◆要旨
本書は、著者下條信輔の東京大学における一連の講義のまとめ直しという形式をとっている。
最初に下條は、「人は自分で思っているほど自分の心の動きを分かっていない」というセントラル・ドグマを立て、
それに沿って知覚心理学、社会心理学、認知科学などの分野にわたる種々の理論を紹介してゆく。
それとともに、様々な実験を引用して例証しつつ考察を深めてゆく。
まず「認知的不協和」や「自己知覚」の理論をあげて、自分自身の態度を我々が決める時というのは
他人について推論する時と似たやり方をとっている事を述べる。
次に「情動二要因理論」を用いて、自分の身体の変化を何らかの原因に「帰する」認知プロセスが重要だと説く。
しかしこのような認知プロセスの結果に至る過程はしばしば我々が自覚できない点を強調している。
続いては「分割脳」という症例をあげ、この症例から脳の組織体としての統合の緩やかさや個々の部分の
サブシステムとしての独立性を示すことで脳と認知の研究にも切り込んでゆく。
次にカクテル・パーティー効果やサブセプション、知覚的防衛などの閾下知覚の諸研究をあげて先の章で
取り上げた神経心理学の諸症例との近似を見出す一方で、盲視覚や半側無視といった症例と閾下知覚の諸研究
から導き出されるものとはまた違った一面を持つということをも述べる。
続く第七講はサブリミナル・コマーシャリズムを扱い、八講では自発的行為を扱うというように、
ここからは潜在的認知プロセスに拘束される人間にとっての「自由な行動」とはどのようなものかという問に対して
多様な角度から光を当てる試みが展開される。
七講では、自由な行為は本当に自由か疑わしく、意識されない部分=サブリミナルな部分で自由は完全な自由では
なくなってしまっているのではないか、メディアに情動を操作されてしまっているのではないかと問いかけ、
八講では人間以外の動物やコンピューターと人間を分ける最もはっきりした違いが潜在過程と顕在過程との
ダイナミックな相互作用という点にあるのではないかと主張する。
以上から導き出される第九講では、行為論と法という視点に潜在認知研究からのアプローチを行い、
「故意」という概念に疑問を投げかけ、また続いて「責任」という概念にも潜在認知研究からの疑問を提示する。
社会潜在的・暗黙的な心的過程の存在が規範体系に対して複雑で重大な問題を提起する事を示すためである。
そして、ラディカルな行動主義を方法論的には支持しつつも、反面、自覚的意識の存在をも支持するというスタンスを
改めて表明する。
最後に、序で述べた
「時代の人間観をつねに更新し、また時としてそれと対立し切り結ぶのが、心理学、人間科学の役割ではないか」
という筆者自身の信念に対応する形で、「時代の人間観が崩壊の瀬戸際にあるのではないか」と提言するとともに、
「このような危機的状況を救う洞察もまた、潜在的精神を探求する人間科学の周辺からやってくるのではないか」
という展望によって全章を結んでいる。
◆インプレッションと+α
「自由」や「我思う故に我あり」といった近代社会の個人という概念の根幹を、豊富な事例と研究データーから
揺さぶりにかかるこの書はとてもスリリングだった。
「人は自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」という人間像の提出には、
なるほどと頷かずにはいられない。第九章p.282にある
「心理学-刑法学-行為と倫理の哲学、この三者の境界に、前人未到の広大な問題領域が存在している」という
一文から、この領域について考察してみたいと考えたが、筆者の主張には全面的に同意するものの、三者全てに知識が
不足する今の僕には重すぎる。ましてやここにさらっと書けるような内容にはなりそうにもない。
というわけで、情動と潜在認知をテーマに進む本書の中で、僕がとりわけ興味を引かれた(同時に恐れを覚えた)
第七章、すなわちメディアによる情動のコントロールという論について取り上げてみることにする。
(以前行われた著者の講演会から学んだ内容と本書とを総合した内容になっている。)
コマーシャリズムに乗せられたくない、コマーシャリズムに自らの思考を規定されたくないという意思は
誰しもが少なからず持っているだろう。しかし、実際に抵抗できているのか?という疑問を昔から抱いていた。
反発は容易に出来る。繰り返されるコマーシャル(場合によっては、同じCMを連続でリピートする!)には嫌気が
差すだろうし、選挙カーの名前連呼は耳について不快に感じる人も多いはずだ。だが下條は研究データーから、
「好感度は単純に繰り返されればされるだけ、一律に増大する」
「繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまう」という結果を見せる。
そしてこのことよりもさらに衝撃的な一文が後に続いている。
「はっきりした再認記憶がある場合よりも無い場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されている」と。
これは一般に理解されているものと正反対だろう。
僕自身、CMは記憶にヴィヴィッドに焼き付いてこそCMたり得ると感じていた。しかし下條の述べるように
帰属説を援用(「いや、自分の場合はコマーシャルの影響などではない、自分本来の好みなのだ」)
すれば、潜在記憶に刷り込むCMが強力であることが理解される。頭にリフレインされるCMには抵抗を覚えるが、
このように潜在記憶に刷り込まれたCMは意識しないだけに全く抵抗できないからだ。
その意味ではこのように潜在記憶に語りかけ、情動に転化させるコントロールに対して我々に何が出来るだろうか。
そう、何も出来はしない。例えばマクドナルドの椅子は硬い。
長居しづらくすることで回転率を上げることを狙ってそうなっているのだ。
というような話を知っていたとしても実際に抵抗することは難しいだろう。
座り心地が悪ければそう長くないうちに自然と立って店を出るはずだ。
そしてその時に、「椅子が硬かったからではない、外の空気を吸いたかったからだ」などと、
別原因に帰属させてしまうことになる。だがしかし当の本人は自由な行動をとったつもりでいる!
こう考えていくと現代では消費者として完全に「自由」でいることは不可能なのかもしれない。
原題においては、意識される拘束と意識し得ない拘束が我々を取り巻いている。
B.Schwerzが“The Paradox of Choice”で述べているように、現代は「過剰な選択」にあふれている。
そしてそれは表面的には安定を与えるが、潜在的な不安を人間に与える。その潜在的な不安を
コマーシャリズムは狙っている。現代コマーシャリズムの本質は、論理的な説得を目指すものではなく、
ブランドイメージの定着や意味の連想を期待するものでもない。
古典的-道具的という二種類の条件付けか、あるいはサブリミナルに訴える単純呈示効果にこそ本質がある。
いまやコマーシャリズムは、人間の非常に抵抗しづらい部位の狙撃者となったのだ。