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2010年度《見聞伝 駒場祭特設ページ》
木許 裕介の本棚 2009.6.17 | by admin

『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ 江口清 訳 角川文庫,1978)

 

 何を今さら、という感じかもしれないが、ジュール・ヴェルヌの

『八十日間世界一周 Le tour du Monde en Quarte-vingts Jours』を読んだ。

小学校の時に図書館で借りて読んで以来だから、これを読むのは十年ぶりぐらいである。

再読した理由はまあ色々とあるのだが、十年ぶりで読むと昔と楽しみ方が全く変わっていることに気づいた。

昔読んだ時は賭けの結果が気になるのは勿論、この旅に出てくるユニークな登場人物たちの動きや会話を追うことに

集中していた事を覚えている。

「パスパルトゥーもフォッグ氏もかっこいいなあ」、とか、「意外にアウダ夫人強いな」、とか、「そんなオチありかよ」とか。

 

 今読んでみると、そうした登場人物たちの動きが極めてオペラ的であることに気付かされる一方、

なによりもヴェルヌの描写力に驚かされる。人物の描写よりも場所の描写が巧みで、時代を反映してステレオタイプな

ところはあるにせよ、様々な地域を「それらしく」描いている。この小説から風景描写を全て省いてしまえば、

いくら登場人物たちのドタバタが面白くても味気ないものになってしまうに違いない。

この小説が書かれた当時と違い、今や世界を一週間すらかからず廻ることが可能な時代になったが、

世界をそんなスピードで回ってしまってはこのように豊かな風景・地域描写は不可能になってしまうだろう。

そういう意味では、80日間で世界を廻る時代というのは非常に豊かな時代だったのかもしれない、と読後に思った。

 

木許 裕介の本棚 2009.6.17 | by admin

『影響力の武器 ―なぜ人は動かされるのか 第二版』(ロバート・B・チャルディーニ 誠信書房,2007)

 

◆要旨

 「だまされやすい人間」であった筆者が三年間にわたる参与観察を行うことで、承諾誘導は六つの

基本的カテゴリーに分類できることを発見した。

すなわち、返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性の六つである。

この六つに豊富な例をもとに解説を加えてゆくという形式をとっている。

人間の社会的行動の不可思議な側面は社会的影響の原理によって理解できることを示そうとしたものであり、

実験室で行う実験のみにデーターをとどめず、実際の社会に例をもとめている点が本書の白眉であろう。

 

 【返報性】という概念は「お返し」をせねばならないという意識から承諾してしまう性質を指し、

拒否したあとには譲歩するというドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにも代表される。

【一貫性】(と、コミットメント)という概念は自分の言葉、信念、態度、行為を一貫したものにしようとする性質で、

承諾の決定に対して一貫性への圧力が過度に影響することを明らかにする。

 

 【社会的証明】という概念は不確かさと類似性の二つの状況において最も強く働くもので、

状況があいまいな時人は他の人々の行動に注意を向けそれを正しいものとして受け入れようとする性質と、

人は自分と似た他者のリードに従う性質を持つということである。

ここから、誤った社会的証明に影響されないために、類似した他者が行っている明らかに偽りの証拠に対して

敏感であること、類似した他者の行動だけを自身の行動決定の基礎にしてはならぬことなどが述べられている。

 

 【好意】という項では、人は自身が好意を感じている知人に対してイエスという傾向があることを示し、

身体的魅力がハロー効果を生じさせるため魅力的な人の方が影響力が強いことを述べる。

そして、承諾の決定に対して好意が不必要な影響を及ぼすことを防ぐのに有効な戦略は、

要請者に対する自分の過度の好意に特に敏感になることだと説く。

 

 続く【権威】の項ではミルグラムの実験を下に、権威からの要求に服従させるような強い圧力が社会に存在する

ことを示すとともに、権威の三シンボルである肩書き、服装、装飾品が承諾を引き出す際に及ぼす影響に考察を進める。

最後に【希少性】という概念に触れ、人は機会を失いかけるとその機会をより価値あるものとみなすことを示し、

希少性の原理が商品の価値の問題だけではなく、情報の評価のされ方にも適用できることを挙げる。

そして希少性の圧力に対して理性で対抗するのは困難であるという結論に至る。

 

