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2010年度《見聞伝 駒場祭特設ページ》
2011.3.18 | by shuntaroamano

10.中等教育までは型なんです

X それは大学であるとか、一生涯をかけて、ということであって、例えば、中学や高校の先生の場合には?

内田 微妙に違うよね。それは違う。

X 『先生はえらい』っていう本を読んだときに、本当に中高生はこういうことでやる気になるのかな、と疑問に思ったところがあって。

内田 中高の先生方はあれを読んでずいぶんうれしがってくれたみたいだけどね(笑) でもエライと思ったほうがいいと思うけどね。小学校から高校までは、先生を偉いと思って失望することを繰り返すのがいいんじゃないかな。

X 失望してしまったら、もう勉強のほうはいいや、ってなってしまうのではないか、という気がして。

内田 んー、でもしょうがないんじゃない? 小学校中学校の先生っていうのは、そんなに指導力無くてもいいと思う。たまたま先生になりましたっていう人が先生やればいいんじゃないかなぁ。普通の町のおじさん、おばさんたちがやるのがいいんじゃないかという気がするんだけどね。

一同 うーん。

内田 高校までの先生は教員免許がいるじゃないですか、つまり試験を受けてさ。それはメソッドがあるということなんだよね。大学教員はメソッドが無いわけで、僕らだって何も試験を受けなくて授業しているわけだから。つまり、ここまではメソッドが欲しい、ここからは人間が教えるっていう両方が絶対に必要なんだよね。前、松田さんというお相撲さんと話したんだけどね、あの人は相撲は凄い、って言うわけですよ。何が凄いかっていうと、素質がいらない。デブでありゃいいんだからって(笑) でかくてデブだったら大体いけるって言ってね。運動神経なんて全く関係ないって。他のサッカーとか野球とかラグビーだったら、まず生得的な素質があって、才能が無かったら伸びないと言うけど、相撲はデブならいいって言ってて。それだけ技術が体系立っていて、個人の資質に依存していない。技術を段階的に覚えていったらある段階で凄く強くなると。それで、その技術を会得した人たち同士が戦う。ちょっと番付が違うと全く相手にならないってくらいに技術が違って、個人の腕力とか運動能力は使い物にならない。極めて精緻な体系があるわけです。彼に言われたのは、生まれ持った脚力とか腕力で勝負が決まるようなものはつまらないでしょ、と。

それと似たようなもので、生まれ持った教育力や指導力はおそらく中等教育まで僕は要らないと思う。メソッドでいい。大学を出ていて、教員免許を持った人は、みんな学校に入っていく。そこでは、自然に先生らしく振舞うっていうある程度のパターンがあって、その型にカチッとはまると先生は上手く機能するんですよ。そうじゃないと公教育は成立しないもん。情熱があって、技術のある人しか教えてはいけないという教育議論はあるけれど、それは嘘であって、基本的に誰でも教えられる。型にさえはまれば誰でも教えられるようじゃないと、国民全体が18歳まで教育を受けるわけだし、公教育は成り立たない。教員の数も足りない。今の中学高校までの先生の中で生まれ持った指導力のある人なんてほとんどいなくて、ものの弾みでなっちゃったって人が長く先生やって、みんなから素晴らしい先生とよばれることもあるわけだし。中等教育までは型なんです。高等教育からは型とは少し違う工夫がいるんです(笑) 高等教育の場合は、知的なイノベーションを担う人たちを作っていくものだから、中等教育までのある程度基本的な知力とか体力とか道徳心とかを身につけるための教育とは目的が違っている。

L 型、型で問題ない…?

内田 型、型にはめていく。教員自身が型の有効性の生きる見本なわけだよね。日本の中等教育の先生っていうのは6種類しかいないんだよね。それは狸と赤シャツと野だいこと坊っちゃんとヤマアラシとうらなりなんだけどさ(笑)本当にこの6種類しかいないんだよ。坊ちゃんは明治38年の作品なんだけどさ、その時から100年以上、日本の中等教育の先生はこの6種類で足りてるわけだよね(笑) 日本の学制が始まった直後に漱石が松山中学校に赴任した時、6種類の教師がいれば大体できるな、と思ったわけ。(身振りを付けながら)赤シャツと坊っちゃんが両極にいて、真ん中に狸がいて、あと野だいことヤマアラシとうらなりがいる構造なの。

それで僕も感じたことなんだけれど、僕もこの大学に来たときは坊っちゃんだったのね(笑) 「ふざけるんじゃない!」とか言いながらいろいろしてたんだけど、そのうち気が付いたら赤シャツだったんだよ。「何も分かってないな」とか「アメリカでは」なんて(笑) 教員評価制度を導入しようとか、ISO9000をいれようとか、新しい経営方法を導入しよう、っていう赤シャツになっていった。それではっと気が付いたらいま狸なんだよね。「まぁまぁ、いろいろあるでしょうけども」って(笑) それはつまり中等教育が人格の問題じゃなくて役割分担の問題で、自分が教員組織に入った時の年齢とか立場によって6種類のどれかを選択して、しかもその選択したものも動いていくものなの。そういう学校文化が日本の場合百数十年続いていて、その中に入ると、金八先生でさえ坊っちゃんから狸になっていると思うんだけど、そういう風に遍歴を経ていくわけですよ。中等教育はある種のパッケージになっていて、惰性の強い、ある意味有効性が歴史的に検証されたシステムなのでちょっと高等教育とは違う。同日には論じられない。今日話したのは、高等教育における、研究者養成のための教育の教師像だから。

X 先生は大阪市の市長特別顧問なんですよね。そこでは高等教育ではなく中等教育の話をされてらっしゃるんですか?

内田 初等、中等教育をね。

X 先生は中等教育の現場をご存知で顧問をやってらっしゃるのですか?

内田 割と知っていますよ。先生の友達も多いし。

X ご自身の経験としては?

内田 それは無いね。塾とかで中学生をおしえたことはたくさんあるけど。僕の大阪市長に対するアドバイスは非常にシンプルだから。行政は教育に口を出すなと(笑)。僕はこの惰性の強い学校文化に対してまわりからあまり口を突っ込まないほうがいいという意見なんです。一番口を突っ込んでくるのは、政治家とメディアと、あとマーケットね。ただマーケットは直じゃなくて、親がそれに反応して、これこれの知識を身につけないと金にならないんじゃないか、金になることを教えろ、というプレッシャーがあるんだけど。あとメディアは学校に対して変われって。政治家は政治家で国旗を掲げて愛国心を持たせろとか、学力上げろとか言ってくるわけですよ。外部からの干渉は本当に何もいいことをもたらさないので、僕は市長に、教育の独立性を守ってくれ、学校に任せてくれと言っています。初等、中等教育のパッケージは長い年月をかけて練成されてきたある種の文化なのだから、四年任期の市長が自分の政治的信念に従って、教育に手をつっこんで引っ掻き回す、それで次の人がきて引っ掻き回す、そういうことはしてはいけませんと。市長を後ろから羽交い絞めにして、手を出さないでくださいとね(笑)

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