KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』インタビュー集 鈴木邦男氏 インタビュー

鈴木邦男氏 インタビュー

(10月23日,高田馬場サンルートホテルにて)

 鈴木邦男さんは,60年代,いわゆる右翼学生として運動に参加した. 70年代以降,森田必勝(もりた まさかつ,三島由紀夫を中心とした楯の会のメンバーで,三島とともに自決した)の死をきっかけに一水会を立ち上げて民族派の運動を継続し,現在はジャーナリストとして非暴力・合法路線で活動をなさっている.右翼・左翼を超えた彼のメンタリティーにせまるため,全共闘班はインタビューを行った.

「東大」から当時を振り返る

今,東大で立て看板とかってあるの.

──あることはありますね.

それは,革マル派系とか中核派系とかあるの.

──某サークルが革マル系"らしい"とは言われていますけれど,革マルは自分で自分を革マルって言わないですからね(笑)東大の学生自体は少ないです.他大の学生が駒場に来てやっているという感じです.

外人部隊が.けれど,東大生が一人でもいなかったら東大でサークル作れないよね.

──それはそうです.何人かはいるのでしょうね.”みんせい”はまだ東大生が多いですね.

それはそうだろうね.共産党組織っていうのがあるからね.俺らも学生運動をやっていた時,本当は共産党が多かったんだよ.だけど,暴れなかったから,共産党系の運動っていうのは目につかなかった.宮崎学(みやざき まなぶ)はそうだよね.

1960年代の空気

あの頃は何だろうな,世間の目が温かかったという気がします.だって,今よりも大学に入る人が圧倒的に少なかったのですよ.当時,2割くらいなのかな.それで,学生が暴れても「学生さんなんだから」という温かい目はあった.デモで機動隊に追われて逃げ込んだ学生を助けてやったりだとか.佐世保エンタープライズの反対運動も一般の人たちが炊きだしてくれたりだとか.ヘルメット被った学生にだよ.カンパ箱が足りなくて,ヘルメットを逆さまにして,そこに1万円札がどんって入ってたりだとか.考えられないよね.ものすごく僕が負けたなと思ったのは,その当時,藤本敏夫って人(加藤登紀子の旦那さん)が三派全学連の委員長かな.彼が朝日ジャーナルに書いていたのだけれども,ザクザク一万円札が集まったって.それで,「あなたたちを見ていると戦争で死んだ父親や兄貴のことを思い出す」と.あぁ,そうかぁ,皆アメリカに対してNoとは言えないけれども,全共闘の人たちはアメリカに対して闘っていると.そういうのでカンパしてくれたり,炊きだしてくれたりだとか.あぁ,そうか,と.僕らはナショナリズムの運動やっているつもりだったけれども,当時は分からなくてね.左翼が日本に共産革命を起こしたら大変だと思っていたから,それで左翼に反対したのだけれども,むしろ,全学連全共闘の連中の方が民族主義を代行していたのかな,と.それで,やっぱり悔しい思いをしたよね.

──時代の空気,流れが大きいのですね.戦後であることとか.

あと,ベトナム戦争とか.アメリカとかフランスとか,世界中に若者の反乱がにあったじゃないですか.だから,世界の空気がそうだったのだよ.

──学生として世界の流れを意識していましたか.パリの五月革命とか.

中国の文化大革命とか.やはり,日本もそんな時代の流れに遅れちゃいけない,みたいなのがあったし.今の学生とそんなに質は違わないとは思うのだけどね.世間の目が温かかったというのと,今よりも貧乏なのだけれども「俺たちは恵まれた生活をしていいのか,犯罪じゃないのか」という罪悪感はしていたね.左翼,右翼と.

──後ろめたさですか?

