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文学企画事始

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企画を立ち上げるに至ったそのきっかけについて、記事を書こうという話があった。せっかくなので、文学企画についても語ってみる。

ものすごく個人的な話である割に、やたら長い。でも分けて上げるのも面倒なので、一気に載せます。

 

中学に入学して最初にでた宿題は、作文だった。テーマは、将来の夢について。

私は、なにを今更、とばかりにさらさらと、3枚だか5枚だかの原稿用紙を埋めた。当然、冒頭はこうである。

「私の夢は、小説家になることです。」

夢、というより、予定、に近い感覚だった。私が作家を目指していることは、親戚中の知るところだったし、小学校の文集にもそう書いたし、本当、何度も言わせんなよという気持ちである。

しかし先生の対応は違った。初の個人面談で早速つっこまれた。他の友達は、みんな医者とか教師とか書いていたらしい。気の利いた子は弁護士と。

「小説家になりたいって、親御さんは反対しないの?」

私は驚いた。親? 反対? なぜ?小説家が不安定な「仕事」であろうことは分かっているつもりだったし、私の両親は揃って歯科医である。過疎の進む田舎町で、地元の人たちに頼られながら働く姿には憧れるし、村唯一の診療所を継ぐのも悪くないとは思う。

でも私は小説家になるのだ。親もそれを知っている。歯医者になれだとか理系に進めだとか、一切言われたことはない。6年生のときの担任だって、卒業式の日、「あなたの小説が本屋さんに並ぶ日を楽しみにしています」と送り出してくれた。

今まで誰にも疑われたことのない「夢」だったのだ。

新しい担任は、そのあと学校生活や学習態度等について一通り話題を消化したあと、笑顔でしめくくった。「これから、作家志望ですなんて言うと色々言われるかもしれないけど、先生は応援するから。夢は貫けよ」

それは、ひどく新鮮な励ましだった。

小説家とは、本来「色々言われる」ものなのか! 「二葉亭四迷」は現代でも充分ありうる話なのだと、初めて実感したのだった。

しかしそのあと、私は先生の言葉をあっさり裏切ることになる。

三年後、高校入学直後の個人面談。

中高一貫だったから、新担任といえども目慣れた顔である。加えて、耳慣れた質問。

「将来はどうするんだ」

私は、口慣れない答えを返す。

「まだ、わかりません」

高校生にもなって「作家になりたいです」はないだろうという照れ、そもそも才能云々の問題、ここでの「将来」とは結局進路指導に繋がるものであり小説家と答えたところで何の意味もないということ。

理由はいろいろあったが、多分その頃からだんだん、小説や本そのものに辟易するようにもなっていたのだと、思う。

きっかけは特にないけれど、作家になった自分、書店に並ぶ自分の本を想像しても、高揚より虚しさが先に立つようになった。要するに、文学企画が抱く問題意識である。

「こんなに本があふれていてどうするんだ」

大量の書籍の中に沈んでいく自分の著作、というイメージは、ある日食べていたポテチの袋と重なった。

丁寧に工夫されたデザイン。キャッチコピー。裏面の商品説明。豆知識コラム。原材料名。デキストリンとはじゃがいものでんぷんのことです。こういったすべてを、私はろくに読みもせず不燃ごみに捨てる。何しろパーティー開けをしたら、内側の銀色しか目に入らない。たまに暇つぶしがてら、流し読みすることはあっても、大抵次の日には忘れている。

もちろん、こういうパッケージと小説は目的が違うのだから、同じ土俵にあげるのはおかしな話だと思う。けれど、一ヶ月後には主人公の名前さえ思い出せない、そういう読書はどこかこれと似ている気がして、読み捨てられる本、むしろ「使い捨てられる」本、という意識が生まれた。

とはいえ相変わらず読書は続けていたし、使い捨てどころか何度も読み返した本だってある。高校の三年間で、好きな作家や作品も増えた。

しかし小説を書く気は、完全に失せた。幼き頃より小説家を志し、本当に実現するひとはほんの一握りしかいない……とはよく聞いていたが、私はここで脱落したわけである。よくここまで勘違いを維持できたなとも思うけど。

