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リレー小説『茂雄』**文学企画

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これは、ロラン・バルトの挙げた恋愛小説の要素「不在」、「苦悩」、「待つ」、「破局」、「共謀」、「接触」、「不測のできごと」、「告白」、「脱現実」、「ドラマ」、「抱擁」、「あやまち」、「知りがたい」、「嫉妬」、「憔悴」、「手紙」、「雲」、「夜」、「泣く」、「なぜ」、「出会い」、「ひとり」、「追憶」、「自殺」、「あるがままに」、「やさしさ」、「真実」を全て外して書かれた実験小説である。

————-

 茂雄が寮を出ようとした日は、朝から雨が降り続いていた。わずかに冷たい空気とアスファルトを打つ雨音が、外出を億劫にさせる。
 茂雄は寮の玄関の前に佇んでいた。愛用している蛍光色のカバンを背負い、透明のビニール傘を持って、今にも寮の玄関を出ようとしている。しかし、茂雄はそこから一歩も動かない。
(まったく、なんて天気だ。こんな気が塞ぐ日に出て行くなんて)
 四日間というもの雨は降ったりやんだりしてどうにもすっきりしない天気が続いた。今は霧雨が降っている。茂雄は日射しが強く降り注いでいるときと同じ顰め面をして、風に舞う塵のような雨粒を睨みつけた。ジーンズのポケットから煙草を取り出し口にくわえると、茂雄はそれに火をつけた。煙をくゆらして、雨に染みた景色をじっと眺めた。
 茂雄は目を閉じてこの寮にやってきた日のことを思い返した。その日は快晴だった。薄青色の空が遠くどこまでも続いていた。日射しが優しく、広い玄関の脇に植えられた植物も地面のアスファルトもその日射しを優しく照り返す。そして、寮の建物は日の光を浴びて煌々と輝いている。茂雄はそこで見た景色のどこからも希望の気配を感じ取った。きらきらした輝きを今後の大学生活の暗示だと捉えた。もちろん、彼の心にあった新生活への憧憬はある程度、そこにあった日常の景色を希望の色に染めただろう。茂雄もそのことには気がついている。だがそれでも、その日見た寮を中心とする風景から、大学生活というものに期待せずにはいられなかった。
 それが二ヶ月経って、梅雨のこの時期に見る同じ景色はどうだろう。
 日の光が届かず世界全体が薄暗い。細かい雨で視界は濁る。濡れそぼった植物はみすぼらしく、哀れな印象を与える。アスファルトも黒く濡れ、なんだか汚らしい。茂雄は深いため息をついて、
「まあ、こんなもんか」とつぶやいた。
 煙草の煙を大きく吸い込み、ゆっくりと吐いた。視界に入った景色に満遍なく煙を吐きかけてやった。少し気分がよくなった。茂雄は玄関から煙草を投げ捨てた。煙草はまだ尖端を赤く光らせたまま宙を飛び、アスファルトの上に落ちた。火は一瞬で消えた。
 茂雄は鬱屈とした天気をあきらめ、傘を差して寮の玄関を降りた。少し離れて寮全体を振り返って見た。雨に濡れた木造の寮からは乏しさしか感じ取ることができなかった。
 茂雄は顔を正面に戻し、駅に向かった。

 寮から大学までは、電車で十五分ほど要する。
 寮の最寄駅から私鉄に乗り、途中駅で通学用支線に乗り換える。わざわざ寮に入ってまでこの大学に通うことを決めた理由の一つが、その交通の便の良さだった。その大学のためだけにわざわざ支線が用意されている。入試前の下見に来た時、茂雄は心から感心を覚えたものだった。そして今や電車及び乗り継ぎの時間も、この二カ月で完全に頭に入ってしまっていた。
電車が来ないことに疑問を感じ始めたところで、駅員のアナウンスが耳に入ってくる。
「お客様に申し上げます。雨による混雑の影響により、この電車少々遅れて運転しております。お客様にはお急ぎのところ、大変・・・」
 周りから、あるいは舌打ちのような音が聞こえてくる。そんな音たちが、車窓への雨粒の衝突が発する音と合わせ、車内の空気をより陰鬱なものにする。
 授業に遅れることは確実だった。しかしありきたりすぎるほどの日常に、少しばかりの変化を与えてくれたこのアクシデントに、茂雄は心の中で少し嬉しさを覚えていた。

「裏京大学前、終点です。どなたさまも、お忘れ物の無いよう、お降りください・・・」
 いつもより十分ほど遅れて大学に到着した。授業はもう既に始まってしまっている。
駅に入ってすぐに目に入るのは、光を反射して輝き続ける水面である。大学の裏に存在する巨大な人口湖。校舎によってその大部分は隠れながらも、駅に降りた人間の目は自然とこちらに向く。
 茂雄がこの大学に通うことに決めたもう一つの理由は、その湖の美しさであった。もっともそれは晴れた日のこと。雨の日の空を映し出し黒くなった湖が、一層目に映る世界を暗いものにしている。寮を出ようとしたころに比べ、さらに大きさを増して振り続ける雨の中、茂雄は大教室に向かった。
 ドアを開ける瞬間、耳に入ってくる教官の声は何かの「呪文」のように感じる。そしてその呪文は席に着き黒板の内容を認識した瞬間、意味ある言葉に変わる。
 4月にはその全てが生徒により埋められていた大教室の椅子も、6月になるともはや空席の方が多くなっているのが現状。茂雄はドアを開けてすぐに目に入った、近くの空席に鞄を置いた。試験のために内容を頭に入れるわけでも、興味深い内容のみ選び出して聞くわけでもない。
(まあ、シケプリあるし……)
 頬杖をついて黒板を見始めた茂雄には、教官の声は再び「意味ある言葉」から「呪文」へと化していた。
 突然隣に人の気配を感じた。すぐ右隣に何かが入ってきている。茂雄が右を向いたとき、ちょうどそれは通路側の椅子に荷物を置いている最中であった。その後ろ姿から、その人物が女性であることはすぐに脳が理解する。さらにその人物が、語学で同じクラスの立花朔夜であることを認識するのにさらに数秒。彼女は一瞬だけ微笑を向け、茂雄のすぐ右側の椅子に腰を下ろす。
 何故これほど空席があるにも関わらず、わざわざ自分のすぐ隣の席に座ったのか。同じ状況に立たされた人間の九九%が抱くだろう疑問が、茂雄の心にも生まれてくる。しかし授業中に私語を放つというリスクを冒してまでそれを口にする気は起きなかった。
 そしてその御蔭で、右から残りの授業中ずっと向けられ続けていた視線に、茂雄は気付くことは出来なかった。
 授業を終え、教官はさっさと教室を出ていく。それに続くように生徒たちも次々に立ちあがり、教室の前後にあるドアに群がっていく。授業という空間の拘束から、一刻も早く解放されたいという願いが彼らの原動力なのか。空席が目立っていたとはいえ大教室。ドアの前のそれなりの数の生徒の群は、外に出ようとする者の歩みを遅くする。
 茂雄は混雑を好かなかった。時間稼ぎの意味で、腕の動きをわざと遅くしていた。視線を向けることはしなくても、いやでも視界に入ってくる隣の状況。既にそこには何もなく、隣に座っていたクラスメイトは立ち上がっていた。
 そして突然顔をこちらに向けてきた。そこにあったのは、茂雄の全てを見通すかのように茂雄を見つめ続ける大きな瞳。そしてその口から紡がれた言葉。
「キミの目、一体何がうつっているんだろうね?」
 茂雄が反応を返そうした時、彼女の姿はすでに群れの中に消えていた。

