Archive for June, 2009

知らない人は、覚えてね。

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たまには(というほど記事を書いているわけでもないですが)画像を載せてみようということで、撮ってみた。

自前の楽器です。ついこの間購入したばかり。

中古でかなりお買い得だったとはいえ、入学早々、親に多大な借金をすることになってしまいました。駒場を去るまでには完済したい。

 

それにしても、この楽器の存在・名前を知っているひとはどれくらいいるのでしょう。

 ご覧の通りの図体で(比較のためペットボトルを置いてみたのですが大した役割果たしてないですね)、大きい楽器というのは得てして知名度が低い。

私は中学からこの楽器と付き合っているけれど、「何を演奏してるの」との質問に「チューバです」と答えて良い反応が返ってきたことがありません。

絶対的に、飲み会での話題には向かない。

「あぁ、あのかたつむりみたいな楽器ね!」(ホルンです)だの「スライドさせるやつでしょ」(トロンボーンです)だのと勝手に納得し、話をつづけてくれる人がむしろ有り難いくらいのもんです。

 

せめてラピュタのパズー少年あたりが朝、屋根の上でチューバを吹く。

宮崎駿にそれくらいの気概があったなら、状況はだいぶ変わっていただろうになと、しょうもないことを考え、たくもなる無名ぶりなのです。

 

しかしながら、こいつがあらゆる場面で「ひどく目立つ」ことは間違いありません。

今私は某大学の某オーケストラ楽団に所属しており、練習のため週3で大隈さんのもとに通っていますが、駒東から最寄駅まで、乗り継ぎ2回、およそ40分の道のりを、こいつを背負って往復するのは、なかなかの苦行です。

一応デカさアピールをしておくと、高さは私の胸くらいまで。

重さは10キロ超だと聞いています。

体重計に乗せようにも乗らないから本当の数字は不明だけども。

いつか量るのが私の夢です。

 

それをリュック式のソフトケースに入れて、階段をのぼり、おり、人にぶつかり、謝り、ときどき改札にひっかかり、通行人に二度見され、「パパあれなに?」「うーん何だろうね楽器かな」「楽器?」「お姉ちゃんに直接聞いてごらん」「……。」「まったくこの子ってば人見知りなんだから」――核家族に会話のネタを提供したこともある(実話)。

反面、練習会場に着けばやたら優しくされます。

まずドアを自分で開けたことがない。それから道が勝手にひらける。

……もちろん楽器を持ってるとき限定です。

まさにチューバの威を借るモーセ。

 

そして見た目に限らず音もでかい。

私の耳は、都合よく低音をひろえるようカスタマイズされていますが、それにしてもチューバの音はよく響く。

よく響くように作られている上、よく響くように吹いているのだから当たり前なのだけれど、ステージを一本で制圧するその存在感、音色は、他の(知名度高い)楽器への妬みをぬきにしてもとても気持ちがいい。

逆に言えばそれがオケにおけるチューバの最大にして唯一の存在意義なのかもしれないけれど。

 

自虐はすなわち自己愛なので、私のチューバに対する愛情も尋常じゃないものなわけですが、しかし大学に入ってもチューバを続けようかどうか、迷っていた時期もありました。

 

まず私は、とりあえずオーケストラがやりたかった。

中高と吹奏楽部に所属し、高3の秋までみっちりこれを全うした身としては、「もう吹奏楽はいいや」という気持ちが大きかった。

吹奏楽も充分楽しいが、どうせならもっと歴史がある曲を、自分の身体で再生してみたかった。

母が地元のアマチュアオケでコントラバスを弾いているんですが、その影響も大きかったかもしれないです。

吹奏楽よりもずっと緻密なスコアを、私も読んでみたかった。

 しかしそうなると、チューバは捨てなければならない。

オーケストラにおいて、比較的新しい楽器であるチューバの需要は低く、サックスほどではないにしても、出番はあまり期待できない。

ベートーベンもブラームスもモーツァルトも、基本的にチューバはお呼びでないのです。

お呼びもなにも、その時代にはこの楽器が存在しないわけですが。

 

しかしそれじゃあオケを望む意味がない。

そういうわけで、新歓期私はコントラバス志望を称して東大内の各オーケストラ団体を渡り歩きました。

何でコントラバスなのかというと、ただ、音が低いから。

高音楽器はいろんな意味で私のキャパを超えています。

演奏聴くのは嫌いじゃないけど。

 

