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Interviews

【観劇企画取材】平田オリザさん(劇作家・演出家)


日本の近代劇を完成させる

3枚目
先ほど、コミュニケーション教育に携わってらっしゃる理由について「自分の演劇を受容してくれるように社会を変えていきたい」っていうお話がありました。
良い観客というものが、コミュニケーションをうまくすることができる「市民」だと考えるとします。一方で、日本という場所では市民社会が完全には成立していないという文脈があると思います。本来であれば市民社会を経たうえでしかたどり着けないような現代演劇に、市民社会を一段飛ばしてたどり着けるかっていうところはどういう風にお考えですか。

そうだね。そこは難しいね。でも、日本はあきらかに周回遅れで白紙の状態だからこそ、最先端のことができるみたいなところもあるんだよね。
自分個人の演劇創作活動においては、僕は最初から「日本における近代劇を完成させるんだ」と言っている。「だから、僕から日本の現代劇(*6)が始まります」って、まだ無名だった頃からハッタリかましていた。そんな発想はそれまで誰にもなかったわけです。だって、アンダーグラウンドの人たち(*7)も、野田さん(*8)も、鴻上さん(*9)も、みんな近代演劇をすっ飛ばして現代劇をやっていると思っていたわけ。

これもみんなには想像できないかもしれないけど、1950年代には文学座や俳優座、つまり「新劇」 (*10)がものすごく力を持っていたわけですよ。特に俳優座とかには戦前に牢屋に入ってた人たちが集まっていたから、ものすごい社会的影響力を持っていた。当時はまだ社会党・共産党などの野党勢力を合計すると常に200近い議席を持っていた時代だった。そういうなかで、その新劇が確立した近代演劇という大きな牙城に、現代演劇をやっていると思っていた人たちは立ち向かおうとしたわけです。
でもその牙城は、ドン・キホーテのお話みたいに、お城じゃなくてただの風車だったんだよね。つまり、別に新劇の人たちも、近代劇なんてものを確立してなかったんだよ。僕は1990年代に「確立していない近代演劇とあなたたちは戦っているんですよ」ってその人たちに言っちゃったから、すごく嫌われた。嫌われたというか、当時多くの大人は僕の言っていることをよくわからなかった。

著書でもおっしゃっているように、コミュニケーション教育は「市民」を育てていくことにつながると思うんですが、そういう教育をどういう風に導入なさっていきますか。

僕もコミュニケーション教育によって、近代市民社会を支える必要があると思って、そのためにコミュニケーション教育の導入を進めてきました。しかし、教育の場合にはいっぺんに、色々やらなきゃいけないっていうことがあります。つまり、新しいものを導入しつつ、それ自体を疑いながらその先のこともやる、ということを今やっています。
だけどね、たとえば一時期ディベートが流行ったことに象徴されるように、教育の世界っていうのは「ではの神」ばっかりです。つまり、「イギリスでは〜」とか「ドイツでは〜」みたいに、海外の最先端のものを、日本とか日本語とか日本文化っていうものをほとんど無視してそのまま移植しようとする。そして、大抵失敗するわけですよ。だからそこをどう折り合いをつけていくかっていうのは現実問題として非常に大きい。
——–
  1. 平田さんは『演劇入門』の中で、テーマ=伝えたいことが先にあって、それを観客に伝えようとするのが「近代劇」、テーマがなく、世界を表現したいという欲求が先に来るのが「現代劇」だと述べている。
  2. 1960?70年代に起こった日本演劇の潮流であるアングラ演劇を担っていた人々。具体的には、唐十郎や寺山修司を指す。
  3. 野田秀樹。劇作家、演出家。東京芸術劇場芸術監督。巧みな言葉遊び、神話などのモチーフを特徴とした戯曲を書き、独創的な舞台をつくりあげる。
  4. 鴻上尚史。劇作家、演出家。劇団「第三舞台」主宰。テレビやラジオなどへの出演も多い演劇人である。
  5. 文学座も俳優座も新劇という演劇的な潮流を代表する劇団である。新劇とは、ヨーロッパを手本とした近代演劇を目指す日本の演劇的な潮流であった。

芸術は人を慰めるためにある

それでは、市民社会が成立していないような社会の形態と、市民社会、その先にあるような社会というものを3つ考えた時、それぞれにおいて芸術の役割、あるいは演劇の役割というのはどのようになっていくとお考えでしょうか。

それは難しいね。芸術の役割っていうのは別にその社会の変化に応じてそんなに変わるものじゃないと思います。
芸術そのものの役割は、みんなの心を慰めたりとか、励ましたりとか、愛する人の死を受け入れたりとかいうことのためにあります。それは、社会がどう変わってもあんまり変わらないですよね。
たださっきも言ったように、とくに今の時代においては、演劇の中のコミュニケーションという部分が役に立つという風に、個別にはある局面でその芸術の中のある役割が有効になるっていうことはあるかもしれません。だけどそれは個別の事象だから、一般的に確かなことは誰にも言えないと思います。

野暮な質問になるかもしれませんけど、「演劇あるいは芸術の役割が人を慰めたり楽しませたりする」というすごく普遍的なものだとすると、芸術の形式あるいは内容においてアーティストがイノベーションを目指していくのはなぜなんでしょう。

僕がよく学生たちに説明する話ですけど、東日本大震災のときに一番心が慰められたのはいま流行のポップソングではなく、100,200年くらい前から歌い続けられてきた唱歌やクラシック音楽であったと言われているんですね。一方で、その同じ2011年の春に、東京を中心とした関東地方では「自粛」と呼ばれる芸術活動の停止が行われた。だけど、今私たちが創造活動を怠ってしまったら、200年後の被災者は何によって慰められるのかということなんだよね。
要するに、今の被災者の人たちって、200年前に作られたものによって慰められているんでしょ。アートっていうものはそういうものだから。100, 200年後に地球の裏側の被災者を慰めるために、芸術家は仕事をしているんだよ。

私たちは、そういう公共財を作っているわけ。常に作品を生み出しているけれども、それが誰の役に立つかもわからないから、もう究極の公共事業なんだよね。僕は公共事業の要件って、二つあると思っています。一つは道路やダムみたいに、「必要な投資が莫大な割りに回収が長期にわたるから、民間企業では投資もできないし回収もできないもの」。もう一つは、「恩恵を受ける人があまりにも広いから、受益者が特定できないもの」。これは道路にも当てはまる。高速道路みたいに受益者が特定できれば、その受益者だけから徴収すればいいんだけど、そうはできないから、税金でやる。

だとすれば、芸術活動は、最も公共事業に適うことだよね。だって、全く受益者が特定できないでしょ。100年後に、誰がその音楽で助けられるかはわからない。実際に、文楽は500, 600年後にロボットを助け、100, 200年前の唱歌によって今の被災者が慰められているわけですよ。だから、芸術活動は行政がやる必要がある。で、しかも、できればそれはグローバルでやった方がいいんだよね。だから、日本だけの単位じゃなくて、ユネスコが単位になって、みんなで拠出して、やったほうが本当はいい。