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【SF企画】円城塔先生(作家)

はじめに

SF(Science Fiction)と呼ばれる創作のジャンルがある。日本では1970年代、80年代に科学への夢と恐れとともにブームになった。現代においても途絶えたわけではないが、往時の勢いはないとされている。確かに「人類の進歩と調和」という理念なり物語なりはもはや力を失っている。科学は人類を破滅させはしなかったものの、導きもしなかった。一方、科学は日常になった。20年前には夢物語であったような情報端末が今では世の中にあふれ、掃除ロボットが一般家庭に普及している。科学は特別なものではなくなったのだ。こんな世界では確かにSFの出る幕はないといっていいのかもしれない。だが、本当にそうなのだろうか。言葉で、あるいは映像で「科学」を、「未来」を語ることにはまだ意味があるのではないだろうか。そもそもSFとは「科学の物語」を語るためだけのものだったのだろうか。SFの未来について、SFと純文学の両者にまたがって活躍をする円城塔先生にお話を伺った。

【プロフィール】
円城塔
作家。ペンネームは、自身が学生時代に師事した東京大学大学院の金子邦彦教授(過去に見聞伝ゼミにより取材・講演会を開催 )が著した短編小説「進物史観」に登場する物語生成プログラムの一つ「円城塔李久」に由来する。東北大学理学部卒業後、東京大学総合文化研究科博士課程修了。その後、研究の合間に執筆した「Self-Reference ENGINE」が第七回小松左京賞最終候補作となりデビュー。以降、純文学とSFの双方にまたがって活躍する。『オブ・ザ・ベースボール』で第101回文學界新人賞受賞。『道化師の蝶』で第176回芥川賞受賞。
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SFと純文学



――先生はSFの分野と純文学の分野にまたがって活躍していらっしゃいますが、先生ご自身のなかで純文学とSFをわける境界はあるのでしょうか?

円城塔先生(以下、円城)
SFと純文学にまたがって活動しているのは、たまたまそうなってしまっただけで成り行きなんですよ、完全に。両者の間に違いはあります。まず使ってよい用語が違う。読み手が全然違うので、たとえばSFのほうで「DNA」って書くのと、純文のほうで「DNA」って書くのとでは読者の受け取り方が違います。書かなきゃいけない説明の量も違っていて、SFの読者にとってDNAはもう細かな説明は要らない気はするんですけれども、たぶん純文では「DNA」とだけ書くだけじゃなくて、具体的にDNAがどういうものでなぜその話をするのかという説明も書かないといけない。

いわゆる「文学的な」と言ったときに、SFは科学技術が特化されて強くなってしまっているわりに社会はすごく普通なことが多いんですよ。すごいメカとかは出てくるんですけど。社会はすごく普通なんです。技術が社会に「入るだけ」のことが多いです。純文系のほうというかまあ本当のリアルワールドは、かなり突拍子もないようなことが起きますよね。例えば純文学でアウシュビッツの話はできますが、SFではたぶんできない。「あるところに銀河帝国があって強制収容所で何々星人が虐殺されていました」なんて書いたら怒られる。まじめにやっているのかと。フィクションは別になんでも好きに書いていい場所ではないわけです。何をどう訴えかけたいか、もしくは自分は何に興味があるかによって、作品を通してアクセスする対象が全然違うんですね。

――長い歴史や蓄積があって初めて成り立つ純文学とは違って、SFは蓄積がないことが特徴と感じます。

円城
その日本の純文学も、明治時代に外国から輸入してきたものがその後のタネになっているので、歴史は短いのではないかと思っています。ただSFはもっと特殊な事情があって、アメリカ・イギリス、英語圏の国と日本以外には、ハヤカワSF文庫に代表されるような「SF文壇」のようなものはほぼ無いように見える。インドSFとかスペイン語SFとかフランス語SFとかは殆ど聞かないですよね。他の国でも2,3人はそういう作品を書いている人たちはいるんですけれど、ジャンルや勢力として形成されてはいない。

そういう種類のSFは読むのに変な勘とかコツみたいなものが必要で、慣れていないと読めないし、読めないとSFを書けない、というのがあって(笑)、書かれていない。そういう意味では英米SFは特殊な現象なんです。

――レム(*1)のように非英語圏で活躍した作家もいますよね。東欧やロシアなどはSFがありそうな気がするのですが、どうなんでしょうか?

円城
ただレム自身も、「俺は子供向けの小説を書く作家だという扱いを受けている」という、作品が正当に評価されないことへの愚痴をエッセイなどで書いています。本当かどうかはわからないですけど(笑)、レム自身はそう言う。アメリカではヴォネガット(*2) もですよね。どうしても、メインストリームだとは思われていない。まあレムにせよ、ヴォネガットにせよ、「自分がメインストリームだし、自分が文学だと思うものを書いている」という立場ですけど、外から見ると「あいつらが書いているのはふざけたおとぎ話だ」という扱いになってしまう。ただしレムは本当にレムだけで読めるだけなので、あの人も特殊なんですよね。英米のように特殊なSFのコンテクストがあるわけではないし、その後に受け継がれたわけでもない。旧ソ連下で生まれた反体制型のSFと、アメリカ型のグレート・サイエンスのSF、という世界情勢にリンクしている批評文学、みたいな見方もあるわけですが。

SFの対象



――生活の中にこれまでは空想の産物と思われていたようなテクノロジーが増え、フィクションの上にいたはずのSF的モチーフが拡散してしまっていく中で、SFの着眼点はどこにあるとお考えでしょうか?

