三鷹寮でのアンケート結果を簡単にまとめてみたい。
2010年度駒場祭特設ページ
見聞伝を雑誌にする!?
東大生は金持ち。東大に入れるのは金持ちの子供。 マスメディアの情報などを見ていると、そんなイメージが生まれてくる。東京大学は日本で最も入るのが難しい大学のひとつであることは事実であり、そのために、幼少からの英才教育と言わないまでも、有名私立中高一貫校に入る、有名塾・予備校に通うなどの潤沢な「投資」が東大合格には必要だというステレオタイプである。 実際のところ、東大生からしたらそんなものは嘘っぱちだ!なんてことはいえない。全学規模で行われている学生生活実態調査によれば、東大生の親の年収は平均で1017万円(2007年度版。以下同じ)である。また、出身の学校は私立中高一貫校が51.4%なのに対して、公立高校は34.5%である。つまり、東大生の親は金持ちで、私立中高一貫校でエリート教育を受けた学生が東大のマジョリティを占めているというステレオタイプが、本当に東大生にとっての事実なのだ。さらに、地方出身の学生にとっては上京して一人暮らしをするだけで毎月10万円以上の出費が強いられる。夜眠る部屋と今日を生きるための食料だけで、毎月10万円近くかかってしまうのうが東京の現実である。そして大学の授業料が年間54万円。これだけの経済的負荷に耐えられる家庭は、裕福と言わざるを得ないだろう。 東大生は裕福な家庭の出身だ。東京で大学生活ができる事実が在ると言えども、そう結論するのはもちろん適当でない。言うまでもなく、東京大学の入学試験で問われるのは、親の年収ではなく学力である。親から莫大な「投資」を受けずとも、自身の努力によって東大に到達する若者は、毎年少なからず存在する。東大生の親の年収が平均1000万円なのは既に述べたが、その半分以下、年収450万円未満が1割以上存在する。裕福でなくとも、東大には入れるのだ。 しかし、親の経済力が乏しくとも、東京の真ん中に位置する東京大学(駒場キャンパスは渋谷から徒歩圏内、本郷キャンパスは山手線の内側!)に通学できる範囲で生活すれば相応の生活費が発生する。学生生活実態調査によれば、自宅外生(=実家から通っていない)の生活費は平均14万円となっている。これは平均なので、富裕層も含んでいるために14万円などという数字が出るのかもしれない。しかし、条件の悪いアパートを探すなどして家賃を5,6万円に押さえても、食費で2万円弱、書籍、交際費、通信費・・・控えめの大学生活を送っても服は買うだろうし、サークル活動をするかもしれない。結局月10万円程度の出費は覚悟すべきである。 では、東大生最下層の1割は、そのような日々の支出に喘ぐ苦学生なのだろうか。それではせっかく東京大学で学ぶ権利を得たとしても、有効に活用できないではないか。 そのような典型的な苦学生はいつの時代も存在するが、社会は、大学は、もはや若い希望を見捨てたりはしない。東京大学には今回アンケートを行った三鷹国際学生宿舎(主に1,2年生と留学生が入居)をはじめとした学生宿舎がいくつか存在する。これはかつての学寮に相当する施設で、経済的に不利な学生に対して安価な住居を提供することを目的としている。退去時の清掃費の積み立てなどを含めた基本料金は月額1万円強。光熱水費は使用した分だけ上乗せされるが、暖房を使用する厳冬期でさえ合計で月1万5000円を超えることはまずない。三鷹宿舎は駒場キャンパスからやや距離があるので(通学時間40分程度)、大半の学生は京王井の頭線を利用するが、6ヶ月定期券(吉祥寺=駒場東大前)を購入すれば一月あたり2300円もかからない。近くにはスーパーやディスカウントショップが立地しており、宿舎の部屋にはキッチン(IHヒーター)もあるので自炊で食費を2万円以下に抑えることも十分可能である。こうして、生活費を月額5~6万円程度に収めることができる。さらに収入の面では奨学金を受給することもできるだろう。これなら貧困家庭の子女でも東京で生きていくことができる。 いま、貧困家庭の子女でも東京で生きていくことができる、と述べたが、これは文字通り生きていくだけで必要な金額について考えている。実際にはサークル活動もあるだろうし、携帯電話やインターネットはもはや学業の上でも不可欠である。