 この家の畳はまだ新しく、青々としたにおいこそ数ヶ月の生活のうちにかき消されているものの、表面は相変わらずすべすべとして、茂雄は布団から這い出てなおここで、ごろごろとうつ伏せになるのが好きだった。ただその度に、半年だけ暮らしたあの寮の、毛羽立った畳表が一瞬自嘲的に思い出されるのだ。敷きっぱなしの布団に、朔夜はいつも嫌な目線を送るが、自分からたたんでくれたりはしない。でもたまに、さりげなくシーツと枕カバーが取り替わっている。彼女のそういうところが良いと、茂雄は思う。そういうところ。具体的に何が好きとかどこが好きとか言えない限り、自分はこの家に居座り続けるんだろう。
「私いまからバイトだけど」
 さっき大学から帰ってきたと思ったら、朔夜はもう靴を履いている。黒のパンプスは踵がすりきれているが、別に誰に見せるわけでもないしと言って買い替えようとしない。妙な倹約家だなとからかうと睨まれる。
「なんの」
「今日は塾」
「何時になる」
 バイトにゼミにサークルにと忙しない朔夜に、茂雄は毎日同じ場所から、彼女をちょっと見上げる格好で、同じ質問を繰り返す。返ってくる答えもいつも同じだ。
「わかんない。ご飯食べてていいよ」
「作っとこうか」
「またレシピ増えたの」
「まあね」
 夕飯の買出しは、外出するきっかけになる。何でもない家庭料理で育ったけれど、手先の器用さと要領の良さ、これにレシピサイトの情報が加わって、かろうじて茂雄は自分の生活の意味を認めることができていた。彼女の帰宅を見計らって、夜遅くにレンジを回し鍋をあたためる。そしてありきたりな文句を言われるのだ、こんな時間にこんなに食べたらまた太るんだけどなあ。
「茂雄くん、料理で単位もらえる授業あったらいいのにね」
 朔夜は苦笑して扉を開ける。鍵、かけといて。
 ぱたんと音がしてから、茂雄はのろのろと立ち上がった。寮では鍵さえほとんど開け放しにしていたのに、最近はチェーンにも自然と手が伸びる。この家に懐き始めたころ、しょっちゅう怒られたのが効いている。東京は物騒なんだから。学校から自転車で十分とかからないこのマンションは、オートロック完備であるし、管理人も一階に住んでいる。汚くて、いつも得体の知れない奴らがたむろしていた寮よりもずっとずっと安全だろうにと、はじめこそ呆れていたけれど、今はあまりにも、この家に、朔夜の生活に、馴染んでしまっている。
 この三ヶ月で。あっというまに。

 彼女とは、中学、高校、大学と、考えてみればずっと同じ学校に通っていた。同じ組になったことも幾度かあるはずで、たぶん一緒に日直をやったことだってあるのだろうけれど、日誌私が出しとくね、ああお願い、その程度の会話の記憶は、退屈な学校生活の中にうずもれていく。義理で年賀状を送ったこともないし、名前と顔がかろうじて一致するだけで、それ以上に知っていることなどなにもなかった。
 だから、大学の教室で、ふっと投げつけられた彼女の意味深な言葉は、茂雄の耳にいつまでもねっとりと残った。

 次に彼女と出くわしたのは、大学裏の湖のそばだった。茂雄は古いベンチに座ってぼうっとしていた。あちこちささくれ立っていて、誰もつかいたがらないベンチだ。座るところさえ気をつければ、この時期太陽のひかりを吸収してあたたかく、居心地は良いのに。ここで髪の毛を熱されていると、三限の授業も、友達も、バイトの面接も、すべて遠くに思われて、あたまが停止する。あたたかいのか、あついのか、そんな言葉の違いもどうでも良くなって、目を閉じる。それで、彼女はふらっと現れたのだ。
「やあ、こんなところにいたんだね」
 停止していたあたまに涼やかな声が透き通り、茂雄はゆっくりと目を開けた。前と同じように、茂雄の全てを見通すかのように茂雄を見つめ続ける大きな瞳が、そこにあった。そしてその口から紡がれた言葉。
「キミの目、一体何がうつっているんだろうね?」
 しかし今度は、ふふ、という小さな笑い声とともに彼女の口から発せられたのだった。
「さあ……なんだか奇妙な、腐れ縁の女の子とかじゃないかな」
 茂雄は、うう、という声を漏らしながらからだを伸ばしつつも、今度は反応を返すことができた。
「へえ、私のこと、ちゃんと覚えてくれてたんだね。てっきり、もう覚えてないもんだと思ってた」
 微笑みながらそう言うと、朔夜は少しだけベンチのささくれを気にしながら茂雄のとなりに腰かけた。朔夜の纏う香りが、ふわりと、茂雄の気分を良くさせた。
「まあ正直なところ、思い出らしい思い出なんて、何もないけどね」
「それもそうかもしれないね。でも、私は茂雄くんのこと、いつも見てたよ。それでなんとなく、いつも茂雄くんの視線の先が気になってたんだ」
 茂雄の目をじっと見つめて話す朔夜であったが、茂雄の感想は、へえ、ふーん、そうなんだ、という程度のものであった。茂雄は物事をあまり深く考えない男だった。そんなことよりも、その日は面倒がって朝も昼も食事を抜いていたために、腹が減っていることの方が問題であった。そしてそのことを思い出してしまい、茂雄の胃が鳴った。
「あれ? お腹空いてるの?」
 微笑んだままで朔夜が言った。いや、茂雄には微笑んでいるように見えただけで、実際には微笑んでいるのとは少し違っていた。茂雄はそれに気がつくことができなかったのだ。
「ああ、食事の用意をするのが面倒だったからね……ついでに言うと、財布を寮に忘れてきた」
「ちゃんと食べないとだめだよ。ていうか、茂雄くん、寮だったんだね」
「そうだよ。電車でそんなにかからないけど、わざわざ帰ってまた来るのも面倒でね」
 茂雄は、べつに普段から面倒くさがりというわけではない。ただ、新しく始まった大学生活にも慣れと惰性が生まれ始め、まあ一日くらいいいか、という思いが茂雄を汚染していたのだ。
「それじゃあ、私の家ここの近くだから、今から来ない? なにか作ってあげるよ」
 その朔夜の発言に茂雄は少なからず驚いたが、まあそれもいいか、というような気持ちで
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 などと答えてしまった。