 終章では「自動的で何気ない承諾」に関しても考察を加える。

現代の生活は情報が溢れ選択の幅が爆発的に拡大しただけに、認知の過剰負担の傾向が強まっていて、

それに比例して我々が簡便な意思決定を行いがちだと説き、承諾誘導を狙う者に対する知識を身につけよと主張して

全編を閉じている。

 

◆インプレッション

 本書を読んだのは少し前になるが、忘れられない一冊だ。

眼を惹く色遣いとダイナミックに白抜きで配したタイトルに惹かれ、生協でこの本を買ってきて、一気に食堂で読みきった。

全編にわたって膝を打たずにはいられない例、そして納得してしまう解説。

チャルディーニによる六つの分類に、自らが経験してきた事例がピッタリと当てはまりすぎて、もはや騙されないための分類に

騙されているような気分に陥るほどだ。スーツと小物類を買う時の例であげられているコントラストの原理は至るところで

経験するし、返報性のルールのために知らず知らずのうちに恩義を感じてしまう事は日常的だ。

チケットの値段が書いていないからといって電話をする(=コンサートに対する最初のコミットメントを行ってしまう)

なんて、つい先日したばかりだ。

残る項目も、みな身に覚えのある例で埋め尽くされていて、人事のように読めない。

ここに挙げられた例以外でも、読み進めるうちに沢山の例が思いついた。

例えば、第四章まとめにある「不確かさ」の説明。

「自分が確信を持てない時、あるいは状況が曖昧な時、他の人々の行動に注意を向け、

それを正しいものとして受け入れようとする。」

これこそが、カンニングの本質ではないだろうか。正しい根拠などどこにもないのに、自分に自信が持てないからという理由で

他の人の答案が正しいものとして受け入れる所作こそがカンニングであろう。

 

 気になったのは第三章「コミットメントと一貫性」のP.149で述べられている、

「他集団と差別化して自らの集団の連帯意識を持続させることに腐心する集団においては、苦難を要求するような

加入儀礼は簡単になくならない」という一文。これは大学の入試にも言えることではないか。

もちろん、大学の入試の目的が「他集団と差別化しての自らの集団の連帯意識の持続」にあるわけでは

ないだろう。だが、結果として、入試は「連帯意識の持続に繋がる苦難に満ちた加入儀礼」になっているように僕には思える。

一定のレベルを確保するため、あるいはその大学の求める教養を身につけて入学してもらうためなどといった言説を

入試に被せても、結果として加入儀礼の意味を失うことはこれからもないのではないか。

 

 第七章の希少性については身につまされる思いで読んだ。

個別性の感覚が現れて来る年代にあるから仕方ないと慰められようが、自らの過去の行動を振り返ってみると、

いかに自分が今まで「数量限定」や「最終期限」などの承諾誘導の戦術に乗せられていたことか!

「希少性の圧力に理性で対抗するのは困難」とあるが、その事実を知っただけでも対抗の一手段にはなりえるはず

であるから、このことを常に意識せねばならぬと思った。

人を動かす手段は善悪双方でこれからも応用され、そして情報が溢れる現代に蔓延していくだろう。

その中で本書の主張する六つの分類の視点を持つことは、影響力の武器に対する武器になるに違いない。

 

木許 裕介の本棚 2009.6.17 | by admin

『サブリミナル・マインド -潜在的人間観のゆくえ』(下條信輔 中公新書,1996)

 