まだ二十歳前後の若者、たまには思い切り遊んでみたいかもしれない。友人と旅行に行きたい。サークルの合宿に参加したい。大学生のうちに自動車の運転免許をとりたい。フィールドワークや演習にいきたい(東大は全国に演習林などの施設を所有し授業で使われるが、交通費は自己負担である)。講義で使われる教科書を買いたい。 これらの欲求は、「贅沢」の一言で済まされるだろうか。 話を広げてみよう。貧困の定義として、近年では相対的剥奪という概念が見出されている。日本の貧困層が発展途上国の貧困層から見たらはるかに豊かであるように、普通の東大生から見たら、ただ東京で生活できるだけのレベルの東大生ははるかに貧しく見えるのではないか。「遊びたい」は我慢すればいいものの、実習や教科書のように「学びたい」まで我慢させては最高学府の名が折れてしまうだろう。 このような状況がもし存在するならば、社会全体にとっても深刻な問題となりうる。大学進学の時点で、経済格差によって学習機会に容認できない差が出てしまうとすれば、その次に続く就職の段階で影響が出るはずである。貧しい家庭に生れ落ちた時点でいくら頑張っても教育システムでは裕福な家庭の子供には勝てない。個人努力によって、頑張れば報われる社会を担保していた平等な学校教育システムの崩壊。すなわち、経済格差は固定され、自由で平等な競争はもはや憲法の条文にのみ残る幻想となり、この国から自由と平等は失われることになる。 このような状況が実在するのか、もしくは大げさな杞憂で終わるのか。事実上の国内最難関である東京大学での調査は、学校教育で最も成功を収めた人間が置かれている実情を明らかにする。かつて神童と呼ばれた若者たちは、いまどうしているのだろう。 1.Introduction 3.Method
今回のアンケートは留学生を除く三鷹宿舎の全学生を対象に行った。アンケート対象の特定には、郵便ポストの名前から日本人と推測される場合、アンケート用紙を入れた封筒を投函するという手法を用いた。この方法で、三鷹国際学生宿舎全棟(留学生含め605人)で404名にアンケートが配布された。 アンケートの実施期間は5月28日(木)に配布、直後に控える五月祭を考慮し、暫定の締め切りを6月7日(日)とした。 質問内容は、世帯年収、親の学歴、出身地、出身高校の種類(公立or私立)、塾予備校歴、東大受験に対する親の賛否、現在金銭的に困っているか、大学生活は充実しているか、などを設けた。経済的状況と大学生活への影響を同時に調べることで、経済状況が勉学に与える影響を考察できるようにした。質問項目について、詳しくはページ下部に添付資料として、配布されたアンケートを用意している。 回答形式は数値記入式、チェックボックス、記述式など、質問内容に対して回答しやすい形式を志向した。 他に、回収率向上を目指して、各棟集合郵便ポスト付近と共用棟にポスター(写真)を貼る、メールなどで提出を呼びかける、各棟の集合ポストに提出場所を用意(写真)するなどした。また、アンケートを入れた封筒が広告や不審物と勘違いされないように、宛名面に立花ゼミのアンケートである旨を明記し た。(写真) アンケートにはゼミ生の連絡先を文字列およびQRコードで表示した。 リンク:配布したアンケート(2枚) アンケート趣旨説明(1枚)
貧しくとも、裕福でなくとも、勉学に励み、東大合格を勝ち取る若者は毎年一定の割合で存在する。今回のアンケートでは、そのような裕福でない東大生に焦点を当てている。
何を今さら、という感じかもしれないが、ジュール・ヴェルヌの 『八十日間世界一周 Le tour du Monde en Quarte-vingts Jours』を読んだ。 小学校の時に図書館で借りて読んで以来だから、これを読むのは十年ぶりぐらいである。 再読した理由はまあ色々とあるのだが、十年ぶりで読むと昔と楽しみ方が全く変わっていることに気づいた。 昔読んだ時は賭けの結果が気になるのは勿論、この旅に出てくるユニークな登場人物たちの動きや会話を追うことに 集中していた事を覚えている。 「パスパルトゥーもフォッグ氏もかっこいいなあ」、とか、「意外にアウダ夫人強いな」、とか、「そんなオチありかよ」とか。