 それからというもの、茂雄はたびたび朔夜の家に足を運んだ。朔夜は料理が特別うまいわけではなかったが、ひねくれた食生活を数ヶ月続けてきた茂雄にとっては、ありがたいものであった。少しずつ試験期間が近づいてくる頃でも、一緒に勉強しようなどという名目で茂雄は朔夜の家に通い続けた。わざわざ電車に乗って寮に帰るよりも、歩いて朔夜の家に行った方が楽だったのだ。朔夜の家から大学に向かうこともあった。
 いつの間にか雨の季節は彼方へと過ぎ去り、夏が来ようとしていた。

 試験の季節である。
 試験開始から数十秒たってから、やっと茂雄は仕方なく問題に目を通し始めた。友人から奪取した、いわゆる「試験対策資料」あるし、と高を括ってはいたものの、その手のものはプリントアウトするだけで勉強したような気分になれる不思議なアイテムであるということを一年生の茂雄は身をもって理解することとなった。
 それに「試験勉強」という言葉は茂雄にとって、朔夜の家に入り浸るための口実でしかなかった。朔夜も「もう勉強おわり?」なんて嫌味をちくちく言ってくるタイプでは無く、かといって一緒になって無為な時間を過ごすわけでも無く、猫のように転がっている茂雄を見ながら自分の勉強に取り組んでいた。そういうときの朔夜の表情には何か柔らかいものがあって、そのおかげで茂雄は安心してこの試験にほぼ無勉で臨むことができたのである。
 試験開始から数十分が経過した。
 前の席の答案を盗み見たところ、どうやら黒い字でびっしり埋まっているようだ、ということを茂雄は把握した。これまでの茂雄ならここで「やれやれ」の一つも言いたくなったことだろう。しかし茂雄は別のことを考えていた。
――「試験どうしようもなくて、もうだめだー! ってなったときにさあ、考えてたんだ、この話をしたら何て言われるかな、って」
 妄想の中で茂雄は朔夜の家にいた。「試験とか死んだし」という学生におきまりのネタを嬉々として披露している自分を試験中に想像する自分(笑)、というわかりにくいネタを朔夜に言ってみたいと茂雄は思った。朔夜はもしかしたら、
――「全く、茂雄くんってば」
と、あの微笑むような表情で言うかもしれない……そうした可笑しな妄想を膨らませて茂雄は時間をやりすごした。
 周りから見れば、このときの茂雄はイヤな生徒Aといったところだろうか。周りの席の人は一生懸命答案を書いているというのに、茂雄ときたら腕を組んで虚空を見据えながら、時折笑みを浮かべ、あまりにも泰然としていたからである。しかしそんなことまで茂雄が慮るはずがない。

 結局試験のことはあまり話題に上ることは無かった。
「試験どうだった?」
「まあまあかな」
 というたわいのない、似たような会話を何回かしたような気もするが、茂雄にとってそれはあまり重要では無かった。
 大事なのは、試験が終わってもいわば成り行きといったかたちで、茂雄が朔夜の家に通い続けたということである。朔夜の家に行く(あるいは「帰る」)のに特に理由が要らなくなったのがこの頃だった。そして寮に帰る(あるいは「戻る」)のが面倒臭くなってきたのもこの頃だった。
 
 夏休み中も朔夜の家にだらだらと居着くつもりだった茂雄は、帰省という一大イベントを忘れていた。しかし朔夜が二週間ほど家を空けると聞いたとき茂雄は自分なりに「いいこと」を思いついた。
「じゃあ留守番しとくよ」
 そう言うと朔夜は少し困ったような顔をしたけれど、意外なことに、東京がいかに物騒であるかということ、ドアの鍵はちゃんとチェーンロックもしておくこと、などを説明し始めた。断られると思っていた茂雄はなんだかいけそうだと察知してそれらの説明をまじめに聞いた。
「じゃあ、よろしくね」
 ことはあっさりと運んだ。地元が一緒なんだから一緒に帰省すればいいのに、と思わないでもないが、とりあえず茂雄は満足していた。
 いくら腐れ縁とはいえ、留守番させてほしいなどというとち狂った申し出が簡単に通るとは、全く朔夜は防犯意識が高いのやら低いのやら、とつまらないことを考えながら茂雄は部屋を見回した。きちんと整えられているのに、息苦しくない空間。それに比べれば寮の自分の部屋なんてもうどうでもいいと、その時の茂雄に聞けばそう言ったかもしれない。それほど茂雄は浮かれていた。

 二週間のお留守番を果たしたことで、朔夜からある程度の信用を得ることができて茂雄はまさにしてやったりといった心持ちだった。
 こうして夏休みを乗り越え、次は秋休みである。大学生の休みは長い。

 折角の長期休みだというのに、茂雄はほとんど外出もせず、朔夜の家に入り浸って過ごしていた。歯ブラシや着替えなど、生活用品を少しづつ持ち込んで、いまや寮に帰らずとも十分に過ごせるようになっていた。うずたかく部屋の一角を占領していく茂雄の私物に、朔夜は当然嫌な顔をした。が、既に食事のほとんどを茂雄に任せてしまっている引け目もあったのだろう。たまに片づけを命じられるぐらいで許してもらっていた。

 いつも何やかやで予定を詰め込んで、毎日どこか飛び回っている彼女にも、久しぶりに休みが入ったらしい。
「茂雄くん、明後日って予定開いてる?」
 出来立ての炒飯を上品に頬張りながら、唐突に朔夜は質問した。敷きっぱなしの布団で昼過ぎまでごろ寝し、寝転んだままパソコンを開き、思いついたように買い出しに出る。茂雄の秋休みが毎日そんな風だということを、朔夜はよく知っているはずで、であるから当然、明後日といわず三日後だろうと四日後だろうと、茂雄の予定は空いているはずであろうことだって、彼女にはわかっているはずだった。茂雄はごろりと寝返りをうった。開いてるだろうと分かっていても一応聞いてみるその態度が朔夜らしいなと思った。が、相手の予想通りの答えを返すのは少し悔しい。本当に予定が無いか考えてみた。しかし案の定、どう考えても明後日に特別な用事はない。暇としか言いようがない。明後日だけでなく、その次だって暇だ。ついでに言うと、その次の次も。
「開いてる、けど」
「じゃあさ、一緒にどこか行こうよ」
「一緒に?」
 一緒。一緒に、か。当然のように家に居ついておきながら、そういえば一度も朔夜と出かけたことが無かったなと、茂雄は今更のように気づいた。さらさらと、スプーンと皿が触れ合う音が聞こえる。首だけ動かして見上げてみると、朔夜は炒飯をかき集めだしていた。茂雄は思い出したかのようにたずねた。
「二人で?」
「二人で」
 こくりとうなずいて、朔夜は大儀そうに炒飯を飲み込んだ。
「二人で。どこか」
「どこかって、行きたい場所でも?」
 外出できればそれでよかったらしい。スプーンを置いて、彼女はむうと唸りだした。足をぷらぷらさせて、寝っ転がっている茂雄を見る。
「散歩がしたいな。景色の綺麗なところに行きたい」
「いい景色、ね……大学の湖とか?」
 朔夜は笑い出した。いくらなんでも色気がなさ過ぎたのだろうか。茂雄は妙に恥ずかしくなって起き上がった。ひったくるように皿を片付け、自分の分の麦茶を入れる。朔夜は湖かあーと感慨深げに繰り返していた。

