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2010年度《見聞伝 駒場祭特設ページ》
内田樹さんに会ってきた 2011.3.18 | by shuntaroamano

7.”材料”・”道具”、研究だって仕込みが大事

G それは研究にも当てはまることですか。積み上げて積み上げて…

内田 そうそう、もちろんそう。だからその、膨大な先行研究をきちんと踏まえていって、ある程度知識があって、推論の方法についてのきちんとした自分の道具ができていて、そのうえで始める。だから、材料があって、調理道具もあって、包丁もきちんと砥いであるという状態で、さあ料理作るぞっていう感じであってね。材料はもやしと豚肉しかありません。包丁もこんなのしかなくて、なんでこんなのしかないの、って。それで何か作れっていわれても、それは無理だよ、やっぱり。本を読んだりというのは材料の仕入れだよね。もやしがあってレタスがあってこしょうがあって、というふうに調味料があって素材があって。で、研究方法っていうのは調理道具だよね。包丁だったりとかお鍋であったりという。お鍋の火力が強かったり弱かったりというのもあるじゃない。火がちょろちょろしか出なかったら作れる料理は限られているわけ。グオーッと出なければチャーハンができないし、巨大な鉄のなべがないと、おいしいチャーハンができないというのと同じで。その、仕込みがいるわけだよね。

研究だってさ、全部仕込みなんだよね。仕込みがあればあるほど、おいしい料理が出来る可能性がある。もし、すっごく賢い人だったらね、本当にわずかな材料と手持ちの本当に乏しい調理器具でそれを最大限のパフォーマンスで活かせばとんでもなくおいしいものを作れる人だってあるかもしれない。けれど、それは悪いけど一品だよね。せいぜいできてもね。「この材料とこの道具で作りました。」「うん、これは確かにうまい。」ってなるけれども、他には、と訊かれると、いや、これしかできない、って。だけど、材料がいっぱいあって、調理道具も沢山、ぴかぴかにそろえていれば、ずいぶんいろんなものができる。そうめんだけ、というのからフレンチまで。その幅だよね。だから仕込み、研究者の仕込みというのは大切。実際にはその、仕込んでいくのと同じで、ザーッとあって結局使わなかったというのもあるんだよね。これだけ材料も調理道具も沢山そろえて、結局使った包丁もなべもこれだけだし、材料はこれだけだった。他は全部なくてもできたのだけど、でも今度は違うことが出来る。これにこれをのっけたらあれができたね、とか。次はそういうのを作ってみようってなる。

G では時には自分が思っても見なかった料理が完成することもあるのですか。

内田 そうそう。見ているうちに、えーって。これとこれって従来なら組み合わせないけれども、やってみたら結構いけたりして、と思ってやってみたら、これはうまい、っていうのができることがある。やっぱり旬の材料を仕込んでおくのって大切。あとはやっぱり道具だね、とにかく。どんなにいい材料でも、包丁が切れなかったらいい料理にはならないからさ。

X 大学時代は、材料を揃えるのと道具を揃えるのはどちらをするべきでしょう。

内田 同時だと思うんだけれどもさ、その、人の資質によると思う。まず道具をとがらせたいとかさ、ものすごく切れ味のいい包丁っていうのを手に入れたいというタイプの人と、いろんな材料とか香辛料を揃えたいな、という人とタイプがあって、どちらとはいえない。でもあんまり切れ味のいい包丁を先に持っちゃうと、活動領域が狭くなっちゃうというのはあるね。あんまり切れ味のいいのを持っちゃうと、自分のこの切れ味のいい包丁では処理できないものにたいして、料理には使わない、それはないんだ、ってなっちゃって、結局自分がいつもよく使っているスパスパ切れるものばっかり、やわらかい材料ばっかり使うようになることがあるからね。

X 先生は、大学時代は材料を集めるほうだったのですか。

内田 僕はね、材料を集める人というよりは材料を捨てない人だったのね。よく冷蔵庫の中にザーッといっぱい入っていてさ、「なんにもは入らないじゃないか、詰まっていて。」ということがあった。子供の頃から詰め込んだ情報なんかを全部入れていって、何かに使えるんじゃないかな、って捨てないという人だった。

X ブリコルール的な…

内田 そうだね。まあまあ包丁に関しては砥いでいったけれども、材料に関しては捨てない方だね。でも手間は一緒なんだよ、たぶん。集めるのと捨てないのと。だから何か買ってきて、買ってきたーって言ってこれは最新のものだ、って思っていたらさ、奥のほうにあったりするんだよね。「これ?」って。いつ買ったのこれ、というと実は二年前ぐらいにだよ、ってことがさ、結構あるのよね。大体ね、ぼーっと暮らしていても、普段何気なく暮らしていても、これはいつか使えるんじゃないか、という素材はちゃんと材料庫に入れているんだよね。いつか使ってやろう、って。それを自分がそこに入れている、というのを忘れているだけで。最近こういうのが流行りだ、これしなきゃだめだ、って言われたら、「へー、それってこれ?」みたいな。前から持っているよ、というのはある。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.18 | by shuntaroamano

6.「楽しい」と「鬱陶しい」

V それは先ほどの、人とのネットワークという話とも関係するのですか。

内田 そうだなあ、関係はもちろんありますよ。

V 最近、先生の言うところの「飛び込み」で能を始めたのですが、そうしたらクラスに能にとても詳しい人がいることが分かったり、その詳しい人から「大学の教授のこれ読んでみろ」とか言われたりするようになって。そうやってネットワークが広がっていくのが楽しいと思うのですけれど、先の会社の話もありましたけれど、ネットワークが広がるというのは、どこまでが楽しくてどこからがもう嫌だ、ってなっちゃうのですかね。