ただ、ゆえに、現役作家に対するお節介な興味は膨れていった。

「自分の本が埋もれていく( かもしれない) 虚しさって感じたことないですか」

 

このタイミングで立花ゼミと出会えたことは、幸運だったと思う。

その場のノリで提案した企画が、ちゃんと成立してるという現状にも、今更ながら感動する。ありがとうございます。

正直言って、着地点の見えにくい企画だ。作家や編集者に話を聞いたからって、何か変わるわけでも、納得できるわけでもないだろう。

でも、私がそれなりに悩んで諦めたものを、叶えているひとたちは(なりゆきでデビューした人もいるでしょうが)、何で諦めずに書き続けていられるのか、作り続けていられるのか。

まぁ詰まるところやっぱり、単なる私の個人的興味なわけだけれど、企画を進めていく上で得られるものは予想以上に多そうだ、とも感じている。何より、読書の口実ができるし。

使い捨てだなんだと言いながら、結局本が好きなのだ。

文学企画を通してなにがやりたいって、こんな時代だけど本を好きでいてもいいですよね、という再確認がしたいだけなのかもしれない、ですね。

 

と、センチメンタルな感じで終わるのは、もう朝の5時だからです。

知らない人は、覚えてね。

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たまには(というほど記事を書いているわけでもないですが)画像を載せてみようということで、撮ってみた。

自前の楽器です。ついこの間購入したばかり。

中古でかなりお買い得だったとはいえ、入学早々、親に多大な借金をすることになってしまいました。駒場を去るまでには完済したい。

 

それにしても、この楽器の存在・名前を知っているひとはどれくらいいるのでしょう。

 ご覧の通りの図体で(比較のためペットボトルを置いてみたのですが大した役割果たしてないですね)、大きい楽器というのは得てして知名度が低い。

私は中学からこの楽器と付き合っているけれど、「何を演奏してるの」との質問に「チューバです」と答えて良い反応が返ってきたことがありません。

絶対的に、飲み会での話題には向かない。

「あぁ、あのかたつむりみたいな楽器ね!」(ホルンです)だの「スライドさせるやつでしょ」(トロンボーンです)だのと勝手に納得し、話をつづけてくれる人がむしろ有り難いくらいのもんです。

 

せめてラピュタのパズー少年あたりが朝、屋根の上でチューバを吹く。

宮崎駿にそれくらいの気概があったなら、状況はだいぶ変わっていただろうになと、しょうもないことを考え、たくもなる無名ぶりなのです。

 

しかしながら、こいつがあらゆる場面で「ひどく目立つ」ことは間違いありません。

今私は某大学の某オーケストラ楽団に所属しており、練習のため週3で大隈さんのもとに通っていますが、駒東から最寄駅まで、乗り継ぎ2回、およそ40分の道のりを、こいつを背負って往復するのは、なかなかの苦行です。

一応デカさアピールをしておくと、高さは私の胸くらいまで。

重さは10キロ超だと聞いています。

体重計に乗せようにも乗らないから本当の数字は不明だけども。

いつか量るのが私の夢です。

 

それをリュック式のソフトケースに入れて、階段をのぼり、おり、人にぶつかり、謝り、ときどき改札にひっかかり、通行人に二度見され、「パパあれなに?」「うーん何だろうね楽器かな」「楽器?」「お姉ちゃんに直接聞いてごらん」「……。」「まったくこの子ってば人見知りなんだから」――核家族に会話のネタを提供したこともある(実話)。

反面、練習会場に着けばやたら優しくされます。

まずドアを自分で開けたことがない。それから道が勝手にひらける。

……もちろん楽器を持ってるとき限定です。

まさにチューバの威を借るモーセ。

 

そして見た目に限らず音もでかい。

私の耳は、都合よく低音をひろえるようカスタマイズされていますが、それにしてもチューバの音はよく響く。

よく響くように作られている上、よく響くように吹いているのだから当たり前なのだけれど、ステージを一本で制圧するその存在感、音色は、他の(知名度高い)楽器への妬みをぬきにしてもとても気持ちがいい。

逆に言えばそれがオケにおけるチューバの最大にして唯一の存在意義なのかもしれないけれど。

 

自虐はすなわち自己愛なので、私のチューバに対する愛情も尋常じゃないものなわけですが、しかし大学に入ってもチューバを続けようかどうか、迷っていた時期もありました。

 