 次の日の夕。買出しから戻った茂雄は、マンションの玄関前で立ち止まった。スーパーの白い袋を左手に、鍵を探して右手をポケットに突っ込む。心地よい風がひゅうと吹いた。今晩はシチューでも作ってみようか。朔夜の帰りはいつぐらいになるだろう。あと、そうだ、明日は久しぶりに早起きして、お弁当を作ろう。指先で鍵を見つけて引っ張り出すと、レシートも一緒についてきた。器用にレシートだけもとに戻して、オートロックに手を伸ばす。と、そのとき。誰かの気配を感じて、茂雄は振り返った。
 男が街灯の下に立っている。
 その表情も服装も、悪夢から這い出たように暗い。
 足元にぼんやりと影を落として、茂雄をじっとりと見つめている。
 目が合った。
 男は動かない。
 妙に冷たい風が吹いて、袋がガサガサ鳴った。
 男は動かない。
 先に目をそらしたのは茂雄だった。
 意識から男の視線を振り払い、オートロックを解除して、扉の中の暖かな、こもった空気へ踏み込んだ。袋を右手に持ち替えて、エレベーターへと早足で向かう。乗り込む瞬間、来た道をちらりと横目で振り返ると、透明なガラス越しに、男がまだ、そこにいるのが見えた。そして茂雄は、朔夜のやけに戸締りにうるさい態度と、妙にあっさりと帰省中の留守番を承諾してくれたことを思い出したのだった。

 茂雄がマンションの中に入っていった後、男はしばらくエレベーターを見つめていた。そしてエレベーターのランプが四階を指したまま止まったことを確認した後、男はマンションを見上げ、おもむろに携帯を取り出した。
「・・・もしもし」
 男は喉の奥から絞り出すような、しかし妙に深く響く声で言った。
「ついに捜し出した。ああ、もう少し様子を探るつもりだ。またかけ直す」
 男は相手の返事を待たぬような速さで電話を切り、他人の目にはほとんど気付かれないような笑みを浮かべて、暗い街に去っていった。

 翌朝、茂雄は時計のアラームより先に目を覚ました。アラームが鳴る前に不意に手にした時間は、ひしめく建物の間に発見した細長い青空に似ていると茂雄は思った。鏡がまだ何も映していない時間帯。一日が雑然とした日常に染まる前のほんのわずかな時間帯。茂雄はそれを再発見したような気がした。茂雄もかつては持っていた、しかしだいぶ前に失ってしまったもののようにも思えた。いや、と茂雄は思い直す。この爽やかな朝の空気は何の暗喩でもない、決して。

 二人分の弁当を作り終え、日差しがいつも通りの朝を演じることに慣れてきた頃、二人は大学へと向かった。もっとも、茂雄にとってはいつも通りの朝とは言い難い。弁当以外の全てを持って大学へ行くことはあっても、その逆なんてそうよくあることではない。それに、幼なじみの女の子と二人で弁当を持って出かけるなんて発想は今までなかった。通り忘れていた青春少し前の甘酸っぱさをこの年になって今更経験するみたいで、茂雄はちょっと笑った。ピクニックという響きに包まれた子供っぽさは、こんな青空の下でなら純粋さという立派な名前を与えられて今日だけは信じてもいいような気がした。ともかく、茂雄は久しぶりに自分の心が躍っているのを感じていたのだった。それは昨日の不審な男の存在を完全に記憶の彼方に追いやってしまうほどに。そんな茂雄が朔夜の目にどう映っていたかなど、茂雄には知る由もなかった。しかし朔夜は朔夜で、いつもよりも晴れやかな笑顔、軽やかな足取りで歩いているように見えた。子供時代の夏に置いてきたひまわりをもう一度見るようだと茂雄は思った。
 二人は大学の正門を通り抜け、講義棟に背を向けて湖に向かって歩いた。構内には人がほとんどいなかったので、まるで知らない場所に来たようだった。学期中の昼休みの騒々しさが嘘のようだ。この静かで穏やかな空気のほうが、大学本来の姿に近いような気がした。茂雄と朔夜の会話はいつも通り他愛なかったが、それはこの空気を壊すどころか淡く心地良い色彩を加えているように感じられた。
 湖は優しく太陽を映していた。水がとてつもなく綺麗だと言えば嘘になるが、ピクニックの風景としてこれ以上のものはなかなか見出せないに違いない。どちらが言い出したのでもなく、茂雄と朔夜は湖のほとりの古いベンチに座った。数ヶ月前二人が偶然出くわしたあのベンチである。とは言っても、そのことを感慨深げに思い出すような二人ではなかった。
 朔夜は湖の向こうを見ていた。ぼんやり、というよりは真剣に。しかし何かを見つめているわけでもなく。遠くを見る朔夜の瞳は美しかった。二人で並んでいるときに朔夜が茂雄に向ける瞳より、こちらのほうが綺麗な光を宿して見えた。そしてそう感じた自分はまだまだ朔夜の恋人にはなれないな、と茂雄は心の中で苦笑した。
「ねえ、」
 こんなタイミングで不意に朔夜が何か言いかけたので、茂雄は思わずどきりとした。だが朔夜が発した言葉は茂雄の考えからはほど遠いものだった。
「こんなふうに湖を見てると、何か罪悪感を覚えるわ」
 茂雄は何のことを言っているのか分からず一瞬聞き直そうとした。が、朔夜の口調にいつもはない響きを感じ取って茂雄は口を閉じ、次の言葉を待った。しかし朔夜はそれっきり何も言わない。茂雄が昨夜の男のことを思い出したのはこの時だった。もちろん何の関係もないことだろう。居心地の悪い妙な空気が、茂雄の脳裏で男の不気味な影と勝手に結びついただけだ。
「湖か、なんかそんな戯曲あったな。そのせいじゃない?」
 重くなりかけた雰囲気を振り払うように茂雄は言った。ひどく曖昧で何の慰めにもならない言葉だな、と自分でも反省しつつ。
「なあにそれ。あ、わかった、あれでしょ、『かもめ』。」
 そう返して朔夜が笑いかける。その笑顔は本心からのものではなかったのだろうが、続ける自信のない話題の方向性を変えるきっかけを与えてくれたことへの感謝の表れとも受け取れた。それと同時に、ちゃんと聞くべき話を聞くタイミングを自ら取りこぼしてしまったような申し訳なさを茂雄は感じていた。不審な男のことも言いそびれたまま、雰囲気は明るさを取り戻し、会話はまた他愛のない方向に進んでいった。

 弁当を食べたり、湖のほとりを散歩したりしているうちに、日差しがだんだん影を帯びてきた。食べて話して、普段家にいるときと変わらなくても、それぞれの密度が何となく濃いような気がした。普段はただ同じ場所にいるだけだが、こうして湖の前にいるとお互いが時間と空間をちゃんと共有しているような気がした。そんな気がするだけでも十分なんじゃないかと茂雄は思った。朔夜のことが前よりも分かるようになった、というわけでもないのだが。
「そろそろ帰ろうか」
 伸びをしつつ朔夜が言った。ちょうどそんな頃合いだろうと思っていた茂雄は同意した。風が少し肌寒かった。
「今日の夕飯は私が作るわ。さっきのお弁当のお礼。食材買って帰るから、先に帰ってて」
 そう言って朔夜は茂雄と反対の方向に歩いて行った。買い出しくらい一緒に行くよ、と茂雄は言おうとしたが、何となくタイミングを逃してしまった。

