良い感じに更新が停滞してきたのでこんにちは。駒場祭の更新ラッシュを経て、しばらく更新を控えていたけれど、また見聞伝が静かになってきてしまったので、合間を縫って更新しようと思います。春の香りとともにこんにちは、BLレビューの時間です。
今年はじめてのBLレビューだし、春を告げるたけのこがしゅるりと生まれいでるように、ライトでかわいらしい作品を紹介しようと思う。
今回取り上げるのは小嶋ララ子先生の『花畑と別れ話』。
小嶋ララ子先生の特徴は何よりもかわいらしい絵柄である。
キャラクターはみな繊細な線でさっぱりと描かれていて、実線と背景の融け合う感じがすごく伝わってくる。目は小さい方ではなく、キャラによってはきらきらしてることもある。
背景はヴァリエーション豊かで、夏の話では強い光に照らされた黒々とした木陰を描き、つくばの田舎を舞台にするときは極力背景は空を中心に描くことで空間の広がりがうまく表現されている。作品の空気によって描き分けがはっきりしているといえよう。
背景に時折小花が散らされていて、これが小嶋先生の描くかわいらしいキャラクターにばっちり合っている。あくまでも小花なのだ。ディモルフォセカとかひまわりのような、大輪の花のような華やかさいうよりも、サクラソウとかビオラとかベゴニアのようなそれほど華やかではないけど、小さな花がパカッと花開くような可憐さがあるキャラクターなのだ。ほかにもかわいい動物が出てくることもあり(ロップイヤーのふわふわさがたまらない)、乙女チックで少女漫画的だ。
しかし、それでいて甘々な話ばかりというわけではなく、キャラクターは何かしらの影を心に持っていることが多く、その影が物語に立体感を与えている。
例えば『きみにうつる星』の沼尻は無邪気なおじいちゃん子のように描かれていながら、それは親子の確執ゆえだと読んでいくうちにわかり、それが主人公への思いに影響を与えている。甘々でファンシーな作品だと、このような描写が欠けがちなのだけど、小嶋先生はそこもきちんと描いていて、しかもその影もファンシーさで吹き飛ばしてしまうのではない。時には問題を解決しきらずに話の最後まで残し、きちんと重みを持たせているためファンシーでありながらリアリティがあると思う。
今回とりあげる『花畑と別れ話』はたくやとゆいじという二人の高校生の物語である。ゆいじは黒髪長身、スポーツも勉強もできてかつかっこいいというお約束なキャラクターとである一方で、たくやは授業もときおりサボってしまうちょっぴりやんちゃなキャラクターとして描かれている。
ゆいじとたくや、あき(何気にしたたかな感じもするがほんわか系の女の子)は仲の良い幼馴染でたくやは密かにあきに思いを寄せていた。しかしある日他校の先輩と付き合うとあきが言い出し、傷心のたくや。そんなときゆいじがたくやに告白をして…というストーリーで、たくや側の視点を中心に描かれている。
この作品でうえだが注目したポイントにたくやのちょっぴりやんちゃ感がある。この描写がすごくうまいのだ。たくやはもちろん金髪。現実の金髪高校生は大多数がちょっぴりやんちゃどころか相当やんちゃだと思うのだけど、そこはファンタジーなのであしからず。たくやは金髪だし口調も素朴とはいえない若者言葉をよく使っていて、授業をさぼる描写もある点で、やんちゃであることが伝わってくる。
しかしながら、まず表紙でたくやが持っているバッグに注目しよう。たくやのバッグにはかわいい熊のぬいぐるみがぶるさがっている。確かにこういうちっちゃいぬいぐるみをくっつけたバッグを持ってる男子高校生をたまに見かける。バッグにぬいぐるみをつけてしまう高校生の層としては、ちゃらめリア充、もしくはまだリア充ではないけど友達とよくゲームセンターとか行く友人とつるんでるくらいの層が考えられる。言うまでもなく真面目純朴系がぬいぐるみをつけるとは考えにくい(つけているならば乙女系だろう)。さらに注目すべき点はその数。つけているぬいぐるみの数は一個だけなのだ!ゴチャゴチャつけていないところがまた、金髪にはしてるけど普通の高校生なんだなぁという感じさせて、「ちょっぴり」度をいっそう増している。
