Archive for July, 2009

Dear Gandhi

Add a comment

バイト先で、俗に言うところの「G」が出た。

キッチンのゴミ箱にひそんでいたらしい。

まがりなりにも飲食店なのだから、衛生上どうなんだろうとは思うが、いくら気をつけたところで、ヤツは出る。しょうがない。

きゃーきゃー言うバイト仲間を横目にご飯をよそいながら、私は寧ろ懐かしい気さえしていた。

東京に来てからめっきり虫を見なくなったなーと、思っていた矢先だったのだ。

 

田舎で暮らすと、公害の代わりに常につきまとうのがこの虫害である。

実際Gはそんなに見なかったけど、足が百本あるというMなどは蝸牛に勝る梅雨の風物詩だ。

目覚めると天井から「おはようございます」。

冬が近づけば、テントウムシが寝床探しのため大挙して部屋を見舞いにくる。

朝、腕を通しかけた制服に、カメムシ(田舎サイズ)がぴっとりしていたときのテンションの落ちようは凄まじかった。

それから、地味にゲジゲジ(田舎サイズ)の存在感も見逃せない。

 

下宿生はこれに関して、過去、色々な対処法を考えてきた。

 

前提として、ド田舎産の虫たちに市販の殺虫剤は効かない。

 

そこで、 洗剤をぶっかけるもすばしこく逃げられ、床が泡まみれになったこともあった。

お湯をぶっかけるもすばしこく逃げられ、床が水びたしになったこともあった。

お茶の葉はMを寄せ付けないらしい、とあらゆる場所にティーバッグをぶらさげるも、よく効果が分からないうちに袋が破れ、床がお茶っ葉まみれになったこともあった。

 

日々、どこからか気休め的知識やアイデア(ほとんどの出自はインターネット)を持ち寄っては徹底的に試した。

 

そのなかで一番定着しているのは、   「カップ麺のカップで捕獲」

ゲジゲジやGはともかく、Mは叩いたりお湯かけたりするとフェロモンが出て、つがいを呼び寄せてしまう。だから迂闊には殺せない。

カメムシに至ってはご存知の通りで、誤ってちょっと刺激してしまおうものなら、あの臭いは容易にはとれない。

∴カップでつかまえて数週間放置し、衰弱死させるしかない。

 

そういうわけで、下宿ではカップ麺カップは生活必需品だった。食べたら洗って干し、所定の場所にためておく。

 

しかし思えば、何とも身勝手な殺し方だった。

自らの手をまったく汚すことなく、しかも相手を潰す感触さえ味わわずに、苦しめるだけ苦しめる。

そしてその過程はすべて、「駆除」という言葉で正当化される。

 

べたべたなホームドラマでは、親は子供の頬を張ったあと泣きながら言う。

「お母さんの手だって痛いのよ」

この論理が、虫相手にも通用するのかどうかはともかく、私は、痛い、あるいは気まずい思いは一切せずに、思考停止状態で問答無用、五分以上の魂を葬り去っていたのだ。

 

屠畜を考える企画ではないけれど、というか、目的や意味をまったく考えていない分、こっちの方がよっぽど罪深い。

綱吉を賞賛するつもりはないものの、なんで蚊は叩かなくちゃいけないのか。

考えれば考えるほど、分からなくなってくる。

血ぐらい少しわけてやったっていいじゃないか。痒いといったってウナコーワが支えてくれる。マラリア日本脳炎……まで考えてみんなパチンとやってるわけじゃない。

そんなこと言ったらゴキブリなんて、何の害もないという話だ。

 

もっと意識の浅いところで、刷り込み。条件反射。

蚊? うるさい。ゴキブリ? きもちわるい。

潰した、カップに閉じ込めた、その手で私は合掌し、世界平和を祈っているのだと思うと、自分が自分で気持ち悪い。

 

去年の秋、一匹のGを叩いた時のことを思い出す。

スチロールカップなんかじゃ捕まらないほど恐ろしくすばしっこいやつで、階段での死闘が終結したときには新聞紙はもうへなへなになっていた。

いつも通り、亡骸を庭に埋める。

それは静かな真夜中で、とても綺麗な空だった。

星はちらほらだったけど、空の色濃さ、そして真っ白に強く光る月。

陳腐な言葉を使うなら、おとぎ話で映えそうな。

何時間でも見ていたくなる、空だった。

 

何となく思った。

 

この空と殺したゴキブリと、なにがちがうのかといわれたら、私はきっと答えられない。

 

命ってそんなに重かったっけ。

 

 というわけで、今から本郷での屠畜企画に参加してきます。

英語一列、おつかれさまでした。

そしてとてもどうでも良い話ですが、冒頭のバイト先はつい先日、経営不振でつぶけました。

文学企画事始

4 Comments

企画を立ち上げるに至ったそのきっかけについて、記事を書こうという話があった。せっかくなので、文学企画についても語ってみる。

ものすごく個人的な話である割に、やたら長い。でも分けて上げるのも面倒なので、一気に載せます。

 