うん.ベトナム戦争では毎日,毎日罪のない人たちが殺されていく.アフリカでは飢餓で死んでいる人たちがいっぱいいる.俺たちはこんなので豊かにメシを食っていていいのか,と.豊かじゃ全然ないのだけれどもね.今の学生より全然貧しいわけなのだけれどね.でも,それでも,俺たちは豊かで申し訳ない,と.そうすると,皆運動するよ.それに,当時は少しぐらい捕まっても大企業はみんな雇ったのだよね.今は絶対あり得ないけど.そういう時代の中で,社会正義や政治に目覚めずに麻雀しているやつとか,女遊びしているやつとかいっぱいいるわけ.そういうのはダメだと.たとえ左翼にオルグされたり,利用されたりしても,運動に参加するのが本当の若者だ,と.それで企業も取った.本来だと我々がもっとナショナリズムだとか運動をしなくちゃいけないのだけれども,そこまで気がつかなくて.左翼の運動のベトナム戦争反対だとか,アメリカと同盟していてはダメだとか,案外分かっていたことはあるのですけれどね.授業料値上げ反対も.値上げ賛成なわけがないのだから.

──シンパする部分もあったと.

けれど,俺らが先輩たちに言われていたのは,彼らは大義名分は正しそうだけれども,ソ連や中国のリモートコントロールでやっているのだ,と.学外の共産党だとか新左翼組織の運動だ,と.だから,それで,彼らは革命を起こすために,日本を共産党や左翼が乗っ取るためにやっているのだ,と.日本は共産革命が起きたら,中国の属国になるか,ソ連の衛星国になるか.そうしたら,もう自由もない.天皇制も廃止される.自由がないというのは,相当な危機感をもった.それで,当面の敵は左翼だ,と.本来はアメリカが敵だとか体制が敵だったら,あんまり上手くいかなかったよ.それに,ものすごく少数派だったから,いつも全共闘にたたかれる.良かったのは,そういう政治的問題があると,今まで潜在化していた問題が顕在化するってことだよね.例えば,左翼の場合はデモがあったり集会があったりするから,軽い気持ちで参加できますよ.いくらでも人が集まるよ.逆の方も,親父から戦争に対して色んな正義を信じてきたという話を聞く.正義であったところもあるという論理だとか,あるいは左翼が嫌いだ,とか.何もなかったら,ブツブツと部屋で文句言って終わりなのだよ.運動があるから,そういう疑問を抱えていた人たちがどんどん出てくる.そういうのが露にできたっていうのが良かったと思うね.だから,ある意味で,全共闘のおかげで右翼の学生運動が生きてきたのは事実だね.

──マイノリティーであるとう意識は大きかったですか.

大きいだろうね.日本国民としては我々の方が正統だというのがあったけれども,圧倒的に左翼の方が強かったね.学生の中では主流だし,支持されていたね.で,女の子にもモテたし(笑)右翼学生っていうのは,そういう意味ではただのスト破りだと思われていた.実際そういうことをやっていた人もいっぱいいるし.学校側に雇われた体育会の人間だとか.まぁ,柔道部・剣道部,やっぱり当時はストライキを破るためだとかバリケードをつぶしにいく役目だった.だから,そういう体育会の中でも,これじゃイカンということで,全共闘にシンパしているやつもいてね.だから,全部情報は筒抜けだったのだよ.

当時の鈴木さんの原動力は

──当時の鈴木さんのメンタリティー,原動力を聞きたいです.一番どこに価値を置いて運動をしましたか.やはり民族派ということですかね.

民族派って言葉がまだなかった.生長の家(せいちょうのいえ)っていう宗教を親がやっていて,高校生頃から左翼の運動に対して疑問を持っていた.それで,天皇とか日本のすばらしさとかを感じていたから.大学に行ったら,生長の家の学生寮に入って,それでオルグされていたからね.宗教から入ったのだよね.

──けれども,左翼の運動に対して疑問を持ったという部分は大きいのですよね? 疑問が原動力になったというのは?