◆要旨

 本書は、著者下條信輔の東京大学における一連の講義のまとめ直しという形式をとっている。

最初に下條は、「人は自分で思っているほど自分の心の動きを分かっていない」というセントラル・ドグマを立て、

それに沿って知覚心理学、社会心理学、認知科学などの分野にわたる種々の理論を紹介してゆく。

それとともに、様々な実験を引用して例証しつつ考察を深めてゆく。

まず「認知的不協和」や「自己知覚」の理論をあげて、自分自身の態度を我々が決める時というのは

他人について推論する時と似たやり方をとっている事を述べる。

次に「情動二要因理論」を用いて、自分の身体の変化を何らかの原因に「帰する」認知プロセスが重要だと説く。

しかしこのような認知プロセスの結果に至る過程はしばしば我々が自覚できない点を強調している。

続いては「分割脳」という症例をあげ、この症例から脳の組織体としての統合の緩やかさや個々の部分の

サブシステムとしての独立性を示すことで脳と認知の研究にも切り込んでゆく。

次にカクテル・パーティー効果やサブセプション、知覚的防衛などの閾下知覚の諸研究をあげて先の章で

取り上げた神経心理学の諸症例との近似を見出す一方で、盲視覚や半側無視といった症例と閾下知覚の諸研究

から導き出されるものとはまた違った一面を持つということをも述べる。

 

 続く第七講はサブリミナル・コマーシャリズムを扱い、八講では自発的行為を扱うというように、

ここからは潜在的認知プロセスに拘束される人間にとっての「自由な行動」とはどのようなものかという問に対して

多様な角度から光を当てる試みが展開される。

七講では、自由な行為は本当に自由か疑わしく、意識されない部分=サブリミナルな部分で自由は完全な自由では

なくなってしまっているのではないか、メディアに情動を操作されてしまっているのではないかと問いかけ、

八講では人間以外の動物やコンピューターと人間を分ける最もはっきりした違いが潜在過程と顕在過程との

ダイナミックな相互作用という点にあるのではないかと主張する。

以上から導き出される第九講では、行為論と法という視点に潜在認知研究からのアプローチを行い、

「故意」という概念に疑問を投げかけ、また続いて「責任」という概念にも潜在認知研究からの疑問を提示する。

社会潜在的・暗黙的な心的過程の存在が規範体系に対して複雑で重大な問題を提起する事を示すためである。

そして、ラディカルな行動主義を方法論的には支持しつつも、反面、自覚的意識の存在をも支持するというスタンスを

改めて表明する。

 

 最後に、序で述べた

「時代の人間観をつねに更新し、また時としてそれと対立し切り結ぶのが、心理学、人間科学の役割ではないか」

という筆者自身の信念に対応する形で、「時代の人間観が崩壊の瀬戸際にあるのではないか」と提言するとともに、

「このような危機的状況を救う洞察もまた、潜在的精神を探求する人間科学の周辺からやってくるのではないか」

という展望によって全章を結んでいる。

 

◆インプレッションと+α

 「自由」や「我思う故に我あり」といった近代社会の個人という概念の根幹を、豊富な事例と研究データーから

揺さぶりにかかるこの書はとてもスリリングだった。

「人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」という人間像の提出には、

なるほどと頷かずにはいられない。第九章p.282にある

「心理学-刑法学-行為と倫理の哲学、この三者の境界に、前人未到の広大な問題領域が存在している」という

一文から、この領域について考察してみたいと考えたが、筆者の主張には全面的に同意するものの、三者全てに知識が

不足する今の僕には重すぎる。ましてやここにさらっと書けるような内容にはなりそうにもない。

というわけで、情動と潜在認知をテーマに進む本書の中で、僕がとりわけ興味を引かれた(同時に恐れを覚えた)

第七章、すなわちメディアによる情動のコントロールという論について取り上げてみることにする。

(以前行われた著者の講演会から学んだ内容と本書とを総合した内容になっている。)

 

 コマーシャリズムに乗せられたくない、コマーシャリズムに自らの思考を規定されたくないという意思は

誰しもが少なからず持っているだろう。しかし、実際に抵抗できているのか?という疑問を昔から抱いていた。

反発は容易に出来る。繰り返されるコマーシャル(場合によっては、同じCMを連続でリピートする!)には嫌気が

差すだろうし、選挙カーの名前連呼は耳について不快に感じる人も多いはずだ。だが下條は研究データーから、

「好感度は単純に繰り返されればされるだけ、一律に増大する」

「繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまう」という結果を見せる。

そしてこのことよりもさらに衝撃的な一文が後に続いている。

「はっきりした再認記憶がある場合よりも無い場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されている」と。

