Dear Gandhi
バイト先で、俗に言うところの「G」が出た。
キッチンのゴミ箱にひそんでいたらしい。
まがりなりにも飲食店なのだから、衛生上どうなんだろうとは思うが、いくら気をつけたところで、ヤツは出る。しょうがない。
きゃーきゃー言うバイト仲間を横目にご飯をよそいながら、私は寧ろ懐かしい気さえしていた。
東京に来てからめっきり虫を見なくなったなーと、思っていた矢先だったのだ。
田舎で暮らすと、公害の代わりに常につきまとうのがこの虫害である。
実際Gはそんなに見なかったけど、足が百本あるというMなどは蝸牛に勝る梅雨の風物詩だ。
目覚めると天井から「おはようございます」。
冬が近づけば、テントウムシが寝床探しのため大挙して部屋を見舞いにくる。
朝、腕を通しかけた制服に、カメムシ(田舎サイズ)がぴっとりしていたときのテンションの落ちようは凄まじかった。
それから、地味にゲジゲジ(田舎サイズ)の存在感も見逃せない。
下宿生はこれに関して、過去、色々な対処法を考えてきた。
前提として、ド田舎産の虫たちに市販の殺虫剤は効かない。
そこで、 洗剤をぶっかけるもすばしこく逃げられ、床が泡まみれになったこともあった。
お湯をぶっかけるもすばしこく逃げられ、床が水びたしになったこともあった。
お茶の葉はMを寄せ付けないらしい、とあらゆる場所にティーバッグをぶらさげるも、よく効果が分からないうちに袋が破れ、床がお茶っ葉まみれになったこともあった。
日々、どこからか気休め的知識やアイデア(ほとんどの出自はインターネット)を持ち寄っては徹底的に試した。
そのなかで一番定着しているのは、 「カップ麺のカップで捕獲」
ゲジゲジやGはともかく、Mは叩いたりお湯かけたりするとフェロモンが出て、つがいを呼び寄せてしまう。だから迂闊には殺せない。
カメムシに至ってはご存知の通りで、誤ってちょっと刺激してしまおうものなら、あの臭いは容易にはとれない。
∴カップでつかまえて数週間放置し、衰弱死させるしかない。
そういうわけで、下宿ではカップ麺カップは生活必需品だった。食べたら洗って干し、所定の場所にためておく。
しかし思えば、何とも身勝手な殺し方だった。
自らの手をまったく汚すことなく、しかも相手を潰す感触さえ味わわずに、苦しめるだけ苦しめる。
そしてその過程はすべて、「駆除」という言葉で正当化される。
べたべたなホームドラマでは、親は子供の頬を張ったあと泣きながら言う。
「お母さんの手だって痛いのよ」
この論理が、虫相手にも通用するのかどうかはともかく、私は、痛い、あるいは気まずい思いは一切せずに、思考停止状態で問答無用、五分以上の魂を葬り去っていたのだ。
屠畜を考える企画ではないけれど、というか、目的や意味をまったく考えていない分、こっちの方がよっぽど罪深い。
綱吉を賞賛するつもりはないものの、なんで蚊は叩かなくちゃいけないのか。
考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
血ぐらい少しわけてやったっていいじゃないか。痒いといったってウナコーワが支えてくれる。マラリア日本脳炎……まで考えてみんなパチンとやってるわけじゃない。
そんなこと言ったらゴキブリなんて、何の害もないという話だ。
もっと意識の浅いところで、刷り込み。条件反射。
蚊? うるさい。ゴキブリ? きもちわるい。
潰した、カップに閉じ込めた、その手で私は合掌し、世界平和を祈っているのだと思うと、自分が自分で気持ち悪い。
去年の秋、一匹のGを叩いた時のことを思い出す。
スチロールカップなんかじゃ捕まらないほど恐ろしくすばしっこいやつで、階段での死闘が終結したときには新聞紙はもうへなへなになっていた。
いつも通り、亡骸を庭に埋める。
それは静かな真夜中で、とても綺麗な空だった。
星はちらほらだったけど、空の色濃さ、そして真っ白に強く光る月。
陳腐な言葉を使うなら、おとぎ話で映えそうな。
何時間でも見ていたくなる、空だった。
何となく思った。
この空と殺したゴキブリと、なにがちがうのかといわれたら、私はきっと答えられない。
命ってそんなに重かったっけ。
というわけで、今から本郷での屠畜企画に参加してきます。
英語一列、おつかれさまでした。
そしてとてもどうでも良い話ですが、冒頭のバイト先はつい先日、経営不振でつぶけました。