中井直正(なかい・なおまさ)教授は、電波天文学の専門家で、特に銀河中心部の超巨大ブラックホールの観測が有名です。
先生が観測に使ったのは、水MASERです。 LASERと同種のもので、違いは周波数がマイクロ波の領域であることだけです。 人間が普通に生活している環境では、人為的に特殊な条件をそろえない限り、レーザーやメーザーの発振は起こりません。 しかし、宇宙は広い。 特に宇宙空間に広がるガスが希薄であることが大きな要因になるようですが、 宇宙には天然のメーザー発振源が数多く存在するのです。 1970年代末から80年代に掛けて、欧米の電波望遠鏡によって、5つの銀河で非常に特徴的なメーザー源が観測されました。 1.銀河の中心部から 2.太陽の全放射エネルギーの数百倍に達するエネルギーのメーザーを放射している というもので、天の川銀河が放射している水メーザーと比較すると、 その数百万倍に達すると言う、極めて強力なものでした。 後にアメリカのグループが、そのうちの一つM106のメーザーの強度が時間変動しているという論文を発表します。 中井先生もその結果の追試をしてみようということで、野辺山天文台にある、 45mの電波望遠鏡でその銀河を観測しました。 その当時、野辺山天文台の45m鏡には、当時の世界標準の数倍にあたる、8台の分光計が備えられていました。 そこで、中井先生は折角あるものは活用しようと、 ターゲットであった周波数帯のかなり外側の部分まで観測範囲を広げて分光を行いました。 すると、全く予期していなかったことに、電波源が秒速1000km/s程度という超高速で運動しているらしいことが分かりました。 この水メーザーは、低温の水分子から放出されるものであるため、この結果は不可解でした。
秒速1000km/sとはどんな速度でしょうか。他のものと比較してみると、 光速の0.3%、太陽系の銀河に対する公転速度の5倍、地球の公転速度の34倍、音速の3000倍、と言った所です。 この超高速のメーザー源が一体何なのかを調べるため、先生はVLBI (Very Long Baseline Interferometry:超長基線電波干渉計)を用いた観測を行いました。 先生が利用したのは、北米大陸に設置された10台の電波望遠鏡を組み合わせたVLBAと呼ばれる電波望遠鏡群でした。 この望遠鏡群は、東西8000km、南北4000kmという広大な領域に点在しています。
VLBIは、既知の2観測点間の距離と、同じ信号が2観測点に到達する場合の時間差から、 極めて高い精度で目標の角度を割り出すことが出来ます。 基線が長くなればなるほど、同じ信号が到達する時間差は大きく、つまり検出しやすくなります。 その結果、基線が長くなると、極めて高い精度で信号の来た方向が決定できるのです。 地球規模の超長基線を用いた場合、1000分の1秒(=3600万分の1度)という、超高精度が達成可能です。 これは、光での観測の100倍程度の精度です。 結果、電波源のサイズが対象銀河全体に対して10万分の1以下と極めて小さいこと、 その領域の中心にある何かに対して軌道運動を行っていること、を明らかにしました。 中心天体は、これらの結果から銀河の100万分の1以下、1光年を切る領域に、 太陽の3900万倍にも達する巨大な質量が局在したものだと推定されました。
そしてこのような巨大な質量を持ちうるものには恒星の大集団やガス、そしてブラックホールなどがあります。 しかし、ガスは拡散してしまいますし、もし恒星の集団だとしたら、互いにぶつかって壊れてしまうので、 その寿命はせいぜい1千万年程度だと計算されています。 この時間は、数十億年から100億年と言う、銀河のタイムスケールと比較すると、ほとんど一瞬であり、 その瞬間に人類が丁度良く観測できるということはめったにないでしょう。 そういった意味で、この巨大質量の正体がブラックホールである蓋然性が極めて高いと判断されます。
この発見を支えたのは、光では”見えない”ものが見える電波の特質と、 VLBIという、超高精度を達成する手法を組み合わせる方法でした。 さて、その強力なVLBIですが、欠点もあります。 基線の長さを伸ばせば伸ばすほど、空間分解能は高くなるのですが、 それにつれて観測する天体が強い電波を出していないと観測できなくなるのです。 さらに基線を延ばすため、軌道上に電波観測を行う衛星を配置するSpace-VLBIでは、 地球の直径を越えるような超長基線を得られ、それによってさらに一桁上の精度(1万分の1秒の桁)が達成されています。 その代わりに銀河の中でも極めて明るい部類に属するものや、クェーサの様な強力な電波源以外観測できなくなってしまいます。 その欠点を補うには、数多くの電波望遠鏡を組織的に運用して、VLBIを行うことです。 先生がブラックホール観測に利用したVLBAも、こういった発想のものです。