まず私は、とりあえずオーケストラがやりたかった。

中高と吹奏楽部に所属し、高3の秋までみっちりこれを全うした身としては、「もう吹奏楽はいいや」という気持ちが大きかった。

吹奏楽も充分楽しいが、どうせならもっと歴史がある曲を、自分の身体で再生してみたかった。

母が地元のアマチュアオケでコントラバスを弾いているんですが、その影響も大きかったかもしれないです。

吹奏楽よりもずっと緻密なスコアを、私も読んでみたかった。

 しかしそうなると、チューバは捨てなければならない。

オーケストラにおいて、比較的新しい楽器であるチューバの需要は低く、サックスほどではないにしても、出番はあまり期待できない。

ベートーベンもブラームスもモーツァルトも、基本的にチューバはお呼びでないのです。

お呼びもなにも、その時代にはこの楽器が存在しないわけですが。

 

しかしそれじゃあオケを望む意味がない。

そういうわけで、新歓期私はコントラバス志望を称して東大内の各オーケストラ団体を渡り歩きました。

何でコントラバスなのかというと、ただ、音が低いから。

高音楽器はいろんな意味で私のキャパを超えています。

演奏聴くのは嫌いじゃないけど。

 

しかしなかなか「入りたい!」と思えるサークルがない。

途中面倒くさくなって、もう音楽はいいか、と思ったこともありました。

でもそのたびに蘇るのは、吹奏楽部時代のコンサート。

 

我が高校の吹奏楽部は笑っちゃうくらい弱小で、ほんとどうしようもない演奏しかできなかったんですが、文化祭なんかでは一丁前にステージに乗ってコンサートをやっていました。

私も曲の基部を支えるべく、一見初見でも吹けちゃいそうな単純な楽譜を追う。吹く。テンポの定まらない指揮者を仰ぐ。吹く。吹く。あ、間違えた、け、ど、誰も気づくまいチューバだし。吹く。吹く。そうこうしているうちに、だんだん「夢中」になってゆく。

夢中になっていた、と悟るのはコンサートがすべて終わったあとで、はっと穴から這い出したような、世界が開けたような気分になってやっと、今まで狭いところにいたのだと知る。

もちろん演奏中だって、ちゃんと意識はあるわけだし、曲に関係ない思考も働いてるし、何の違和感もなく呼吸しているつもりなのですが、何故か終わると「夢中」から醒める。

醒めると途端に寂しくなって、また練習頑張っちゃおうかなという気にさせられるのです。

 

あの演奏中にみる夢はいったい何なのか、別に科学的に解明したいとは思わないものの、とりあえず一回見るとまた見たくなるということだけは確かで、新歓イベントに食傷気味の私でも、この記憶だけは忘れられませんでした。

それが音楽を捨てられない唯一の理由だったわけです。

 

……と、やっと、入りたいサークルがなくて云々の話に戻るわけですが、まぁそういうわけで、「東大に入りたい楽団がないなら外行きゃいいじゃん」と。

オケの場合、新歓期を逃すと練習の面でも周りに馴染みづらくなるゆえ、慣れないMacで急いで他大のオーケストラ団体を検索。そして現在があるわけです。

 

なぜコントラバスじゃなくチューバを続けているのかというと、たまたまそのオケがチュビストを絶賛募集中だったから。

そして私が先輩のチューバに惚れてしまったから、です。

中高時代の部活については、いつかまた記事を書こうかなと思いますが、私は6年間、パート直属の先輩を持ったことがありません。

つまりチューバを教えてくれる人、見本となってくれる人が一切いなかった。

すべてそのせいにしてはいけないと思うけど、実際今の私の奏法はめちゃくちゃな自己流で、呼吸法もまったくなっていません。

しかしその先輩は、私と数えるほどしか年違わないのに、近くで聴いても遠くで聴いても嬉しくなるほど美しい、一瞬で「ああなりたい」と思ってしまうような魅力をもったおとを出す。

例え出番が少なくても、「運命」など舞台袖で見学してるしかないとしても、あんな人の下で吹けるなら我慢しよう。

まぁ「新世界」にくらいはコミットできるんだし。

私も大概単純です。

 

