3. 全国の教養教育の沿革
(先生のアンケートの回答が画面に)昔我々が学生だった頃は「学問と教養」という本でスタートしたわけです。こういった役割の本はいつの時代も必要なんです。この本から新入生は学問や教養についてイメージを持って、これから進んでいく世代をイメージするわけです。そして、このようなガイドブックが今の時代どうなっているかについて、ここに書いてあります。実はあることはあるんです。(本を書画カメラへ)この本は教養学部の先生が書いた、『教養のためのブックガイド』という本でして、我々の時代の学問と教養にほとんど近い内容になっています。この本を書いているのは、かつての『学問と教養』がそうであったように、いろんな分野の先生なんです。それで、先生方が自分の学問領域以外の、個人として学生に読ませたい本というものがずらっと書かれているんです。これが『学問と教養』の役割をほとんど果たしていると言ってもいいと思うんです。しかし、今の東大の学生のなかにこれを読んでいる学生は実はほとんどいません。これはこれからの話の中で、今の東大の学生の教養がどんどんなくなっているという話にも関係してきます。我々の頃は『学問と教養』は全員が買って全員が読んだんですね。今の学生ではほとんどいないでしょ?そしてさらに、良い本としては『東大教授が新入生にすすめる本』というタイトルの本です。1994年から毎年先生にアンケートを取って、それを東大出版会か何かのアンケートに載せて、それを集めたものなんです。この中では1500冊の本が紹介されているんです。『教養のためのブックガイド』が数百冊ですんで、情報量が圧倒的に多いです。なので、僕は『学問と教養』よりもこの二冊のほうがずっと中身は良いと思っています。だけど、東大のなかで「この本知ってる?」と聞いても知っている数は非常に少ないです。ましてこの本を買って手元に持っているひとはほとんどいないです。なので、如何に教養学部が危機的な状況にあるのかすぐに分かると思います。
次に教養学部の歴史を考えますと、中身は多くの転変を繰り返しています。
先ほどの『東大教師が新入生にすすめる本」の中身を見てください。これは一年ごとにまとめるという形になっていて、その年に東大教養学部にどういう変化があったか、ということも合わせて船曳先生が書いています。これを読むと東大教養学部の中身が年々どれほど変わってきたかがわかるわけです。1993年ころには、新制大学発足以来の大きな教養学部教育改革があったんです。それ以前は、一般教育という名の教師からの一方的な講義が一年通してあったんですが、この年から半年の講義に模様替えして、英語教育の中身も変えて、ベストセラーになった「知の技法」を教科書にした基礎演習の中身も新しく作って、というように大きく変えたんです。現在の制度については後で学生に詳しく解説してもらいますけど、教養学部のシラバスなんかを見るとよくわかります。もの凄く中身が充実しています。今日本中の大学の教養学部が危機的状況ですが、駒場(東京大学教養学部)だけは良い中身のまましっかり残っているわけです。それは何故かというと、全国の大学で教養教育を「教養学部」という学部を作ってやった国立大学は東大だけなんです。(編注:正しくは、埼玉大学教養学部も存在する。その下位分類である「大講座」には、文化環境/現代社会/哲学歴史/ヨーロッパ文化/アメリカ研究/日本・アジア文化 があり、東大とは構成が大きく異なっている。)私立大学では教養学部を持つ大学は他にあります。でもそれも極めて少ないです。「教養学部」という学部を作るかどうかというのが決定的な違いになるというのはどういうことかと言うと、一回学部を作るとその学部の中身、つまりどういう教授を入れて、どういうことを教えて、というカリキュラムから何から何まで、全ての決定権をその学部の教授会が持つことが出来るんです。ですから初期に作った教養学部という教養の体系が、新制大学の発足以来ずっと充実した形で残っているのは、日本の大学のなかでここだけなんです。他のところはどうだったかというと、「教養学部」というものは作らないで、「教養部」というものを作ったんです。教養部というのは、教養学部と違って自己決定権を持たないんです。多くの大学では学部を作るのではなく、色々な学部から教員などを寄せ集めて「教養部」を作って、それで教養教育をやったんです。教養学部を作った東大では、特にどういう先生が教養学部で教えるかということを自己決定してやってきたんです。そのおかげで残ったんです。他のところは、途中何度も何度も教育改革という改悪が行われる過程で、教養の授業は減らそうということが決まったりして、とにかくいろいろな制度改革の中で教養はガタガタになっています。その中で、強固な組織として残って中身もガッチリしているのは、ここだけなんです。