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【映画企画】見聞伝×UPLINK|ロウ・イエ監督×樋口毅宏×刈間文俊 「予測不能な特別講義!!」in東京大学

15528415328_cc122faa06天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』を製作した咎により、中国当局から5年間国内での撮影禁止処分を受けていた中国の鬼才ロウ・イエ監督。

中国映画史における「第六世代」を代表する彼の新作、『二重生活』はカンヌ国際映画祭「ある視点」部門のオープニングを飾り、多くの観客・批評家を沸かせた。
1/23、東京大学石橋信夫記念ホールにて、『二重生活』の上映会、さらに上映後にゲストを交えた講演会が行われた。ゲストには、監督の大ファンであり、監督の影響が作品にも色濃く表れているという作家の樋口毅宏、中国映画に造詣の深い東京大学教授の刈間文俊教授が登壇した。

<プロフィール>
■樋口毅宏(作家)
1971(昭和46)年東京都豊島区雑司ヶ谷生まれ。作家。出版社勤務を経て、09年『さらば雑司ヶ谷』で小説家デビュー。著書に『さらば雑司ヶ谷R.I.P.』『日本のセックス』『民宿雪国』『テロルのすべて』『二十五の瞳』『ルック・バック・イン・アンガー』『タモリ論』『甘い復讐』がある。最新刊は『愛される資格』。

■刈間文俊(東京大学教授)
1952年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。
共著書に「上海キネマポート―甦る中国映画」(凱風社)1985年、「チャイナアート」(NTT出版)1999年、訳書に陳凱歌「私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春」 (講談社) 1990年、ジェレミー・バーメーほか「火種―中国知識人の良心の声」(凱風社)1990年、編著書に「衝撃の中国血の日曜日―燃え上がった民主化闘争」(凱風社)1989年など、これまで中国映画の字幕を百本近く翻訳してきた。

■ロウ・イエ監督
1965年劇団員の両親のもと、上海に生まれる。1985年北京電影学院映画学科監督科に入学。
『ふたりの人魚』(00)は中国国内で上映を禁止されながらも、ロッテルダム映画祭、TOKYO FILMeX2000でグランプリを獲得。1989年の天安門事件にまつわる出来事を扱った『天安門、恋人たち』(06)は、2006年カンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分となる。禁止処分の最中に、中国では未だタブー視されている同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』が、第62回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。パリを舞台に、北京からやってきた教師と、タハール・ラヒム演じる建設工の恋愛を描いた『パリ、ただよう花』は第68回ヴェネツィア国際映画祭のヴェニス・デイズ、および第36回トロント国際映画祭ヴァンガード部門に正式出品された。
2011年に電影局の禁令が解け、中国本土に戻って撮影された本作『二重生活』は、第65回カンヌ国際映画祭ある視点部門に正式招待。ほか、第7回アジア映画大賞(アジアン・フィルム・アワード)で最優秀作品賞ほか3部門を受賞。中国現代文学の代表的作家でありロウ・イエと親しい友人でもあるピー・フェイウー(畢飛宇)の小説を原作にした『ブラインド・マッサージ(英題:Blind Massage/原題:推拿)』は第64回ベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞。日本では2014年9月にアジアフォーカス・福岡国際映画祭にて先行上映された。
(以上、http://peatix.com/event/69525より)

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01:「やはりこの映画を五年の禁が解けて撮れたということが自分にとっては大きな出来事で、また大事なことでした」


(司会)
早速ですが、『二重生活』を見ていただいたご感想をお聞かせ願いたいです。


(樋口)
非常に素晴らしかったですね。皆さんも、観終わったばかりで余韻に浸っていると思うのですが、とにかくこの余韻を壊さないようにしながら、作品を少しでも分かるように。そういうお手伝いができればいいなって思っています。困ったのは、まだ2015年が明けて2週間ぐらいですけど、「もう今年のベストは観ちゃったな」って思うんです。役者の表情をちゃんと少ない台詞で表現していて、そして、なんといってもカメラですよね。ツアン・チアンさんと今回またタッグを組まれていますけど、カメラの位置、動きや人物の配置だとかに、皆さんも驚かれませんでした?本来ならこういう話は日本、中国だけでなく誰もがいっぱい撮ってきたテーマで、ありきたりな内容になってもおかしくないはずなのです。それが、ロウ・イエ監督の手にかかると新たな息吹を吹き込まれて、「こんな映画初めて観た」という風な錯覚すらもたらしてしまう、これまでにもあった同じようなテーマの映画をパーにしてしまう力を持っている、本当に舌を巻きました。