しかしなかなか「入りたい!」と思えるサークルがない。

途中面倒くさくなって、もう音楽はいいか、と思ったこともありました。

でもそのたびに蘇るのは、吹奏楽部時代のコンサート。

 

我が高校の吹奏楽部は笑っちゃうくらい弱小で、ほんとどうしようもない演奏しかできなかったんですが、文化祭なんかでは一丁前にステージに乗ってコンサートをやっていました。

私も曲の基部を支えるべく、一見初見でも吹けちゃいそうな単純な楽譜を追う。吹く。テンポの定まらない指揮者を仰ぐ。吹く。吹く。あ、間違えた、け、ど、誰も気づくまいチューバだし。吹く。吹く。そうこうしているうちに、だんだん「夢中」になってゆく。

夢中になっていた、と悟るのはコンサートがすべて終わったあとで、はっと穴から這い出したような、世界が開けたような気分になってやっと、今まで狭いところにいたのだと知る。

もちろん演奏中だって、ちゃんと意識はあるわけだし、曲に関係ない思考も働いてるし、何の違和感もなく呼吸しているつもりなのですが、何故か終わると「夢中」から醒める。

醒めると途端に寂しくなって、また練習頑張っちゃおうかなという気にさせられるのです。

 

あの演奏中にみる夢はいったい何なのか、別に科学的に解明したいとは思わないものの、とりあえず一回見るとまた見たくなるということだけは確かで、新歓イベントに食傷気味の私でも、この記憶だけは忘れられませんでした。

それが音楽を捨てられない唯一の理由だったわけです。

 

……と、やっと、入りたいサークルがなくて云々の話に戻るわけですが、まぁそういうわけで、「東大に入りたい楽団がないなら外行きゃいいじゃん」と。

オケの場合、新歓期を逃すと練習の面でも周りに馴染みづらくなるゆえ、慣れないMacで急いで他大のオーケストラ団体を検索。そして現在があるわけです。

 

なぜコントラバスじゃなくチューバを続けているのかというと、たまたまそのオケがチュビストを絶賛募集中だったから。

そして私が先輩のチューバに惚れてしまったから、です。

中高時代の部活については、いつかまた記事を書こうかなと思いますが、私は6年間、パート直属の先輩を持ったことがありません。

つまりチューバを教えてくれる人、見本となってくれる人が一切いなかった。

すべてそのせいにしてはいけないと思うけど、実際今の私の奏法はめちゃくちゃな自己流で、呼吸法もまったくなっていません。

しかしその先輩は、私と数えるほどしか年違わないのに、近くで聴いても遠くで聴いても嬉しくなるほど美しい、一瞬で「ああなりたい」と思ってしまうような魅力をもったおとを出す。

例え出番が少なくても、「運命」など舞台袖で見学してるしかないとしても、あんな人の下で吹けるなら我慢しよう。

まぁ「新世界」にくらいはコミットできるんだし。

私も大概単純です。

 

 ……人との出会いは人生を変えるのだ、という自明のことを、あえてこんだけの行数使って示してみるのもありかな、という話でした。

 

相変わらず尻切れとんぼですが、何日も前から書いては下書き保存していたものが、いちおう形になったので良しとします。

 

伝えたかったことはひとつ。

この楽器はチューバ(TUBA)です。

コンパでこの名前が出たら、積極的に絡んであげてください。

好き好き大好き超愛してる。

2 Comments

英訳タイトルは、「Love  Love you Love I Love you!」。

 

アマゾンブックレビューによれば、このタイトルが良いのだそうだ。

私も、これ自体に対してはさほど拒否反応はないですが、小説の中身と突き合わせたときに、「なぜ敢えてこのタイトルにしたのか」。

作品のもつ雰囲気とタイトルとの乖離を感じた。

 

さて、明日(今日かー)の予習のために、数日前明け方までかかって読了しました。

基本的に、激しく遅読です。

書くのも遅い歩くのも食べるのも遅いですが。

標準的な夜ご飯は、ほっとくと2時間かかります。人生損してると、自分でも思う。

 

それにしても、500円か。

率直な感想です。

私の4時間を返せとは言わないけれども、500円あれば食堂で一食たべられる。

この本をお昼ごはんには代えられないなーと思う私は、スレてるのか、モノが分かっていないのか。

軒並み好評価を下す世間とのギャップに苦しみます。

これこそ、何度も読めば価値が分かる、の、だろうか。

「新しい」ってそういうこと?

