駒場祭の講義録
1. 教養の定義
皆さん資料をお持ちだと思いますが、これはものすごく内容の豊富な資料でして、今私がこの駒場で開いているゼミの学生が作りました。ものすごく内容が豊富ですから、そう簡単には読み切れませんけど、概略は学生が後から説明します。それで今日の話の内容は、「この東大教養学部というところでどんな教養教育をやっているのか」ということや、「そもそも教養教育とは何だ」ということを話したいと思います。また、日本の教養教育っていうのは、実は非常に深刻な破産状況にあるんですね。その破産状況のよって来たる所を考えると、戦後の新制大学制度そのもの、つまり6・3・3・4制の4の部分が戦後60年間でものすごく内容が変わってるんですね。どんどん中身的には相当悪い状態になっているので瀕死のリベラル・アーツと名付けたんです。そういう話の概論というのをこれからやっていこうと思います。
それで、そもそも教養とは何か、ということを考えなきゃいけないんですが、一般的にそういう物の定義を考えるときに、エッセンシャルな定義と、オペレーショナルな定義と、語用論からする定義とがあります。これはどういうことかというとですね、エッセンシャルな定義というのは、いわゆる本質論にわたる定義です。だから、教養っていうのはそもそも何なんだという、その本質を考えるというところからの定義ですね。それからオペレーショナルな定義というのは、何事にあれそれをどうやればどうなるみたいな、そういう操作的な概念としての定義でして、これは別の言い方をすれば、制度上教養というものはこの東大の教養学部でどのようなものだと位置付けられているか、ということです。ですから今日の資料で言うと、「現行のシステム」というところが2ページからありますが、そのあたりがオペレーショナルな定義になるわけです。東大の教養の場合、この資料の現行のシステムの後にですね、学生たちにいろいろアンケート調査をしたものと、それから先生に聞いたアンケートの内容というものがあります。その中で、繰り返し出てくる問題、つまり今の東大の教養で抱えている一番大きな問題というのは、進振り制度と呼ばれているものなんですね。で、進振りっていうのは、基本的にこの教養学部で2年間やったあとに、今度は本郷の専門課程に行くわけですね。そのときどの専門課程に行くかということは、実は入学した時はですね、大雑把には決まってますが、細かくは決まっていないんです。で、細かく決めるのを2年から3年になる時にやるわけです。それを進学振り分け、俗に進振りというわけです。で、その進振りの制度というのが、この駒場でものすごく大きな問題になっているというのを、あとで学生たちがこの「現行のシステム」について説明する中で、語ってくれることになると思います。
この資料の2ページ目というのは何かというと、この東大生に聞くいろいろな内容の後に、49ページから「教員に聞く」というページがあるんですが、そこで各先生方に聞いたのとだいたい同じ質問を僕に投げて、僕が答えたのがこれです。ここに書いてあるこの問いと答えですね、まさにこの答えが、先ほどの定義からいえば、語用論からする定義というのがあるといいましたけど、まさにそれです。その言葉はどのように使われているのかというところから、その言葉の本質を考えていくというのが、語用論からする定義でして、これは哲学の中で、日常言語学派といわれている大きな流れがあるわけですが、それの基本的な手法といいますか、ものの考え方です。要するに、何にあれ、それについて考えようとするときに、その言葉がその社会の中でどのように使われているかを考える。そうすると自然にその本質が見えてくるわけです。ということで、語用論からする定義というのは、実はものすごく重要なものを考えるときの手法でして、それをまさに適用したのがこれです。要するに教養という言葉がこの社会でどのように使われているかなんです。で、教養の本質を考え出すと、実はものすごく論者がたくさんいまして、みんな違うこと言ってます。なんか逆にいろんな人の言うことを聞いていると、わけがわからなくなってくるようなところがあるんですね。そうじゃなくて、じゃあ教養という言葉がそもそもこの社会の中でどのように使われているか、ということを考えると、たぶんこういうことが言えるはずなんです。「あいつは教養がある」っていうのは、なかなか定義できないんですが、「あいつは教養がない」というのは、すぐ誰でも直観的に使う使い方の言葉なわけですね。で、その時にそれはどのようなことを意味してるのかというところから教養というものを考えてみたものです。なので、少しシニカルな文章になっていますけど、語用論からする定義というのは以下のようなものですが、言葉の使い方というのは、他の人にもいろんな分析の仕方がありますから、別の説明も成り立つと思います。