 茂雄は一足早くマンションに戻り、エレベーターに乗った。何も考えなくても指が自然に四のボタンを押すほどに、朔夜との生活は日常の中心になってきている。
 四階でエレベーターの扉が開く。
「あっ」
 茂雄は思わず声を出しそうになった。扉が開いたところにあの男がいたのだ。服装は昨夜と全く同じ、マンションの廊下の明かりの下で、暗い印象は薄れるどころかより一層際立って見えた。

 茂雄は全身をこわばらせた。昨日のじっとりと舐めるような男の視線を思い出す。薄暗い街灯の下ではっきりとは見えなかったが、あの目は確かに茂雄を捉えていた。そして今のこの状況。偶然とは思えなかった。
 横目で男を観察しながら、茂雄は足早に歩き始めた。男は廊下の壁に寄りかかって俯いている。もしかしたら茂雄の存在に気づいていないのかもしれないが、確かめるすべはなかった。背は高く痩せこけていて、服から除く肌は驚くほど白い。それはある種病的な白さで、長い入院生活によって太陽を忘れた患者のようであった。
 男の横を通りすぎるとき茂雄は妙な感覚に襲われた。どこかで感じたことのある感覚。記憶の底から沸き上がってくるような既視感。だが同時にそれはひどく懐かしい感覚でもあった。
 その時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 茂雄はびくりと体を震わせたが、すぐにこの着信音が自分のものではないことに気がついた。男は懐から携帯電話を取り出すと、電話には出ずに切ってしまった。ちっと軽く舌打ちをして男は携帯を懐に戻し、エレベーターに乗り込んでいった。
 扉の閉まる音を背中越しに聞いて、茂雄はやっと緊張を解いた。

 エレベーターに乗り込んだ男はいらついていた。タイミングが悪すぎる。扉が開くと同時に走りだし、電話をかけた。
「ふざけるな。ちょうどあいつが通りかかったところだったんだ」
 男は怒りをあらわにした。
「いや、すまない。言っても仕方が無いことだな。もともと様子をみるという話だったんだ。あいつがたまたま通りかかったのだから仕方がない」
 男は大きく息を吸った。そして仕切り直すように落ち着いて話しだした。
「どうやら俺のことを見てもわからないようだった。だが、あいつであることは間違いないはずだ。あれから何年も経っているが見間違えるはずもない。あの目――何が映ってるのかわからないって表現はほんとぴったりだ。あのいけ好かない目は全然変わってない」
 男は不敵な笑みを浮かべたまま街へと消えていった。

 朔夜が帰ってくるのは遅かった。と言っても特別に遅かったわけではなく、茂雄が買い物に行くのに比べたら遅かったというだけだ。その間に茂雄はさきほどのことを思い出していた。あの男は誰なのか。朔夜が茂雄を残して帰省したり、戸締りを強調したり、いやそもそも恋人でもない茂雄を部屋に置いたりしていることと関係があるのか。だが堂々と姿を表している以上、こちらに危害を加える意図はないのかもしれない。そもそも考えすぎという可能性も大いにある。一応朔夜には話しておくが、不必要に怖がらせる必要はないだろう。
 朔夜は一時間ほどしてから部屋に戻ってきた。手には抱え切れないほどの荷物を抱えている。茂雄はいくつかを朔夜から受け取って、それぞれのあるべきところに配置していく。茂雄はすでに調味料の配置からシャンプーの替えの場所まで完全に覚えてしまっている。それだけ朔夜との生活がすっかりなじんでしまっているということだ。
 それから朔夜は茂雄を台所から追い出し、料理を始めた。テレビでも見ていて、という朔夜の言葉に素直に従って茂雄はテレビをつける。やがて部屋には朔夜の作る料理の匂いが広がり始めた。
「今日は唐揚げ?」
 からからと油の揚がる音がする。油は処理が大変だからと普段朔夜は揚げ物を作らない。だが、以前茂雄が唐揚げを好きだと伝えたら、子どもっぽいなあと笑いながら作ってくれたことがある。それ以来朔夜が揚げ物料理をするときは必ず唐揚げだ。
「んー。秘密」
 朔夜の歌うような微笑が台所から聞こえる。そういえば袋から買ったものを取り出すときも、朔夜は茂雄に食材の入っている袋は触らせなかった。これも朔夜なりのもてなしなのだろう。茂雄もそれ以上は聞かないことにした。
 まもなく茂雄のいる居間に、料理を持った朔夜が入ってきた。ふたり分の食事を食卓に並べると、朔夜は大げさな仕草で自分の作った料理を説明し始める。唐揚げと思っていた料理はフリッターという代物らしい。朔夜はこういうよく聞いたことのないものが好きだ。そしてそれをうれしそうに茂雄に話す。
 やがて料理も食べ終わり、二人は居間でくつろぎ始める。だが、今日はこのままくつろぎ続けるわけにもいかなかった。あの男について朔夜に話をしなければいけない。
「朔夜、ちょっと大事な話があるんだ」
 茂雄は真剣なまなざしで言った。朔夜はちょっと考えた後、
「それは私に関すること? キミに関すること?」
と尋ね返す。
「一応は僕に関することかな」
「じゃあ私もある」
 茂雄は面食らってしまった。だが朔夜の目は真剣だった。
「ちょっと待ってて」
 と言い残し朔夜は去っていってしまった。朔夜も何か話があるらしい。それも茂雄に関して。
 朔夜はすぐに戻ってきた。その手には綺麗に包装された小包がある。その小包を茂雄に向かって差し出しながら、朔夜は屈託の無い笑みを見せた。
「ハッピーバースデー。誕生日おめでとう、茂雄くん」
 茂雄は状況がつかめないまま、間抜けな表情で朔夜を見上げていた。