(刈間)
私はこういうところであまりお話をすることはなくて、元々は映画史の方の研究をやっております。なので、今回のお話が来た時にどうしようかなと思ったのですけど、私の授業に出ていた学生さんが今日の会の主催者であるものですから、「まあそれならば、学生さんに頼まれたのならやろうかな」っていうのがひとつ。で、もっと大きかったのがロウ・イエ監督の作品であるならば「応援団になろう」という思いです。 そして今回の作品を観せていただいて、色んな意味でよかったなと思います。映画はご覧になった方の受け止め方が最も大事ですので、余計なことを言って皆様方の余韻を壊してはいけないなと思っております。中国の今の生活、現代を描いている作品を、日本の人々が『自分たちと同時代の同じ世界、同じプラットホームにいる人たちの話だ』という風に受け止められるだろう、そういう作品がロウ・イエ監督の手で生まれたというのが、中国映画をずっと観てきた者としては本当にうれしいです。やっぱり同時代の生活を同じ感性で、或いは、もっとそれをはるかに追い抜いた感性で、こういう風に描き出してもらうというのはとてもうれしく、或いは幸福な体験でした。

(司会)
監督にもお伺いしたいのですが、この『二重生活』は、映画製作禁止令が出てから初めて中国国内で上映された映画だと思うのですが、そういうところにかける思いというものはどういったものでしょうか?


(ロウ・イエ)
まずは感想を述べていただいたお二人にとても感謝したいと思います。やはり日本でこの映画が公開されるということで、とても感慨深いものがあります。『二重生活』は五年間の撮影禁止処分が解けてから撮った最初の映画で、資金の問題やその他多くの問題がありました。が、そういう問題をクリアして、中国でこの映画が公開されて、多くのファンも観てくれて、素晴らしい映画だという反応を得ました。しかし興行的にはちょっとこけました(会場笑)。そういうことはありましたが、やはりこの映画を五年の禁が解けて撮れたということが自分にとっては大きな出来事で、また大事なことでした。これを一本撮ったことで、次回作をまた撮り続けていくということになればいいと思っています。

(司会)
樋口さんと、刈間教授のロウ・イエ作品との出会いをお伺いしたいです。

(樋口)
2006年か7年くらいになるでしょうか、『天安門、恋人たち』がロウ・イエ監督の作品で初めて観た作品でした。当時の僕はまだ小説を書いていなくて、出版社で編集者をしていました。それで、『天安門、恋人たち』がすごく素晴らしくて、頭の中にずっとその風景、空気感というものが残っていて、その後編集者を2008年にやめて、2009年に、『日本のセックス』という小説を書くことになります。中国ではこんなタイトル絶対発禁でしょうね(笑)。主人公の陽子という女性が中国に留学した経験がある、という風に書こうと思ったときに、頭の中に思い浮かんだのが、『天安門、恋人たち』の中の風景でした。書くためにもう一度観直そう、ということはしなかったです。そうすると本当に露骨なパクリになってしまうので。あとは学生の時に自分もちょこちょこですけど中国に行ったことがあったので、その時の風景、空気感、経験みたいなのを描いていきました。その『天安門、恋人たち』を観たから、僕は『日本のセックス』という小説が書けたのだと思います。本の末尾に、オマージュ、霊感をもらった、ヒントを頂いた作品一覧というのをバーッと載せているんですけども、その中に『天安門、恋人たち』が入っています。あの映画を観ていなかったら、『日本のセックス』は書けなかったと思います。それも含めて、ロウ・イエ監督に直接お礼が言えることを本当にうれしく思います。ありがとうございました。

(ロウ・イエ)
私も、とても樋口さんに感謝したいと思います。ぜひその小説を読ませていただきたいです。中国語版はありますか?