立花隆が考える「教養」とはどういったものか。また、なぜ私たちには「教養」が必要なのか。
A.教養とは、他者があなたを判断するとき、それがないとバカにしたくなるような一連の知的属性。それがあるからといってリスペクトしてもらえるわけではないが、それがあればたいていの人から、こいつはいちおうつき合う(対等に言葉をかわす)価値があるとおもってもらえるだろうような知的属性。その内容として具体的に何をカウントするかについては、個々人の判断基準があり、それがあまりにちがうから、一概に論ずることはできない。教養を身につけるメリットは、標準的知的水準にある人々からバカにされず、いちおうの付き合いをしてもらえるということだ。別のいい方をすると、あなたが、教養がないと思う人間に対して、『お前ホントに教養がないやつだな』と平気でいえるようになれることにある。そこにメリットを感じない人には、特段努力して身につける必要があるというものでもない。ある程度の知的水準にある人は、成人するまで普通の社会生活(学校生活)を継続するだけで一定の教養は自然に身につく。また自分に圧倒的な自信がある人は、教養の必要性など特に気にせず、好きなように生きていけばよい。
これも(自らが答えたアンケートの答えを示しながら)さっきの東大の教員にいろいろ聞いた質問と同じ質問なんですが、東大に入るとまずこの『学問と教養』という本を読むのが義務付けられていたといいますか、そういうことになっていたわけです。それで今日持ってきましたのは、ここで紹介している『学問と教養』という本それ自体です。私が東大生だったのはもう何十年も前ですが、ある時までは東大生は入るとまずこの本を読まされたんです。それで、この本を読むことによって、「学問と教養っていうのは、あぁ、こういうことなのか」と、そういう理解を1年生は得たわけです。で、今この本は消えてます。消えてますけども、これは僕が持っていた本それ自体です。なので、すごく汚いんですけれども。これはですね、矢内原さんっていう、教養学部ができた時の最初の教養学部長がいるんですが、その後総長にもなった人です。で、この人が教養学部というのはどのような内容であるべきかというのをすごく考えるわけですね。あとその矢内原さんの前の総長が南原さんという人なんですが、この南原さんと矢内原さんというのが、最初に戦後の大学の出発点を築くわけです。で、その新制大学というのは彼らが考えた路線から流れ出しているんです。そもそも東京帝国大学に入る一番の近道というか、一番のメインストリームとしては、旧制一高という旧制高校があったわけですね。その旧制高校がこの東大教養学部になったわけです。で、それがあるときにすごく微妙に変化するところがありまして、そのあたりはまた後からしゃべりますけれども。でこの『学問と教養』の一番最初の文章が、矢内原さんの「学問と教養」というまさにそういう文章でして、この中でそもそも学問と教養というのはそもそもどういう風に考えればいいかというようなことが、いろいろ書いてあります。そのあたりはまたあとで話ししますけれども、我々はこの文章を読むところから東大の教養学部の学生の第一歩というのをはじめたわけですね。それで矢内原さんの頭の文章の後はですね、いろんな先生が自分の担当する学科についてずっと書いてくるその集大成みたいな、この本丸ごと一冊そういう本なんですが、これは各々の項目というのは、そのそれぞれの主任の先生がその学問の全体像というのをどのように考えていて、その学問の世界を学ぶためには何を読んだらいいかということを書いてるんです。いろんな先生がそういうことを次々書いていく。そしてこの全体を読むことを通じて、我々というかそのころの学生というのは、教養というイメージをつかんでいったんですね。
- 教養学部教育の三要素
- 専門課程の準備教育
- 一般教養
- 人間性(人格)陶冶
- 教養学部教育の三大目標
- 真と偽を見分ける力をつける
- 問題発見と問題解決のための直観を研ぎ澄ます
- 人間としての気品を身につける