 ……人との出会いは人生を変えるのだ、という自明のことを、あえてこんだけの行数使って示してみるのもありかな、という話でした。

 

相変わらず尻切れとんぼですが、何日も前から書いては下書き保存していたものが、いちおう形になったので良しとします。

 

伝えたかったことはひとつ。

この楽器はチューバ(TUBA)です。

コンパでこの名前が出たら、積極的に絡んであげてください。

好き好き大好き超愛してる。

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英訳タイトルは、「Love  Love you Love I Love you!」。

 

アマゾンブックレビューによれば、このタイトルが良いのだそうだ。

私も、これ自体に対してはさほど拒否反応はないですが、小説の中身と突き合わせたときに、「なぜ敢えてこのタイトルにしたのか」。

作品のもつ雰囲気とタイトルとの乖離を感じた。

 

さて、明日(今日かー)の予習のために、数日前明け方までかかって読了しました。

基本的に、激しく遅読です。

書くのも遅い歩くのも食べるのも遅いですが。

標準的な夜ご飯は、ほっとくと2時間かかります。人生損してると、自分でも思う。

 

それにしても、500円か。

率直な感想です。

私の4時間を返せとは言わないけれども、500円あれば食堂で一食たべられる。

この本をお昼ごはんには代えられないなーと思う私は、スレてるのか、モノが分かっていないのか。

軒並み好評価を下す世間とのギャップに苦しみます。

これこそ、何度も読めば価値が分かる、の、だろうか。

「新しい」ってそういうこと?

聞くところによると、世に言う「セカチュー」へのアンチテーゼだという説もあるらしいですが。

 

しかし、今日企画メンバーと話した限りでは、満場一致で疑問符。

とりあえず明日、この本を推薦したという文芸サークルとサシで話がしてみたい。

皮肉ではなく。

私には読み取れなかった行間があるのかもしれない。広かったしね、実際!  

 

というわけなので、詳しい感想や疑問(アダムとイブとミスターシスターが一冊に同居してる意味はなんだ、等)は置いておきます。

私が書いてもろくな言葉にならない気がする。

文芸サークルの方々と話をしてなにか開眼したところがあれば、改めて読み直した上で「ぼくほん」に投じるかなー。

 

では贈賞式の報告などは、また後日掲示板にでも。

目下の悩みは、服装をどうするか。貧相なクローゼットが悔やまれる。

徒然なるままに、ひぐらしマックに向かひて。

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一昨日昨日と、中高時代の友人が泊まりに来た。

 

ただのクラスメイトではない。

6年間を一緒の下宿でひとつ屋根の下、しかもそのうち3年は同室で過ごした、場合によっては家族より濃い付き合いの友達です。

 

 2月下旬にまったく同じ試験を受けて、結果いま、私はこのゼミに所属し、彼女はお茶の水にある某「学校」で来年に向けて準備をしている。

申請した類の数字が少し若かったばっかりに、、、とは彼女は絶対言わない。

そういうところに憧れます。

 

お互い置かれた立場は違っても、しょっちゅう電話で喋っていたせいで、せっかく3ヶ月ぶりに会ったのにあんまり報告しあうネタもなくて、会話も終始、さして盛り上がらず。

よく言えばいつも通り。

 しまいには、サッカー中継が始まったのをきっかけに完全に無言となり、俄ナショナリスト化する感じが嫌いではないけど趣味でもない私はPCに逃げ、いったい彼女は何をしにやってきたのか分からない状況になった。

彼女にとってはいい息抜きになったのかもしれないから、いいんだけど。

 

思えば、下宿ではテレビなんて無いも同然の生活を送っていた。

母屋(私たち下宿生の居住空間は別棟にあった)のリビングにはちゃんとテレビが据わっていて、ご飯を食べながら見ることはできた(食事は毎回母屋の食卓に赴いて摂る)けれど、慣習的に見ないのがあたりまえだった。

どうしても気になる番組があるときはおばさん(大家さん)に頼んで見せてもらうのだが、いったんテレビをつけると、その番組には興味がないはずの下宿生たちもそっちに惹きつけられて、ご飯をほっといて画面の前に集合し、いつも結局「ALWAYS 三丁目の夕日」みたいになっていた。