そうそう.そうだね.あと,大学に入ったら左翼の人たちがいっぱいいたのだけれども,その中でまた色んな右派的なサークルも小さい中であったのだよね.土曜会だとか,雄弁会とかね.雄弁会でも右派も左派も色んな人がいた.それから,学内には,自民党学生部もいたし,原理研究会(今の統一教会だ)彼らもいた.その中で色々とごちゃ混ぜになって知り合ったよね.なんで知り合ったかというと,早稲田の中で毎日のように左翼の連中と言論戦やったり,殴り合いやったりしている,色んな人たちも「これはそうだ」とか「左翼はおかしい」とか「左翼が嫌いだ」ってやっていた.だから,一部の人間が右派的な組織としてまとまってきた,という感じだね.

──ひねくれた人たち,ですか?

素直な正義感を持った人は皆,左翼にいったのですよ.今考えると,もっとうまいやり方があっただろうかなとは思うのだけれどね.当時は日本の自由を奪われちゃダメだってビラ巻いていると,もうすぐ左翼が来て,論破されたり,殴られたりして,「お前たち右翼は」って言われたり.で,右翼って言葉知らなかったから,俺たち右翼なのかって.街で騒いでいる連中が別でいるじゃないかと.じゃあ,俺たちは何なのだろう,と.問いかけられてだんだん自分たちが何なのだろうって考えるのだね.例えば,自民党学生部は自由民主主義,あるいは統一教会の人たちは彼らのキリスト教観みたいのがあって,その中で,自分たちの自由を守るのかなぁ,と.だから日本主義だ,日本精神という感じで,右翼という言葉はなかったね,民族派という言葉もなかったね.反共なのかって思ったりだとか.だんだんと民族派に目覚めてきたよね.あとは良い先生たちがいたから.最初は驚くことに,我々は一般学生だと,良識派学生だと自分で言っていたからね.だけど,ストライキに反対する一般の学生.共産主義は嫌いだ,みたいな.本当は個人の思想をもったり宗教をもったりしているのだけれども,早稲田でストライキを破るためには,一般学生が立ち上がらねば,と.ストライキが終わっちゃうと,俺たちの使命は終わったって,ほとんどの人たちはやめちゃうのだけれども,「いや左翼も残っている,我々も新しい組織を作らねばならない」ということで,その中で民族派というのが出てきたね.色んな人たちが応援してくれたってことが大きかったよね.保守派の文化人とかね.無料で講演会をしてくれたりだとか,あるいはカンパしてくれたりだとか.まぁ,圧倒的に左翼が強かったから,その中に不満を持っていた人たちがいたのですよ.三島由紀夫なんかそう.あと,村松剛(むらまつ たけし)さんだとか,福田恆存(ふくだ つねあり)さんだとか.あと,東大だったら林健太郎(はやし けんたろう)さんとか.そういう意味では気骨のある文化人や教授がいっぱいいたなって.

──生長の家,あと良い先生,助けてくれた人.思想ありきというよりは人とのつながりありきなのですね.

そうだね.左翼だってやっぱりそうだと思うよ.新聞読んで,テレビなんて当時ほとんどないから,それで,ベトナム戦争やっている.何か運動やってみよう.けれど,どこに入っていいか分からない.日共系・反日共系もあるだろうし,その時にたまたま自分の大学で集会やっていて聞いた.あるいは大学の先輩,クラスの仲間に誘われた,とか,それでデモに行ったら,警官に殴られた.それで,その党派になる.みんな,ささやかな理由で入った.共産党と革マル派,中核派の新聞を読んでこれが正しいと思って入った人は多分一人もいないのじゃないかな.

──右翼だからどう,民族派だからどうという括り方をするのは的確ではないのですね.

左翼も右翼もアマチュアだったからね.大学卒業したら,大企業に勤められるってことでやっているわけだから.左翼の核ではなくて一般の人たちがデモに出て集会に出た.数年大学の時代にやってから,大企業に勤めるって,大学の先生になるんだって.そういう意味ではアマチュアですよ.しかも,卒業できる余裕があった.逮捕歴があっても雇っていた.社会の目が甘かった.ましてや,僕らなんか左翼と乱闘していたから.