聞くところによると、世に言う「セカチュー」へのアンチテーゼだという説もあるらしいですが。

 

しかし、今日企画メンバーと話した限りでは、満場一致で疑問符。

とりあえず明日、この本を推薦したという文芸サークルとサシで話がしてみたい。

皮肉ではなく。

私には読み取れなかった行間があるのかもしれない。広かったしね、実際!  

 

というわけなので、詳しい感想や疑問(アダムとイブとミスターシスターが一冊に同居してる意味はなんだ、等)は置いておきます。

私が書いてもろくな言葉にならない気がする。

文芸サークルの方々と話をしてなにか開眼したところがあれば、改めて読み直した上で「ぼくほん」に投じるかなー。

 

では贈賞式の報告などは、また後日掲示板にでも。

目下の悩みは、服装をどうするか。貧相なクローゼットが悔やまれる。

徒然なるままに、ひぐらしマックに向かひて。

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一昨日昨日と、中高時代の友人が泊まりに来た。

 

ただのクラスメイトではない。

6年間を一緒の下宿でひとつ屋根の下、しかもそのうち3年は同室で過ごした、場合によっては家族より濃い付き合いの友達です。

 

 2月下旬にまったく同じ試験を受けて、結果いま、私はこのゼミに所属し、彼女はお茶の水にある某「学校」で来年に向けて準備をしている。

申請した類の数字が少し若かったばっかりに、、、とは彼女は絶対言わない。

そういうところに憧れます。

 

お互い置かれた立場は違っても、しょっちゅう電話で喋っていたせいで、せっかく3ヶ月ぶりに会ったのにあんまり報告しあうネタもなくて、会話も終始、さして盛り上がらず。

よく言えばいつも通り。

 しまいには、サッカー中継が始まったのをきっかけに完全に無言となり、俄ナショナリスト化する感じが嫌いではないけど趣味でもない私はPCに逃げ、いったい彼女は何をしにやってきたのか分からない状況になった。

彼女にとってはいい息抜きになったのかもしれないから、いいんだけど。

 

思えば、下宿ではテレビなんて無いも同然の生活を送っていた。

母屋(私たち下宿生の居住空間は別棟にあった)のリビングにはちゃんとテレビが据わっていて、ご飯を食べながら見ることはできた(食事は毎回母屋の食卓に赴いて摂る)けれど、慣習的に見ないのがあたりまえだった。

どうしても気になる番組があるときはおばさん(大家さん)に頼んで見せてもらうのだが、いったんテレビをつけると、その番組には興味がないはずの下宿生たちもそっちに惹きつけられて、ご飯をほっといて画面の前に集合し、いつも結局「ALWAYS 三丁目の夕日」みたいになっていた。

番組はなんでもいい。テレビがついてることが珍しかったのだ。

 

よく、テレビは食卓の会話を殺すというけれど、あんまりにテレビが珍しいと、まったく逆のことが起きる。

みんなテンションが上がって、いちいち番組やCMに対してコメントをつける。

そのコメントに誰かがコメントする。それにまたコメントをする。

一人暮らしのいま、あれはなんて賑やかなテレビ「鑑賞会」だったんだろうと懐かしく思い出されます。

 

もうとりあえず、この下宿に関しては、誰に馬鹿にされようとも、私は「最高の毎日だった」と断言する。

ただの感傷だろと言われても、あそこでの生活を知らないあなたは可哀相ですねと返したい。

最寄の商店は徒歩30分、携帯もときどき圏外のあほみたいな田舎には、空気と星空ぐらいしか取り柄がなくて、私たちの最大の娯楽は庭に寝転がっての流星観測かお月見か。

あるいは夜通しの大富豪。正月が近づけば百人一首。

 

そんな「いかにも」な青春が、いまの私を作っている。

 

電波の届かない環境は、私にたくさんの暇を与えてくれた。

書く暇、読む暇、考える暇、そして何より喋る暇。

中高の6年間、下宿で何やってたかって、喋ってました。

食事もテレビ鑑賞も星空観察もトランプも、ぜんぶ会話を伴っていた。

同級生と。先輩と。後輩と。おばさんと。おばさんの友達と。

 

今日遊びに来たという例の友達とだって、下宿時代には、くだらんことも真面目なことも、意味もなくさんざん色んな話をした。

隣にいてもお互いまったく無言だったこともたくさんあったけれども、それでも毎日まいにち喋っていた。

 