(樋口)
ないです。日本語しかないです。ちょっとこのタイトルはだめですね(会場笑)

(刈間)
私は、中国映画史を専門にしていますので毎年毎年出てくる作品を体力の続く限り観るということをずっとやっておりました。ロウ・イエ監督の作品は『蘇州河』(1)という題の作品を最初に見た時から、「すごい監督、面白い監督が出てきたなあ」という印象でおりました。そのあといろいろな中国の監督とお付き合いする機会が私は多い方でしたが、なぜかロウ・イエ監督とはお会いする機会がありませんでしたので、そういう意味で今日は非常にありがたい場を設けていただいたと思っています。どの国でも映画を撮るって言うことは大変なことで、一つの作品ができるまでは本当にいろいろな苦労があるのですが、中でも中国にはいろいろな問題があります。そんな中で映画を撮り続けていらっしゃる、ということはとにかくまず尊敬に値することですし、それから、非常にご自分の個性というか、最初のワンカットを観たときに「これはもうロウ・イエ監督の作品だ」って言うことがわかる、そういう映画をずっと撮っていらっしゃる、それが非常に素晴らしいことだという風に思います。しかも、出てくる作品出てくる作品どんどん変化していく、基本は変わっていないと思うんですね。男と女、愛の話とか、その中に置かれた問題っていうのをずっと追及していらっしゃいますけれども、その凝り方から、主題の扱い方から、常に変化をしていく、という、非常に素晴らしい努力をなさっているという風に思います。これは大変なことですので、そういう意味でも尊敬に値する監督のお一人だ、という風に思っております。

(ロウ・イエ)
私の映画に影響を受けられたという樋口さんのお話と、刈間先生からは映画史の研究の視点からのお話をしていただいたわけですけれども、この『二重生活』の脚本を書く時に、メイフォンという脚本担当の人と、主に参考として観たのが80年代の日本の社会派の映画でした。周防正行監督(2)の『Shall we ダンス?』、野村芳太郎監督(3)の『砂の器』、こういうものをいろいろと研究したわけですね。私たちが若いころ観た映画の中には日本映画がとても多くあって、その日本映画の雰囲気に似通ったものになったかと思いますね。やはりアジアの映画の中では、テイスト的に日本映画と中国の雰囲気というのは似ているという風に思いますね。

(樋口)
まさにそうです。今回の『二重生活』は、今監督が名前を挙げていただいた野村芳太郎監督『ゼロの焦点』に影響を受けたのかなという風に思っているところもありました。その映画もやはり夫が行方不明になってしまって、その奥さんが探しに行くと、どうやら夫は自分以外にも家庭をもっていたっていうことがわかっていく物語なんです。監督はそれをご存知でしたか。

(ロウ・イエ)
そうですね。実はその『ゼロの焦点』は、ずっと観たい作品のリストに入れてあったわけですね。もちろん、この『二重生活』を撮る前には『ゼロの焦点』をまだ観ていなかったんですね。先月の会議の席でその討論の資料としてリストの中にあった『ゼロの焦点』を観たわけです。当時の人間関係の描き方など、非常に緊密な人間関係を描いているという風に思いました。

