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【SF企画】円城塔先生(作家)


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錯視図形のような小説を



――先生は小説を「機械がどう組み立てられているかを見せるかのように読ませたい」とよく仰っていますよね。ただそこで物語の構造を見せることと、文章の前から読んでいくしかないというという特徴がどうしてもぶつかってしまうように思います。そこはどうお考えなのでしょうか?

円城
それは小説の特性で、物語の構造を見せることをダイレクトにやりたいのであれば絵を描くとか、映画を撮るとか漫画を描くとかするべきなんです。なんで小説なのかと言われたときに、「それが一番自分に合っているから」というか、僕にはそれしかできないからです。そのうえで、小説であるならばその前から順に読んでいくものという特性を生かすべきだとは考えています。

僕が小説でやりたいと思うのは、読者になにか「影響」を与えるということです。よく小説の評価で「泣きました!」ってありますけど、「泣きました!」が評価されるのであれば「読むと泣く小説」を書けば良いのではないかと思っています。それはべつに「所謂」泣ける話じゃなくても別に良いわけですよ。なんかいっぱい文字が書いてあるんだけど、見ると泣ける、という(笑)。そういうものが目指したい方向ではありますね。なにかのメカニズム、メカと言うか、僕らの脳をクラックしてくる、錯覚を引き起こすものという意味で、錯視図形みたいな小説が書ければ良いなとはつねに思っています。

――なにかの影響を及ぼす機能といった形で小説を考えるときに、その機能は意図されているのでしょうか。それともなにか予想もしなかったような影響がおこることを期待しているのでしょうか。

円城
それは後者ですね。前者が可能になるとまずいことではありますよね。ただそこも両面で、脳科学的にはきっと人間を操作できるんでしょう。ただきっとそれはとても危ない技術ですよね。そういう技術がシステマティックに解明されるのは問題なので、解明される前に考えておこうと。分からないうちにやられるよりは考えていたほうがいい。そんな技術をだれかが操作できるのか、使えるのかっていう話ですよね。そこは分からない。するとだれも操作できないものがいきなり動きだしてその辺にいる。第一次世界大戦とかはそうですよ。大戦とは何かが分かっていないところからのスタート。

――認知科学や認識論のようなお話ですね。そういった科学や哲学の影響はあるんでしょうか?

円城
大きいですね。やっぱりこのところの科学の進歩のなかで一番元気に進んでいるのは認知系の研究ではないのかなという気はします。で、認知系の方は、脳科学を前にして心理学系の人が改めてカントを思い出し始めたみたいなところがあって(笑)。「そういえば俺たちが言いたいことはカントが言っているのではないか!?」みたいなところにいま戻った感は若干あります(笑)。

というのは、脳の中の認識からは出られないけど、外界は構成しなきゃいけない。よくわからないけども、脳の構成としてカテゴリーみたいなものがつくられていて、それを通じて、ただ間違いなく外界はある、みたいな風に戻っている気がするということですが。所謂哲学の流れは気になりますよね。そうすると、いまはカントが、次にはヘーゲルが、とかいうすごく当たり前の展開がほぼ予想されるわけですよ。「ポストモダンは終わった」とかいわれますけれど、いまの認知科学は僕にはカント的に見えるんですよね。そうすると、たぶん歴史は繰り返すに違いなくて、ぐるぐる回っている感じに。なんでしょう、コンピュータの発展が一直線に進んでいなくて、ある程度メインフレームのあとにパソコンとかになって、携帯電話とか、古い技術がいつまでもこう繰り返し続けるみたいな、そんなイメージを持ちます。だから別に、何かを分けるというのではなく、ある程度カントぐらいからポストモダンぐらいまでループしているのではないかな、という感覚ではあります。本当はもっとゆっくり少しずつ大きくなれば良いのにと思います。成長しないと悲しいですからね。「歴史は終わった」みたいな話になるとどうなるのか、とかいう(笑)。僕はあんまり、発想の段階としては科学と思想の区別は付けていないんですよ。


伝統芸能としての小説



――最近は映像技術が発達していますよね。特にSF映画では昔のSF作品でよく感じていた違和感がなくなってきたように思います。映画など他のメディアが発達する中で小説という媒体に残されたものはなんだとお考えでしょうか?