これは一般に理解されているものと正反対だろう。

僕自身、CMは記憶にヴィヴィッドに焼き付いてこそCMたり得ると感じていた。しかし下條の述べるように

帰属説を援用(「いや、自分の場合はコマーシャルの影響などではない、自分本来の好みなのだ」)

すれば、潜在記憶に刷り込むCMが強力であることが理解される。頭にリフレインされるCMには抵抗を覚えるが、

このように潜在記憶に刷り込まれたCMは意識しないだけに全く抵抗できないからだ。

その意味ではこのように潜在記憶に語りかけ、情動に転化させるコントロールに対して我々に何が出来るだろうか。

そう、何も出来はしない。例えばマクドナルドの椅子は硬い。

長居しづらくすることで回転率を上げることを狙ってそうなっているのだ。

というような話を知っていたとしても実際に抵抗することは難しいだろう。

座り心地が悪ければそう長くないうちに自然と立って店を出るはずだ。

そしてその時に、「椅子が硬かったからではない、外の空気を吸いたかったからだ」などと、

別原因に帰属させてしまうことになる。だがしかし当の本人は自由な行動をとったつもりでいる!

 

 こう考えていくと現代では消費者として完全に「自由」でいることは不可能なのかもしれない。

原題においては、意識される拘束と意識し得ない拘束が我々を取り巻いている。

B.Schwerzが“The Paradox of Choice”で述べているように、現代は「過剰な選択」にあふれている。

そしてそれは表面的には安定を与えるが、潜在的な不安を人間に与える。その潜在的な不安を

コマーシャリズムは狙っている。現代コマーシャリズムの本質は、論理的な説得を目指すものではなく、

ブランドイメージの定着や意味の連想を期待するものでもない。

古典的-道具的という二種類の条件付けか、あるいはサブリミナルに訴える単純呈示効果にこそ本質がある。

いまやコマーシャリズムは、人間の非常に抵抗しづらい部位の狙撃者となったのだ。

 

 

木許 裕介の本棚 2009.6.17 | by admin

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)

 

『カフーを待ちわびて』(原田マハ 宝島社,2006)を読了。

 第一回日本ラブストーリー大賞の大賞受賞作で、作者は作家 原田宗典の妹である。

原田宗典は、僕の人生にとって無くてはならない作家のひとりだ。

小学校時代、友人にこの作家のエッセイを紹介されて以来、エッセイ・小説問わずすべて読んできた。

その軽妙な語りと、ちょっと不気味で時に暖かい小説に惹かれてきた。

その妹はどんな文章を書くのだろうか。本を開く前からとても気になって、一時間ほどで一気に読みとおした。

 

 というわけで以下感想。

何と言っても映像的な描写が上手い。

全体的に映像化しやすそうな小説で、映画化される運びになったのも当然だと思う。

同時に、これは場所の設定が全ての小説だ。この場所で無くては成立しない。

展開は「おいおい」と首を捻りたくなるところもあるが、ベタベタな構成に陥らないところは好感がもてる。

文章はそれほど上手いとは思わない。出だしのところ、登場人物や設定の紹介を兼ねて話が進んでいくあたりは

説明している感じが前に出すぎていて少し違和感を覚える。

コナンで事件が起きた直後、登場人物たちが自分のプロフィールを話すときのような説明っぽさがどことなくある。

この辺りは小説としてまだ作者が駆けだしであることを伺わせる。

 

 読み終わってみるとタイトルの意味がやや分からなくなったりしたが、とにかくこのタイトルのインパクトは大きい。

サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に内容が少し似るところがあるから、

これにかかったタイトルなのかもしれない。

表紙の写真は空気感を良く捉えており大変美しい。映像感に溢れるこの小説と良い相性である。

あまり読者の目にとまっていないと思うが、注目すべきは表紙を外したあとに出てくる装丁だ。(単行本版)

表紙とまったく異なる印象の写真が全面に使われており、どこかゾッとする光景が広がっている。

単行本をお持ちの方は表紙を外して見て下さい。

 

 話が装丁の方に行ってしまったが、さらっと楽しめて幸せな気分になれる、そこそこ面白い小説だったと思う。

この小説、映画化だけでなく、いずれドラマ化までされそうな気がする。

 

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修 NHK出版,2003)

 

