「雑誌」とはいったいどういう媒体なのか?
その問いについて、僕なりに約1年考えてみた。
書籍やウェブからの勉強、ディスカッション、実際に雑誌を制作する人への取材etc.を通して、出した答えは、4つのキーワードに収斂した。
それは、
『第一人称』
『自分事化』
『つまみ食い』
そして『連続』である。
これらについて、これから数回にわたって述べていこうと思う。
『第一人称』と『第三人称』
第一に『第一人称』とはどういうことか。
この考えの大筋は何も僕の独自のものではなく、前回に紹介した『雑誌よ甦れ』(晶文社 09年)という本によるものだ。
この言葉を説明する前に、これと遂になるものとして『第三人称』についての説明をしよう。
『第三人称』の媒体とは、「早く、正確に」を重視する媒体だ。
TVのニュースや新聞の記事を見れば、「いつwhen、どこでwhere、誰がwho、何をwhat、何故why、どのようにhow」の「5W1H」が重視されているのが一目瞭然だろう。
客観報道に徹し、TVリポーターや新聞記者の考えは極力見えないようにされるのが原則だ。
対して『第一人称』の媒体とは、「深く、的確に」を重視する媒体だ。
事実関係の速報は即時的な報道が可能なTVや新聞に任せ、その事実にどのような因果関係を見出せるのか、を重視する。
そこには、記事執筆者の主観が大きくかかわってくる。
同じ事件を取り扱っていても執筆者が違えば、その評価が全く異なることはよくあることだ。
ジャーナリズムとしてどちらが高尚でどちらが低俗であるか、という議論はそれぞれの長所を無視する行為だが、雑誌の『第一人称』的な語り口は他の報道媒体にないある特徴を有している。
それが、第二のキーワード『自分事化』だ。
『自分事化』
これもまた、他人の言葉を借りている。昨年、本ゼミの内藤が「GENERATION TIMES」誌の編集長伊藤剛氏に取材した際のルポで出てきた言葉だ。(立花ゼミHP『見聞伝』’ 09年 「伝えたい、見聞伝 『「自分事化」する』」)
ただあることをあるままに報道することは、報道の客観性を強調するあまり、かえって普通の読者にはその報道の意義を見出しにくくなっている。
「そういうことがあるのはニュースで知っている、けれどそれが社会や自分にどういう影響を与えるのか分からない」という声がそれだ。
その、社会にある無数の出来事の因果関係を、自分の経験や信条を以て結び付けていくのが『自分事化』だ。
ある出来事や問題を取り出す。自分の目から見てそれがどう映るのか、何故そう映るのか、あるいは、それが自分にとってはどういう影響があるのか……。
それらを筆者の主観を通して思考し、その思考の辿った道筋を読者に明示していく。それによって、読者にとっても、扱っているトピックが分かりやすくなる、というのだ。
『自分事化』を通して得た発想を『第一人称』で語る、この一連の流れは、歴史家の作業に似ている。
膨大に保存されている過去の記録や遺物をただ並べても、歴史の流れは分からない。
そこで、歴史家がそれらを関連付ける。自分の生きる時代や自らの価値観を物差しに、記録や遺物をつなぎ合わせ、そこに一つの流れ=史観を見出す。
その史観に従い、僕らは歴史全体を見通すことが出来る。
雑誌の執筆者・編集者は、世の中に溢れている無数の情報の中から、ある種の見方の下で情報をつなぎ合わせていく。
その見方は、「〇〇特集」という形になるだろう。
それによって、それらを普通の読者が世の中を関連付けて理解できるようになる。それが、雑誌にしかない強さだ。
この連載は、「僕」という『第一人称』が、いかに雑誌というものを自分の問題と認識したか=自分事化したか、という目線を貫いている。
僕が、雑誌を追及する上で、外せなかったところだ。
そうでなければ、雑誌じゃない。
だが、これだけじゃ、まだ雑誌じゃない。
次号で、残る二つの特性について述べることにする。
== 続く == (文責:田村修吾)