2. 「世界概論」
それで先ほど言いましたのが、語用論からする定義なんですが、僕は割とエッセンシャルな定義というのをすごくやってまして、この『東大生はバカになったか』という本は、サブタイトルが「知的亡国論+現代教養論」とあることでわかりますように、この本の前のほうはいろんな角度から書いた東大生論でして、その主要部分が、「東大生はバカになったか」というタイトル通りの文章があるんですが、その後ろがですね、「現代の教養──エピステーメーとテクネー」という形で、「現代において教養というのはそもそもどのようなものなのか」、それをずっと論じてあります。教養の中身を考えると、こういう角度から考えろとか、全体としてこういうものを考えろとか、こういう形でこの本は後半まるごと教養論そのものになってるわけです。それで細かい話っていうのはとてもできません。でも、教養論の相当部分っていうのは、実は人間学です。人間は基本的にどのような環境に置かれているのかとか、人間はどのように市民になっているのかとか、人間はどのような歴史をたどり、どのような広がりをもつ存在になったのか、人間は何を作り出してきたのかとか、そういう問いに対して、これだけのいろんな学問のカテゴリーがそれに対する答えとしてあって、これ全体を学んでいくというのが現代における教養という意味なんだと、そういう価値で論じてますので、知の世界全部をもし論じようとすればですね、とても時間が足りないというそういう感じになります。それで、今の本の後半のところに、まず教養っていうのはどういうふうに展開すべきかというそういう議論をやってまして、「世界概論」を設けようという、そういう提案をしてるんですね。それで次のような全体論を論じるのが世界概論と、そういう風に考えてくれればいいわけです。
- 自然・人間・社会
- 脳(マインド)・人工物
- 自然学・人間学・社会学・文明論
だから、理念としてはこういうことを全部知りたいわけです。人間がどういう環境に置かれているのかというと、物質科学の総体とか、地球科学の総体、生命科学の総体とかいうものを考えなければいけないんです。で、この人工物学というのは、一般の人はあまり知らないと思いますが、我々の周りにあるもの全て、例えば身に着けているもの、目に入るもの、はほとんど人工物なんです。もともとのナチュラルなものは、多少はあります。例えば空気自体は自然物ですけども、ですが、その辺にあるものは全て人工物なんです。人工物とはそもそもどういうもので、世界の総体の中でそれをどういう風に捉えて、考えなければいけないのかということについて、人工物工学という世界があります。その人工物工学という世界は、三代ぐらい前の東大の総長だった人が、世界の総体を捉えなおすというところから入り、東大の中に研究センターを一つ作って、構築されたんですね。僕はその総長の方となかなか親しくさせてもらってて、その考えというものになるほどなと思いました(編注:吉川弘之氏のこと。詳しくは東京大学人工物工学研究センターへ)。我々のこの時代以前に我々が接するものといえば全て自然物だったんです。ところが今や、我々の接するほとんどのものが、住む家から食べるものまで、全て人工物なんです。人工物というものが本質的にどういう性質を持っていて、それにどう対応していかなくければならないかという観点からこのチャートに取り出したんです。ここで、人間が何を作り出してきたかというと、人工物以外に頭の中で作り出してきたものが多いんです。人間が作り出したものとしての人工物の世界でして、そしてその制度もふくめて考えていかなえればならないんです。そしてこのチャート全体を捉えたときに、初めて我々を取り巻くこの世界全体が捉えられるようになるという角度から、このリストは書かれているんです。
先ほど言ったような、教養というものは世界概論を与えてそれを学ぶことだというものだとすると、そもそも世界概論とはどういうものかというのがこのリストです。ゴーギャンの非常に有名な絵がありまして、タイトルが「我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこに行くのか」というんですが、これこそが我々が世界を捉えて、かつ自分がどこにいて、この世界が自分にとって何なんだと考える時、誰もが思う非常に本質的な問いなんです。同じ問いをしたときに、どのような答えを得られるかがある意味で世界概論なんです。だから、世界概論の目的というのは、「我々がどこから来てどこに行くのか」ということなんです。我々が問うのは世界全体です。それはある意味で自己の定義づけと言うこともできる訳です。対象として捉える世界というのは、自然世界、人間世界、人間が作る社会という名の総体、それらが一つのユニバースとしてあるんです。次に人間の内部に目をやると、脳と言うものが、宇宙と同じくらいの壮大なユニバースに実はなっているんです。だから、ユニバースというのは普通、自然の世界の中の宇宙だと捉えられていますが、人間の中の脳そのものが生理学的にも凄いことになってまして、ユニバースとしか言いようがないことになっています。人間の頭の中にある思想、哲学、文学などというもの全てを含めて壮大なものがあって世界ができているんですね。それで、脳、あるいは脳の中のマインドというものがユニバースになっているし、人工物というのは我々を取り巻く全てのもので、また別の非常に大きなユニバースとしてあるわけです。その5つのユニバース全てを対象とするのが世界概論で、それを学問として語りだすと自然学、人間学、社会学、文明論と言う風に分けられます。その全体を使えるというのが教養の対象となるわけですね。世界概論の目標は自分の定義づけであって、それをどういうフェイズで捉えるかなんですが、ユニバースというものは人間の頭なんですね。人間の頭の中にある概念世界そのものを捉えるとい観点から世界を見ます。そしてリアルワールドというのは我々の知っているこの世界です。それと各人の頭の中の世界としての両方の角度から世界を見なければならないということです。その時、そもそもそういう世界がどのように構成されているか、という世界マップを描き、かつ一つ一つの世界を描くときにそれを分析していく、あるいは考えていく道具としての概念セットが存在するわけですね。そういうものを手引きとして学生に与えて、二つの層から世界を捉えるのが世界概論でして、全く別の表現をすれば、到達点とは、人類の遺産相続のための財産目録を受け取り、それに自分たちなりの新たな資産を付け加えてそれを次世代につなげていくと言うことなんです。人間は有史以来それを続けて来たわけです。私たちも財産を受け継いで、曲がりなりにも世界を動かしているわけですが、それを次世代、次世代へと繋げて行かなければならないわけです。そして、次の担い手がさらに次に繋げられるようにすることが、教養の本質であるというわけです。