Dialog In the Dark

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寝起きがわるい。

大学生になってからはいくらか改善もされたつもりだが、高校までは、本当にうつらうつらしながら登校していた。

うとうと歩く。まぶたはほとんど閉じている、もはや完全に閉じている、でも目をつむった状態で、10歩と歩くことはできなかった。5歩も行くと目を開ける。変わらずのびるアスファルトは乾いていて、端に映るは広がる稲穂、ほっとしてまたうとうとする、5歩。ちゃんと働いていない頭でも、「見えない」恐怖はボケることがない。

 

真っ暗闇と聞いて浮かぶのは、たとえばそうやって毎日繰り返した遅刻譚である。

 

あるいは楽器の基礎練習、金属と空気の塊を抱えこんでロングトーン、B♭ーHーCー……勝手に目が閉じてくる。

見ることは疲れる。

いっぺんにたくさんのものを受け入れすぎる視覚をひとたび封ずれば、音は俄然立ち上がり、輪郭をもつ。

音感もないくせに陶酔じみて半音階を往復するのが、たまに友人の苦笑を呼ぶのはさすがに恥ずかしいのだけど、目を閉じたときの敏感、安心感もまた、私にとっての暗闇の姿だ。

 

高校のときのマラソン大会でも、しんどくなったらいつも目を閉じて走っていた。途端に、楽になるから。ただし、やはり、ちょっと進むたびに目を開けて、位置を確認していたけども。

 

 

前置きが無駄に肥大するのはいつものことですが、とりあえず私にとって暗闇は恐怖であり安心であり、ではじゃあDIDに放り込まれたらどちらの気持ちが先に立つのか。

事前ブレストではそんなことを考えていたわけだが、実際は、まぁ、どちらでもなかった。

 

というかそもそも、「目を閉じる」ことと「目に何も映らない」こととは全く別物だったのである。

簡単に言えば、前者の世界は狭い。後者の世界は広いのだ。

 

 

はじめ暗闇に突き出されたときは、とにかく恐怖と不安だった。歩けって、どこへ。ここってどこだ。

ぐるぐるバット(俗称?)した後みたいに世界が一回ぐるりと前転する、「暗闇酔い」にも襲われたそもそもそんなもの初めて体験した)。

私は独りここに立ちすくみ、置いていかれ、情けない形でつまみだされることになるのではないか。アスレチック公園で、高い遊具にのぼったはいいが降りられない、絶望に似ていた。とにかく人の手が欲しかった。

 

しかしひとたび「要領」がつかめてくると、あとは寧ろ楽しくなってくる。

要領というのはつまり、「見えてくれば」ということだ。あたりが。

 

DIDの闇の中に、私は確かにブランコを見、砂場を見、川を見、カフェテーブルを見、ていた。

他の参加者も言っているけれど、私は例えばあの時座ったテーブルの形、大きさ、材質、すべて「覚えている」。唯一色だけは、どれもセピアがかってはっきりしないのだが、それ以外は語れるし、絵に描ける。

それは完全に私の過去の経験とイメージが妄想した結果、を残りの四感が補強し信憑性を与えたもの、にすぎないのだが、お陰で私は暗闇と対峙することを避けられていた。

加えて信頼に足る仲間(ゼミ生に限らず)がすかさず手を取ってくれる位置におり、アテンドの方は終始冗談めかした口調で我々をいざなってくれる。

こうなるともう、90分間は完全にアトラクションと化す。

私がここで何をしようとも踊り狂おうとも周りにはほとんど気づかれないのだという開放感、ときどき蹴つまづき手が虚空を掻く失敗さえも、暗闇を魅力的に演出し始める。

 

暗闇の中では、自己がひどくくっきり認識されるのではないかとか、心音がよく聞こえたりするのではとか、事前ブレストでは挙げていたのだが、私はむしろ、他人との距離の方に意識が行った。

8人のグループの中にはゼミ生以外も混じっていたのだけど、彼らに対して妙に馴れ馴れしい気持ちになった。平気でべたべた触れたし(触らざるを得なかったにしても)、飲み物食べ物もシェアしていたし。DIDという特殊な環境にあって気分が高揚していたからなのか、どうせ誰にも何も見えていないという思いが気を大きくしたのか。

しかし暗闇から出たあとに突如湧いた気恥ずかしさやよそよそしさには、なにか寂しいものがあった。

そういえば、闇の中ではまったく対等に思えたアテンドの方が、明かりの下に座った途端「あぁこの人、目が見えないんだ」と実感されたのも、やはり同じく寂しかった。

 

そんな風に、DIDが終わってから体感、気づかされたことは色々あって、もうこれ以上羅列しても散漫さが増すだけなので止めますが、それでも最後に記しておきたいのは、暗闇の中では、視覚以外が敏感になっていたというよりは、普段目が見えていればそこで他の四感を遮断して済ませてしまうことが多いのが、「きちんと他に機能の機会を与えられていた」感覚であったということ。

加えて、あたまの中では言葉がわんわん響いていて、いつもより自分の思考を頼りにしていた気がする。流れゆく思考の片々が、いちいち拾いあげられ日の目をみていた。

 

視覚はしばしば思考を圧倒する。

そういえば以前ゼミ生の間で夜景に対する議論が盛り上がったことがあったが、無思考的に眺められる「きれいな景色」は確かに、デートに有用かもしれない。

 

 

さて、こうもつらつら言葉が出てくるほどには、DIDは確かに貴重な体験だった。是非友達にも奨めたいし、コースが模様替えするならもう一度訪れたいとも思う。

しかし結局あそこで私が見た暗闇は、きっと目が見えない人たちが見ている暗闇は、全然違うのだろう。

 

我々は、帰るべき光の世界を確信していた。

周りのみんなも自分と同じように見えていないのだ、という安心があった。

そして、(先天的障害をお持ちの方と比較すれば)私は、世界を光の下に見ることを知っているのである。

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