内田 難しいね。本当に難しいところで、おっしゃるとおり、よくわからないんですよ。広がっていって、あるところまでは広がってどんどん友達が出来て楽しいな、となるのだけれど、あるところから後、なんかうっとうしいな、ってなる。その線はどこですかっていわれても、たぶん自分でコントロールできる範囲は限られているのね。何人くらい、とマジックナンバーでいうと25人くらいじゃないかな。まあいろんなセクターで25人ずつってことだけれど。例えば出版関係だったら、出版業界に25人、いや、多すぎるな。これに関わる人たちで25人くらい。出版社のエディターとかカメラマンとか、ジャーナリストとか、批評家とかを含めて25人くらいかな。一業種、一つの仕事について25人。それくらいが親しく出来る限界で、それ以上になると、ちょっとあの… ほら、遊牧民のバンドも大体25人でしょ、マジックナンバーって。一番下が7か8で、次が25。大体これが基本だよね。ある程度の仕事でこれくらいが限界じゃないかな。それを超えたメンバーでやろうとするとちょっと無理じゃないかな。

V それからもう一つ訊きたい事があって、著作の中に「ぐるぐる」とあったじゃないですか、流通についての…

内田 あ、福岡先生とやったやつだね。

V そうです。最近内山先生の著作のなかで、交換があるから流通が促進されるというのを読んで、先生の著作の中でも、交換に対する欲望というのが、あれはどのあたりでしたっけ。

内田 交換に対する欲望について書いたのはなんだっけなあ。いろんなところに書いていますから(笑)。で、ご質問は。

V 今日、先生のブログの記事を読んだのですが「価値があるからこれを渡そう、というのではなくて、まず交換をしたいから何かわけのわからないものをどこかから持ってきて交換するんだ」という考えと、「流通が先に完成したから生産が促進されるんだ」という内山さんの論が重なったので、関係があるのかなと思いまして。

内田 うーん。でもまあ、人類学的に言ったらまず流通。交換といいますか、どこかに書いたと思いますが、物がスムーズに交換されるためにはいろんなインフラストラクチャーの整備がいるわけですよ。生産活動をするにしても、製品を交換するためには、例えばまず貨幣制度みたいなのから、共通の言語があるとか、通信手段があるとか、運送手段があるとかが必要。要するに、一個やるためにもその周りに付属する膨大な知識や技術が必要なわけです。トロブリアンド群島のクラ儀礼にしても、クラ儀礼自体はぐるぐるぐるぐる貝殻を回すだけであって、貝殻自体にはなんの価値も無い。この貝殻をぐるぐるぐるぐる回す、十年単位で一周させるためには、まず船をつくらなくちゃいけない。造船、それから操船、船を運航する技術だよね。そして海洋についての学、気象についての学、天文についての学とかね。船で隣の島に行くということが交換の為に義務づけられた瞬間に、それに付随して膨大な数の人間的な技術や知識というのが必要になるわけであって、たぶんそっちなのだと思う。そういうような技術を獲得するために、クラ儀礼みたいなことが行われる。あたかもこれが目的であるかに見えるのだけども。本当はあの、近隣の異族たちのあいだで共通の言語をもったり共通の度量衡を持ったり、共通の交通手段・通信手段を持ったり、あるいは宗教儀礼としてやってみたり、そういうことが目的。一個の何かを交換する、というのはそれに付随して膨大な数の、たぶん無限の知識とか技術というやつを要求するわけですよ。たぶん、やろうと思ったら。そっちが目的だと思う。これは、あたかも目的であるかのように仮称しているけれども、実際はそれがスムーズに動くことが目的。

ビジネスもそうかな。平川君も何度か書いているけれども、ビジネスというのはそういうある種の商品をやりとりしているというのではなくて、それをやることを通じて、実際には人間と人間の間で様々なやりとりがあって、それは、このビジネスを面白くするためにはいろんなことができなきゃいけない、ということ。だから、すごく大きな遊びをしようと思ったら、例えばアップルのスティーブ=ジョブスさんがすごいことをやろうと思ったら、iPadみたいなああいうものを作って、みんながおおとか言って300万人も買いに来るといったようなことをやりたいなあと思ったら、そこに至るためにはものすごく巨大な基盤が要るわけですよ。その巨大な基盤を作ったうえでしかああいうゲームが出来ない。ああいう新製品を開発してそれをマーケットに提示して、みんながおお、となるっていう、この、どっちに力点があるのかといったら、実はあれだけの大きな遊びをするためにはこれだけの仕掛けが要る、ということの方だと思う。

だからビジネスマンがすごく楽しいというのはね、ここまでやらなければ、これほどまでに面白いゲームはできなかった、という部分があるでしょ。わずかな投資、持ち出しで経験できる楽しみよりは、積み上げていった膨大な努力の果てに出来る遊びのほうがいい、と。膨大な努力を積み重ねなければできない一瞬のゲームというのがあるわけで、それをやっぱり優れたビジネスマンたちは求めているのではないですかね。だから、面白いからやっていると言う人は実は割りと、本質をつかんでいる。何が楽しいかと言うと、これを積み上げていくのが楽しいということですよ。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.18 | by shuntaroamano

5.私の身体は頭がいい

G 先生が趣味になさっている武道は、どちらかといえば一人でグーッとやるよりはコラボレーションの要素が強い感じがするのですけれど…?

内田 うーんとね、趣味じゃないんだよね(笑)。 本業なんですね、こっちが。

X そちらが本業なんですか(笑)。

内田 武道が本業なんですよ(笑)。お金を稼げないっていうだけでね。でも来年からはいけるんじゃないかな? 僕はずっと大学の先生なので、立場上教えていてもお金は取っていないのだけど、来年からはお金ちゃんと取るから。そしたらまあ本業と言って差し支えないと思うんだけどね。武道の場合、コラボレーションじゃないんだよね。コラボレーションに見えるのだけれど、どちらかというと内側に入り込んでいく。自分の身体の内側で起きていることをずっと自分でモニターしていくっていうかね。最初は筋肉とか骨格といったところをみているのだけれど、もっともっと内側に入っていく。そうやって内臓感覚とか細胞の震えとか、細かい皮膚の割れとか触覚とかそういうのにずっと入っていくようになる。