 NHK出版から出ている哲学のエッセンスシリーズの『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』

(金森修,2003)を読了。

このシリーズは150ページ足らずの薄い冊子の中に思想が手際よく纏められているので大変重宝している。

今回のベルクソンは僕があまり触れた事の無い哲学者だったが、サブタイトルの「人は過去の奴隷なのだろうか」と

著者に惹かれて購入して読んでみた。いやあ・・・これはこのシリーズの中でも相当いいんじゃないでしょうか。

名著だと思います。ベルクソン特有のタームが平易に噛み砕かれており、『負の生命論』などに見られるような

厳しい文章を書く金森先生の文章とは思えないぐらい、本書はやさしく語りかけてくる。

純粋持続に関する章も面白かったが、一番面白かったのは「知覚」に関する章。

(ベルクソンの知覚論は彼の「純粋持続」という概念に立脚しているので、両者はバラバラのものではない。)

 ベルクソンにとっての知覚とは、

 

「物そのものに人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側から何かを足すことではない。

それどころか知覚とは、本来ははるかに複雑で流動的な物の総体から非常に多くのものを抜き去ること、

引き算すること、無視することである。」(本書P.67,68)

 

こうあるように、ベルクソンの哲学における知覚とは引き算なのだ。

我々が世界のあらゆる事象、周りを取り囲むもの全てを認識してしまっては、家から大学へ行くという日常的な行為に

おいてすら、困惑せずにはいられまい。知覚は微細な運動や変化を無視することによって、だいたいの輪郭や

だいたいの様子をまとめあげる。知覚はある種の省略なのである。

そして、省略法としての知覚と同様の働きをする行いが【ことば】に他ならない。

「家から大学へ行く」という行為を「家を出て電車に乗って駒場東大前駅で降りる。」と言語化した時、

本来的な流動の世界の混沌(実際に「家から大学へ行く」という行為において直面する色々なこと、

たとえば鍵を閉めたり車をよけたりSuicaにチャージしたり改札機にタッチしたり…etc)を明瞭化し、単純化している。

 

「ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度

的確に動き回るのに十分なだけの素描を固定し、決定するための装置である。」(同書P.72)

 

では、知覚でも言語でもない「記憶」はベルクソン哲学ではどのように捉えられるのか?

記憶は劣化した知覚なのだろうか?

ベルクソンは、記憶が劣化した知覚だという考えを否定し、両者が全く別物であることを主張する。

彼の主張では、

 1.記憶

 2.記憶心像 le souvenir-image (さらにその背景に〈純粋記憶〉le souvenir pur が存在)

3.知覚

の三つが存在しており、この三つが直線で繋がる、すなわち記憶心像を介することで記憶と知覚が繋がっているとする。

この構図で考えたとき、純粋な知覚なんてものは存在し得ない事が分かるだろう。

つまり、なにかを知覚するとき、その瞬間に記憶=過去に知覚が影響されることになる。

そう考えると、

 「君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、

君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、

君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心臓像が物質化しつつあるものに他ならない」(同書P.84) のである。

 

勘の良い方ならもう気付かれていることだろうが、これこそが表題の「人は過去の奴隷なのだろうか」

という問いかけの内容なのだ。それに対するベルクソンの答えは、やや曖昧だが、

「そうではない。」という答えだと考えてよいのだろう。

 

その根拠は「自由」と関連しているようだが、それがイマイチ僕にはまだ理解できていない。

本書を通じてベルクソン自身の書に挑戦してみようという思いを抱いたので、『時間と自由』及び『物質と記憶』

などを読んで、最後の問題を考えてみたい。

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

【番外編】『Nuovo Cinema Paradiso』(トルナトーレ,1989)

 