今読んでみると、そうした登場人物たちの動きが極めてオペラ的であることに気付かされる一方、 なによりもヴェルヌの描写力に驚かされる。人物の描写よりも場所の描写が巧みで、時代を反映してステレオタイプな ところはあるにせよ、様々な地域を「それらしく」描いている。この小説から風景描写を全て省いてしまえば、 いくら登場人物たちのドタバタが面白くても味気ないものになってしまうに違いない。 この小説が書かれた当時と違い、今や世界を一週間すらかからず廻ることが可能な時代になったが、 世界をそんなスピードで回ってしまってはこのように豊かな風景・地域描写は不可能になってしまうだろう。 そういう意味では、80日間で世界を廻る時代というのは非常に豊かな時代だったのかもしれない、と読後に思った。
◆要旨 「だまされやすい人間」であった筆者が三年間にわたる参与観察を行うことで、承諾誘導は六つの 基本的カテゴリーに分類できることを発見した。 すなわち、返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性の六つである。 この六つに豊富な例をもとに解説を加えてゆくという形式をとっている。 人間の社会的行動の不可思議な側面は社会的影響の原理によって理解できることを示そうとしたものであり、 実験室で行う実験のみにデーターをとどめず、実際の社会に例をもとめている点が本書の白眉であろう。
【返報性】という概念は「お返し」をせねばならないという意識から承諾してしまう性質を指し、 拒否したあとには譲歩するというドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにも代表される。 【一貫性】(と、コミットメント)という概念は自分の言葉、信念、態度、行為を一貫したものにしようとする性質で、 承諾の決定に対して一貫性への圧力が過度に影響することを明らかにする。
【社会的証明】という概念は不確かさと類似性の二つの状況において最も強く働くもので、 状況があいまいな時人は他の人々の行動に注意を向けそれを正しいものとして受け入れようとする性質と、 人は自分と似た他者のリードに従う性質を持つということである。 ここから、誤った社会的証明に影響されないために、類似した他者が行っている明らかに偽りの証拠に対して 敏感であること、類似した他者の行動だけを自身の行動決定の基礎にしてはならぬことなどが述べられている。
【好意】という項では、人は自身が好意を感じている知人に対してイエスという傾向があることを示し、 身体的魅力がハロー効果を生じさせるため魅力的な人の方が影響力が強いことを述べる。 そして、承諾の決定に対して好意が不必要な影響を及ぼすことを防ぐのに有効な戦略は、 要請者に対する自分の過度の好意に特に敏感になることだと説く。
続く【権威】の項ではミルグラムの実験を下に、権威からの要求に服従させるような強い圧力が社会に存在する ことを示すとともに、権威の三シンボルである肩書き、服装、装飾品が承諾を引き出す際に及ぼす影響に考察を進める。 最後に【希少性】という概念に触れ、人は機会を失いかけるとその機会をより価値あるものとみなすことを示し、 希少性の原理が商品の価値の問題だけではなく、情報の評価のされ方にも適用できることを挙げる。 そして希少性の圧力に対して理性で対抗するのは困難であるという結論に至る。
終章では「自動的で何気ない承諾」に関しても考察を加える。 現代の生活は情報が溢れ選択の幅が爆発的に拡大しただけに、認知の過剰負担の傾向が強まっていて、 それに比例して我々が簡便な意思決定を行いがちだと説き、承諾誘導を狙う者に対する知識を身につけよと主張して 全編を閉じている。