どっちかっていうと、皮膚のところに境界線があるとすると、外側よりも内側に入っていく感じ。目の前で、なんか人がやってきてこう手を取ったりついたりとか投げたりとか(自身の右手を左手で掴む)、というときに、そっちではなくて内側を見ているんだよね。何かが来たような感じがしたときに何かがこう体の中で反応していて、その反応のほうを見ている。相手を見ているわけではなくて。自分の世界で何か出来事が起きているときに、自分の内側でおきている内側の変化にずっと集中して、内側がこっちいきたいといったらそっちにいく(左右を順に指す)、っていうかね。これをこうしたらいいといえばこうする、みたいな感じで。外界に反応しているというよりは、内側からでてくる―内側から出てくるっていうのではないな―内側のなんかこうシグナルみたいなものに反応するという意味では、どちらかというとやっている時は遠くを見ていて、軽いトランス状態って言うか、瞑想状態に近い。目の前にいる敵とガーガーやるというのとは違う。

それはボクシングの人に訊いても似ていて、激しいインファイトの時は相手を見ていないって。本田さんというプロボクサーの人に訊いたことがありますが、ジュニアフライ級の世界タイトルの時なのだけれども、もうこんなに接近して打ち合っている時というのは、当然相手がこう来たからこう避けよう、というのではない。どこ見ていましたか、って訊いたら、つま先を見ていたって言うのだよね。相手のつま先を見ていると、こう自然に身体が反応する。するとこう一枚のところで避けていくという話をしたことがある。そう動こうとしているわけではなくて、つま先を見ていると自分の身体の中に何か反応が起きるわけでさ、その自分の反応に素直に従って動いていけばいい。やっぱり人間は生物だから、危険を避け、不快を避け、快を求めるということに関してはもうそのための装置がビルトインされているわけだから、それが活動するようにすれば、必ず、自動的に危険は避けられる。

G じゃあそういう自分の声を聴くというか…

内田 内心の声ね。無声の声を聞くというか、心耳をすまして無声の声を聴く。禅語にあるけれど、その感じに近い。

G それは音楽とか能とか他の様々な芸術に通じるものですか。

内田 能楽は完全にそうだと思うね。能楽はね、最初はもちろん武道的な興味からはじめて、中世人の身体運用を研究してみたいと思ったのだけれど、しばらくやってみて、なんでこんなことやるんだろう、っていうのがわからなくてね。能の型というのはただ三間四方の舞台をただくるくるこっち回ったりあっち回ったり、前行ったり後ろ行ったり、手を出したり広げたり、そんなことをやって、それだけでさ。なんじゃこりゃって。簡単だしさ、ある意味でね。でも、なんでこんな簡単なことにみんな五年も十年もかかるのだろうと思っていたのだけどね。

やっていくうちに分かったのだけど、実際に能舞台に立つとお仕舞とか前ばやしとかいろいろなものがあって、後ろで実際に囃し方の人がついて、囃子やって、地謡の人が地謡やっている。それで自分だけポコッと中央に出て舞台やっていると、もう舞台の上ってシグナルがこう渦巻いているのね。ものすごい勢いで。柱があったりだとか、まあ囃し方っていうのも人間であると同時に舞台装置でもあってね。人間っていうのはそこにいるだけで、引力とか斥力というか、押し戻す力と引きつける力がある。その人たちがこういう風に隅のほうにいて、そこにいくと、謡が始まるとぐっと引き寄せられるの。囃子にしてもひき付ける囃子と押し出す囃子がある。それで謡があって囃子があって、全体のストーリーがあると、必然性があるんだよね。何でここで足かけて回って三足出て開きなんだろう、と思っていてもね、実際に感度が良くなって舞台に出てみると、これ以外にない、っていう唯一無二の線を辿るわけなのよ、身体がね。へえ、と思って。

かっこいい型をするというのではなくて。いろんなシグナルが飛び交っている中で、センサーがいい人というのはそういう型でしか動かない、このリズムでしか歩かない、というのがあって、それをとれ、ってことなんだよね。だから、身体感覚というか、身体的なセンサーの感度をずーっとあげていったら、―よく先生がいうのだけどね―何にも考えなくても動けるようになる。型なんか、次こう出して、とか思わなくても、ある程度稽古したら自然に身体が動くようになるからって。沢山稽古して型を覚えて、型が完全に入っちゃえば、オートマティックに動くということだと思っていたのだけれど、そうじゃなくて、必然性のある道順の線がわかってくる、っていうことだった。ここでこっちに身体が来るのはありえない、というふうにね。それがだんだんわかってきて、面白いなーって。

結局能楽みたいなものでも武道と同じでね。まあ能楽は式楽だから昔は武士しかやらなかったのだけれども。あ、武道的な身体運用と能楽の身体運用は、自分の周りの感界っていうか環境の中で、いろいろな微細なシグナルが発信されるのだけど、それを聞き取って、最適動線を最適な速さで動いていくっていうことに関しては変わらないなあって、思ったのでした。それは最近わかったのだけれど。

L 『私の身体は頭がいい』。

内田 本当にね。自分の身体の中に、とにかく機能がまだオンになっていないのがいっぱいあって、それを一個ずつオンにしていくという感じですよ。

S 生まれつきそういうことができる人とか、生まれつきそういうことに気付きやすい人とか、そういう人はいるんですか?