番組はなんでもいい。テレビがついてることが珍しかったのだ。

 

よく、テレビは食卓の会話を殺すというけれど、あんまりにテレビが珍しいと、まったく逆のことが起きる。

みんなテンションが上がって、いちいち番組やCMに対してコメントをつける。

そのコメントに誰かがコメントする。それにまたコメントをする。

一人暮らしのいま、あれはなんて賑やかなテレビ「鑑賞会」だったんだろうと懐かしく思い出されます。

 

もうとりあえず、この下宿に関しては、誰に馬鹿にされようとも、私は「最高の毎日だった」と断言する。

ただの感傷だろと言われても、あそこでの生活を知らないあなたは可哀相ですねと返したい。

最寄の商店は徒歩30分、携帯もときどき圏外のあほみたいな田舎には、空気と星空ぐらいしか取り柄がなくて、私たちの最大の娯楽は庭に寝転がっての流星観測かお月見か。

あるいは夜通しの大富豪。正月が近づけば百人一首。

 

そんな「いかにも」な青春が、いまの私を作っている。

 

電波の届かない環境は、私にたくさんの暇を与えてくれた。

書く暇、読む暇、考える暇、そして何より喋る暇。

中高の6年間、下宿で何やってたかって、喋ってました。

食事もテレビ鑑賞も星空観察もトランプも、ぜんぶ会話を伴っていた。

同級生と。先輩と。後輩と。おばさんと。おばさんの友達と。

 

今日遊びに来たという例の友達とだって、下宿時代には、くだらんことも真面目なことも、意味もなくさんざん色んな話をした。

隣にいてもお互いまったく無言だったこともたくさんあったけれども、それでも毎日まいにち喋っていた。

 

昨日だって、実際サッカー見て「会話レス」だった時間の倍くらいは、喋っている。

彼女が話すその大部分は冗談めかした愚痴だったけれども。

 

去年とまったく同じことをやっているという虚しさ。とは、彼女はやっぱり絶対言わない。

3ヶ月前から全然ぶれてないんだなと思うと、少し切ない。

その愚痴に、私は自慢で返す。

大学生は、やりようによっては激しく楽しいんですよ私は楽しい、と嫌みなくらいアピールする。

どうやったって来年は受かってほしいと思う我が侭が、許される相手であると思うから。

 

彼女とは、来年受かったら、流行りのルームシェアを約束している。

下宿の後輩には、どれだけ一緒に暮らしたら気が済むんだと笑われているが、東京の家賃は馬鹿にできない。東京の孤独も馬鹿にできない。

これは一人暮らしを始めて痛感したことですが。

 

うーん、日にちを置いてちょこちょこ書いてたせいもあってなんだか話が錯綜、結局何が言いたかったのかわからんな。

何が言いたかったわけでもないけど。

要するに、近くで頑張っている友人をおもうと、私もいい加減な大学生はやってられないなと思う。と、そういうことです。

 

こういうのは綺麗事かもしれないけれど、綺麗なものの何が悪い。

 

今日は独りでテレビです。

ぼくらはこんな本を読んでいる。

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ぼくほん企画に、微力ながら参戦。

随分久しぶり(というか2回目)の投稿ですが、これからはできるだけガンガン書いていきたい。です。

 

ごく最近読んだ本といえば、恩田陸「Q&A」。

物語がすべて質疑応答(Q&A)だけで進んでいくという手法は、いかにも恩田陸っぽくて面白い。(話が進むにつれてだんだん、ただの会話になっていってるような感じもしましたが……。)

題材も、巨大ショッピングモールで起きた謎の大事件。淡々と語られる「群集」の恐怖には思わず背中が寒くなるし、読みながら延々、現代文明のもろさ、しょうもなさを考えさせられました。

ヒトはほんとうにホモ・サピエンスと言えるのか。

 

ただ、後半はちょっと微妙だったかなーなんて。

巨大ショッピングモールで起きた謎の大事件、って筋からどんどんずれってって、結局真相も闇につつまれたまま。宗教団体のくだりで幕切れ、っていうのはどうなのでしょう。

事件をもやもやなまま終わらせたのには意味があるとしても、あの宗教団体にそこまで固執する必要があったのか。

同じ恩田陸で、この「Q&A」と似たような手法の作品に「ドミノ」という小説がありますが、私としてはそっちのほうが断然良かったと思う。個人的には、本屋大賞の「夜のピクニック」よりも好きです。