円城
難しいですよね。オールドメディアであることは間違いないので、それはみんな映像を観るよねってなるけれど。ただもう特性が全然違いますよね。電子書籍の話でも似たようなことをよく訊かれるんですけど、紙と電子書籍ってラジオとテレビくらい違うので、比べてもしょうがないんですよ。好きでラジオ聴いているんだという人に「テレビは良いよ」って言ってもあんまり意味はない。

同じ文脈で僕が気になっているのはゲームです。僕にとってのゲームは、やっぱりファミリーコンピュータでピコピコ動いているというやつなんです。今はそんなゲームないじゃないですか。映像技術のリアルさで言えば今の方が優っていますけど、当時は画面の中に8ビットで描かれた木がぞろぞろ並んでいるのを見ているだけで、枝の中をそよ風が抜けていく情景をイメージして感情移入できたんです。そういうものがなくなって、リアルなものだけが残った時に「抽象化ってどこに行ったんだっけ?」とは思います。

小説は文字だけで構成された世界なので、そこに人物像を読み込むとか感情移入するというのはかなり高度な技術なんです。だから、そういう伝統芸能は残しても良いんじゃないかという気がしています。そういう技能を磨くのは楽しい気がするんですよね。そのような読解力を試すものになっていくという方がオールドメディアとしては正しい方向性なんじゃないでしょうか。

――詩は暗記することで全編を頭に入れて考えることができる。だから構造をより描きやすい。でも小説は全文を暗記することはできないという点で、詩の方が小説より構造把握の面で優れた形態だと言うこともできます。どうして小説なんでしょうか?

円城
生活のためというのが大きいですね。詩は売れない。それが一番の理由。僕には詩は書き方がよく分からないというのもあるけど。

ただ「小説をイラストレーターで書いちゃいけないのか」って思うことがあります。そうするとちょっと詩に近くなる気がするんです。それは別にタイポグラフィをやりたいってことじゃなくて、ワープロとか万年筆とかタイプライターとか、書く道具によって少しずつ書き方やそこに現れるものが変わるように、イラストレーターで書くとなにかが変わるんじゃないかっていうことです。最終的に出てくるのがテキストデータでも、画像データとして書くと変わるんじゃないかって気はしますね。

――一般的に小説というとまずストーリーがあり、それを描写するものですよね。そうすると想像しなきゃいけないからどうしてもフィクションにならざるを得ない。単なる物語では見えにくい「言葉そのもののリアル」ということは考えていらっしゃるんでしょうか?

円城
それはそう思います。言葉はすごく気になるんですが、ぼくは最近「登場人物がみんな言葉になっていく問題」に直面しているんです(笑)。「主人公が文章」とかいうことにだんだんなってきている。それはなんか前より抽象度が上がってしまっているみたいなんですが。ただ、僕がリアルに感じるものは一般的な文字そのものと言うより目の前にある具体的な文字なので、「じゃあそれがリアルなんじゃん」という方向に来ています。三人称がよくわからない。で、三人称がリアルなのかというのは、生まれ育ちとか性格とかによっていて、気になる人と気にならない人が分かれるんですよね。たぶん三人称が分かる人と分からない人はお互いに何言ってるのかわからないものなんじゃないかと思います。だから、小中学生のころに「自分以外の人は本当にいるの?」って悩んだことがある人は三人称とか良く考えると思うんですけど、そういうのは一切関係なく「え、人いるじゃん、あたりまえじゃん!」というところから始める人は、三人称は自然に受け入れられる。そうすると、たぶん所謂ストーリーのある小説が書けるはずです。でも「人っているんだっけ?」みたいなところから始まると、「目の前にあるのは文字じゃん」みたいなところから、なんとか他の人のところまでつなげようというふうに考えなきゃいけないことになって、より閉じこもっていったりするのかな、と。

――文章が主人公ということは、本当に客観的なものとしての文章というのが主人公なのが、それとも文で考えるということなのでしょうか?

円城
この文章。この文章が主人公。消すなって書いてある文章を消していいのか。消しますけど。何で消しちゃいけないか。ほんとにリアルな文章とか言っている人は考えているの? という感じですか。言いがかりに近いですが。そういうリアルな文章というのはあると思います。捨てるなとか。なんかこっちに嘆願してくる文章。文章だと思っているからあれですけど、僕たちはもう電子的に向こう側にいる人たちと話をしているわけです。携帯電話の向こう側にいるテキストは人間かどうか、とか。

――そういうのはやはり、物を語らせるみたいな、例えば、ここのペンがいきなり主人公でこのペンから見たすべてを語るみたいな、あるいは猫から語るみたいなのとは違うんですか?

円城
違う感じはしますね。まあ猫は語らないという問題がある。猫は、ああは語らない。100パーセント。語ったとしても。蝙蝠であるとはどのようなことか(*4) みたいな感じで語ったりはしないよね。で、蝙蝠を人間が代弁しているようなところがあるあれはあれでいいんですが。僕は別の方に興味があって、蝙蝠が語れみたいなことですよね。じゃあ語ったの見せろみたいな。そっちの可能性のほうが興味ある。たぶん、わかんないことが書いてある。本当は文字がしゃべっていることも分かんないことなんじゃないかという不安感はある。そのほうが近いですね。別に文字喋んないですけど、ここにあるので。あると気になります。



*4:トマス・ネーゲルによる同名の論文がある。(Web上のものはこちら)(トマス・ネーゲル著, 永井均訳 『コウモリであるとはどのようなことか』第12章 勁草書房 1989)