内田 多少の違いはあると思うけれどね。でも、きっと身体的にはみんな条件は同じなんだよね。それでやっぱりブレーキをかけるのは頭だから、そのブレーキが強い人というのはいると思う。つまり例えば、身体が嫌がっていることがあるのだけれど、でもしなきゃいけない、しろ、みたいな感じで身体に命令する。そういう強い規範力というか、指南力というか、支配しようという強い脳があると、身体感覚は鈍感になっちゃう。

やっぱり身体は休みたいとか飯食いたいとか、寝たいとか、何かしたいというのがあるわけでね。こういうふうに身体を動かしたい、というのがね。脳の方は割ときちんと予定を作って、今日は何時から何時までこれやるから、みたいな感じでさ。さあ時間になったから走ろうとか。身体が走りたいときに走ればいいわけなのだけれども、毎日六時から八時まで走るとか決めてしまうと、嫌だな、というときも走るわけでしょ。これってやっぱりどこかの段階で身体の発しているシグナルに対する聴き取る力というのがオフになっちゃう。だから意志が強い人とか自制心の強い人というのは、実は身体感覚が育たないんだよね。

X 先生はそういう自制心というのは…

内田 ガキの頃から自制心のない子供だったからね(一同笑)。 全然利かない人だったの。

X でも大学の先生をやっていらっしゃると、やっぱり時間的な制約だとかというのはありますよね。

内田 だからそれが嫌なの。決まった時間に決まったところに行かなければいけない、というのがすごくつらい。

X でも稽古というのは、大学を辞められた後も合気道の道場で…

内田 そうだね、今作っているところ。

X それでも、時間の制約はあるのではないですか。

内田 まあね。でも二階が住居で下が道場だから、やりたいときにできる。稽古中も、途中で飽きたら「じゃあ後はみんなやっといてね、僕は戻るから。」なんて言っちゃうかもしれない(笑)。でもまあ稽古は楽しいからね。稽古は鍛えるというよりも、自分の身体感覚のセンサーがどれくらい利いているか「点検する」という感じだから、毎日毎日やっていても楽しいよ。昨日はこのシグナルに反応したけど、今日は反応しないなあ。なんでだろう、何したかなあ、何をやったからこのセンサーがオンになったのかしら、ということにものすごく興味がある。昨日は分かったけど今日は分からない、みたいなことがあってね。こうやっていると(中空を撫でる)指先にカーッとはっきりしたものが触ったのだけれど、今日は何にも触らねえや、とかね。何で昨日は触れたのに今日は触れないのだろう、っていうような自分の中の身体的な出来事って無数にあるから、それをチェックしていく作業というのは、すごく面白い。

X そういうことに気付かれたのは、稽古を始めてどのくらいしてからですか。

内田 十五年位かな(笑)。強くなりたい、強くなりたい、何とかして強くなりたい、っていって強くなろうとずーっと稽古をしていくと、ある段階でこれ以上強くなれないっていう時が来ちゃう。こんな稽古をやっていたんじゃ強くなれないというのがあって。強い弱いというのを考えていると強くなれない(笑)、っていう壁に来るわけ。強弱勝敗を論じていると、本当にある限界を超えられない。でもそこにいくまでは強弱勝敗っていうのをずーっと考えていて、強くなりたい、負けたくない、というのがないと、壁に当たらないわけ。はじめから、自分は身体のセンサーを敏感にしようと思っていて、なんて感じでヨガみたいにやっていると、この壁に来ない。クーッと稽古をしていると、壁にあたるわけ。ガツーンと。壁に当たらないと、この壁を越えるっていう次の課題が出てこないんだよね。難しいところなんですよ。十五年間くらいとにかく強くなりたい一心でやっていて、十五年目くらいに、このままの稽古法では強くなれないっていうことがわかってきた。

X それは能楽についても十五年くらいかかりましたか。それともそれはやはり関連して短時間で…

内田 能も十…十五年はかからなかったんだよね。十年以上はかかったけれど。何でこんなことをやっているのだろうって、一応言葉に出来るまでに。やっていて楽しいとは思っていた。楽しいなあ、身体が喜んでいる、というのはわかるのだけれど、何で身体が喜んでいるのかはよく分からない。

V 「強弱勝敗を論じず」に関連して、著作の中に「無敵の身体」という言葉がありましたが、それについて質問がありまして。「無敵」ということについて昔と今とでは認識は変わりましたか。

内田 もちろん、もちろん。だから無敵って、(昔は)ガンガンガンガン、とやることを考えていたけれど、今はもう、敵を作らない、ということだよね。「敵無し」ですよ。「天下に敵無し」、みんな友達というやつです。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.17 | by shuntaroamano

4.「だって面白そうなんだもん」

X 先生はそのあとサラリーマンになろうとはお考えにはならなかった…?

内田 一時期、大学院の修士課程の時は、大学院行きながら1週間のうち3日くらいは会社行って、という感じで両方掛け持ちしていました。でも修論は集中して書かないといけないので週3日会社行くとかいうわけにはいかなくなって、その時にとりあえず、半年くらい会社のほうを休ませてもらって修論を書きました。それで博士課程入ったときに、さてどうしよう、と思って。結局、博士課程に入った以上は一応研究者を目指そうと思って、その時に会社はやめました。博士に落ちたらね、それはそれでしょうがないから会社に戻ろうって思ってたんだよ。

G 会社ではなくて博士課程を選んだ直接の理由は何でしたか?

内田 だって面白そうなんだもん(笑)。

X そのころですよね、レヴィナスをお読みになったのは?

内田 そうですね、修論を書いてる頃ですね。そのときは始めて3年くらいの時だったけれども、ビジネスがすごくうまくいっちゃったのね。会社の売り上げが月々倍になっていくみたいな感じで。どんどん新しい仕事にも手を広げていって、編集も出版もやったりとか、コンサルティングもやったりとか、色々なことを始めていた。最初はゼロから、最下層から始めて「今に見てろよ」っていう気持ちだったのが、あっという間に「今に見てろよ」になっちゃって(一同笑) そのとき、なんだ結構簡単だな、ビジネスっていうのは、って思ってね。その、結構簡単だなビジネスは、っていう部分と、でもこれからあと大きくしていくにはものすごい段差があるわけだよね。キックオフしてからそこそこ回っていって、毎月まあ定額の収入が得られていって、売り上げもしばらくは大丈夫そう、という段階までは簡単なんだよね。社員が10人くらいの状態まで。でも資本主義の企業っていうのは、どんどん大きくしていかなければいけない。10人を20人、20人を50人、50人を100人、100人を1000人っていう風にさ。とにかく会社は巨大化していく、ひたすら右肩上がり、っていうのが基本ルールなんですね。でも、もう社員が毎月のように入ってくるわけですがそのうち名前も覚えられなくなっちゃって。あまりに早く大きくなってしまって、ちょっとこれはまずいんじゃないかな、これはあまりやりたいことじゃないな、と思い始めた。最初はすごく面白かったんですよ。仲間内で、みんな学生運動くずれでまともに就職できそうもない奴ばっかりだったのですけど、途中から結構ちゃんとした学歴の人が入って来るようになりました。

L ちなみにその会社はそのあとどうなりましたか…?

