僕が初めて雑誌というものに手を触れたのは、中学の下校時に立ち寄ったコンビニでのことだ。
最初に手に取った雑誌は、漫画雑誌だった。同年代の男子の例にもれず、漫画が大好きだった僕は、少年ジャンプや少年サンデーなどを立ち読みするようになった。そこから、他の漫画雑誌にも手を出すようになった。少年誌だけではなく青年誌にも手を出すようになった。そして、その伸びた手の行き着く先は、青年漫画雑誌の横に置いてあった総合雑誌だった。
総合雑誌とは、世の中の大よその時事問題を取り扱いうる雑誌で、漫画雑誌やファッション誌のような専門雑誌の対極にある種類の雑誌である。僕が開いた総合雑誌には、国内外の政治・経済・社会・文化などありとあらゆる事象に関する記事が載っていた。
当初、自分の知っている分野だけを読んでみた。有名なニュースだ。そしてそのページの横にふと目が行った。少しばかり興味を持った。どんどん読み進めていく内に、今まで良く知らなかった分野への興味関心が沸いた。同じ内容を別の雑誌の記事で見かけ、理解は深まる。そしてその記事を読んでいると、また別の記事に目が行く。全く知らない分野だ。これを繰り返していく内に、僕の世の中に対する味方考え方は広がっていた。
僕が今の僕であるには、それを支える認識の基盤が不可欠である。その基盤こそが、この雑誌の読解で形成されていったと言っても過言ではない。その関係性は、最初は漫画の立ち読みという所から始まった。
まるで予想もしない内に構築されてきた、この雑誌を通した関係性が、僕は気に入っている。自分では予想のつかない偶然の積み重ねの結果今の自分が作られている、という陳腐な表現がこれほどぴったり来るのも珍しい。だが、雑誌という媒体の性質上、これは必然だったともいえる。
雑誌とは、読んで字のごとく「雑」多な記事の集合である。記事にはある一定の方向性があることもあるだろう。専門誌などはそれが顕著だ。しかし、一つ一つの記事には厳密な統一性はない。漫画雑誌には多くの漫画家の漫画が寄せられているし、ファッション誌にはヘアスタイルの記事の横にシャツの記事が載っていてもおかしくない。そこには、読者が今まで考えてもいなかった繋がりが生まれうる。それこそが、僕が先ほど見出した関係性だ。
本なら、1人の作者の有する一つの大きな方向性がある。そこに収束するべく全ての文章は構成されている。雑誌にはそれがない。その全体の関係性は、読者に委ねられている。
じゃあTVや新聞はどうなのだろう。(政治的スタンスは別にして)一つの方向性などなく全てを網羅しているではないか。しかし、その網羅する量は余りにも大きい。それこそ、そこに載ってない事象はない。一方で雑誌はその量を制限されている。そこには、編集者という存在の意思が介在している。
製作者の意思の介在して限定された領域に、しかし読者による働きかけにより新たな関係性が見いだせる、この雑誌という媒体の特殊性が、二重の意味で偶然の関係性を形成するのだ。
人間の知識や認識が広がる時、そこには偶然性が不可欠である。しかし、その偶然性に飛び込むためには、本人の意思=好奇心が不可欠である。
「人はダイスと同じで自らを人生へと投げ込む」
とフランスの偏屈な哲学者が昔言った。自らの意思を持って偶然性を選択することの楽しさを、僕は雑誌を通じて知ったのだ。それは、時に知的欲求と呼ばれる。
そんな雑誌が、危ないとここ数年、騒がれ始めた。