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シリーズ「生命とは何か」2.檜垣立哉先生


3 なぜ今、生命なのか

「生命とは何か」という問いの普遍性

やはり、生きているということは誰にとっても共通。死ぬということも共通。なぜ生きているのかとか、なぜ死ぬのかということは、古来からある哲学の問いなんです。

 

生命科学の発達が生命哲学を豊かにする

僕は、自然科学が生命とは何かということをどんどん解明してくれると、自分が生きているのは何故かということに対する思考はむしろ豊かになると思う。自分が自分の身体とか思考、例えば脳をコントロールできないということが分かってくるというのは、むしろ「自分がなんで生きているのか」「どうやって生きていけばいいのか」ということを考えるときにやっぱり非常に有益だと思う。

 

小説は人間の脳内妄想を文字に表したものそのものだよね。字で書かれている小説と、僕の脳の思考の中を撮ったMRIと何が違うのか。ある意味同じことだよね。だって脳の中のものを表に実体化しているわけだから。文字で小説を書くことは、脳で何が起こっているかをある一つの仕方で明瞭に表明しているわけでしょう。MRIが脳で何が起こったか調べているのも、一つの仕方での僕が考えていることの表明なわけです。この二つに何の関係があって、何が違うのか、ということを考えることがやはり根本的には重要じゃないかと思います。

 

生命という概念の遍在性

生命というけれど、何が生命なのかよく分からないじゃない。例えば、複雑系で考えると、社会や宇宙のようなものも、普通に考えると生命みたいなものなわけでしょう。だけど、我々が考えている生命というのはバクテリアとかウサギとかミミズとかのことだとされている。それはなぜかということです。例えば社会有機体説なんてものはずっとあるわけです。人間の群生的な組織で社会とか国家とか色々なものが歴史的に出来上がる。あれは一つの生命みたいなもので、それ自身生まれたり進化したり死んだりするということを考えたら生命みたいだから。星だって同じこと。星が生まれました、死にましたなんて言うけれど、それはすごく生命的な比喩だし、地球だって同じで、太陽系はまだ若いです、とかなんとか。そうすると、全部がつながりの中での系みたいなものだっていう発想で捉えられる。もちろん生物学者は、今ある形でのDNAを中心に一義的に考えるんですよね。一義的だから発生の起源は一つだなんて言われているんだけれど、本当かどうかは分からない。宇宙生命を探している人は恐らく、DNAを考えたときに、違う物質で違う暗号系で作られているものを考えていると思うけれど、それがどういう風に在るのか、例えば今の形でDNAやRNAが作られているものを生命だって考えるのが本当に正しいのか、もっと生命という概念を拡張してもいいんじゃないのかとも思う。でもそこは難しいですよね。

 

一昔前だと、哲学の中でも有名なものに生気論、vitalismというのがあって、唯物的に確定できないところで何か生命の本質があるんじゃないかという考え方があった。例えば有名なのがゲーテですよね。彼は詩人だけど植物学研究とか色彩研究とか色々なことをやっている。ゲーテの一つの成果に、原植物という発想があって、あらゆる植物はイデアとしての一つの原型があって、それが変形していったら今ある生物になっていったんだという進化論。その物質的根拠は何もなくて、彼の直観的発想です。同じ時代に比較言語論も出てきている。言葉には原言語があって、インド=ヨーロッパ語族で考えると、インドとかイランあたりに言語を作った人達がいて、それが世界中に広まっていくと、植物と同じように色々と枝分かれしていったという発想になる。「何かがあって、それが分かれて色んなものになる」という生物学的発想は意外と昔からいっぱいあったんです。まあ今からみればゲーテのイデア的なものや、vitalismが前提としているいわゆる生気は、言ってみれば空想上の産物じゃないですか。だけど今の科学の水準からみても、そこには直観的に正しそうな部分があるわけだよね。それが複雑系がやってることで面白いところ。言ってみれば全く唯物論的に確認出来ちゃうわけですよね。DNAが解明されたり、物質が解明されたり、分子生物学だったり、脳だって今は全部分子レベルで読めちゃうわけでしょ。人間が昔から生気などと呼んでいたものが物質レベルで見えるようになってきた。そうすると、もちろん話が違ってくる部分もあるし、結構昔の人の直観が正しいという部分もある。ただ今の段階では、何かに到達しているわけでもなんでもない、途中の状態。そういう意味で、研究として一番楽しいのかなと思います。先に何があるか見えている研究でもないし、それをやっていったらどうにかなるという話でもないからね。


