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雑誌企画 無期限無責任連載 第5回「4つの特性(2)」

前号で、僕は自分の考える雑誌の4つの特性の内2つ、『第一人称』『自分事化』について述べた。



それらは、あくまでTVや新聞などのマスメディア媒体と比べた時の雑誌の特徴である。

各種書籍や、ネットでもブログという形で、これらの一連の作業は当然行われている。



それらと雑誌はどう違うんだろうか。



そこで、第三のキーワード『つまみ食い』である。






『つまみ食い』



これは、雑誌が有する更なる特徴を僕自身で喩えて言ったものである。



雑誌では様々な分野を扱う。

例えば、総合誌と言われる『AERA』『文藝春秋』という二大巨頭では、国内政治経済や国際情勢に始まり、スポーツや文学や娯楽に趣味、果ては性生活まで、様々な分野の記事が掲載されている。

ある種の分野に特化した専門誌を見ても、その特定分野の中での広がり方は一般書籍の比ではない。

日本有数の経済誌である『東洋経済』を見ても、経済分野の特集について規制緩和、金融、教育、IT、文化など多角的な切り口で分析しているのが分かる。



雑誌にはそれぞれコンセプトがある。

専門誌ならば当然その分野に特化して、総合誌でも出版社の主張傾向やターゲットとする読者層を考慮して、また同じ雑誌でも刊行号ごとに「○○特集」と称して全く違う分野を扱うなどして、である。そのコンセプトに沿った形で、各種情報の囲い込みがされている。

この限界性を規定するのは、先ほど上げた『自分事化』であると考える。

そこには、編集者と言う一人称の主体による主観的な価値判断がある。だからこそ、そこには特色が生まれるともいえる。




その囲い込みされた世界の中で、しかし雑誌は様々な分野を扱う。深く狭く掘り下げた内容を、読者の受容しやすい記事という形で紹介する。

それを、デパ地下の狭いながらも雑多な空間に様々並べられている無数の試食コーナーに喩えて、僕はこう呼んでいる。




書籍は、各章での色分けがあるとは言えど、文全体を通じて主張は一本槍にならざるを得ない傾向がある。雑多な内容を取り上げることで主張が見えなくなる。

ネット上に氾濫するブログも、有能なブロガーによって様々な分野を扱ったものが様々あると言えど、あくまで一つのブログは執筆者一人であり、その内容的広がりには限界がる。

しかし、雑誌は全記事を総括する編集者の下で、各記事にその分野に特化した執筆者がいて、それぞれの特色を出した記事を書く。





囲い込まれた多様性と言っても、一見不自由に見える。




が、実際はむしろ逆だ。囲い込まれないと、身動きが取れないのだ。




現に、運送手段発達による迅速な流通網の完備によって、世界中のありとあらゆる書籍が東京の本屋には並ぶようになった。

そして地球全体を覆う電子ネットワークが構築されつつある今のネット社会では、関連ワードを検索にかけると数十万という記事が検索数順にヒットする。

そこでは、何かを知りたいのに、何が重要で何が些末なのか、専門家でない限り(あるいは専門家ですら)分からない。売り上げ数や検索数で判断するしかない。

一つの分野ですら絞り込みが困難なのに、更にそこから関連する事柄を調べていくのは不可能に近い。何より、図書分類法やキーワードで検索された結果からは、その関連事項しかヒットしない。偶然の発見と言うものはますますあり得ない。




そこに、編集者の主観を以て情報の海の囲い込みを行い、同じ事柄を扱っていても様々な執筆者の記事を、或いは全く関係のない内容を取り扱った記事を、一つの雑誌にまとめ上げてしまう。

その中で読者の自由な選択に委ねる。その分野に精通しない人間でもある程度の範疇で無関係そうな記事の関連性を見出せるし、その分野に詳しい人間にとっては新たな関係性の再構築にもなり、そもそもそこに編集者が意図しなかったような全く偶然の出会いも生まれ得る。

テクスト論では既に書籍における読者の解釈についての議論もなされているが、それは単一の筆者が単一の書籍の中で取り上げた事柄に関する解釈性であり、そもそも異なる執筆者の記事が一堂に会することは想定されていない。





ある新しい世界へ踏み入れる、または今までいた世界を再構築し直す、そのための橋頭保の役割を、雑誌が果たすのだ。





『第一人称』による『自分事化』を通じた発信と、『つまみ食い』ともいうべき囲い込まれた中での広さ。前者が情報発信の切り口への見方であるのに対し、後者は記事内容の多様さへの見方であるが、いずれもそこには主観が入りこみ、更に多くの事柄を関連付けるという作業がそこには共通している。




そして関連付けられるという括りで、最後のキーワード『連続』が出てくる。






『連続』





雑誌という媒体は、大抵においては、定期不定期を問わず連続した刊行物である。

カストリ雑誌という言葉があるが、これは戦後乱造された粗悪なカストリ焼酎が三合も呑まずに酔いつぶれることから、3号も刊行せずに廃刊する泡沫雑誌のことを指す言葉である。これは逆に、雑誌というモノが大抵3号以上は発行するものだという前提があってこそ生まれる言葉でもある。



雑誌とは、バックナンバーを含めての巨大な情報の集合体である。年、月、或いは週ごとに刻一刻と変わる世相や流行を記事は反映するし、執筆陣や編集陣の変遷によって論調や内容に変化が現れるだろう。やがて歴史の蓄積となる。それらは国会図書館はじめ全国の図書館で閲覧することも出来るだろうし、各出版社や大学のオンラインデータベースで閲覧可能なものもある。




その蓄積とは、或いは伝統として、或いは権威として、或いは今までの論壇の証拠として、その雑誌に重くのしかかるものだ。




それは、一面では雑誌の硬直化を招くだろうが、一方でそれが社会への責任を生むものになる。ネット媒体のように、訂正した箇所を消去してあたかも最初からなかったかのようにすることは、不可能である。

そして、その連続した刊行の中で、連載として一つのトピックについて扱うことができるのも、雑誌が有する強みでもある。

定期刊行物でも、日々追加される新たなニュースに追われる新聞で一つのトピックを継続して取り扱うことは難しく、書籍はそもそも物理的にも単体の情報媒体として前後の関係性は薄い。この性質を生かした最たるものこそ、週刊連載の漫画雑誌とも言えよう。

この連続して物事を終えるという姿勢があったからこそ、雑誌報道とは他にない長期的な分析を掲載出来たり、あるいは長期的な取材からなるスクープをすっぱ抜いたりできるのではないだろうか。

その最たるものとして、立花隆氏の『田中角栄研究』が、あるのではないだろうか。







結局、雑誌とは「主体」による「関係構築」の媒体なのだ。



新聞やTVなどのマスメディアは(少なくとも表面上は)客観を是とし、また書籍やブログが一方的・一過的な著者の発信であるのに対し、雑誌とは編集者・執筆者の主観性(=『第一人称』『自分事化』)の下で連続的な関係性を構築し(=『連続』)、しかしそこには読者による無作為な関係性再構築の可能性も秘めている(=『つまみ食い』)。

雑誌とは、そういう媒体であり、それは今まで何物にも取って代わられることはなかったのだ。





その雑誌が、今、何故衰退しているのだろうか。




== 続く == (文責:田村修吾)