◆インプレッション 本書を読んだのは少し前になるが、忘れられない一冊だ。 眼を惹く色遣いとダイナミックに白抜きで配したタイトルに惹かれ、生協でこの本を買ってきて、一気に食堂で読みきった。 全編にわたって膝を打たずにはいられない例、そして納得してしまう解説。 チャルディーニによる六つの分類に、自らが経験してきた事例がピッタリと当てはまりすぎて、もはや騙されないための分類に 騙されているような気分に陥るほどだ。スーツと小物類を買う時の例であげられているコントラストの原理は至るところで 経験するし、返報性のルールのために知らず知らずのうちに恩義を感じてしまう事は日常的だ。 チケットの値段が書いていないからといって電話をする(=コンサートに対する最初のコミットメントを行ってしまう) なんて、つい先日したばかりだ。 残る項目も、みな身に覚えのある例で埋め尽くされていて、人事のように読めない。 ここに挙げられた例以外でも、読み進めるうちに沢山の例が思いついた。 例えば、第四章まとめにある「不確かさ」の説明。 「自分が確信を持てない時、あるいは状況が曖昧な時、他の人々の行動に注意を向け、 それを正しいものとして受け入れようとする。」 これこそが、カンニングの本質ではないだろうか。正しい根拠などどこにもないのに、自分に自信が持てないからという理由で 他の人の答案が正しいものとして受け入れる所作こそがカンニングであろう。
気になったのは第三章「コミットメントと一貫性」のP.149で述べられている、 「他集団と差別化して自らの集団の連帯意識を持続させることに腐心する集団においては、苦難を要求するような 加入儀礼は簡単になくならない」という一文。これは大学の入試にも言えることではないか。 もちろん、大学の入試の目的が「他集団と差別化しての自らの集団の連帯意識の持続」にあるわけでは ないだろう。だが、結果として、入試は「連帯意識の持続に繋がる苦難に満ちた加入儀礼」になっているように僕には思える。 一定のレベルを確保するため、あるいはその大学の求める教養を身につけて入学してもらうためなどといった言説を 入試に被せても、結果として加入儀礼の意味を失うことはこれからもないのではないか。
第七章の希少性については身につまされる思いで読んだ。 個別性の感覚が現れて来る年代にあるから仕方ないと慰められようが、自らの過去の行動を振り返ってみると、 いかに自分が今まで「数量限定」や「最終期限」などの承諾誘導の戦術に乗せられていたことか! 「希少性の圧力に理性で対抗するのは困難」とあるが、その事実を知っただけでも対抗の一手段にはなりえるはず であるから、このことを常に意識せねばならぬと思った。 人を動かす手段は善悪双方でこれからも応用され、そして情報が溢れる現代に蔓延していくだろう。 その中で本書の主張する六つの分類の視点を持つことは、影響力の武器に対する武器になるに違いない。
◆要旨 本書は、著者下條信輔の東京大学における一連の講義のまとめ直しという形式をとっている。 最初に下條は、「人は自分で思っているほど自分の心の動きを分かっていない」というセントラル・ドグマを立て、 それに沿って知覚心理学、社会心理学、認知科学などの分野にわたる種々の理論を紹介してゆく。 それとともに、様々な実験を引用して例証しつつ考察を深めてゆく。 まず「認知的不協和」や「自己知覚」の理論をあげて、自分自身の態度を我々が決める時というのは 他人について推論する時と似たやり方をとっている事を述べる。 次に「情動二要因理論」を用いて、自分の身体の変化を何らかの原因に「帰する」認知プロセスが重要だと説く。 しかしこのような認知プロセスの結果に至る過程はしばしば我々が自覚できない点を強調している。 続いては「分割脳」という症例をあげ、この症例から脳の組織体としての統合の緩やかさや個々の部分の サブシステムとしての独立性を示すことで脳と認知の研究にも切り込んでゆく。 次にカクテル・パーティー効果やサブセプション、知覚的防衛などの閾下知覚の諸研究をあげて先の章で 取り上げた神経心理学の諸症例との近似を見出す一方で、盲視覚や半側無視といった症例と閾下知覚の諸研究 から導き出されるものとはまた違った一面を持つということをも述べる。
続く第七講はサブリミナル・コマーシャリズムを扱い、八講では自発的行為を扱うというように、 ここからは潜在的認知プロセスに拘束される人間にとっての「自由な行動」とはどのようなものかという問に対して 多様な角度から光を当てる試みが展開される。 七講では、自由な行為は本当に自由か疑わしく、意識されない部分=サブリミナルな部分で自由は完全な自由では なくなってしまっているのではないか、メディアに情動を操作されてしまっているのではないかと問いかけ、 八講では人間以外の動物やコンピューターと人間を分ける最もはっきりした違いが潜在過程と顕在過程との ダイナミックな相互作用という点にあるのではないかと主張する。 以上から導き出される第九講では、行為論と法という視点に潜在認知研究からのアプローチを行い、 「故意」という概念に疑問を投げかけ、また続いて「責任」という概念にも潜在認知研究からの疑問を提示する。 社会潜在的・暗黙的な心的過程の存在が規範体系に対して複雑で重大な問題を提起する事を示すためである。 そして、ラディカルな行動主義を方法論的には支持しつつも、反面、自覚的意識の存在をも支持するというスタンスを 改めて表明する。