 朔夜からのプレゼントはネックレスだった。中にリングが通してあるだけの非常にシンプルなもので、だからこそ朔夜のセンスが光る。リングは外せば指輪にもなるらしく、私は男避けに指輪として使うと朔夜は言った。朔夜はお揃いで自分の分も買ったらしかった。
「しかし、私が今まで誕生日プレゼントあげた人の中でもこんなにすごいリアクションを取った人は初めてよ。『え、今日って何日?』って。思わず吹き出しちゃった」
 朔夜はさっきから何回もその話をしている。茂雄の間が抜けた顔がよほどおかしかったらしい。
 茂雄は朔夜に言われるまで誕生日のことなどすっかり忘れていた。そもそも九月ももう半ばになるということを茂雄は全く気づいていなかったのだ。毎日自堕落な生活をしているとこうも日付感覚がなくなるらしい。秋休みもいつのまにやら後半戦だった。
 プレゼントは確かに嬉しかった。びっくりどっきりが基本の朔夜流もてなしは十分に功を奏していたと言えよう。だがプレゼントを貰うということへのくすぐったさと、朔夜とおそろいであることの気恥かしさに加えて、朔夜がやたらとからかってくるので茂雄は居心地が悪い。
 茂雄はもうふて寝を決め込もうと考え、部屋の隅で横になった。朔夜は冗談だよ、ごめんごめんと言いながらふて寝する茂雄のそばに近づく。だが、おおいと呼びかけてみても返事がない。しばらくゆすったり叩いたりしてみたが一向に反応がない。仕方がないので、朔夜は諦めてシャワーを浴びに立ち上がった。
 朔夜がシャワーを浴びる音が聞こえてくると、茂雄は眼を閉じたまま少し笑った。正直、女の子からプレゼントらしいプレゼントをもらったのは、今回が初めてだった。だから、どう反応すればよいか茂雄には全くわからなかった。素直に喜んで「ありがとう」などと言えるほど冷静ではいられなかったが、かといって何事もなかったかのようにあっさりとした態度でいることもできなかった。どうすればいいのか迷い続けたのち、結局茂雄はふて寝してしまったのだ。自分でも、もっと良い反応の仕方があったとは思う。でも、こんな形でも、朔夜にはちゃんと感謝の気持ちは伝わっているはずだ。そう思えるほどに、茂雄は朔夜を信頼していた。
 たとえ目を閉じていても、風呂場から聞こえるシャワーの音と、そこで朔夜が動いているガタガタという音を聞いているだけで、茂雄は朔夜の存在を感じられた。真っ暗な世界で、唯一聞こえてくるのは朔夜の音だけだ。もっとこのまま、こうしていたい。そんなありきたりな言葉が、茂雄の心に浮かんだ。

 そのまま少し眠ってしまったらしい。茂雄は、携帯の着信音で目を覚ました。起き上がって周りを見たが、朔夜はまだシャワーを浴びているようだった。着信音からして、電話が来たのは朔夜の携帯だった。朔夜のバッグの中を覗いてみると、その中で朔夜の白い携帯が、緑色の光を発しながら震えていた。その携帯を見つめながら、茂雄は自分の意識が徐々にはっきりしてくるのを感じた。それと同時に、忘れてはならない出来事を思い出した。
 携帯の着信音。あの男は一体誰なんだろう。
 しばらくすると着信も切れてしまった。茂雄はバッグから離れ、ベランダに向かった。今ではこのベランダは、茂雄の喫煙所になりつつある。朔夜は、部屋の中で煙草を吸われることを嫌う。茂雄も、朔夜の気持ちを無視してまで部屋で煙草を吸おうとは思わない。だから自然と、このベランダが茂雄の喫煙所になっていた。
 煙草を吸いながら、茂雄は男について考えていた。彼は俺に会いに来たのか。それとも朔夜に会いに来たのか。でももし仮に俺に会いに来たというなら、何も話しかけず去ってしまったのはどうしてなんだろう。
 そもそも、このマンションはオートロックである。鍵を持った人か、マンションの住民に鍵を開けてもらった人しか、玄関から中に入ってくることはできない。ではあの男は、どうやってそこの廊下までたどり着いたのか……。
 そんな疑問の中で、一番気にかかったのが、男の横を通り過ぎたときに感じた妙な懐かしさだった。彼はどこかで会ったことのある人物なのか。それとも俺が一方的に知ってるだけの相手なのか。
 とにかく、今度会ったときはきちんと顔を見てみよう。これまでの雰囲気からして、彼は突然襲い掛かってきたりはしないだろう。きっと大丈夫だ。
 そんなことを思っていると、朔夜がシャワーから出てきていた。ちょうど煙草も吸い終わった茂雄は、部屋の中に戻っていった。

 男は街を歩いていた。すれ違う人々はみな、彼が纏っている空気に並々ならぬものを感じ取っている。半ば本能的に、男と関わってはいけないと身体が理解し、彼とぶつからないよう大きく蛇行して道を歩いていく。そのため彼は、多少の人ごみでも真っ直ぐ歩いていくことができる。周りの人からそんな風な目で見られていることに気づいたのは、まだ彼が中学生の頃だった。
 男は、あてもなく歩いているわけではない。彼にも、行くべき場所があるのだ。そこには「みんな」がいるはずだ。この計画をともに進めている、「みんな」が。
 だがその前に、いくつか確認しておかなければならないことがある。男は街の中にある小さな公園のベンチに座り、携帯を取り出した。

「このマンションにさ、朔夜の昔からの知り合いとかって住んでる?」
 茂雄がそう聞くと、朔夜はあからさまに不審そうな表情をした。
「なに、突然。……別にいないけど」
 もしあの男が茂雄の知り合いだとしたら、中・高と学校が一緒だった朔夜の知り合いでもある可能性があるのではないか。そう考えた末の質問だった。
「そっか。なんかさ、最近よく見かける人がいるんだけど、その人が俺の知り合いかもしれなくて……」
 茂雄がそう言うと、朔夜は一瞬狼狽した表情を見せた。思いがけない場所で、思いがけない人物と出会ったときに人が見せる表情。だがそれもすぐに消え、朔夜の顔にはいつもの明るい笑みが戻っていた。
「気のせいでしょ。そんなの。あっ、それより、なんでネックレスつけてないの?」
 朔夜はそういうと、食卓の上に置いてあったネックレスを茂雄にかけ、満足そうにそれを見つめた。
「ずっとつけてて。外しちゃダメ」
 そんな朔夜の言葉に、茂雄はただ照れるように笑うだけだった。
 そのとき、再び朔夜の携帯が鳴った。
「あ、そういえば、さっきも鳴ってたよ」
 茂雄がそう言うと、朔夜はゆっくりとバッグの方へ歩いていった。携帯を取り出すと、朔夜は茂雄の方を見て「ちょっとごめん」と言った。
 何に謝られたのか分からないまま茂雄が頷くと、朔夜はベランダに出ていってしまった。先ほどまで茂雄が煙草を吸っていたその場所で、朔夜は電話に出た。そこでの会話は、中にいる茂雄には全く聞こえなかった。茂雄は、朔夜の存在が少し遠くなってしまったように感じた。
 どれくらい経っただろうか。茂雄はまた少し眠ってしまったらしい。携帯を閉じ、朔夜は戻ってきた。ベランダからさらさらと流れ込んだ秋の夜風と虫の声で茂雄は目を覚ました。朔夜の表情は、先程までと変わらないように思えた。いや、わずかに違っていたのかもしれないが、茂雄はそれに気付くほど朔夜を注視することはなかった。
「誰だったの」
 自然と口が動いた。
 朔夜はまたも狼狽の表情を見せたが、それを隠すようにベランダの方を向いてしまった。
「えっ、んー。バイトの先輩。シフト変わって欲しいんだって」
「ふーん」
「うん」
 当たり障りのない返答を、茂雄は少し残念に思った。不自然な間が微かにあったかもしれないが、自堕落な生活に慣れきっていた茂雄の思考回路は、一度眠りに落ちたことで、それ以上の穿鑿活動を断固拒否した。意識が遠のく中で、ベランダの窓ガラスに映る朔夜の表情を、茂雄は見た。見覚えのあるあの微笑みが浮かんでいたのだが、驚くほど別人のように感じられた。そしてどこか、懐かしさを覚えた。あの男に似た懐かしさ。ただ茂雄が寝ぼけていただけかも知れないが。
 