日本の大学の教育水準が、グローバルスタンダードと比べてどういう水準にあるのかという議論が盛んに行われていまして、日本の大学の水準は世界的に見て、皆さんが想像しているよりずっと低いんです。東大ですら、世界で並べると、そんなに上位に行かないんです。基本的にどこが違うかというと、もちろん専門課程の違いもたくさんあるんですが、教養教育の水準が違いすぎるほど違うんです。日本では大学の本体は専門課程にあると考える人が多いですから、教養課程を重視していないんです。だから教養教育は全体としてガタガタになって、日本の大学を卒業した学生は無教養な連中ばかりになっている。じゃあ東大は、教養学部を残したから教養教育がちゃんとしてて、教養学部を出ると教養人になって専門課程に進むのかと言うと、全然そうではないという話がこのあと出てきます。
初期教養教育の構想は、南原さんと矢内原さんという二人の初期の総長が敷いた路線の上に出発しているんですが、『学問と教養』で矢内原さんは教養学部の教育について、三つの側面を指摘しています。専門課程に進む前に基礎教育を行うこと、いわゆる一般教養、それと二年間で若い世代の人間性・人格を陶冶すること、の三つです。一つ目の専門課程の準備教育は、ちゃんと続いてやっています。ただ学生の意識が専門の準備にばかり行って、せっかくカリキュラムが充実している一般教養に向かないという問題もあります。人間性・人格陶冶については、旧制高校の時代はわりとそういった側面があったんですが、新制大学になって減って来たわけです。長い歴史の中で、日本のカルチャーそのものが変化して、キャンパス内部のカルチャーはもの凄く変わっていくんです。人間性・人格陶冶という部分に関しては、ある時期から消えていきます。全共闘の時代に、大学の性格は大きく変わるんです。それで人間性・人格陶冶という側面はほとんど無くなります。矢内原さんは教養教育の目標として、「偽物と本物を見分ける力をつける」「問題を発見して解決するための着想力・直感を研ぎ澄ます」「人間としての気品を身につける」ということを挙げています。この「人間としての気品」というのが人間性・人格陶冶の話になるわけですが、これが今の教養教育では抜け落ちています。
もう一つ重要なのは、矢内原さんは「新制大学の理想から言えば四カ年の大学過程の全部にわたって専門科目と一般教養科目を並行して課することが望ましい」と語っているんです。本来は、4年にわたって教養も専門も少しずつやるのが良い、と言っています。しかし実際に始まった新制大学では、駒場と本郷という形で教養2年専門2年と区切られているんです。そしてその前半の2年に、専門の準備教育と一般教養が一緒になって入っているんです。これは便宜的にその時そうしたものが、ずっと続いてきてしまったんですが、その辺りにも問題があると言っているわけです。
それからもう一つ。(※『聞き書 南原繁回顧録』が会場のスクリーンに映る。)南原さんは、自分自身でこれ以外にものすごくちゃんとしたハードな本を書いているんですが、『回顧録』という形で出ているこの本の中では、新制大学をスタートさせる時に、どういう構想で新制大学を作るか、といったようなことがたくさん掲げられています。その「スタート」した頃の事情にも、ものすごく問題があるんです。
その中身をちょっとだけ挙げると、先ほどのスライドにもありましたが、基本的に南原さんがどういうことを考えていたかというと、戦前(大正時代)の教養教育のような、いわゆる「大正教養」ではない、新しい時代の教養を新制大学は学生に与えなくてはいけない、というふうに言っていまして、それは、市民としての教養である、ということなんです。戦前の「大正教養」はエリートのための教養である、と。これからはエリートのための教養ではなくて、市民としての教養を与えよう、というのが新しい大学の目標で、その中身はというと、一つは18世紀のイギリス型の紳士教育で、これはケンブリッジ大学やオックスフォード大学に範をとったような中身ということになります。イギリス型の紳士教育の要素は、どちらかというと、大幅な中身のズレがあるとはいえ、旧制高校に多少あったんです。ケンブリッジでもオックスフォードでも、皆が一堂に会して食事をするんですね。正餐、つまり正式に給仕も付けて、学生も教授も一緒に大テーブルを囲んで食事をし、給仕の人が料理を皿に盛っていく、というような、そんな場面から始まるような教育だったわけです。要するに、イギリスの紳士教育では、全寮制の制度を採って、生活全体がそういった社会のエリートたる紳士を育てるための教育になっている、という世界だったのです。そして、そういうものだけではなくて、その頃アメリカでは、新しい教養教育のイメージが、特に当時のハーバード大総長のリードで語られていまして、今現在アメリカの大学で行われている教育の基本スタイルがその時期にできたのです。