もう一点付け加えると不良っぽくない行動様式をあげられる。いざ迫られると押しに弱かったり、ちっちゃい子供の扱いに慣れていたり、意外と気にしいだったり涙もろかったり。これは本当に不良系キャラの行動とはいえない。金髪と口調(ちょっとボキャブラリー貧困なところもまた示唆的)といったやんちゃさの象徴と、バッグのぬいぐるみやこれの行動様式が組み合わされることで、「ちょっぴり」やんちゃであるキャラが非常によく表されている。それにしても「ワルイコトシタイ」シリーズの永遠といい、「ひとりじめ」シリーズの勢多川といい、金髪ちょっぴりやんちゃ系はBL界ではやっているのだろうか…
この作品で一番萌えるのは、たくやが葛藤する姿だと思う。
ゆいじに告白され、それを受け止める事が出来ないたくやはゆいじから逃げ続ける。彼にとってゆいじは唯一無二の親友であり、一番幸せになってほしい人間だ。自分はあきの事が好きだけど、もしゆいじがあきのことが好きなら自分は喜んで二人の恋を応援するだろう、と言うくらいたくやはゆいじのことを親友だと思っている。たくやはモノローグでこう言う。
「ゆいじはいいやつだ 最高の友達だ大切な人だ 誰よりも あいつに幸せになってほしいと思えるくらい」
でも、ゆいじが好きになってしまったのは男である自分である。同性の自分とは一番幸せになってほしいはずのゆいじが幸せになれない。しかもたくやはあくまでもゆいじと友人でありたいと思っていた。これがたくやの心に引っかかる。その一方で、親友たるゆいじの幸せは、たくやが彼の告白を受け入れる事なのだ。
最終的にゆいじの言葉から彼の自分への思いの強さを自覚し、親友としてではない違う彼の側面を発見して、たくやは少し流されてしまう。だから、この時点ではまだたくやはゆいじに対する恋愛感情を完全には自覚していないと思う。でもゆいじに愛されることの安心感に気づき、同時に愛されることの重みも感じて、たくやはどんどんゆいじに惹かれて行くのだ。
たくやの思う「友達」をストレートに解釈すると以上のような解釈が可能だが、意味深長に解釈することもできるのではないか。
(以下筆者の純粋な妄想ですので軽く読み流してください)
たくやはこうもモノローグで言っている。
「俺はおまえと友達でいたかった 今までもこれからも大学に行っても社会人になっても一緒に 腐れ縁だと笑いながら互いの幸せを祈るような そんな友達でいたかった」
作中である言葉があからさまに過度に強調されていると、それは何らかの深い意味、乃至逆説的な論が展開されていると見るのが一般的である。なんかこの「友達」という言葉、やたら強調されてはいませんかね?筆者的にはストレートに読み取りたい気持ち半分ゆがんだ読みをしたい気持ち半分なのですが、先ほどの「ゆいじはいいやつだ?」の引用の続きが以下の通りなのだ。
「“好き”に応えられないなら断ればいいと ゆいじはそう言ってくれた だけどちがう 理由はわからないけど絶対にちがう」
そしてこう続ける。
「ゆいじ ゆいじ 俺 ほんとうは」
「ほんとうは」何なんですか!?この続きが気になりすぎてついつい筆に力がこもってしまう。この続きはいろいろと想像できるだろう。「ほんとうは好きだった」かもしれないし、「ほんとうはずっとおまえと友達でいたくて、これ断ったら友達でいられなくなっちゃうのがいやで」かもしれない。そのあと「俺はおまえと友達でいたかった?」とモノローグが続くし、後者のような感じもするけれど、どうなのだろう。
断れない理由は、もともとゆいじに告白の前から惹かれていたが、同性の自分には彼のことを幸せにできないからずっと抑圧して、友達でいればいいと思っていたのではないか。
たくやがゆいじの告白を受け入れたのち、「もうどうしようもないじゃないか」と思うくだりがある。それはゆいじに愛される喜びをしってしまい、もうお互いの幸せを願うと言う親友としての役割を果たせず、一人の人間としてゆいじを求めてしまうことにたいする葛藤ではないかと思う。このように読みとると、ゆいじの願いと自分の願い、というあくまでも個人的な願いの構図に、親友としての願いと一人の人間としての願いという関係を考慮した願いの構図が加わるのだ。
(妄想はまだまだ続きます)
ではなぜたくやはあきのことが好きだと思っていたのだろうか。これはゆいじに対する好意を抑圧し、「親友」として昇華することで、それ以外の恋愛対象を探そうとしていたのではないか(そう考えるとなぜたくやはあきに失恋した時あんなに泣いていたのかという問題が生じるのだけれど、それはゆいじに対する思いの抑圧と言うことで…)。