「私いまからバイトだけど」
 夕方のいつもの時間になって、朔夜は出かける準備を始めていた。
「なんの」
「今日も塾」
 と返答しながら、塾で働くにふさわしい地味さ加減のパンプスをすでに履いている。
「何時になる」
 茂雄は毎日同じ場所から、彼女をちょっと見上げる格好で、同じ質問を繰り返す。返ってくる答えもいつも同じだ。
「わかんない。ご飯食べてていいよ」
「作っとこうか」
「ご飯はうれしいんだけど、そろそろ部屋を片付けて欲しいんだな」
 茂雄の荷物が、部屋の一角にコロニーを形成しつつあった。
「わたしの洗濯物はそのままでいいから。帰ったら自分でやる」
 朔夜が出勤してしまうと、茂雄はネットサーフィンしていたマッキントッシュを閉じた。部屋の隅では、わずかばかりの教科書とプリントが層をなし、その上にたたんだ洗濯物が重なって、今にも雪崩が発生しそうだった。やれやれ。
 ため息をつきながらも、茂雄はすぐさま片付けに取りかかった。もともと家事と呼ばれる作業は嫌いではない。皿洗いにしても、アイロンがけにしても、雑然としたものがみるみる白くきれいになってゆく様を見るのは、昔から好きだった。淡々と整理し、棚に並べ、タンスへ収納する。しかし、その単純作業をしていた手がふいに止まった。今まで見たことのない、古いアルバムのようなものが出てきたのだ。
 朔夜が帰省した折りに持ち帰ったのだろうか。中を見るには、若干の躊躇があった。もう長いこと周囲から見れば同棲のようなことをしているが、人の部屋のものを勝手に物色するようで、気が引けたからだ。だがその躊躇もつかの間、次の瞬間にはボール紙の表紙をめくっていた。
 そこには、小学校一・二年生くらいの女の子と男の子が、見知らぬ校庭で遊んでいる写真が貼付けてあった。綺麗なえくぼの少女は鉄棒につかまりながら一輪車にまたがろうとし、少年は鉄棒に寄りかかって少女の方を向いているが、どこか虚空を見つめている。茂雄はどのどちらの子にも見覚えがあった。女の子はまぎれもなく朔夜で、男の子は他でもない茂雄本人だ。
 茂雄は立ちくらみがするのを感じてた。自分の記憶には、なにか大きなものが欠落している気がする。手が次々とアルバムのページをめくり出す。
 今の今まで忘れていたが、自分は確かに、小学校に入る前から朔夜と頻繁に遊んでいた。なのに、どうして小学校高学年に上がるころにはすっかり疎遠になってしまったのか。同じ中学・高校に通学していたときは、用事さえなければ、ほとんど口も聞かなくなってしまっていた。別々の小学校へ通っていても低学年のうちはいつも一緒だったのに。
 写真は懐かしい地元の風景をたくさん捉えていた。茂雄の小学校、朔夜の家の近くの公園、二人ともそんなに好きでもないのに繁く通っていた駄菓子屋。どれも、構図がいまいちだったり、傾いていたり、へたくそな写真ばかりだった。それでも、帰郷しなかった茂雄にはノスタルジアをかき立てる光景ばかりが続いている。だけど、なぜ両方とも大して好きでもない駄菓子屋へ、日々より道をしていたのだろう。どうしても思い出せない。どうしても思い出せないけれど、茂雄と朔夜をつなげる何かが、そこにいたんじゃないのか? 茂雄は、自分ら二人を撮っているへたくそなカメラマンが妙に気になった。
 携帯の振動音が響いた。朔夜が持って行き忘れたやつ。初秋にもかかわらず、茂雄は背筋が冷えるのを感じた。
 電話を取るべきか。そうすれば自分の中で渦巻いている疑問を解くことが出来る。茂雄には確信があった。この電話をかけているのは懐かしい感じのしたあの男。そして彼は自分と朔夜の間にいた「彼」だったと。この電話を取って、忘れてしまっていた過去を取り戻したい。
 そんな過去への欲求が一瞬にして閉ざされる。様々な光景が一瞬にして茂雄の脳内でフラッシュバックされた。電話が鳴った時よりも凄まじい寒気が茂雄を襲った。立っているのも困難になりその場に倒れこむ茂雄。
 耳に響く子供の泣き声。女の子の声だった。泣き声に混ざって名前らしきものも叫ばれている。一つは自分の名前。そしてもう一人、一緒にいた彼の名前。視界に入るのは地面、そして自分自身の手。その他いっさいの感覚は閉ざされてしまっている。もちろん身体を動かすことも出来ない。せめて手を延ばしてあげたかったのに。声をかけてあげたかったのに。だいじょうぶ、ボクはだいじょうぶだって。大すきなさくやがないてるのはいやだったから。でもむりだった。
 茂雄の意識はその瞬間途絶えた。
「出ないか……仕方ない」
 男が手に持っていた電話を切る。電話先に起きていることについて、彼には大体の想像が出来ていた。
「もしあの事を思い出すきっかけになったんだとすれば……少し急すぎるか……?」
 電話が終わっても、彼はしばらくその場にじっと立っていた。道の真ん中で電話をかけていたにもかかわらず、それを煙たがるものも注意する者もいない。道を歩く群衆が皆彼を避けて歩いているのだ。汚いものを避けるような動作ではない。そこに立っているのは「穢れ」――この世の理に外れたものであるかのような、たとえば死体を見た時の反応のような。現に一部の人間は彼のそばを通る際、苦しそうに口元を押さえながら通っていく。
「やれやれ……そんなに俺は気持ち悪いかねえ」
 彼自身も分かっていた。自分がこの世界にとっての異物、もはやあってはならない存在であることに。
「が、俺もまだ消えるわけにはいかないんだよな。あいつらがここで上手くやっていけるようになるのを、この目で見届けるまではさ!」
 その言葉は心の中に留めず、口に出していた。彼を避けながら歩いていた周囲の人間が飛び上がりそうなほどの大声で。それは、彼の世界に対する自分の意志の表出だった。自身のたった一人の妹、そしてずっとその横にいた、妹にとっても、彼自身にとってもかけ甲斐のない存在の幸福を守るという、彼を支えていた強い意志。

 ボクはずっと彼女を見てきた。学校に行く時も何処に行く時も、ずっと隣にいてくれて、ボクの手を引っ張ってくれていた彼女を。ボクの世界には彼女しかいない、彼女こそがボクの世界。だからあの日彼女の姿を失ったボクの世界は、空っぽになってしまっていた。