70年代以降の変化

──鈴木さんの60年代ということをお伺いしましたが,では,そのあと70年代以降どう変化されましたか.それと社会の情況などということも.一つは三島の死というのは大きいとは思うのですけれども.

三島の死がなかったら,運動に戻ることはなかったよね.アマチュアだったってことは,9割9分くらいは大学まででやめたと思うのですよ,だって何万人何十万人っていう人がデモに行ったり集会に行ったりしたわけなのですよ.だから,ほとんど集会に行ったとかデモに遊び半分で行ったとかほとんどの学生が行ったと思うのだよね.そのなかで,やっぱり1%も残っていない.僕自身も産經新聞に70年代に勤めたのですよね.本にも書いたけど,60年安保があって70年安保があって,10年単位に日本の危機があったわけなのですよ.日米安保条約やめるかどうかが格好の政治的争点だったから,60年安保終わった時点で次は70年だ,と.70年こそ革命の年ってね.それで左翼が出てくるだろう.中には革命を起こそうとした人もいるだろうし,またそれ以上に自民党とか我々のような右派学生が異常に反応したということ.それで,左翼は70年に備えて革命起こそうとしているから大変だ,と.それで,僕ら以上に警察も思っただろうから,運動をつぶしていく,と.それで,70年代ほとんど運動がなくなっちゃった.安田講堂の陥落が最後の一番象徴的な事件だったよ.

──あそこが一つのターニングポイント.

それで,左翼の学生がなくなったから,右翼の学生が元気になるのかと思ったら,全然違うの.左翼学生がなくなると右翼学生もなくなる.だって,僕らはいわゆる民族主義運動として,あるいは反体制の運動として色んな人が支援してくれたわけじゃない.全共闘だとか左翼の不埒な学生が暴れている,それに対抗している良識派の学生だということで支持してくれた.そしたら,そうした不埒な学生がいなくなると,学園が正常になって,ストライキがなくなってバリケードがなくなってもう授業ができると.そしたら,もう終わったじゃない,良くやった,偉い,偉い,もう終わりだって.それで,ほとんどの人間が実際にやめちゃった.実家に帰ったり,大学院に進んだり,企業に入ったりだとか.僕はその中でもうちょっとやりたいと思っていたのだけれども,何か内ゲバで追い出されちゃった.それで,仙台の実家に帰って,一年近く失速していましたけどね.それで,縁があって産經新聞に70年かな.入る前によど号ハイジャックがあったよね.それまでは,何人かは仲間はいたのだけれども,5人とか10人とかでは運動はできないと思っていたから,運動は何百人何千人でやるものだ,と.少人数でできるものは何もないと思っていたから,よど号ハイジャック9人だってね.9人でも世界を動かせるのかなって.それは正しいとか支持したとかじゃなくて,感動した.三島由紀夫も日本刀による決起には感動した.ただ,それがあっても,もう学生運動に戻る気はないと思っていたね.生長の家を基盤にして,次の段階があると思っていた.追い出されていたから.それが,原点だと思っていた.今から考えるとおこがましいのだけれども,二十歳とか二十五歳で自分たちは正義をやっているのだ,と.皆に教えていけば世の中は平和にすばらしくなる,と考えてみたら信じて疑わなかった.今から考えたらすごい話なのだけれどもね.

──では,ある種の「原点」なんですね.『二十歳の原点』.

けれども,今からするとかなり恐ろしい話だなと思うよね.

──経験の面で不足するのにということですね.