(妄想はまだまだ止まりません)
あきももしかしたらゆいじのことが好きだったんだけど、たくやの思いを察してあきは親友として二人の元から去ったのだろうか…本編にもあきが何らかの考えを持って二人の元を去った事を示唆する描写がある。ここまではさすがに考え過ぎだろうけど、この親友としての願いと一人の人間としての願いのはざまで悩む三人の構図は非常にうまい。
(妄想ここまで)
たくやのモノローグはごちゃごちゃしていて、結局どちらが正しいのかはっきりしないが、ここははっきりさせないでおいた方が粋な気がするし、人間の頭の中は理路整然としていなくてあたりまえだろう。
何よりこんなふうにごちゃごちゃな頭で悩んでいるたくやが年相応でかわいいと思う。ぜひストレートに幸せになってほしい所だけれど、悩んでこそ二人の関係の価値に気付くことができるからそうは問屋がおろさない。
葛藤といえばBLとは切っても切れない要素である。BLである時点で、同性愛そのものに対しての葛藤があり、これがBLで描かれる葛藤の中心だ。同性カップルに日本では社会的に保護されていないために、未だに社会的に好ましからざるものとして捉えられている。同性愛者であることを認めるべきなのか、認めてはならないのか、といった葛藤もあれば、同性の自分には相手を幸せにすることなんてできないのではないか、という葛藤もある。
BLで描かれる葛藤にはこの同性愛に関するもののみならず、一般的な恋愛に言える葛藤もある。例えばつり合わない関係に起因する葛藤や、はたして友人でありたいのか、それとも本当に相手のことが好きなのか、といった友人と恋人の間での葛藤、他にも経済的葛藤も描かれる。BLにしかできない表現として、これら一般的な葛藤に同性愛を原因とする葛藤が組み合わさったキャラクターの心情があげられる。同性愛という要素が加わることで、葛や藤のつるがもつれ絡むごとく、よりいっそうの悩みとなる。
『花畑と別れ話』のたくやの葛藤は同性であることと、親友であること、一番幸せになってほしい親友が同性である自分とは幸せになれないのではないかということでから始まる。ゆいじの告白を受け入れることで、この悩みを解決できたように見えるけど、結ばれた後もきっと愛される重みやあきへの嫉妬などで心を悩ませていくと思う。
こんなふうに悩むたくやを見ていると「うむ、悩みたまえ!若者よ!」と送り出したくなってしまう。小学生のころは「大人はいいなぁテストが無くて」と思ったものだけれど、歳をとると「いいねぇ、小学生は、悩みごとなく遊んでればいいんだし」、と思うことがしばしばある。これは、どんな歳でもその年相応の悩みがあるということなのだろう。小学生だって友達との関係や親との関係で悩まないことはないし、親に怒られるかもしれない要因であるテストは憂鬱の種かもしれない。そうはわかっていても、歳をとると子供たちに悩みがないように見える。これは、悩み事が歳をとればとるほど大きくなって、子供たちの悩みなど薄っぺらく感じるからではないか。だから残念ながら悩んでも悩んでも悩みは終わらない。
BLの登場人物もまた同じで、葛藤して受け入れてもまた不安になったりして、最後の最後まで悩み続ける。二人の親友のあきちゃんは作中「わかんないの 怖いの 恋って怖いの!」と涙をにじませて言うが、そういうことなのだろう(断定的でない所はお察しください)。それでも、悩みに自分なりの答えを見つけて行く主人公たちのプロセスがなんとなく他人事ではないような気がして(もちろん悩みの趣旨は全然違うけど)、しかも突破していく様子が爽快だったり、時にはうまくいかなかったりする。その登場人物の感情の起伏を読み取るのが楽しかったり、勇気づけられたりするから、私はBLを読み続けるのかもしれない。
『花畑と別れ話』はキュンキュンする上に登場人物もかわいらしくてBL入門にもおすすめですので、ぜひお買い求めください。
今年もボキャ貧おばかオーラがにじみ出る感想ですが、もりもり紹介していきたいと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いします。