X 先生の先ほどのお話の中で、「先進国だから、中進国だから」という話がありましたが、先生の「判断を保留するもの言い」はすごく特徴的なような気がするんですが。バシッと何かを言うことは無くどちらかというと「こういう事実があります。私はそれに対して評価をしていません」というような…それは何かから影響を受けてそうなったのですか、それとももとからですか?
内田 いや、割と昔は決めつける人だったけど(笑) 決めつけると面白くないんだよね。「これはこうだ!」と言うと絶対それでは説明しきれない部分が残って、その部分は切って捨てるわけだよね。この部分がもったいない気がしてきて。結局、「スパッと断言する」というのは人に向かってショウオフしているわけで。「おれは切れ味のいい知性を持ってるぞ」ということを誇示するために「○○だ!」と言い切っているわけで。人にどう思われようと関係なくて本当に世界の成り立ちを知りたいと思ったら、決めつけるより「ああでもないこうでもない」としていたほうが結局いい。物を観察する時はなるべく中立的な視点から見た方がいいでしょう、先入観を持たずに。対象に対する関心があれば断定的なことは言わない。
X 内田先生の文章を読んでいて思ったのですが、「内田節」というか文章に不思議なリズムがあって。それは書いているうちに洗練されてきたものですか?
内田 だんだん自分の社会的なポジションというかね、何のために本を書いているかというのがわかってきて。若い時に書いたもの、例えば研究論文だったら、研究者たちに見せる。特に年上の人、自分の成績を査定する人に向けて「いかに自分は勉強しているか」をアピールするものを書いていて。だんだんそういうことが無くなってきて、自分にも友達にもわかるように書くようになっていった。ある年齢から、若い人たち―自分より経験も少ないしまだ知識も足りないような人たちが主な読者というようになってくると全然書き方が変わってくる。
X 宛先の違いで―
内田 うん。やっぱり誰に向けて書くかということで。どんどん宛先が、年上から同年代そして年下という感じになってきて。昔だったら「専門的な権威」に向けてだったのが「同業者」、その次は「市井の皆さん」となると語り口が違ってくる。扱っている材料も分析の方法も基本は一緒だけど宛先が違う。すごくコロキアルな(口語会話的な)形になってくる。学術論文では絶対許されない語り口というのがあってその方が好きだったけど(笑)。それが昔は禁止されていたけどもう使っていいよという大義名分がある。ややこしい話を分かりやすくするのが昔からすごく好きなんだよ。
X それは感じます(笑) ブログとかで…
内田 ややこしければややこしいほど燃えるわけで。
X ユダヤ文化論なんかは…
内田 あれはねえ~…
X それでも難しかったんですけど(笑)