内田 そのあと? 21世紀に入った最初くらいまではずーっとうまくいってて、そこで本当は店頭公開して大金持ちになるはずだった。けど、そのあとリーマンショックのころか何かにえらいことになってしまって、この前株主総会の議案が来てたけれどももう赤字でボロボロみたいですね。

X 道をお決めになった時の話に戻りますけど、博士課程に入った時には仕事が面白くなかったというわけではなくて、仕事は面白かったけれども研究のほうがもっと面白そうだった、ということでしょうか?

内田 うん、一つにはね、仕事っていうのはコラボレーションだ、っていうことがある。集団でやることで、3年間くらいみんなで集中してコラボレーションをやってきて、そういうチームプレーはすごく面白かったんだけどさ、ときどきフッと一人になりたいって思うことがあって。結局、書斎の人なんですよ。書斎にこもって細かいことをネチネチやっていきたいという思いがあった。大学入ってから7、8年間っていうのは、大体いつも仲間とつるんで大騒ぎして、もうエンドレス・サマーキャンプ状態でした。いつもキャンプやるっていう感じでワイワイやっていて。それで一回だけ、修士論文書いている半年間くらいだけ籠って書いたことがあって、その修士論文書いているときっていうのが楽しかったんですよね。久しぶりにみんなと別れて一人きりになって書いてね。それで春休みにまた会社とかやっていたんだけど、「サマーキャンプはそろそろ切り上げ時かな?」って感じた。ちょっと一人になりたいな、って思ってね。ギューッと、週4日くらいは誰にも会わないで部屋にこもって、っていうのがやりたくなっちゃったのよ。

X それから先は、逆に寂しくなって、ということはありましたか?

内田 そのころはね、結婚してたからさ。

L 学生のうちに結婚された…?

内田 いや、卒業してすぐでしたね。

S 修士論文を書く前までは、自分から一人になろうということはあまりなかったのですか?

内田 あまりなかったですね。修士論文を書いているときは、やっぱりある程度継続して抽象的なことを考えなくちゃならないので誰とも口を利かないで書くんですね。そうするとゾーンに入るんだよね。グーッと入り込んでいく瞬間がある。その感じっていうのは、みんなでビジネスをやっている時とか学生運動をやってる時には無いんですよ。その、深いところにグーッと入っていく感じは。あの感じが何とも。ある種の霊的な経験に近いのだけどもね。ずーっと自分で本読んだり論文書いたりしてきわどい論理の隘路をたどって進んでいくうちにグーッと入り込んでいく。瞑想するのにも近い。もう、その快感が忘れられなくて。あれをもう1回やってみたくて、会社を抜けて一人で机に向かうことにしたんです。

L 今でもそうですか?

内田 今でもそうですね。ここでも仕事をたくさんやっているんですが、やっぱり早く辞めたい。いままでまた騒がしくやってきたから、また一人になりたくなっちゃったんですよ。

X 今は一人で研究されるということは…?

内田 ああ、時間が全然ないんですよね。原稿を頼まれて書くとか、企画があって、その企画について相談して…っていうのもやっぱりコラボレーションなんだよね。僕の仕事なのだけども、みんなの仕事、みんなでつくっていきましょうという感じなのである種のチームプレーなんです。それはそれで楽しいんですけどね、チームプレーをやっているとゾーンに入るっていう感じは来ないんだよね。ガーッと入っちゃったら、編集者が読んでも分かんないんですよ。「これ何が書いてあるんですか」って(一同笑)。でもそれをずーっとね、長い時間やっていくと、そのあとにすごく広々とした感じがある。それがブレイクスルーっていうものですね。それがあると、そのあといろんな仕事もできるようになるんだけれども、時々一人になって深く縦穴を掘っていく時間がやっぱり必要になる。時々、何年かに1回そういう長い時間が要る。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.17 | by shuntaroamano

3.「若造」、現場へ

S 大学を卒業された後、翻訳会社をお立ち上げになりましたよね?

内田 ずいぶん飛びましたね(笑) それは27歳の時でしたけどね。

S そこに至るまでの経緯がすごく気になっていまして…そもそも何で会社を立ち上げようと?

内田 それはね、話せば長いことながら、というかですね。大学の3年ぐらいの時に翻訳のバイトをしてたんですよ。その頃は英語ができるという評判だったんで(笑) 色々と仕事をやってました。結構みんな貧乏だったから相互支援のネットワークがありましてですね、あいつ最近食うに困ってるらしいって聞いたらじゃあ何かバイト探してやろうっていうんで、みんな次々に持ってくるんですよ。そのときはいろんなバイトやってました。ラジオ放送の台本書いたりとか、翻訳の下訳やったりとか、出版社いくつも紹介してもらったりして。それで仕事をしてるうちに、友達に翻訳会社でインハウス・トランスレーターをやっている子がいて、その子が自分探しの旅へ出ると言い出しましてね。中近東のほうに行ってパレスチナ・ゲリラに参加しようと思うって言って(笑)。でもやめちゃ困るって言われたらしくて、それで、いい奴がいますから、というわけで「内田、お前俺の代わりに入ってくれ」と頼まれて。割と条件のいい翻訳会社のバイトだった。そこに入ってトランスレーターをやって、それからデリバリーボーイもやって、わりとあれこれやっていた。結構高いペイだったので、ありがとう、って思ってやっていました。

