2:バウスシアターの配給・企画プロセス 「当時はシネコンがどんどん出来てきた時代だったので、なんとか企画で勝負したい」
上映する映画は、バウスシアター側が、どこかから企画を頂いたりしたのか、それとも積極的に働きかけて、配給する映画を決めていたのか、どういう段取りで決めていたんですか。両方のパターンがあります。たとえば、配給会社が外国からとあるジャズの映画を買い付けました、と。で、それをどこで公開すればお客さんがたくさん来るか配給会社のプロデューサーが考えたときに、「吉祥寺はジャズ喫茶が多い街」だ、という認識があればバウスに話を持ちかけてくれるかもしれません。反対にそのことを全然知らないプロデューサーが他所での展開を考えていた場合、「そのネタだったら吉祥寺でやれば絶対お客さん来ますよ」と逆にバウスから声をかけるパターンもあります。
企画は、どのように立案されていたのですか。
たとえば新作の映画がブッキングできたときは、たとえば一ヵ月、二か月とか一日四回以上とか、ある程度の長期間上映することになります。で、そろそろお客さんが減ってきたかなっていうときに次の番組に移るんですが、それはそのとき探すんじゃなくて、年間通して上映番組を予めどんどん決めていくんですね。で、その時に、前の番組の楽日、つまり最終日と次の作品の初日が必ずしも合致しないっていうことがあるんです。一週間空いちゃうとか二週間空いちゃうとか。それで「どうしよう」っていう時に、映画館は「特集上映」をやるんです。ロシア映画の特集やろうかとかチェコのアニメーションやろうかとか。で、それはさっき言った話もそうなのですけど、メジャー会社の最新映画はなかなか貸し出してもらえないので、いろいろ模索しながら、古い映画を集めたり、監督特集を企画したり、そういうことをやっていました。
爆音映画祭もそんな段取りですか。
そもそも「映画だけじゃなくて何でもできるシアターをつくりたい」というコンセプトで84年にオープンしたのがバウスシアターでした。当時の支配人は映画のみならずお芝居もコンサートも落語も好きで、娯楽全般に精通している人だったようです。
なので、84年から94年ぐらいまでの10年間は、映画をひと月やったらお芝居をひと月やって、1日落語会を挟んで、そのあとコンサートを1ヶ月……というような形で、とにかく何でもやっていました。
それで、爆音映画祭をどうやって始めたのかという話ですが、まず、映画とコンサートやライブの違いというのは、使っている機材なんですね。というのも、映画はそんなに大きい音を出す必要がないので、スピーカーとかアンプはそんなに馬力を必要としないんです。ところが、コンサート、ライブに関しては、ロックのコンサートに行った方なら分かると思うのですが、相当に音量が出る。そうすると、映画用のスピーカーとかアンプを使うのでは持たないんです。音が飛んじゃったり、へたったり。
そういう背景がありまして、例えばローリング・ストーンズのコンサートを撮った映画を上映するときに、「映画用のアンプとスピーカーじゃなくて、ライブのときに使っていたアンプとスピーカーを使ったら面白いんじゃないか、迫力が出るんじゃないか」という話になりまして。倉庫に眠っていたアンプとスピーカーを出して使ってみたら、「おお、ライブみたい」と感じるような音が出た、と。それでスタッフの気が向いたときに、そういう、音がメインの映画をやるときはセットチェンジをしてやっていたようなんです。
2004年に「爆音上映」と名乗るようになったんですけど、そのきっかけは、映画評論家・音楽評論家でもある樋口泰人さんという方です。彼が、細々とやっていたその特殊な上映方式を観にきてくださったんですよ。で、当時、ジム・ジャームッシュ監督(3)が監督した、ニール・ヤングの『イヤー・オブ・ザ・ホース』という映画を、ライブ用の設備を使って上映していました。そこに樋口さんが観に来て、「じつは先日ニール・ヤングの来日公演を観に行ってきたんだけど、音量が物足りなかった。バウスの方が音量出てたくらい」と冗談交じりに言ってくれたんです。それで、「これはもう少しやり方を変えて色んな人に広く知れ渡ればもっと面白いことになるんじゃないか、一緒に企画をやりませんか」というご提案をいただいて、「じゃあやってみましょうか」ということになりました。それで、名前をどうするか、ってことで「爆音上映」というようになったのが発端背景ですね。著名な方ですし、樋口さんが関わってくれることで今までバウスを知らなかった方にもその存在を知らせることができた、と。それが始まりですね。
演劇とか落語をやっていた時代から映画に絞るようになったきっかけはあったのでしょうか。
当時の支配人が引退した、というか亡くなってしまったので、次の支配人に代わったというのがひとつの転機だったようです。それと90年代に入ってバンドブームが終わって、ライブハウスにお客さんが来なくなったとか、そういう時代の節目だったようなんですね。だから、「いろいろやってきたけどお客さんも減ってきたし、じゃあ映画だけに絞ろうかな」ということだったのではないかと思います。
今は映画じゃないと結構採算がとれない状況なのですか。
いま映画を上映する場所を巡り、いろいろな変化が起きています。たとえば、映画興業組合に加入していないグループというのが非常に多くなってきていて、「自分たちの観たい映画が、自分たちの住む街で観ることができないから自主的にホールを借りて、映画も配給会社からレンタルして、一日だけ上映会をしよう」、という、非営利というか、映画業界の界隈ではない方々の上映活動がここ10年の間で非常に盛んになってきています。
観たい映画がないから自分たちで上映しようという志は非常に素晴らしいと思うし、僕も似たようなことはやっているのですけれど、ただ独立系の映画館にとっては、そういう人たちはライバルでもあるんですよね。結局シネコンに負けて、劇場がどんどん減っていって、観たい映画が観られなくなっちゃった。だから市民が立ち上がって自主上映会を開いたのですけれども、結局それは自主上映のグループと、それでもまだがんばって残っていた街の映画館が二分して、お客さんを取り合っちゃって、結局両方潰れるとか、結局シネコンだけが残る、ということもあったりします。
あとは、高解像度のプロジェクターが非常に手頃な価格になり、「カフェ兼シアター」という形態も増えてきました。今はブルーレイのように素人でもお手軽でクオリティも良い映像を楽しめるので、上映会を開きやすい環境が整ったということもひとつの要因としてはあります。
それからそういった施設や上映開場が増えていくということは、かつての映画館らしさがあまり求められていない、ということでもあると思うんですよね。映画館らしいシートで、完全に暗転した中で、窓口で切符を買って入って、最初に予告編がついていて、次に本編があって、みたいな、いわゆる映画館の一連の流れみたいなこと自体がそもそもいま求められていないのか、と言うのか、失われつつあるのかなという気はします。だから、危機感を持っていろいろ活動している方々の志とは反比例して、無くなっていってしまうものもあるのでは、というのはすごく感じます。
(3)アメリカ合衆国出身の映画監督。代表作に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』など。