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6. 大学の使命と教養学部の役割

オルテガの思想

「全高等教育の中核は教養教育」

  • 時代の全文化の伝達
  • 生をその全体性においてとらえる
  • 知の断片化から、知の精髄の総合へ

世界中で、大学というものを考えるときに一番いい本だとして高く評価されている、『大学の使命』という本がありまして、これはオルテガ・イ・ガセット(Jose Ortega y Gasset)というスペインの哲学者が書いたものです。この本は、「大学ってそもそも何なのか」ということを書いた本で、特に全共闘の時代には、バリケードの中にこもった学生たちが、「大学とはなんであってどうあるべきか」ということを、恐らく一番真剣に語り合っているわけです。その時に教科書的に皆が読んだのが、この本なのです。オルテガは、「全ての高等教育の中核は教養教育であるべきだ」といっているわけです。「教養教育の中身は、その時代の全文化を伝達することであって、同時にそれは(あらゆる意味の、現代社会の)生をその全体性において捉えることである。」と言っていて、そしてかつ、「現代社会におけるもっとも危機的な問題は、あらゆる知識が細分化・断片化して、あらゆる専門家が実は断片しか知らない、専門家が総合的にものを知らないことであるから、断片化した知を総合しなければならない。しかし知の世界は余りにも広がりすぎていて、その全てを総合するなど普通の人間には不可能であるから、エッセンスだけを総合化する。そういった方向に全ての高等教育が進まなければならないが、その中核は教養教育が担うべきである。」と彼は言っているわけです。実はこれと似たことは、フランシス・ベーコンが『ニューアトランティス』という一種のユートピア論の中で書いています。『ニューアトランティス』は、「伝説のアトランティスではない、新しいアトランティス=理想社会が遠い未来に生まれる」という発想の基に書かれた本です。現実の東大のような総合大学では一般に、教養の先生たちは位が低く、上のほうには専門の先生たちがいて、その人たちが大学全体を支配するみたいな構造が、ずっと続いています。しかしベーコンが書いた社会では、専門家とは細分化された非常に狭い分野を専門的に知っているだけで、現場の研究者でしかない。一方で各分野の専門の研究者が挙げた様々な成果を、総合する「コンパイラー」という役割の人間がいて、また別に専門の研究者の挙げた成果を、どう応用・利用するかを考える人たちがいる。そしてこれらの人々の上に立つ人間として、「自然の解釈者」という存在がいて、知の世界で一番偉い人間として尊敬されているのです。知の精髄の総合役として、「自然の解釈者」というものが出てくると言う構造になっているのです。言ってみれば、高等教育の中核を教養教育において、その水準を非常に高めたものが、知の世界で最高位に位置すべきだ、という風な構造になるのです。私の『東大生はバカになったか』の中でも、同じことを別の表現で書いています。教養教育というのは、本質的に非常に重要であって、個々の狭い、閉じた専門領域で偉そうな顔をしている大学教授よりも、教養学部の教養教育をやる人たちは、実は遥かに重要なことをやっているということになるわけです。じゃあ駒場の現状はというと、教授・学生・大学当局の三者が、それぞれの立場で、「大学とはどうあるべきか」について違うイメージを持っています。その為に、お互いの考えがすれ違っていて、それが困った状況を招いていると言うことを、学生が作ったこの資料を使って、学生に語ってもらいたいと思います。この資料、厚くて一挙には読めないと思いますが、「そもそも教養って何だ」と言うことを、いろいろな角度から考えた資料集の中身をまず学生自身に説明してもらって、そのあと特に東大の教養学部の制度の中で最大の問題点である「進振り」がどんなものでそれがどのような問題をもたらしているかについて、学生に語ってもらいたいと思います。