 「こんな本を読んできた」企画と称しながらこっそり映画を混ぜてみたり。というのは、あまりにもこの映画が素晴らしかったからだ。疑いようもなく、今まで見てきた映画で最高の映画だ。最後のシーン(完全版に入っている「あの」シーン)だけでなく至るところで泣かされた。涙だけでなく、体が何度も震えた。主人公が彼女の家の下で待っている時のシーンなど、一切台詞無しにそのショットだけで金縛りにあったような感動を与えてくれる。暗い青、壁の苔、落ちる影、そして遠くにあがる花火。奇跡のように美しいショットだ。あげていけばキリがないぐらい素晴らしいショットやシーンがこの映画にはある。冒頭の波の音とともに暗闇に風が吹き込んでくるようなショットに始まり、雷の鳴る中で回り続ける映写機をバックにして彼女と会うショット、錨を前にして海で話すショット、「夏はいつ終わる?映画なら簡単だ。フェイドアウトして嵐が来れば終わる。」と語ったあと豪雨の中で眼前に彼女が突然入ってくるショット、五時を確認しようとする時の時計の出し方、映画とリアルの素早い交錯、電車が離れていく時にアルフレードだけ視線を外している様、どれも上手すぎる!再会するシーンで編みかけのマフラーがほどけていく構図、明滅する光を互いの顔に落としつつ話すショット、最初の葬儀のシーンと最後の葬儀のシーンとでのトトの成長を映しつつ周囲の人や環境の変化をさり気なく見せる対比の鮮やかさ、そして最後のあのフィルムを見るときの少年に戻ったような様子などは天才的としか言いようがない!!青ざめた光と暗闇の使い方が神がかっている。

 ショットだけでなく、胸に刺さるようなセリフも沢山ある。

「人生はお前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。行け。前途洋洋だ。」

「もう私は年寄りだ。もうお前と話をしない。お前の噂を聞きたい。」

「炎はいつか灰になる。大恋愛もいくつかするかもしれない。だが、彼の将来は一つだ。」というアルフレード、

「あたしたちに将来は無いわ。あるのは過去だけよ。あれ以上のフィナーレは無い。」というエレナの台詞、

どれも忘れる事が出来ない。それとともに音楽の何と上手いことか。使われている音楽はさほど多くないが、メインテーマを場面に応じて微妙に変奏し、旋律楽器を変え、リズムを崩し、何度も何度も繰り返す。繰り返しが多いだけに、途中で突然入ってくるピアノのjazzyな和音連打を用いた音楽が頭に残る。そして、この特徴的な音楽を、最後のシーンでなんとメインテーマに重ねてくる!モリコーネの凄いセンス!!

 最後に。この映画に流れるテーマは「時間」ではないだろうかと感じた。人の成長、恋愛、生死、周囲や環境の変化、技術の進歩、そして時間を操る芸術としての映画!どれも時間を背負うことで成り立つものだ。本映画は「時間」を軸にして沢山のものを描いている。映画に出てきたNew Cinema Paradiseは時とともに朽ち果ててしまったが、この映画は長い年月に耐えうる名作に違いない。

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『経験を盗め』 (糸井重里 中公文庫,2007)

 

 糸井重里『経験を盗め 文化を楽しむ編』(中公文庫、2007)を読了。随分前に買って最後のほうだけ読み忘れていたので、ドイツ語の時間に暇を見つけて読んでしまった。日本を代表するコピーライターの糸井重里が、各分野の達人たちとその分野を巡って繰り広げた議論の様子が収録されている。さすが「欲しいものが欲しいわ」のコピーを生み出した糸井だけあって、「経験を盗め」というタイトルも刺激的。思わず買ってしまう。  この本の中で触れられているテーマは、グルメ・墓・外国・骨董・祭・作曲と詞・日記・花火・ラジオ・トイレ・豆腐・落語・水族館・喋りなどである。一見して分かるようにかなり広範囲にわたるテーマを扱っており、糸井との対談に登場する方々も多様である。同じくコピーライターの仲畑貴志が骨董を語るかと思うと、東大先端研の教授である御厨貴が話術について語ったりする。(まったくどうでもいいのだが、この両者を取り上げたのは「たかし」が共通しているからである。そういえば立花さんも・・・。)全体を通じて軽妙な書き起こしで、大変読み易い。印象に残った部分は「グルメ」についてを扱う章で里見真三が述べた言葉。「これは私の持論ですが、上半身であれ下半身であれ、粘膜の快楽を過度に追求する者はヘンタイと呼んで然るべきです。」