昨日だって、実際サッカー見て「会話レス」だった時間の倍くらいは、喋っている。

彼女が話すその大部分は冗談めかした愚痴だったけれども。

 

去年とまったく同じことをやっているという虚しさ。とは、彼女はやっぱり絶対言わない。

3ヶ月前から全然ぶれてないんだなと思うと、少し切ない。

その愚痴に、私は自慢で返す。

大学生は、やりようによっては激しく楽しいんですよ私は楽しい、と嫌みなくらいアピールする。

どうやったって来年は受かってほしいと思う我が侭が、許される相手であると思うから。

 

彼女とは、来年受かったら、流行りのルームシェアを約束している。

下宿の後輩には、どれだけ一緒に暮らしたら気が済むんだと笑われているが、東京の家賃は馬鹿にできない。東京の孤独も馬鹿にできない。

これは一人暮らしを始めて痛感したことですが。

 

うーん、日にちを置いてちょこちょこ書いてたせいもあってなんだか話が錯綜、結局何が言いたかったのかわからんな。

何が言いたかったわけでもないけど。

要するに、近くで頑張っている友人をおもうと、私もいい加減な大学生はやってられないなと思う。と、そういうことです。

 

こういうのは綺麗事かもしれないけれど、綺麗なものの何が悪い。

 

今日は独りでテレビです。

ぼくらはこんな本を読んでいる。

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ぼくほん企画に、微力ながら参戦。

随分久しぶり(というか2回目)の投稿ですが、これからはできるだけガンガン書いていきたい。です。

 

ごく最近読んだ本といえば、恩田陸「Q&A」。

物語がすべて質疑応答(Q&A)だけで進んでいくという手法は、いかにも恩田陸っぽくて面白い。(話が進むにつれてだんだん、ただの会話になっていってるような感じもしましたが……。)

題材も、巨大ショッピングモールで起きた謎の大事件。淡々と語られる「群集」の恐怖には思わず背中が寒くなるし、読みながら延々、現代文明のもろさ、しょうもなさを考えさせられました。

ヒトはほんとうにホモ・サピエンスと言えるのか。

 

ただ、後半はちょっと微妙だったかなーなんて。

巨大ショッピングモールで起きた謎の大事件、って筋からどんどんずれってって、結局真相も闇につつまれたまま。宗教団体のくだりで幕切れ、っていうのはどうなのでしょう。

事件をもやもやなまま終わらせたのには意味があるとしても、あの宗教団体にそこまで固執する必要があったのか。

同じ恩田陸で、この「Q&A」と似たような手法の作品に「ドミノ」という小説がありますが、私としてはそっちのほうが断然良かったと思う。個人的には、本屋大賞の「夜のピクニック」よりも好きです。

 

 

さて。

 

高3のときは忙しさを口実に、あんまり読書もしていなかったので(かといって勉強してたわけでもないけど)、これからは乱読に走るぞー。

 

――これが私の入学当初の宣言だったわけですが、大学生になったらなったで色々大変で、実際そんなに読めてない。言い訳ですけど。時間はつくるものだそうですから。

しかし有り難くも文学企画が始動しはじめて、企画の名に恥じないためにも、「とにかく読まなきゃいけない」状況に追い込まれている(というほどでもないですか)最近。

昨日は、生協書籍部にてプチ・大人買い。入学祝の図書カード大活躍です。

6000円以上分の本(しかもほぼ全部文庫)を自転車に乗せて帰る快感は、幼い頃、妹をひきつれて近所の本屋に出向き、欲しかったシリーズ全10巻をまとめ買いしたときのそれにちょっと似ていました。貯金はたいちゃったぜーっていう心許ないすがすがしさ。妹の不安げなまなざしに、自信をもって応える自分。

酔ってる。イタい。

感じっていうのは、生の豊かさにつながる。って説を、ここでささやかに主張してみます。

 

というのは、どうでもよくて。

とにかく積読(つんどく、で変換したら一発で出た。すごい!)しないためにも、ばんばん消化してゆかなければ(まさにここに、文学企画のいだく問題意識の根があるという指摘はおいておいて)。

目下の的は舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」。

私の信じる山田詠美氏が芥川賞選考で褒めちぎってた小説だけに、タイトルにひるむことなく真剣にお相手したいところです。

今夜中には読み終わるかな。