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Interviews

【観劇企画取材】平田オリザさん(劇作家・演出家)


哲学と民主主義と演劇は同時に生まれた

2枚目 「演劇がコミュニケーションに役立つ」という直観はどこからくるのでしょうか?

直観というよりも、演劇の成り立ち自体がそういうものだと思うんですよね。
演劇っていう名前はやっぱりギリシャが由来になっていて、それは民主主義の成立と不可分だよね。哲学と民主主義と演劇っていうのはほぼ同時に生まれているんです。これは単なる偶然じゃないと思います。演劇があったから民主政が成立したし、民主政があったから演劇が盛んになった。おそらく、異なる価値観を持った人たちがどうやってそれをすり合わせていくかということを、ギリシャの市民たちは哲学と同時に演劇からも学んだんだと思うんですよ。

それをもうちょっと広げて考えてみると、ふつう動物は家族か、群れのどちらかでしか行動しないんです。ところが、人間だけは家族と群れという二つの共同体に同時に所属する。このような複雑な社会を作って維持していくためには、どうしても言語を使ったコミュニケーションのゲームが必要です。そのことがある種のイニシエーションになっていて、そのゲームを通じて子供たちに二つの共同体に所属する能力を身につけさせることで、このような複雑な社会を維持してきたんじゃないかというのは容易に推測できます。
東大にいらっしゃった船曳建夫さん(*4)もおっしゃっているように、どんな未開の社会にも演劇的な要素、ダンス的な要素が必ずある。演劇がコミュニケーションに役立つ起源的な理由として、以上のようなこともあると思います。

演劇がコミュニケーションを鍛えるために発達してきたわけだから、当然今でもコミュニケーション教育に役立つということですね。

演劇を作ることを通じて人間のネゴシエーションの本当に原始的な段階っていうものを身につけていくことができるというのは、現場での経験からも感じます。
たとえば、子供が演劇を作る過程で、A君が3つやりたいことがあって、Bちゃんも3つやりたいことがあるとします。すると、A君が途中で、「Bちゃんはこの2番目にこだわっているんだな。それを受け入れれば俺の1番と3番は絶対に通るな」ということに気がつくときがあるんです。
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  1. 文化人類学者。東京大学名誉教授。「関心は、身体における自然性と文化性、儀礼と演劇の表現と仕組み、近代化というプロセス。」(船曳建夫オフィシャルサイトhttp://funabiki.com/プロフィールより)

「しんがり」を務める人が必要な日本社会

今の日本の学生は内向き思考であると批判され、世間から「グローバルな人材」になることを強要されているという状況があると思います。それに加えて、コミュニケーション能力が無いという風にも叩かれるという状況があると思います。でも、個人的には「グローバル」っていう言葉が何を指しているかよくわからないし、不満を感じているんです。

冷静に考えれば、「グローバルにしろ!」というのはすごく変なことでしょ。僕は最近半ば冗談で、「グローバルという同調圧力」と呼んでいます。グローバルっていうのは多様性なんだから、「グローバルにしろ!」って言っている時点で、もう矛盾しているんだよ。

そうであるとするとこれからはどんな教育が必要になってくるでしょうか。

僕とか、前阪大総長の鷲田清一さん(*5)は、「社会的弱者のコンテクストを理解できるような人材を育てる」という意味でのリーダーシップ教育ということをやらないと、大学の責務は果たせないんじゃないのかと思っています。
鷲田さんは最近、「今の日本にはしんがりを務めるようなリーダーシップが必要だ」ということをよく言っています。
どういうことかというと、日本は成熟といえば聞こえはいいけれども、明らかに衰退の過程にあります。たしかに、これからオリンピックがあって、一時的には景気はちょっと良くなるとは思います。でもそれは、がん患者にモルヒネを与えるようなもので、一時的に痛みは緩和されるけれども、結局経済全体を弱らせちゃうんです。