円城
実際見失っている面はありますね。SFはと考える羽目になった一定のレベル以上の人たちはみんな同じ問題にぶつかっていて、みんな困っているという状態だと思うんですけれども。僕は今のところ認知系とソーシャル系と宗教系に触れるしかないと思っています。科学技術が今後なんらかの形で認知系、社会系、あるいは宗教系の問題に関わっていくというのは、たぶん今はもう既定事項と見た方がいい。ただ、それを何の形で表現するかというのはみんな試行錯誤していて。日本のSFだと、「ロボットはいかに知性を持つか」とかですね。そういう「つくられたもの」がどう知性を持つか、どのような認知系の問題を抱えるか、というのが日本人は好きなんですよ。

アメリカ人は、ゾンビが好きなんです。すごく。ゾンビも、なんだかよくわからないものだけれど、認知的な問題を抱えますし、生命とは何かという問題ともリンクするので、同じ問題につながるとは思います。現状はみんなそこに殺到している。

――「人間じゃないものをどう考えるか」ということですか?

円城
何を人間なり生命と認めるか、その扱いをどうするか、ということですね。
アメリカは移民という自分たちのコミュニティと異なる他者とつねに向き合う必要があるので、けっこう切実な問題だったりするんです。社会問題に繋がる話でもある。コミュニケーションにおいてメールなど電子メディアの割合が深くなると、そこでも半ば人格みたいなものが発生するので、その扱いをどうするのかということも重要になるんでしょう。

ただ、科学技術は認知している人としていない人の差がとても大きいので、そこはたぶんSFだけでなく普通の小説でもつながる問題だと思います。アメリカだとリチャード・パワーズ(*3) がすごい。最先端の技術、あるいはそこから一歩だけでているような技術を取り込みながら普通の小説を書いている。これはかなり大変なことで、誰が読むと楽しいのかがほぼわからない。これがたぶんいちばんきわどいところかも知れません。今だと携帯とPCはすごいですね。タブレットがこんなに流行るとは。ただ情報機器は自分の認識系にある程度負荷をかけないと認識できない。

――例えばAmazonにおける商品のサジェスチョンみたいなものも人格になってしまうんでしょうか?

円城
なんか人格っぽいものが見えてきましたよね。昔はかなりアホでしたけど。最近はかなり頑張っている。これは俺のことをよく知った誰かが選んでいるんじゃないかって思ったり。だから、人間かそうでないかわからなくなったらどうするんでしょうね? 
生まれたときからある程度人格っぽいものに接しているとそっちのほうが本当の人間よりも人間っぽくみえるようになるのか、それともそれはSFっぽい発想でそんなことが実際には起きないのか(今の段階では)よくわからない。

人間の認知はすごく強固だけど、想像もつかない事態が起こってしまったときにその認知はすごく揺さぶられてしまう。だからそこで起こるだろうことを小説である程度書いておくことは大事だと思うんです。起こってしまった後で「そんなこと思いもしなかった」というのはかなり間抜けなので、誰かが考えておいたほうがいい。なんか変なことが(現実社会で)起これば面白いなと思う一方で、もし現実に起きてしまったときのことを考えると素朴に不安ですよね。

それから不安なのはいつまでみんな元気なのかということですね。肥大したテクノロジーを維持するモチベーションがいつまで続くのだろうかって。なんかもうみんな原発がどうでもよくなっていますよね。えっ、て思うじゃないですか。だってまだ事態が終息してすらいないのに。 世界人口も2050年くらいから減るという予測もありますから維持管理の人員が足りなくなっていくのはみえている。でもみんなそういうことを真剣に考える根気がなくなってきている。どうにかなるんだろうという気だるさが強い。これからの日本の人口を考えたときに原発やインフラを維持できるのかって考えたりはしますね。

――それこそロストテクノロジーというかSF的な感じですよね。

円城
そういう感じはしますよね。原発自体ももう物珍しいものではないので、原理も含めて関心は薄れていく。そうするともう維持できないだろって感じはします。そういう不安は若干ありますよね。

それから水とかネットとか。ネットが維持できているのが僕には信じられなくて、そういうものの集積である「都市」とかいうのが良く分からない。だから、そういうインフラを享受することを基本的人権に数えるべきだと思ってはいるんですけど、そんな強固なものじゃないだろうと。どうして維持できているのか。携帯電話のネットワークもそうですよね。これを所与のものと思っていいのか。まあ、なんか、誰かが頑張らないと維持できないので。それでどうもなんか、そんなに頑張りきれないというのが徐々に明らかになってきている気はします。


*1:スタニスワフ・レム(1921-2006)1921年、旧ポーランド領ルヴフに生まれる。クラクフのヤギェウォ大学で医学を学び、在学中から雑誌に詩や小説を発表。1950年に長編『失われざる時』三部作を完成。地球外生命体とのコンタクトを描いた三大長編『エデン』『ソラリス』『砂漠の惑星』など多くのSF作品を発表する。70年代以降は『完全な真空』『虚数』『挑発』といったメタフィクショナルな作品や文学評論を発表。2006年に亡くなるまで中欧の小都市クラクフから人類と宇宙の未来を考察し続けた。

*2: カート・ヴォネガット(1922-2007)アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』、『スローターハウス5』、『チャンピオンたちの朝食』 などがある。ヒューマニストとして知られており、American Humanist Association の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。

*3:リチャード・パワーズ(1957-)1957年アメリカ合衆国イリノイ州エヴァンストンに生まれる。11歳から16歳までバンコクに住み、のちアメリカに戻ってイリノイ大学で物理学を学ぶが、やがて文転し、同大で修士号を取得。80年代末から90年代初頭オランダに住み、現在はイリノイ州在住。Three Farmers on Their way to a dance(1985、邦題『舞踏会へ向かう三人の農夫』、柴田元幸訳、みすず書房)で作家として出発し、最新作The Echo Maker(2006)で全米図書賞受賞。