 目が覚めた時、最初に茂雄が目にしたのは天井だった。そしてすぐに寝室に敷かれた布団の上に寝ていて、毛布までかけられていることに気づく。起き上がろうとして、身体の上に重いものを感じた。重くて暖かい、朔夜の身体だった。茂雄の身体を枕にして眠ってしまっていたらしい。無防備な寝顔がすぐ目の前にあるという事実に、茂雄の鼓動は嫌でも高まってしまう。何とか彼女を起こさないように彼女の身体を横にずらし、茂雄は起き上がった。よく見てみると、朔夜の目は腫れあがったかのように真っ赤になっていた。バイトから帰ってきて、倒れこんでいる茂雄を見てどんな様子だったのか。いつものようにマイペースな調子で眠っている茂雄に布団を運んだんだろうか。それとも混乱の中全力を振り絞って茂雄を布団まで運んでくれたのだろうか。回想の中にいた女の子なら、多分後者なんだと思う。
 茂雄は思い出していた。幼いころ朔夜、そしてその兄である勢地郎(いちろう)と共にいた日々のことを。そして彼らと別れるきっかけとなった事件のことも。


 茂雄は窓を見遣った。二十日を過ぎて下弦になった月の光が、喫煙所を明るく照らし出していた。やれやれ、と茂雄は思った。ぜんたい、なぜ忘れていたか、なんて考えても仕方がないのだ。それは大事な思い出であったようにしか茂雄には思えなかったが、実際のところはどうでもよかったのだろう。だから今の今まで忘れていたのだ。どうせ今思い出したところで何も変わらないし、変えることもないだろう。
 茂雄は朔夜の頭を撫でた。髪の毛越しに仄かな温かさが伝わってくる。その柔らかさはまるで、この空の月に墨を流し込んでパンケーキの如く焼き上げたかのようで。明日は学校に行ってシラバスを貰いに行かなくては。いや、朔夜が貰ってきてくれたかもしれない。確認しなくては、そう思いつつ、茂雄は眠りについた。

 黒服の男は街灯の下で静かに佇んでいた。いつもは闇に溶け込んでいるその漆黒の外套は、青白く不謹慎な光に曝されて、その存在感を何時になく際立たせている。深く被った山高帽のひさしの陰になって、その顔はうかがい知ることはできない。頭のてっぺんから足のつま先まで全身を黒に染め上げた男の姿は、まるで誰かが影法師をそのまま置き忘れて、日が暮れてからひょっこり立ち上がったかのようだった。そしてそこには、その男自身の影はなかった。
 影法師から声が漏れ始めた。うめくような、静かな、しかし不快感を与えるような嗄れ声である。
 耳障りで目障りで肌触りで舌触りな影法師は言った。
「朔夜……。これで良かったんだな。誰も変わらず、誰も変えず……。奴をこのままにしておくこと、俺は得心したわけではない」
 虚空を睨む影法師は、いや虚空を睨んでいるかもわからないのだが、途端に砕けた口調になる。
「だが、他ならぬお前の頼みだ。お兄ちゃんは引いとこう。俺は、いや俺たちは帰るぞ。元のあるべき場所に……」
 ヒラリ、と音が付きそうなほどに身を翻した男は、頭だけをグルリと反対向きに曲げた。
「茂雄。一つだけ言ってやる。言い放ってやるぞ。耳かっぽじってその狭苦しい耳と心の穴をよっく広げとけ。いいか……」
 すう、どころか、ずどどどどどどどどどうと音がしそうなほどに身体を膨らませると男は絶叫した。
「俺の大事な朔夜ちゃんの心を奪いやがって許せん朔夜ちゃんは小さい頃から俺だけのものだったはずなのにどうしてこうなった何故だ? 服が黒すぎるのか? いやいやそんな事はないはずだあいつが幼稚園に入った歳に帰ってきた朔夜ちゃんはこういったんだ『私お兄ちゃんと――』」
 その後、都合一〇分ほど、そばの塀で丸まっていたブチ猫がその声に目覚め、恐れをなして逃げていってしまうぐらいに、誰も突っ込んでくれないのを良い事に言いたいことを言い尽くすと、男の身体はパッと、消えてしまったのだった。まるで、登る朝日の光線の中に溶けていってしまったかのように。
 
 後には白く丸く照らされた道が、翌朝の学生の登校を待っていた。もうすぐ、新学期が始まるのだ。

 5年後。

「おめでとうございます!」
「ありがとう。ここまで来るとは思ってもいなかったけど、人生ってわからないね」
 花束を持って部屋に入って来た大学のサークルの後輩達に向かって、朔夜は笑顔を見せた。
「え、でも就職したときにはもう秒読みって感じじゃありませんでした?」
「そうそう、すっごく仲良くて、一緒に住んでて、息もぴったりで」
「一緒に住んでたとは言っても成り行き任せだったし、彼がまた適当な人だからねえ。正直なところ、まだ実感がわかないぐらいなんだから」
「またまたー。そんな事言いながらおめでたなんですよね?」
「え、そうなんですか? 実感無いだなんて、すっかり夫婦じゃないですか」
 他人の事なのにわいわいとはしゃぎ出した二人を見て苦笑しながら、朔夜はお腹に手を添えた。
「ふふふ。どんな子が生まれるのかしら」
「朔夜さんに似た女の子ならいいですね。茂雄さんに似たら……」
「こら、そんなこと言わないの。全くデリカシーないんだから……」
「ふふ、でも彼には似ないと思うな」
「え? どうしてですか」
「だってこの子、彼の子じゃないから」
「……は?」
「言わなかったっけ? 彼とはまだしたことがないの。これは精子バンクから取り寄せた人の子」
「ど、どどどどうしてそんなことを?」
「だって『接触』は禁忌ワードじゃない」
「禁忌和……?」
「なんでもない、こっちの話」
 朔夜が慌てて取り繕うのを訝し気に聞いていると、茂雄の声が扉の向こうから聞こえた。
「朔夜ー。ネクタイ結べないんだけど、どうすればいいんだ? 助けて」
「ネクタイ? いつも会社行く時に結んでるじゃない。どうして今日に限って結べないの」
「いやあ、いつもと違うネクタイだからか、どうしても長さが異常に長くなっちゃって……」
「全く……、あの頃から変わらないね君は」
「あの頃って? 大学一年生のあの授業の日かい?」
 ドアを開けて茂雄が部屋に入ってくる。
「違うよ、もっと前。……そうか、大学で最初に再開したのはあの授業の時だったね」
「そういえば、あの時何か言われたよな……なんだっけ? 確か目がどうこうって」
 茂雄の声を朔夜は遮った。
「大したことじゃないよ。昔、君の瞳の不可思議さを指摘した人がいてね。それを再確認しただけだから」
「まあいいや。結ぶの手伝ってよ」
 茂雄がネクタイをぐいと差し出すのを見て、朔夜達は思わず顔を見合わせて笑った。
「はいはい」
「茂雄さんホントに社会人ですか? 何かまだ学生みたい」
「甘えんぼさんですね」
「あー。そうだねえ、僕はまだ子どもなのかもねえ」
 適当な返答を繰り返す茂雄に呆れつつ外を見やると、上から声が降ってくるような気がした。
「茂雄マジで俺の朔夜ちゃんを掠め取りやがってこのやろう」
「誰だったのよ、あんた」
 誰にともなく言い放つと、朔夜はカーテンを閉めた。
                 ―完―