それが1976年、77年くらいだったんですがまだ日本は高度成長期のギュンギュン勢いのある頃で、総合商社っていうところが世界中に事業を展開していた。それでもうとにかく火力発電所とかドックとか地下鉄一式とかね、とんでもないスケールのプロジェクトがじゃんじゃかじゃんじゃか来るわけよ。それでものすごい量のドキュメントが、ダンボール何箱っていう量のドキュメントが発生してて、翻訳をキロでやるっていうような時代だった。もう猫の手も借りたいっていう感じでどんどんやっていって、とにかく人手が足りないからもっと他にいないか、ということで友達を次々紹介して。それで友達が5人も6人も入ってきて会社の規模も大きくなっていく、ということがありました。そのあとしばらくそこから離れていたんだけどね。そのうち僕が紹介した友達たちがその会社から一斉に独立して別の会社を作るっていうことになって、「もとはと言えば内田が紹介してくれた仕事なんだからお前もやらない?」っていってきた。だから、やろうやろうって―何を言われてもすぐやろうやろうって言ってましたが(笑)―それが26の時ですね。

G そこで得られた経験っていうのは、その後の内田先生の人生にどのような影響を与えましたか?

内田 やっぱり、すごくよかったと思いますよ。25、6くらいの若造が自分で会社を始める、なんのバックもない資金力もないネットワークもないコネもないっていう状況で。それがビジネス最前線、最もホットなところに突っ込んでいったわけだから。そこしか仕事がないわけですよね。でもそこではものすごく巨大な仕事が発生している。で、そこに突っ込んでいったので、普通だったらなかなか経験できないような、いろんな商社とかメーカーのアツアツのフロントラインで仕事をするっていうことがありまして。あの、それまでやっぱりサラリーマンっていうのを馬鹿にしてたのね、なんとなく。学生だから。サラリーマンっていうのは組織の歯車だ、っていう見方があるじゃない(一同笑)。定型的なさ。さみしいサラリーマンっていうか、ほら、ダークスーツ着て暗い顔して出勤してるっていうイメージがあったけれども。やっぱり、できる会社のできるサラリーマン、というかビジネスマンって、すごく迫力あるし魅力もあるわけだよね。僕が20いくつの時に40代とか50代の人たちと仕事をしたわけだけども、やっぱり迫力がある。それまでひとくくりにサラリーマンはダメなやつらだ、俺は絶対ならないって思っていたんだけど(笑)、実際見るとすごく頭のいい人とかスケールの大きい人もいて。もちろん下らないやつもいっぱいいるわけだよ、でも本当にピンからキリだよ。

どんな場所に行っても仕事ができる人はできるし、スケールの大きい人はスケール大きいし、人間的に魅力のある人は魅力があるし、そういう人はどこにもいるなあ、と思った。それがすごく大きかったですよ。わりとその、学生の頃って、ドント・トラスト・オーバー30とかいってあいつらみんなダメなんだと思っていた。みんな日和っちゃってて。人間的にもダメになったやつらだ、って思ってたんだけども、全然そうじゃなくてね。それはすごくいい経験だったね。あとやっぱりね、いろんな会社と仕事したので、本当にピンからキリまであるなっていう風に思って。経験的に思ったのはね、優秀な人はダマになってる、固まってるっていうこと。それで、バカも固まってる。できないやつらっていうのは全部固まってできない会社やってて、そういうところは「ああ、もう先がないな」って思ってるうちに潰れちゃう。で、小さい会社、始まったばっかりの会社でも、「ああ、この人たちすごくキラキラしてるな、すごく頭いいな」って思っているとグワーッて大きくなっていく。そういうのを見てて、やっぱりずいぶんダイナミックなものだと思って。

G そういった、優秀な人材とそうでない人材を見極める目というのも、その会社での経験で培ったものですか?

内田 うん、そうだね。やっぱりね、出入り業者の中でも最下層なわけじゃない、簡単に切れちゃうような。いくらでも値切ろうと思えば値切れるし、アゴで使おうと思えばアゴで使える。そういう一番力がない人間として巨大な企業のプロジェクトに参加しているから、ほとんど全部上にいるわけね。僕らより下はいないからさ。そうやってボトムにいるときって、もう上の人たちの人間性ってモロ見えになるんだよね。上にいると分からないんだけど、一番下にいると本当によくわかる。つまりほら、一方でわずかな失敗をとりあげてネチネチいじめたりするやつとか、下請けからキックバックを要求するやつとかね、とにかくわずかな権力の差を利用してそこからセコーく利益をあげようみたいな態度の人間がいる。

でももう一方で、とにかくみんなチームで気持ちよく仕事をしていこうっていう感じでこっちをチアアップしてくれるような人がいて、はっきり違っているわけですよ。やっぱり一番下にいると、わずかな立場の違いで空威張りしたりするやつは本当に人間のクズだなっていうのはね、よーく骨身に染みたね(一同笑)。 人のミスを取り上げて怒鳴るやつとかね。だって怒鳴ったってしょうがないんだよね。結局ミスしちゃったね、っていうことで、次からやめてね、としか言いようがないんだけどもさ、それをネチネチ、ネチネチいじめるやつとかがいて。こういう人間にだけはなるまい、と。それはすごかったね。こういう人間にだけはなるまいっていう例をたくさん見たね。あれはやっぱりいい経験だよ、最下層で関わっていくっていうのはね。

G では、研究者を志すにしてもやっぱり一度は社会経験として会社とかに勤めたほうが…?

内田 ああ、絶対やったほうがいいね。そういうのは、やっぱり絶対必要だと思う。

L 僕は哲学の研究者を目指していて、サラリーマンなんてやりたくないと思っているのですが…?

