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【SF企画】円城塔先生(作家)


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数学は「硬い」



――もしかしたら、わけのわからない何かが、わけのわからない動き・形をとっているだけなのかもしれない、それを見たときにたまたま自分にとって意味がわいてくるだけなのかもしれない、だから実際に何が行われているか全然分からないということですか?

円城
そういうことはあります。アリの行列がなにかの字に見えたり、虫の背中の模様が別のなにかに見えたりしたときにどうするんだろう、って。そこにメッセージを読み取るのはすごく危ないんですけど、気になる。その感覚です。そういう意味で書いてあるメッセージを受け取ってはいけないんじゃないかという不安感。この文章はたまたま確実に読めるだけにすぎないのかもしれない。

最近よく言っているのは、「宇宙人向けに小説を書く」ということです。不親切なんですよね、今のSFを彼らが読むと。たぶん「俺たちのことを『宇宙人』って書くな!」とか言われる。「ガイジンって呼ぶな!」みたいに(笑)。あとその場合に、なんて言うんでしょう、場所?「『地球』ってそもそも通じるんだっけ」みたいなところからまじめに考えた方が良いんじゃないかというのはありますよね。そうすると、宇宙人は我々とは認知の構造が全然違うはずなので、結果的に、硬いや柔らかいに対する気持ちも全然違うはず。
という感覚がありながら、いつも数学って何なんだろうって気になっている。

――数学ですか?

円城
数学というのは硬いものであるというのは認めようと。多分崩せない。と同時に、確実さというのは人間の認知過程での感覚にすぎないという思いも一方である。そしたら(数学は崩せないという感覚とその感覚も認知過程のものに過ぎないということが)ぶつかるんですね。ぶつかった時に数学を崩す事ができれば、全て認知構造に依ってることが言えますし、「やっぱり数学強固でした!」みたいなことだったら、それは認知構造に依ってない、なので、そのへんは僕的には面白いなと思います。

――論理も認知過程のの中の一つと考えていらっしゃるのでしょうか?
論理構造も一つの人間の認知構造の問題、みたいな


円城
なんだろう、何かが存在すると必要になるので、あると思われているもの、そういうイメージは有ります。

漠然としたものが欲しかっただけなのに、これをインストールするためにはこっちもインストールしてください、みたいにやってきて、最終的に数学も入れといてくださいみたいに要請されるものみたいな気がしますね。
チャールズ・ユウっていう人の、『SF的な宇宙で安全に暮らすということ』(How to Live Safely in a Science Fictional Universe(2010)チャールズ・ユウ Charles Yu)という小説があるんですけど、それには架空の宇宙がいっぱいあって、その中に物理法則をインストールするんです。「この宇宙はまだインストール中だ」とか言って(笑)

ちょっとそのイメージに近い。このソフトを入れると、このソフトも入れてくださいみたいにつながっていって、ふつうはソフトだけで止まるんですけど、法則もインストールしてくださいみたいな。愛情とかをインストールするんだったら、ここまで、芋づる式に繋がっている。で、色んなものがそこにつながっちゃっているので、あるように思える、みたいなのがわりと今の気分です。まあ法螺話ですけど。

――「『わからない』とは何なんだろう」とずっと仰っていますが、逆に「『わかる』って何なんだろう」ということもわからなくなってきますよね。

円城
「わかる」はかなりわかんないですよね。プロジェクトオイラー(http://projecteuler.net/)という、算数の問題が並んでいて、プログラミングを使って解きなさいというのがあるんですが、アレを、実際にプログラムでやっていると、わからない気持ちがどんどん大きくなったりします。たしかにその問題は解けるんですよ。なぜ解けるかもプログラムを使っているのでわかるんですけど、「どうしてそれで解けるのか」がわからない。

だから、「何千以下の素数を数えなさい」という問題があった時に、人間の頭が考えることと、コンピュータが考えることってぜんぜん違うんです。そうすると、「こいつはきっとわかってるんだろうな」というのと、「でもわからん」って感覚が一緒にあって、「わかる」ということが全然実感としてもたなくとも解けてしまうことがある。例えば小学生が、「九九なんか覚えなくたって電卓があるじゃないか!」ってごねるのに近いんですけど。これは全然逆の視点から見ることができて、「どうして電卓なんて使わないといけないんだ! 九九があるじゃないか!」と言うこともできるわけです。ここがやっぱり認知構造と絡んでいるんじゃないかと思うんですよね。そこに閉じ込められている感じがします。
まあ、そうすると全然違う小説の書き方があると思うんですよね。いつかきっと「プログラミングで小説を書くコンテスト」とかあるんでしょう。参加する予定は無いんですが(笑)。

機械が小説を書くときに、人間が書くときとは違う書き方をかんがえないといけないのかなと考えますね。たぶん、今機会で小説を書こうという話になった時は、機械に適した書き方を探そうという話にはならないで、プロットの自動生成とかになる。登場人物を入れて、なんか動かしてここで出会ったことにするとか。もうちょっと文章そのものを見て即物的にいったほうが多分うまくいくとおもうんですが。短編に登場人物が100人出てはいけないとか、まずそういうレベルの話なのではないか、という気はしますね。

――星野しづるの短歌の自動生成を思い出しました。自動なんだけど、意外と面白いものができてしまうという。(http://www17.atpages.jp/sasakiarara/現在リンク切れ)

円城
アレは楽しいですね。テンプレートにあてはめていく式ですが。一番面白かった話は、沢山自動生成させた歌を、人間のうた詠みの人に見せると、背後の人格が想定できなくて混乱するらしいんです。どういう人が詠んでいるのかわからない、と。あれはいい話でした。枠を決めて、言葉を決めていく。ああいうアプローチがあるんだと思いましたね。

――先ほどの「構造から書くこと」というのもそういうことなのですか?

円城
そうですね、ただそれをやると長編を書きづらいのがわかったので。長編はわからないですね。たぶん長編は、生活スタイルとかのほうが重要で。村上春樹がマラソンしてるとか、どちらかというとああいう生活習慣に近い。長編はすごく時間がかかるんです。短編って、30枚ぐらいだったら徹夜で書けないことはないぐらいの長さなんですよ。長編はやっぱり、4,500枚だったりするので、すると10日間徹夜するなんてありえないわけです。生活スタイルに関わる問題。ついには筆記用具が生活スタイルまで広がる。そこまで筆記用具にしないといけないと、最近ようやくわかりはじめてきました。がっ、とやっちゃダメなんだって。
(2013年10月27日 都内にて)

編集:吉見洋人 写真:大野拓生