食べること、殺すこと

生命と人間ということを考えると、興味深いことのひとつは食べること。食べるという行為は、生き物を殺して食べるということ以外の何物でもないんですよ。これはすごく不思議な事で、要するに生物の中で食い合いをしているんだよね。だけど人間が人間を殺しちゃいけない、街で猫を殺しちゃいけないとされている。一方で魚釣ってそこら辺で焼いても、別に問題にされない。結構不思議な話じゃないですか。ベジタリアンという人たちもいるけれど、植物は食べていい理由が何があるの?(笑)

 

スペインには闘牛があるけれど、闘牛というのは基本的には殺す儀式なんですね。殺す儀式なんだけど、牛と人間のある意味で対等な闘いがあって、それで人間が勝って、最後に牛を丸焼きにするわけですよ。みんなでそれを食べる。それ自身が、ある意味で牛から命を頂く、敬いの儀式でもあるわけだ。日本人からすると、クジラ・イルカを殺す日本人が野蛮だっていっているヨーロッパ人が、なんで牛を殺して、その場で丸焼きにして食うのか。そういうと、キリスト教だったら真顔で「いや、牛は人間のために神様が作ったものです」みたいなことを言う。でもそんなものは明らかに詭弁ですね。

 

今の生命倫理は専業化されてしまって、医者のインフォームドコンセントの技術のようになっていてつまらない。本当に生命倫理が考えなければならないのは、やっぱり生き物が生き物を殺して食べているという現実があって、人間もそこに参加しているということ。人間は人間を殺してはいけない一方で、人間は生きていくために他の生物を殺さなければならない、という根本的なことでしょう。

 

死ぬことの絶対性

もう一つは、人間の死について。今から五、六十年前の状況を考えてみると、僕も子供が二人いるから出産にも立ち会っているけれど、その出産で母子のレベルで考えると1割か2割は平気で死んでいるわけでしょう。ところが1割や2割の人間が死んでいる段階だと、誰が悪いという話にはならないで、ある意味で仕方のないことだとされる。だから神様仏様にすがって、お祈りする。でも今は出産でほとんど死なない。ほとんど死ななくなると、死んだら責任が問われるようになるんだよね。表面的に見ると大変なパラドックスですよ。

 

自然に生まれてくるものが、生まれてくる過程で何割か死ぬというのが元々動物としての人間の本性であって、それでも産むということが生命としての人間の本性であったときに、どこまでが人間がコントロールできる自然なのか。いくらどうしたところで地震が止められないのと同じで、死ぬということは止められないわけです。

 

人間は絶対死ぬんですね。ところが死ぬ時に、なんで自分は死ぬんだということを言う場合がある。僕だって、例えば明日病院に行って、「よく調べたらガンで半年以内に約60パーセントの確率で死にますよ」と言われたら、「えーっ、どうして!?」と思う。人間のメンタリティとしてそう思うのは明らかだけど、でも別の観点に立つと、死なない人間はいないんですよ。この原理は割と重要で、人間としてみんな平等なんですね。別に90歳まで生きたから幸せで、28歳で死んだから不幸だというわけでもない。現代は死が不可視化されているから、自分や周囲の人間が死ぬことにショックを受けることは当然のこととして理解できるけれど、それとは別に、人が死ぬ時に本当はどこに責任があるのかということは、社会全体で考える必要がある問題だと思います。