 次に、「花火」についてを扱う章で冴木一馬が述べる「日本の花火は三河地帯が発祥とされています。中国人が作った花火を最初に見たのが徳川家康で、一緒にいた砲術隊が家康の生誕地である三河に技術を持ち帰って伝えた、と。当時、火薬は砲術隊、鉄砲屋しか扱えなかった。ところが徳川政権が安定してくると戦争がないから鉄砲が売れない。それで鉄砲屋が花火屋に移行していったようです。」という言葉。 

 そして「豆腐」についてを扱う章で吉田よし子が述べる「ちなみに穀類プラスその二割の量の豆を食べるだけで、全必須アミノ酸をバランスよく摂ることができるんですよ。人類は、穀類と豆の組み合わせで生き延びてきたと言ってもいい。」などだろう。「落語」を扱う章には先日行ってきた新宿の末広亭の名前が挙がっており、何となく嬉しくなった。あと、御厨さんが登場する章では、御厨さんの様子を御厨ゼミに所属しているS君から時々聞いているので、それと重ね合わせて読むと妙に面白く思えてしまった。(読後すぐにS君に本書を紹介した。)さらっと読める割に、内容がしっかりある素敵な本だと思います。 

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『あさ』(谷川俊太郎+吉村和敏 アリス館,2004)

 

 谷川俊太郎による詩と吉村和敏による写真とのコラボレーション、『あさ』を読んだ。「ひかりにくすぐられて」なんてフレーズには流石の一言。「朝のリレー」という詩の中盤、 この地球ではいつもどこかで朝がはじまっているぼくらは朝をリレーするのだ。経度から経度へとそうしていわば交替で地球を守る には「いいなあー」と呟かずにはいられない。写真も朝の光やグラデーションを見事にとらえた透明感に溢れるもので、詩との相性が素晴らしい。最後に置かれた「美しい夏の朝に」を読んでいるうちに、ランボーのAube「黎明」を思い出した。 J’ai embrassé l’aube d’été.Rien ne bougeait encore au front des palais.L’eau était morte.Les camps d’ombre ne quittaient pas la route du bois.J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes,et les pierreries se regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit… (僕は夏の黎明を抱きしめた。宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。…) ランボーの詩とともに、「よがあけて あさがくるっていうのは あたりまえのようでいて じつは すごく すてきなこと」という谷川俊太郎のあとがきが深く染みてくる。 

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『快楽の動詞』(山田詠美 文春文庫,1993)

 

 山田詠美『快楽の動詞』(文春文庫、1993)を読了。何とも軽妙なエッセイ集。エッセイと小説の間、ある種の批評といった方が的確かもしれない。作品の中に入り込む「書き手」としての視点と、作品を読む「読み手」としての視点を山田詠美が自由自在に行き来する妙技が味わえる。やはりこの人は文章が上手い。

 さらっと読める割には、随所に鋭い指摘があって読んでいて頷かされることも多々あった。「単純な駄洒落は、〈おもしろいでしょ〉というそれを認めた笑いを求める。しかし、高品位な駄洒落は正反対に、〈おもしろくないでしょう〉という笑いを求めるのである。前者の笑いは、わはははは、であるが、後者の笑いは、とほほほほ、である。」  うーむ・・・なるほど。

木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『花祭』(平岩弓枝 講談社文庫,1984)

 平岩弓枝 『花祭』(講談社文庫、1984)を読了。前述した山田詠美の小説と一緒に古本屋で50冊ほど纏め買いした中の一冊である。話の筋は別段上手いわけでもないし、ちょっと最後も予測がつく展開。「こうなったら最後はこうならざるを得ないだろうなー」と思って読んでいるとその通りの展開。おそらく殆どの読者が予想する通り。裏表紙には「激しい愛を寄せる青年調香師・彰吾が現われて」とあるが、それはちょっと違う気がする。激しい愛を寄せたのは別の人間であって、主人公の彰吾自体は密やかな愛を寄せていたのではないか。本文中に「ゲランの夜間飛行を愛用している」という一節があったが,今となってはこの香水が入手困難であるだけに、この小説が書かれて20年以上前のものであったことを感じさせる。内容は取り立てて良いとは思わないものの、『花祭』というタイトルが素敵だと思った。