最後に、序で述べた 「時代の人間観をつねに更新し、また時としてそれと対立し切り結ぶのが、心理学、人間科学の役割ではないか」 という筆者自身の信念に対応する形で、「時代の人間観が崩壊の瀬戸際にあるのではないか」と提言するとともに、 「このような危機的状況を救う洞察もまた、潜在的精神を探求する人間科学の周辺からやってくるのではないか」 という展望によって全章を結んでいる。
◆インプレッションと+α 「自由」や「我思う故に我あり」といった近代社会の個人という概念の根幹を、豊富な事例と研究データーから 揺さぶりにかかるこの書はとてもスリリングだった。 「人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」という人間像の提出には、 なるほどと頷かずにはいられない。第九章p.282にある 「心理学-刑法学-行為と倫理の哲学、この三者の境界に、前人未到の広大な問題領域が存在している」という 一文から、この領域について考察してみたいと考えたが、筆者の主張には全面的に同意するものの、三者全てに知識が 不足する今の僕には重すぎる。ましてやここにさらっと書けるような内容にはなりそうにもない。 というわけで、情動と潜在認知をテーマに進む本書の中で、僕がとりわけ興味を引かれた(同時に恐れを覚えた) 第七章、すなわちメディアによる情動のコントロールという論について取り上げてみることにする。 (以前行われた著者の講演会から学んだ内容と本書とを総合した内容になっている。)
コマーシャリズムに乗せられたくない、コマーシャリズムに自らの思考を規定されたくないという意思は 誰しもが少なからず持っているだろう。しかし、実際に抵抗できているのか?という疑問を昔から抱いていた。 反発は容易に出来る。繰り返されるコマーシャル(場合によっては、同じCMを連続でリピートする!)には嫌気が 差すだろうし、選挙カーの名前連呼は耳について不快に感じる人も多いはずだ。だが下條は研究データーから、 「好感度は単純に繰り返されればされるだけ、一律に増大する」 「繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまう」という結果を見せる。 そしてこのことよりもさらに衝撃的な一文が後に続いている。 「はっきりした再認記憶がある場合よりも無い場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されている」と。 これは一般に理解されているものと正反対だろう。 僕自身、CMは記憶にヴィヴィッドに焼き付いてこそCMたり得ると感じていた。しかし下條の述べるように 帰属説を援用(「いや、自分の場合はコマーシャルの影響などではない、自分本来の好みなのだ」) すれば、潜在記憶に刷り込むCMが強力であることが理解される。頭にリフレインされるCMには抵抗を覚えるが、 このように潜在記憶に刷り込まれたCMは意識しないだけに全く抵抗できないからだ。 その意味ではこのように潜在記憶に語りかけ、情動に転化させるコントロールに対して我々に何が出来るだろうか。 そう、何も出来はしない。例えばマクドナルドの椅子は硬い。 長居しづらくすることで回転率を上げることを狙ってそうなっているのだ。 というような話を知っていたとしても実際に抵抗することは難しいだろう。 座り心地が悪ければそう長くないうちに自然と立って店を出るはずだ。 そしてその時に、「椅子が硬かったからではない、外の空気を吸いたかったからだ」などと、 別原因に帰属させてしまうことになる。だがしかし当の本人は自由な行動をとったつもりでいる!