 

 

さて。

 

高3のときは忙しさを口実に、あんまり読書もしていなかったので(かといって勉強してたわけでもないけど)、これからは乱読に走るぞー。

 

――これが私の入学当初の宣言だったわけですが、大学生になったらなったで色々大変で、実際そんなに読めてない。言い訳ですけど。時間はつくるものだそうですから。

しかし有り難くも文学企画が始動しはじめて、企画の名に恥じないためにも、「とにかく読まなきゃいけない」状況に追い込まれている(というほどでもないですか)最近。

昨日は、生協書籍部にてプチ・大人買い。入学祝の図書カード大活躍です。

6000円以上分の本(しかもほぼ全部文庫)を自転車に乗せて帰る快感は、幼い頃、妹をひきつれて近所の本屋に出向き、欲しかったシリーズ全10巻をまとめ買いしたときのそれにちょっと似ていました。貯金はたいちゃったぜーっていう心許ないすがすがしさ。妹の不安げなまなざしに、自信をもって応える自分。

酔ってる。イタい。

感じっていうのは、生の豊かさにつながる。って説を、ここでささやかに主張してみます。

 

というのは、どうでもよくて。

とにかく積読(つんどく、で変換したら一発で出た。すごい!)しないためにも、ばんばん消化してゆかなければ(まさにここに、文学企画のいだく問題意識の根があるという指摘はおいておいて)。

目下の的は舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」。

私の信じる山田詠美氏が芥川賞選考で褒めちぎってた小説だけに、タイトルにひるむことなく真剣にお相手したいところです。

今夜中には読み終わるかな。

自称自己紹介

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お昼休みも終わりに近づいた頃、3限の英語一列の教室に向かおうとしていた私に、出来たばかりの友達が一言。

「私もう帰るね」

……サボりを公言しなくてもいいのに。

あぁでも、そっか、もう5月か、と納得していると、周りもわらわら帰宅モード。黄金モード。

例の病も集団感染するんだなーこっちの方がよっぽど被害甚大だ……なんて。

普通に休講だったってオチなんですけど。

 

で、6限ゼミの私は、これから5時間も空き。

部屋に帰って掃除をするか。駒場図書館を探検するか。情報教育棟に籠るか。

結局渋谷まで出て、時間をつぶしました。

つぶし切れず、献血ルームに呼び込まれました。

でも諸事情により血は献げることなく、おいしいお菓子とジュースとポケットティッシュだけごっそり貰ってお役御免でした。

なんか善行を積んだ気になりました。

しかしそれじゃさすがに申し訳ない。

次こそはちゃんと血液引き換えにしなきゃ。

一応希少なAB型だと自負しています。つまり需要も希少なわけですが。

 

そんなこんなで駒場情報教育棟に舞い戻り、今があります。

 

で、本題。

今日までの宿題:自己紹介を簡単に。期限ギリギリですみません。

 

廣安 ゆきみ

文科三類1年 広島出身

とりあえずは、文学企画(仮)と、民放パロディに参加したいなと思ってます。

でも面白そうな企画ばっかりなので、他のにもちょいちょい顔を出せれば……。

 

文学企画ということで、それ関連の話を少し。

好きな作家はたくさんいますが、現役で書いてらっしゃる方では、とりあえず山田詠美。と言いつつ、有名な「僕は勉強ができない」はほとんど読んだことがないです(センター過去問採用部分だけ)。

故人では、中島敦。

詩人ですが中原中也も好きです(若い証拠ですかね)。

この二人については全集買っちゃうくらい入れ込んでます。 …好きな作品等について語るのは、面倒くさいことになるんでやめておきます。

あ、でも一緒に語って下さる方がいらっしゃったら(もちろん上に挙げた作家以外でも)、ぜひ文学企画へ笑。

 

ということで、前置き以上に中身なくってごめんなさい。

でもこれから、いろんな人と直接、いろんな話ができたらなと思っています。

よろしくお願いします。

Hello world!

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