(刈間)
今のお話を聞いていて、非常に面白いなと思いました。というのは、その映画を、例えば『ゼロの焦点』を観ていなくても、実は非常に近いところにいて、同じテーマをずっと扱っておられた。あるいは、日本映画を非常に丹念に観ておられるっていうのが、伺っていて「なるほどな」って思ったのと、もう一つはよかったなという風に思っています。ロウ・イエ監督とお会いするのは初めてなのですけれども、実は中国で日本映画の回顧展というのをやりまして、私も裏方というかお手伝いをして、それで最初に40本の日本映画を持って行きました。今は本当にいろんなルートがあるので、いろんなルートで日本の映画をご覧になっていらっしゃると思うんですけど、最初に入れた時にお手伝いをする機会があったものですから、その時に、ロウ・イエ監督の一つ上の世代の監督さんたち、張芸謀(4)とか陳凱歌(5)たちに日本映画に対する思いを伺う機会がありました。今も、同じ流れがある。というのは、同じような問題をつきつめて描こうとしている人たちの間に、非常に通い合うものがあって。で、今お話を伺っていて、多分ロウ・イエ監督ならそういうお名前が挙がるだろうなという監督の名前が挙がりました。そういう意味では、お互いにたぶん、樋口さんも影響を受けたって仰っていて。ですから、日本と中国でお互いに影響し合うっていう、とってもいい関係がやはりこの間生まれているのだなという風に思います。これって本当に何十年ぶりですね。ここの前にそうなっていたのがいつだろうというと、きっと大正か昭和の頃です。それ以来やはり今、これだけお互いの間隔が密接になると、こういう影響関係の中で素晴らしい作品が生まれてくるのだなっていうので、お話を伺って非常にうれしくなりましたね。

(ロウ・イエ)
1985年、先ほど刈間先生が言われた回顧展ですけれども、僕は丁度大学の一年生で、その時のことははっきりと覚えています。授業の一環としてそれを観るということが決められていましたので、絶対に観に行かなくちゃいけなかったのですが、その回顧展に行って40本以上の日本映画を観たということは未だに忘れられないことですね。その中には大島渚(6)監督の作品ももちろん入っていましたし、40本というと、本当に大学に入ったばかりの一年生の学生にとってはですね、非常に大変なことで。時々眠くなったりはしました。でも、その機会に日本のその時代の作品をたくさん観たということは、素晴らしい体験だったと思います。また、85年にはですね、フランス映画の大回顧展というのもありまして。やはりその85年前後といいますのは、そのような大きい映画の回顧展が開かれた時代でもありました。そうした回顧展は我々映画を勉強する者にとっては非常に素晴らしいチャンスだったと思います。

(刈間)
今、この話をしていただいて本当にうれしいです。「あの時頑張った甲斐があったな」と思いましたね。と、言いますのも、あの40個の中に大島渚さんの『日本の夜と霧』を入れたっていうのがあって。どうやって中国の審査部門を説得するかっていう説得用の原稿を私が書いたものですから。大島さんの名前を言っていただけるなんて嬉しい。

(ロウ・イエ)
そうですね。その頃は本当に、中国では視聴が許されない映画を観られたという事がとてもうれしかったですね。

(刈間)
日本の題名は『二重生活』ですけれども、中国語の映画題では『浮いている城』。城というのは街という意味ですから、おそらく、水の上を漂う根無し草のように、安定感のない、そういう意味が題に込められているのではないかなという風に思います。そういう意味で、ロウ・イエ監督は新しい都市の描き方、街をどう生きるかというテーマに対して新しい貢献、素晴らしい成果を挙げられたのではないでしょうか。

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(1)邦題は『ふたりの人魚』。
(2)周防正行(すお・まさゆき)は日本の映画監督、評論家。代表作に『Shall we ダンス?』、『それでもボクはやってない』。
(3)野村芳太郎(のむら・よしたろう)は日本の映画監督。代表作に『砂の器』。
(4) 張芸謀(チャン・イーモウ)は中国の映画監督。『紅いコーリャン』でデビューし、同作でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。
(5)陳凱歌(チェン・カイコー)は中国の映画監督。処女作の『黄色い大地』の発表は世界に衝撃を与え、張芸謀らと共に「第五世代」と呼ばれる。『さらば、わが愛/覇王別姫』でカンヌ国際映画祭・パルムドール。
(6) 大島渚(おおしま・なぎさ)は日本の映画監督。いわゆる「松竹ヌーヴェルヴァーグ」(ヌーヴェルヴァーグに関しては後述)の草分け的存在であり、海外での評価も非常に高い監督である。代表作に『戦場のメリークリスマス』、『愛のコリーダ』。