こう考えていくと現代では消費者として完全に「自由」でいることは不可能なのかもしれない。 原題においては、意識される拘束と意識し得ない拘束が我々を取り巻いている。 B.Schwerzが“The Paradox of Choice”で述べているように、現代は「過剰な選択」にあふれている。 そしてそれは表面的には安定を与えるが、潜在的な不安を人間に与える。その潜在的な不安を コマーシャリズムは狙っている。現代コマーシャリズムの本質は、論理的な説得を目指すものではなく、 ブランドイメージの定着や意味の連想を期待するものでもない。 古典的-道具的という二種類の条件付けか、あるいはサブリミナルに訴える単純呈示効果にこそ本質がある。 いまやコマーシャリズムは、人間の非常に抵抗しづらい部位の狙撃者となったのだ。
『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)を読了。 第一回日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作で、作者は作家 原田宗典の妹である。 原田宗典は、僕の人生にとって無くてはならない作家のひとりだ。 小学校時代、友人にこの作家のエッセイを紹介されて以来、エッセイ・小説問わずすべて読んできた。 その軽妙な語りと、ちょっと不気味で時に暖かい小説に惹かれてきた。 その妹はどんな文章を書くのだろうか。本を開く前からとても気になって、一時間ほどで一気に読みとおした。
というわけで以下感想。 何と言っても映像的な描写が上手い。 全体的に映像化しやすそうな小説で、映画化される運びになったのも当然だと思う。 同時に、これは場所の設定が全ての小説だ。この場所で無くては成立しない。 展開は「おいおい」と首を捻りたくなるところもあるが、ベタベタな構成に陥らないところは好感がもてる。 文章はそれほど上手いとは思わない。出だしのところ、登場人物や設定の紹介を兼ねて話が進んでいくあたりは 説明している感じが前に出すぎていて少し違和感を覚える。 コナンで事件が起きた直後、登場人物たちが自分のプロフィールを話すときのような説明っぽさがどことなくある。 この辺りは小説としてまだ作者が駆けだしであることを伺わせる。
読み終わってみるとタイトルの意味がやや分からなくなったりしたが、とにかくこのタイトルのインパクトは大きい。 サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に内容が少し似るところがあるから、 これにかかったタイトルなのかもしれない。 表紙の写真は空気感を良く捉えており大変美しい。映像感に溢れるこの小説と良い相性である。 あまり読者の目にとまっていないと思うが、注目すべきは表紙を外したあとに出てくる装丁だ。(単行本版) 表紙とまったく異なる印象の写真が全面に使われており、どこかゾッとする光景が広がっている。 単行本をお持ちの方は表紙を外して見て下さい。
話が装丁の方に行ってしまったが、さらっと楽しめて幸せな気分になれる、そこそこ面白い小説だったと思う。 この小説、映画化だけでなく、いずれドラマ化までされそうな気がする。
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