しかし、もっと組織的に構成した電波望遠鏡群を建設しようと言う計画があります。 それが、ALMA(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array)計画です。 この計画は、チリのアンデス山脈中にあるアタカマ砂漠の18kmの領域に、 12mと7mのアンテナを、あわせて80台建設しようと言う、野心的なものです。 アメリカ国立電波天文台、ヨーロッパ南天天文台、そして日本の国立天文台の共同計画の形を取っています。 先生はこのALMA計画にも深く関わっていらっしゃいます。 この計画の起源は、森本雅樹氏の、野辺山に大規模な電波干渉計を作ろうと言う計画に遡ります。 この計画は、10mのミリ波望遠鏡を5台用いる形で現実化しますが、当初の計画は、同じ型の望遠鏡を30台組み合わせたものでした。 これではお金がかかりすぎるため、望遠鏡を置く場所は30箇所用意し、その間にレールを敷いて、 望遠鏡の方を時々に合わせて移動させることで、5台のアンテナでも、 もっと多数のアンテナがあるかの様に使えるシステムを作りました。 とは言っても、移動させている間は観測できませんし、移動させる前と後では当然”同時に”観測するわけではありませんから、 出来ることならもっと多数のアンテナが使いたい。そこで、30の土台全てに望遠鏡を据え付けようという計画が動きます。 この計画を推進していたのは海部宣夫氏だったのですが、海部氏はすばる望遠鏡の建設のため、野辺山天文台を去りました。 後に残された野辺山の研究者たちが計画を引き継ぐことになったのですが、その中の一人が先生でした。 さてここまで大型電波干渉計を日本に建設しようと言う計画だった訳ですが、 中井先生はこの後海外へ建設しようと言う提案を行います。この提案自体は、大きな反対もありませんでした。 そこで、先生たちは世界各地の候補地をまず文献調査、次に実地�
�査しました。実地調査に行ったのは、 ハワイや中国北部やチベット、そしてチリのアタカマ砂漠などでした。 電波にしろ光にしろ、望遠鏡の観測に適した土地とは、
- 晴れの日が多い
- 湿度が低い
- 大気が薄い(海抜が高い)
- 周囲に人家など、光や電波を出すものがない
と言った条件を満たす場所です。さらに、電波干渉計を建設する場合は、建てる望遠鏡が1台や2台ではありませんから、 それを建設するのに十分な広さも必要です。贅沢を言えば、広くて平らな土地が欲しい。 こういった観点から見て、チリのアタカマ砂漠は最高でした。
- 高い晴天率(年間の70%以上晴れ)
- 砂漠地帯の少ない降水量(年間降水量100mm以下)
- 標高5000m近い高地であり、気圧は地上の半分程度(ハワイは4200m程度)
- 砂漠地帯の上、周囲は山
- さらに高地にありながら、幅長さ共に数十kmに及ぶ広大で平坦な土地
また、チベットや中国内陸部と違い、大きな港から距離が近いこと、 さらにチリからボリビアに抜ける道路の傍であることなど、機器の輸送や建設の面でも魅力があります。 こうして中井先生は電波干渉計はチリに建設すべきだと言う確信を持ったのですが、 国立天文台内部には、ハワイに建設しようと言うグループもいました。 ハワイには既にすばるの建設が行われていましたし、生活水準も高い、電力なども潤沢だ、と言った理由からでした。 先生は大金を投じるのだから最高の成果を出さねばならないと、チリに計画を持っていくべく奮闘します。 苦労と紆余曲折を経て(この部分は当日の講演にご期待ください)、アメリカがアタカマ砂漠への電波干渉計建設を決めた辺りから、 日本でも「やはりアタカマに作るべきだ」という意見が大勢になります。 そして国立天文台のLMSA、アメリカのMMA、ヨーロッパのLSAという、アタカマ砂漠に大型の電波干渉計を作る、 各独立した3つの計画が立ち上がりました。その後折角なら一緒に作ったほうがいいものが作れると、 この3つの計画は集約され、現在のALMA計画が誕生しました。 先生のおっしゃった、アタカマ砂漠が地球上で観測に最も適した場所であることを指しての、 「正しいことは正しいのだ」という言葉が印象的です。 実はアタカマ砂漠を越える、大気中に水分が少ない場所が存在します。 それは、南極大陸中央部です。南極では空気中の水分は瞬く間に凍りついてしまうため、 大気中に漂わず、雪として地面に降り積もっていきます。結果、湿度は年間を通して極めて低く保たれます。 先生は現在極地研究所と共同で、標高4000m近いドームふじ観測施設に、10m級の大型電波望遠鏡を設置する計画を推進しています。