中学に入学して最初にでた宿題は、作文だった。テーマは、将来の夢について。

私は、なにを今更、とばかりにさらさらと、3枚だか5枚だかの原稿用紙を埋めた。当然、冒頭はこうである。

「私の夢は、小説家になることです。」

夢、というより、予定、に近い感覚だった。私が作家を目指していることは、親戚中の知るところだったし、小学校の文集にもそう書いたし、本当、何度も言わせんなよという気持ちである。

しかし先生の対応は違った。初の個人面談で早速つっこまれた。他の友達は、みんな医者とか教師とか書いていたらしい。気の利いた子は弁護士と。

「小説家になりたいって、親御さんは反対しないの?」

私は驚いた。親? 反対? なぜ?小説家が不安定な「仕事」であろうことは分かっているつもりだったし、私の両親は揃って歯科医である。過疎の進む田舎町で、地元の人たちに頼られながら働く姿には憧れるし、村唯一の診療所を継ぐのも悪くないとは思う。

でも私は小説家になるのだ。親もそれを知っている。歯医者になれだとか理系に進めだとか、一切言われたことはない。6年生のときの担任だって、卒業式の日、「あなたの小説が本屋さんに並ぶ日を楽しみにしています」と送り出してくれた。

今まで誰にも疑われたことのない「夢」だったのだ。

新しい担任は、そのあと学校生活や学習態度等について一通り話題を消化したあと、笑顔でしめくくった。「これから、作家志望ですなんて言うと色々言われるかもしれないけど、先生は応援するから。夢は貫けよ」

それは、ひどく新鮮な励ましだった。

小説家とは、本来「色々言われる」ものなのか! 「二葉亭四迷」は現代でも充分ありうる話なのだと、初めて実感したのだった。

しかしそのあと、私は先生の言葉をあっさり裏切ることになる。

三年後、高校入学直後の個人面談。

中高一貫だったから、新担任といえども目慣れた顔である。加えて、耳慣れた質問。

「将来はどうするんだ」

私は、口慣れない答えを返す。

「まだ、わかりません」

高校生にもなって「作家になりたいです」はないだろうという照れ、そもそも才能云々の問題、ここでの「将来」とは結局進路指導に繋がるものであり小説家と答えたところで何の意味もないということ。

理由はいろいろあったが、多分その頃からだんだん、小説や本そのものに辟易するようにもなっていたのだと、思う。

きっかけは特にないけれど、作家になった自分、書店に並ぶ自分の本を想像しても、高揚より虚しさが先に立つようになった。要するに、文学企画が抱く問題意識である。

「こんなに本があふれていてどうするんだ」

大量の書籍の中に沈んでいく自分の著作、というイメージは、ある日食べていたポテチの袋と重なった。

丁寧に工夫されたデザイン。キャッチコピー。裏面の商品説明。豆知識コラム。原材料名。デキストリンとはじゃがいものでんぷんのことです。こういったすべてを、私はろくに読みもせず不燃ごみに捨てる。何しろパーティー開けをしたら、内側の銀色しか目に入らない。たまに暇つぶしがてら、流し読みすることはあっても、大抵次の日には忘れている。

もちろん、こういうパッケージと小説は目的が違うのだから、同じ土俵にあげるのはおかしな話だと思う。けれど、一ヶ月後には主人公の名前さえ思い出せない、そういう読書はどこかこれと似ている気がして、読み捨てられる本、むしろ「使い捨てられる」本、という意識が生まれた。

とはいえ相変わらず読書は続けていたし、使い捨てどころか何度も読み返した本だってある。高校の三年間で、好きな作家や作品も増えた。

しかし小説を書く気は、完全に失せた。幼き頃より小説家を志し、本当に実現するひとはほんの一握りしかいない……とはよく聞いていたが、私はここで脱落したわけである。よくここまで勘違いを維持できたなとも思うけど。

ただ、ゆえに、現役作家に対するお節介な興味は膨れていった。

「自分の本が埋もれていく( かもしれない) 虚しさって感じたことないですか」

 

このタイミングで立花ゼミと出会えたことは、幸運だったと思う。

その場のノリで提案した企画が、ちゃんと成立してるという現状にも、今更ながら感動する。ありがとうございます。

正直言って、着地点の見えにくい企画だ。作家や編集者に話を聞いたからって、何か変わるわけでも、納得できるわけでもないだろう。

でも、私がそれなりに悩んで諦めたものを、叶えているひとたちは(なりゆきでデビューした人もいるでしょうが)、何で諦めずに書き続けていられるのか、作り続けていられるのか。

まぁ詰まるところやっぱり、単なる私の個人的興味なわけだけれど、企画を進めていく上で得られるものは予想以上に多そうだ、とも感じている。何より、読書の口実ができるし。

使い捨てだなんだと言いながら、結局本が好きなのだ。

文学企画を通してなにがやりたいって、こんな時代だけど本を好きでいてもいいですよね、という再確認がしたいだけなのかもしれない、ですね。

 

と、センチメンタルな感じで終わるのは、もう朝の5時だからです。