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Interviews

シリーズ「生命とは何か」2.檜垣立哉先生


2 哲学と科学の関係

iPS細胞から考える哲学

先日ノーベル賞の受賞が決まった山中伸弥教授のiPS細胞も考えてみればすごく哲学的な問題になる。僕が不満なのは、「再生医療に道を開く」という極めて限定的な視点で、人の役に立つということばかり強調されていること。iPS細胞というのは理念を端的に言えば、髪の毛を取り出して、自分の細胞の原型にまで時間を戻せるということになる。それがなにを意味しているのかは、実際にやっている人にも分からない。でも、「細胞を取り出して、あなたの大元まで戻せますよ」というのがもしテクノロジー的に可能だとしたら、様々な奇妙なことが実現出来てしまう。それは倫理の問題になるから複雑になるけれど、善い悪い以前に、そのこと自身は一体なにを意味するのか、どれほど重大な意味を持つのかということがまず分からない。だからそういうことを考えていく立場の人も、必要なんじゃないか。

 

この問題は、専門である医者の方々にも分からない。こういう問題を医学部の人に訊くと、関心を持たない人もいるけれど、やっぱり「生命とは何か」ということに関心を持っている人もいる。お医者さんは文系の専門の話題は全然分からないけれど、自分が専門にやっていることが大きな文脈の中でどういう位置づけを持っているのかに興味のある自覚的な人は当然います。

 

自分の専門領域で論文を書くことに専念している一方で、自分がやっていることの意味は何かを知りたいという理系の研究者は沢山いる。でもそれを口に出すと、「それは哲学者が考える問題だ」となってしまう。

 

科学の限界

科学万能論なんて本当の科学者は誰も信じていない。我々が普段その恩恵を享受している科学技術、例えば飛行機を飛ばすための航空力学でも、何故飛行機が飛べるのかという原理は本当は分かっていない。最初に飛行機を飛ばす元になった仮説は間違っていることが証明されて、それでも飛行機は現にちゃんと飛んでいる。科学というのはその程度のものです。(『99、9パーセントは仮説』竹内薫 参照のこと)

 

自然科学は、基本的に功利主義的原則に則っている。山中先生が言っていたことだけれど、科学実験で何かを発見するには、無駄なことを膨大に行って、殆どは意味がなかったということでないと、ノーベル賞級の研究が結実することはあり得なくて、ピンポイントで何かやって成果があるなどということは不可能。膨大な無駄の中でたまたま何か一つ当たって、それを論理的に検証することになる。このことと功利主義的なものとの折り合いは非常に難しい。それでも、原則的には功利主義的にならざるを得ないとは思う。これは仕方のないことで、善い悪いの問題ではない。だけど、iPS細胞でも分かるように、文系よりも遥かに多額の税金を使って研究している以上、それをどうやって使うのか、科学と社会との関係や、科学が思考の在り方とどう関係があるのかというのは重要な問題として考えなくてはならない。

 

科学に対する哲学の役割

現在の日本の大学のシステムを見ると、全部ヨーロッパで17世紀から18世紀に生まれた学問が教えられている。そして自然科学は今の人間の知の中で非常に根幹的な部分を作っている。これがものすごく明瞭で、意味がある分野だということは事実として無視できない。でも、自然科学の研究成果が、人間が生きているという事柄に対して、何の意味があるかという問いは、もっと広い枠組みで捉えられなければならない。そこには様々な知があって、本当は分離されていない。

 

でも専門化してしまうと、そういった高い視点から考える発想はなかなか取れない。本人の良心がどうあれ、その時の体制や経済的なものを無視できなくなって、あまり迂闊なことを言えない。

 

そうすると、科学者には迂闊に言えないような荒唐無稽な考えを表に出すこと、それも哲学者の役割と言えるかもしれない。自然科学が技術的に立ち向かっている問題は、地震や津波に備えた建築であっても、或いは医療倫理の問題であっても、人の生死に関わる問題だから、責任のある人間には発言できない。無責任な立場の人間にしか出来ないんです。