始まるシリーズ。「省エネ」主義を信奉する折木奉太郎・好奇心旺盛なお嬢様・千反田える達「古典部」部員たちの高校生活と、それを取り巻く「日常の謎」を描いた作品。アニメ・コミックなど、メディア展開も多様に行われている。
※2 『春期限定いちごタルト事件』に始まるシリーズ。「小市民」を目指す、小鳩常悟朗と小佐内ゆきの高校生活を描いた作品。
※3 『犬はどこだ』に始まるシリーズ。犬探しを専門に探偵を開業した紺屋長一郎が、非日常的事件に巻き込まれていく。
※4 1893~1971 イギリスの推理作家。『毒入りチョコレート事件』などの革新的な作品で知られる。
※5 アンブローズ・バターフィールド・チタウィック。バークリーの作品に登場する探偵の一人。『毒入りチョコレート事件』等。謎を解くことに対し消極的。
※6 ロジャー・シェリンガム。バークリーの作品に登場する探偵の一人。『毒入りチョコレート事件』等。
※7 バークリーの1929年の作品。クラブで手渡された毒入りチョコを食べた夫人が死亡した事件をめぐり、上記の二人の探偵を含む6人の犯罪研究家が、各々の推理を順番に発表していく。後述の『毒入りチョコレート事件』形式とは、同作に倣って、劇中の登場人物たちが事件に対して各々の推理を披露し、それらを総合して最終的に真実にたどり着く、という流れをとる推理小説の形式。
※8 推理作家エラリィ・クイーンの後期作品群の中で抽出された二つの問題の総称。「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決であるかどうか作中では証明できない」「作中で探偵が神のように振る舞い、登場人物の運命を決定することについての是非」
※9 ロンドン警視庁本部の通称。1829年に創設された際、その所在地名を取ってこの呼称が付いたとされる。
※10 1969~ ミステリ作家。『翼ある闇 メルカトル鮎の最後の事件』でデビュー。『神様ゲーム』など、絶対的な「探偵」を描く作品が多い。
※11 北村薫(1954~)の短編推理小説集。現代に「名探偵」として生きることの哀しさを描く。
※12 1842~? アメリカのジャーナリスト・作家。代表作は、様々な単語を痛烈なブラックユーモアに満ちた形で再定義した『悪魔の辞典』。
※13 日常生活にあるふとした謎を取り扱ったミステリの1ジャンル。
※14 北村薫の<円紫さんと私>シリーズの一作。主人公が芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」創作意図を解き明かすために、文献をひもときながら、芥川の交流関係を探る
(2/3に続く)