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木許 裕介の本棚 2009.6.3 | by admin

『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(金森修 NHK出版,2003)

 

 NHK出版から出ている哲学のエッセンスシリーズの『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』

(金森修,2003)を読了。

このシリーズは150ページ足らずの薄い冊子の中に思想が手際よく纏められているので大変重宝している。

今回のベルクソンは僕があまり触れた事の無い哲学者だったが、サブタイトルの「人は過去の奴隷なのだろうか」と

著者に惹かれて購入して読んでみた。いやあ・・・これはこのシリーズの中でも相当いいんじゃないでしょうか。

名著だと思います。ベルクソン特有のタームが平易に噛み砕かれており、『負の生命論』などに見られるような

厳しい文章を書く金森先生の文章とは思えないぐらい、本書はやさしく語りかけてくる。

純粋持続に関する章も面白かったが、一番面白かったのは「知覚」に関する章。

(ベルクソンの知覚論は彼の「純粋持続」という概念に立脚しているので、両者はバラバラのものではない。)

 ベルクソンにとっての知覚とは、

 

「物そのものに人間の感覚器官が働きかけ、対象に人間の側から何かを足すことではない。

それどころか知覚とは、本来ははるかに複雑で流動的な物の総体から非常に多くのものを抜き去ること、

引き算すること、無視することである。」(本書P.67,68)

 

こうあるように、ベルクソンの哲学における知覚とは引き算なのだ。

我々が世界のあらゆる事象、周りを取り囲むもの全てを認識してしまっては、家から大学へ行くという日常的な行為に

おいてすら、困惑せずにはいられまい。知覚は微細な運動や変化を無視することによって、だいたいの輪郭や

だいたいの様子をまとめあげる。知覚はある種の省略なのである。

そして、省略法としての知覚と同様の働きをする行いが【ことば】に他ならない。

「家から大学へ行く」という行為を「家を出て電車に乗って駒場東大前駅で降りる。」と言語化した時、

本来的な流動の世界の混沌(実際に「家から大学へ行く」という行為において直面する色々なこと、

たとえば鍵を閉めたり車をよけたりSuicaにチャージしたり改札機にタッチしたり…etc)を明瞭化し、単純化している。

 

「ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲して、この複雑な世界のなかをある程度

的確に動き回るのに十分なだけの素描を固定し、決定するための装置である。」(同書P.72)

 

では、知覚でも言語でもない「記憶」はベルクソン哲学ではどのように捉えられるのか?

記憶は劣化した知覚なのだろうか?

ベルクソンは、記憶が劣化した知覚だという考えを否定し、両者が全く別物であることを主張する。

彼の主張では、

 1.記憶

 2.記憶心像 le souvenir-image (さらにその背景に〈純粋記憶〉le souvenir pur が存在)

3.知覚

の三つが存在しており、この三つが直線で繋がる、すなわち記憶心像を介することで記憶と知覚が繋がっているとする。

この構図で考えたとき、純粋な知覚なんてものは存在し得ない事が分かるだろう。

つまり、なにかを知覚するとき、その瞬間に記憶=過去に知覚が影響されることになる。

そう考えると、

 「君の現在は、君の過去から逃れられない。君の記憶の膨大で奥深い厚みは、君の現在の知覚に押し寄せ、

君の知覚をほとんど無に近いものにしてしまう。君がいまこの瞬間知覚している、と思っているものは、

君の純粋記憶から養分を受け取った記憶心臓像が物質化しつつあるものに他ならない」(同書P.84) のである。

 

勘の良い方ならもう気付かれていることだろうが、これこそが表題の「人は過去の奴隷なのだろうか」

という問いかけの内容なのだ。それに対するベルクソンの答えは、やや曖昧だが、

「そうではない。」という答えだと考えてよいのだろう。

 

その根拠は「自由」と関連しているようだが、それがイマイチ僕にはまだ理解できていない。

本書を通じてベルクソン自身の書に挑戦してみようという思いを抱いたので、『時間と自由』及び『物質と記憶』

などを読んで、最後の問題を考えてみたい。