ということは、結局日本はどうしても後退戦を生きなきゃいけないですよね。プラスの富の分配をする場合、みんな昨日よりも今日の方が豊かになっていれば、分配に関して多少の不公平があっても納得はするんだよね。だけど、今の日本は借金を抱えていて、君たちが払っていかなきゃいけない。だから、マイナスの分配をどうしていくかってことになる。そうすると、昔と違ってどうしても強い不公平感が生まれてくるから、それをできるだけ少なくするかということが大事になってきます。そういう後退戦を戦う時に、鷲田さんは最後を務める人を「しんがり」と言っています。

要するに、後退していく時には最後を務める人がどうしても必要なんですよ。この人の役割は、「逃げ遅れたやつはいないか」とか「怪我人はいないか」とか「忘れ物はないか」とかを確認すること。それで、「しんがり」の人はできるだけ頑張って戦って犠牲になるんだけど、代わりにみんながちゃんと逃げられるようにするんだよ。そういうリーダーシップもたぶん必要なんですよ。

でも、一方で経済の衰退を放置するわけにもいきませんよね。

そう。もちろん、日本は世界第三位の巨大な経済大国だから、ある程度経済を活性化していかないと、一気にポシャっちゃったら世界経済に対しても責任を負えなくなっちゃう。だから、ちゃんと経済活動もしなくちゃいけない。だけども、その衰退をできるだけ遅らせるだけではなくて、きれいに衰退させていくことにつなげる必要がある。戦前の日本みたいに、他の人に迷惑をかけてはいけないということです。
戦前の日本は、1905年くらいまで純粋な農業国家だったのが、1910年代に第一次世界大戦で漁夫の利を得て、一気に工業化していきます。そうすると、今みたいに社会福祉とかもないから、農村が荒れるわけだよね。これがファシズムの温床になったわけでしょ。要するに産業転換の構造があったんだけど、その社会不安を自国の中で解消できなかった。

自国の様々な社会不安の要素を自国で解消できない場合、よその国に持って行っちゃうわけだよね。かつて日本の社会不安を満蒙の方に持っていったように。それをしないことが一番大事なこと。そのために、「しんがり」を務める人を作って、これからの日本をソフトランディングさせる。
たとえば現状のまま、TPPで労働市場が自由化されれば、政治家はこわくて口に出さないけれど、今とは比べ物にならない位多くの労働者が外国から流入してくる。今の排他的な日本社会のままでは、きっとそれを受け入れられない。このままだとすごく悲惨な人種差別とか事件がおこると思います。

コミュニケーション教育がそういった日本社会の硬直した部分を柔軟にしていく可能性があるということですか?

そうだね。最初に言ったように、カナダやオーストラリアで演劇教育が盛んなのは他者を認める教育に演劇が一番役に立つからなんだよね。社会包摂的なものに演劇を使うのがすごくうまい。というかむしろ、多民族国家だからこそ、そうせざるを得なかったんだろうね。
高校とかで、オーストラリアに短期留学する人が多いでしょ。ある高校の先生から聞いた話だと、「留学中の授業のなかで一番おもしろかった授業」に演劇を挙げる人が多いらしいんです。高校の先生からすると「英語もできない人間がなんで演劇が一番楽しいのか」って疑問みたいです。でも実際は逆で、向こうでは英語がすごくできないニューカマーに自信を持たせるために、一言でいえば「みんなにウケる役」をその人のために作ってあげている。そういうノウハウがちゃんと発達しているんです。

あとこれは僕がL.A.に駐在していた総務省の官僚から聞いたんだけど、彼が向こうに行ってから一ヶ月後くらいに「今度学芸会があるんだけど、おたくのお子さんが主役だから絶対に観に来てくださいね」って電話がかかってきたんだそうです。その子はまだ全然英語を喋れないのに、「何でうちの子が主役なんだろう」って不思議に思って観に行ったら、司会の先生が「この、日本から来た〇〇ちゃんはクラスで唯一日本語の歌が歌えます、すごいですね」って切り出して、そしてその日本語の歌から始まる劇だったんだって。
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  1. 哲学者。大谷大学教授、大阪大学名誉教授。平田さんを大阪大学に呼びよせたのが、この鷲田清一先生である。