内田 やっぱり現場に行ったほうがいいよ。修行のつもりで3年くらいやってみると面白いと思う。3年くらいサラリーマンやって、そのあいだ自分には哲学を禁じておくの。読みたいな、と思ってもそれを我慢してみる。そうやって3年我慢したら好き放題勉強していいって決めておく。3年後に読んでみたら全く変わって見えると思うよ。乾いたスポンジが水を吸うようにジャーって入ってくると思う。あと、「あ、こういうことが言いたかったのか」っていうのがわかると思うよ。結局哲学といっても人間社会の仕組みについて語っているのだから、そんなにヨーロッパと日本、古代と現代とで違うわけじゃなくてさ。人間が苦しむことって結構同じなので。現場は絶対必要だよ。哲学をきちんとやろうと思っているなら、とにかくサラリーマンとして人にアゴで使われる経験をする、結婚して子供を育てる、できたら親の介護をするっていう4つくらいをやったらね、深くなると思うよ。

L ありがとうございます。参考にさせていただきます。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.17 | by shuntaroamano

2.内田先生の「二十歳のころ」

G なにか一つのことにガッと集中したことは、学生時代にはありました?

内田 学生時代はそうでしたけどね。そりゃそうですよ(笑)、フラフラしてよくなってくるっていうためには、やっぱりある程度年をとらないと。二十歳くらいからフラフラしてたら、ちょっとまずいんですけどね。

L 学生時代、とくに二十歳のころとかはどんなふうにされてました?

内田 いや、勉強してましたよ。まだ、自分のセンサーがどういう風に機能しているかわからないから。センサー的に、この本は読まなきゃいけないんじゃないの、とか、これは知らないとまずいんじゃないかっていうことがあると、それを集中的に勉強するっていう方針で。周りに先達もいないし指導してくれる先生もいなかったから、二十歳ごろなんかは完全に自分の嗅覚だけで勉強してるって感じでしたね。

S そのころは先生から何か教わるという感じでは全然なかった?

内田 いや、それは22、3のときに本郷にいって仏文(フランス文学科)に入ってから。丸山圭三郎先生という方がそのころアメリカ留学から帰っていらしていて。仏文学者なんですけど、ずっとコーネル大学にいた方です。そのあと戻ってきて、東大の非常勤になってソシュールの『一般言語学講義』を授業でやってました。まだ戻ってきてすぐだったから、本当にホットでね。構造主義の基本的なところからはじめてくれる授業で。この授業がね、すごかったんですよ。立ち見が出てましたよ。もうみんな壁沿いにザーッて並んで、立ちながらノートを取るって感じで。そのときに、「あー、面白い」って感じましたね。体系的に学ぶのがいかに楽かっていうことを、そのときに味わいました。でもその時が最初ですね。きちんと筋道立てて、こう勉強すればいいんだよっていうことを先生から教わったのは。その1回だけじゃないかな? その授業は3年間連続して出ましたけどね。

L あの、先生はフランス語ができなかったから仏文に行ったという話をお聞きしましたが…?

内田 (笑) はい、そうです。それは本当です。あのね、全然どこ行くかを決めてなかったんですよ。うろうろしてて。で、友達がいる学科じゃないと入ってから困るから、友達をたどって、おまえどこ行くんだよ、って聞いたんです。そしたら西洋古典学に行くとかね、美術史に行くとかね、言語学に行くとか全然興味ないところばっかりで(笑)。 それで困っちゃってね。一番仲良かったやつが西洋史に行くっていうんだけど、西洋史も行きたくないなー、と思って。英文科に行きたかったんだけど友達が1人も行かなくて。だからしょうがなくって。英語だけは出来たんですよ、割とね。大学の1年から3年のころには。だから英文科に行こうかなって思ってたんだけど、でも友達が誰もいなくて。で、仏文科をちょろっと見たら知り合いが2人いたの。クラスメイトで仲のいいやつが2人いたんだよ。それで、ああよかったって思って。しかも人数がすごく多くて、30人いたんだよ。他のところは2人とか3人だったんで、もううっかり入っちゃったら先生とマンツーマン(笑) それはちょっと無理だな、って思って。それで、「ああ、ちょうどいいやフランス語できないし、あと2年間フランス語きちんと勉強して、大学でフランス語だけは身につけましたっていうことにしよう」と思って、仏文科に行ったのでした。

X ではその頃は、フランスの現代思想を研究するということは考えていらっしゃらなかったのですか?

内田 いや、それはもちろん。だって60年代って言えばフランス現代思想の時代だったから。ブームだったし。

L では、研究者になろうという思いは?

内田 いや、別に。ただ、本読んで原稿書いているのは大好きだったので、読んで字を書く仕事はしたいなって思っていたんだけど、その中にはジャーナリストもあるし、出版社の編集者もあるし、大学の先生もあるし作家もある。そのなかの1個の選択肢として大学の先生っていうのはあったけども。別に1個だけじゃなくて、いくつかあるうちのひとつ。

内田樹さんに会ってきた 2011.3.17 | by shuntaroamano

1.大学とフロントライン

S いま大学でどんな授業をなさっていますか?

内田樹(以下、内田) はい、いま、といってももう最後の学年なんですけど―今年いっぱいで定年なので―基本的にはゼミが4つですね。1年生対象の基礎ゼミと、それから4年生の専攻ゼミと、大学院のゼミ。あとメディアコミュニケーション副専攻というのがありまして、そこの最終学年の最終学期の授業にある、メディアコミュニケーション演習というゼミですね。あとは講義科目をいくつか単発でやってます。キャリア教育とか、音楽との対話とか、合気道とか、そういうのを単発でやってます。

X 単発で、というのは?

内田 うん、リレー式講義で。半期15回のうち3回とか、そういうやつですね。

L フランス現代思想はやられてないんですか?

内田 全然やってないです。もう、絶えてやったことないです(笑)。

X 先生のご専門はどういうものですか?

内田 専門は、フランス現代思想です(笑)。フランス文学とフランス現代思想。

X では、いまのフランス文学とフランス現代思想の先生の中での位置づけは…?

