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Interviews

シリーズ「生命とは何か」2.檜垣立哉先生

4 生命と「無責任」「賭け」

自然は無責任

僕が書きたい本の一つとして、無責任論というものがあります。責任についてはみんなが過剰なまでに考えている。でも、生まれて死ぬということは元々無責任なこと。君たちもたまたま頭が良かったから、たまたま試験が出来たから東大に入っているだけで、別に大したことないよね(笑)。そんなものは単なる偶然が色々積み重なっているわけで。もちろん人間には努力とか勤勉というものがあるけれど、じゃあ例えばみんな頑張れば北島康介のような水泳選手になれるかといったらなれないでしょう。北島がすごく頑張ったのは事実だろうけれど、頑張ったらみんななれるかといえば、ほとんどの人は絶対になれない。ごく特殊な性質がやっぱりあるんだよね。逆に、潜在的にはその性質があるけれど水泳をやらなかった人は、世の中にいっぱいいるかもしれないね。それが何故かというと、そんなことは理由を問いただしても仕方がないわけです。本当に偶然です。それは古典的な言い方をすれば、運命に近い。その運命ということを基に、人間は神様とか仏様とか輪廻転生とかいう言葉で、納得してきたわけです。でも、近代化して科学的な社会になってしまって、現代人には納得する機構がないんだよね。

 

自然の無責任に対して人間が出来ることの領分は、僕はすごく少ないんじゃないかと思う。それがいかにも向こう側まで出来るというように社会が思ってしまうと、それ自身がすごく危険なんじゃないか。

 

僕は哲学者だから、人間なんていつか滅びるんだから、別にそれが明日滅びようが構わないんじゃないの(笑)と思っているところは、ありますね。だから、色々やってみればいいんだと。むしろ変な所で規制するなということは、根本的な所で思っている。生命倫理に関して僕が不満なのは、すぐに規制をかけようとすること。クローンは人道的じゃありませんとか、DNAをどうこうしたらどんな危険なことが起こるか分かりませんとか、そういうことばっかり言うんだよね。異常な恐怖言説みたいなので蓋をしようという態度は、生命倫理ではすごく強いんですよ。でも、本当に何が起こるかはわからない。遺伝子組み換え作物が危険だとされているけれど、その証拠は何もない。もちろん本当に危険なことが起こるかもしれないけれど、人間が死んだらどうするんだと言われても、こういうことが起こってしまいましたということでいいんじゃないか。マクロな視点から見れば善いも悪いも無いし、実はミクロな個人の視点から見ても、善いか悪いかということは分からない。科学は限界まで徹底的にやるべきだと思う。どんどんやれば、どんどん分からないことが出てくるでしょう。

 

自然ー賭けー人間

無責任論の根本的なポイントになるのは、「賭け」ということ。賭けるという行為は、自然の無責任と自分がここに存在していることとの接点として考えると、根本的で分かりやすい行為。賭ける時には自分の決断をしなきゃならない。決断を基に賭けるけれど、結果がどう出るかは絶対分からない。しかも負けても誰にも責任がない。例えば競馬では、みんな沢山のロジックを考えるけれど、それが実際に起きるのは一回きりだから、後付けでしか説明できない。一回性の出来事だからどうしようもないんです。金を賭けることによって、それは自分と関わる問題になる。生きていることのリアリティが最も現れるのが、「賭け」という行為なんですね。

 

自然科学は膨大なデータを持ってくるけれど、賭博も個人のレベルとはいえかなりのデータを集めてきて、それで当たることもあれば外れることもある。それは1か0しかない。当たり外れは一瞬の出来事で、それに対して責任はない。賭けでは、当たった時に驚く。外れて驚く人はいない。意志的に当てようとしているんだけど、当たったらびっくりする。外れると、こんなもんかと思う。これは人間の本性としてすごく重要な問題だと思う。予測が現実化しないことへの自己防御でもあるけれど、やっぱり根本的なところで、身を委ねる、自然がこちらへ来るか否かは抗し難いことだと考えるんです。前近代社会だったら、神様や仏様が決めるんだとみなすけれど、賭けでも同じことなんだよね。

 

確率論の倫理

結局のところ、確率論がこの世の本質のひとつなんでしょうね。だから、確率論を倫理へと落とし込むことが重要になると思います。哲学者や倫理学者は責任についてばかり論じて、無責任について論じないけれど、僕は哲学的無責任論の序説をやりたいと思っている。才能と人生の問題があるからどこまでやれるか分からないけど、残りの人生はそういうことをやりたい。



終わりに

科学は現代社会で重要な役割を担い、我々の生活に浸透しきっている。その一方で、哲学を高尚な遊戯であるかのように捉える態度は根強いように思える。

しかし、科学が拠って立つ思考法は自明のものではないし、科学単独で見渡せる地平には自ずから限界がある。万能ではない科学に、それでも現代の我々は依拠せねばならない以上、哲学に科学を補完する役割を求めるのは自然な流れだ。

元来、哲学と科学に区別はなかったことを、檜垣先生は強調する。現在ある学問の垣根が、19世紀以降に確立した特殊なものであることを自覚することは、しかし、容易ではない。苟くも東京大学「教養学部」に所属する我々学生にとって、専門分化した学問が如何に他分野との紐帯を断ち切らずにいられるかは、自らの問題として考えられるべきだろう。

生命を巡る哲学は未だ発展途上にある。しかし、否、だからこそ、生命哲学は今後、注目すべき新たな知見を産出する可能性を秘めていると言えそうだ。