内田 いやなんかね、必然性がなくなっちゃったんですよ。あのね、日本の場合はね、外国文学の研究は単品でやるんじゃないんですよ。やっぱり大学の先生っていうのは明治以来輸入業者なんですね。向こうの品物を輸入してきて皆さんに紹介するっていうブリッジ役なんですね。それが割と、明治以来の日本の大学の教師の仕事だったわけですけども、フランスのね、文化的な発信力がなくなっちゃったんですよ。60年代まであったのですけどね、70年代になって急速に力が落ちてきて、この30年くらいほとんど発信力ないんですよ。それでやっぱりね、発信力のないところっていうのはあんまり魅力がないんですよ。いまフランスはこうなってますよ、っていうことをぜひ皆さんにお伝えしたいってほど緊急じゃなくて。だからいま僕がやってるのは、ずっと前に死んじゃった人の書いたものの翻訳とかです。けれど、もうお亡くなりになっていますしね、あるいはこれから100年くらい読み継がれる古典作品であるから、急いで僕が授業をして教えなきゃいけないってことはない。やっぱり大学での講義っていうのは、ホットイシューをやるべきであって。みんな聞いてくれ、という感じで。実はこんなことが起こってるんだよ、とか、これ絶対知らなきゃだめだよ、とか。それが講義科目で教えることであって、十年一日のですね、黄変したノートで教えるっていうのはちょっと違うような気がするんだよね。それは本読んだってわかることだし。大学の先生っていうのは、それとは違った形でネットワークとか、プロのセンサーとかを持っている。だから、いま起こっていることを、まだ既存のフレームができあがってないようなナマな情報を、いきなりに学生にドンッと向けて―クール宅急便みたいに―持っていく、というのが大学の先生の仕事だと僕は思うんですけどね。

L そうなると、少し内容が実学寄りになってしまうような気がするのですが…?

内田 実学とはちがうんだなあ、やっぱり。実学っていうのは、有用性のフレームがきちんとあるのですよ。これをやっておくとこういう役に立ちますよ、とか、この技術や知識があればお金がもうかりますよ、とか、地位が上がりますよ、っていう、すでに出来上がったスキームの中にあって、それを詰め込んでいくのが実学。でもホットイシューっていうのは、どういう風に取りあつかっていいかまだわからない。まだ我々もわかってないし諸君もわかってないようなナマナマなものをボンって持ってくるっていうのがホットな問題であって。じっさい明治以来、本当の大学の先生っていうのはね、そういうアツアツのものを持ってきてアチチチって言いながらホイって放り出すっていう感じでやっていて、それがすごく知的な刺激になってきたと思うんだけどね。

S じゃあその場合、先生がお教えになるっていうよりは、生徒と一緒に話し合いながら、という感じですか?

内田 そう、あのね、改めて学生になにか話したいことがあるんだ、っていう感じではなくて。教師っていうのはフロントラインにいなきゃいけないわけですけど、そのフロントラインでガーッてやっている姿を横で見せる。何かがすごく面白いよって言うためには、現に面白がっている人が面白がっているのを見せるのがいい。あー、面白い面白いってね。別にみんなに向かって、面白いからこっち来い、って言わなくても、面白がっていればいいわけですよ。

X では、先生はいまどういった場面で面白がっていらっしゃる…?

内田 それがどんどん移っちゃうんだよね(笑) 最近は経済のことに興味があって。でもどんどん移っちゃうんでね。武道のほうに行ったり、能のほうに行ったり、音楽に行っちゃったり映画に行ったり、学期学期くらいで変わっちゃう。だからそれを講義科目っていう形できちんと展開する、というわけにはいかなくて。割とアバウトなくくりの中で、好きなことをやらせてもらっている。ゼミなんかの場合だったら、学生たち全員に自由に研究や発表をさせるわけだから、まあどんな話でも面白そうだったらこっちもついていこうかな、って。自分のほうできちんと用意してしゃべるっていうのはあんまり好きじゃない。飽きちゃうんですよ。

G 先生は、そういった興味のある分野を転々としていらっしゃるわけですか?

内田 そう、転々と(笑)

内田樹さんに会ってきた 2011.3.17 | by shuntaroamano

内田樹さんに会ってきた

 

内田樹という思想家をご存じだろうか。いや、「思想家」とくくってしまうのは失礼かもしれない。内田先生は思想家であると同時に武道家でもある。そして先生が関心を持つ思想はフランス現代思想、武道論、映画論、ユダヤ文化論、教育論、身体論・・・じつに幅広い。

『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』や、『日本辺境論』といった書名に聞き覚えのある人も多いと思う。内田さんの文章はカラリとしたユーモアにあふれていながら、読むものを思わず立ち止まらせ、自分の思考の型そのものを繰り返し問い直させる。

このインタビューは、そんな内田先生に会いたいと思った5人が、それぞれききたいことを胸に出かけて敢行したものである。そして僕たちは、バイタリティを分けてもらえそうな数々のメッセージをいただいて帰ってきたのだった。

 

○ 目次

大学とフロントライン
内田先生の「二十歳のころ」
若造、現場へ
「だって面白そうなんだもん」
私の身体は頭がいい
「楽しい」と「鬱陶しい」
”材料”・”道具”、研究だって仕込みが大事
学者としての苦しみ―オリジナリティーやニーズについて
師匠の機能
中等教育までは型なんです
中進国の子供として育つ
昔はわりと決めつけてました
愛国心の定型は作るな
「もっと貧乏すればいいのに」
若い頃読む本、年をとってから読む本、生涯読める本
「まぁ、そのうちわかります」―哲学自体が“装置”
基本は教師で意地が悪くて結構いい人

 

○ 読書会で輪読した本 (すべて内田先生の著書)

第1回 『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』 2007年 講談社

第2回 『日本辺境論』 2009年 新潮社

第3回 『街場のアメリカ論』 2005年 NTT出版 ・ 『寝ながら学べる構造主義』 2002年 文藝春秋

第4回 『私の身体は頭がいい―非中枢的身体論』 2003年 新曜社 ・ 『私家版・ユダヤ文化論』 2006年 文藝春秋