そうそう.でも,なんか,左翼の場合なんてもっとすごかったよね.二十歳くらいで革命家になるって.しかも,自分の経験じゃなくてマルクス・レーニンあるいはフランス革命・ロシア革命で証明されているだろうって.歴史の必然だ,と.それを俺はつかんだのだ,と.それを人に勧めていって,実行すればいいのだ,と.それはすばらしい真理なのだろうけど,それ以上の進歩がない.自分で考えたりとかね.けれど,そういうことを二十歳くらいで思って,世界を変えるのだって.それはすごい話だなって思って.でも,自分も同じように思っていた.その世界から排除されるってことは,地球から排除されると思っていたから.生きるところがないって.それで産經新聞に入って,その中でいろいろなものに出会った.あぁ,これだけの人でもできるのだなって.一番大きかったのは三島由紀夫ですね.でもね,三島さんそのものよりもね,森田必勝なのだよ.三島さんは45歳で,当時は45まで生きたらもういいだろう.今はその歳超えているのだけれどね.当時は生意気にそう思って,世界中に名前を轟かせて,やりたいことやって,ノーベル文学賞くらいの知名度もあって,やりたいことやったのだから,もういいだろう,と.けれど,森田必勝は25歳ですからね.まだ何もしらないし.民族派・右翼派の中では少しは知られていたけれど,知名度もないしね.それが,青春もこれからなのに,民族派青年を代表して死んだ.それは,僕だけじゃなくて,楯の会,そして全体右翼,全体そうですよ.森田必勝の僕は2年先輩だから,27歳だったから,早稲田で普通の学生だったから.森田必勝は高校生の時,普通の学生だった.それで,早稲田に来て全共闘に入ろうと,だから全共闘があまりにも横暴で,そんな中で右翼学生が左翼と論争していて,それで,僕らが無理矢理運動に誘い込んだ.それで,誘い込んだ我々はみんな,やめているわけなんですよ.政治家の秘書になったり,勤めたり,大学院に戻ったり.それで,誘われた森田必勝はずっと運動を続けていて,それで死んじゃった,と.そのショックがね,ありましたね.

──鈴木さんを40年間引きつけたのはある種,森田必勝の死である,と.

三島事件がなかったら,運動に戻ることがなかったのと同時に,三島さん一人が死んでいたら,戻らなかったですね.だから,三島さんっていうのは,パフォーマンスでやっていて,小説のネタ探しでやっていると思っていましたから,おもちゃの兵隊だろうと馬鹿にしましたから.それで,三島さんが死んだら,あぁ,俺たちの意識は甘かった,三島さんはすごい人なのだな,と.けれども,それで終わっていましたね.運動をすることはなかった,と.やはり,森田必勝のところで後ろめたさを感じた.三島さんに関しては,全く後ろめたさはないですからね.あの人はやりたいことやって死んだのだから,むしろ羨ましいと.一方で,森田必勝に対しては申し訳ないと思った.それで,申し訳ないと思った人たちが,内ゲバをしたひと含めて色んな人が集まって,それで酒呑んだりしている中で一水会ができた,と.実はそういう風な人たちは一水会以外の人たちもいくつかあったのですよ.そういう人たちは森田必勝にやましさを感じて,酒を飲んだり,あるいは運動をやろうということで集まったりした人もいたのだけれどもね,色んな形でなくなっちゃった.僕らは1972年から(正式には72年だけれども,70年くらいから集まり出した)36年間細々とやってきたからね.森田必勝にやましさを感じて運動をやってきた.そういうことも初めて言えるわけ.それで一水会.ずっとやってきたからこそ言える.他の人たちのことも書かなくちゃいけないのだけれどね.やっぱり余裕がなかったなって.自分たちが生きていくのに精一杯で.だから,学生の時は色んな民族派の中でも対立していたよ.内ゲバしたりさ.今だったらもうちょっと客観的に見られるかな,って.そういうことで歴史も書きたいなって.一般の人たちってね,右翼の学生運動知らないんだよ.左翼はいっぱいあるけど.なんか,右翼ってちょっといて,それで体育会なんかと一緒になってスト破りしていたと,あるいは三島の楯の会がある,と.多分,楯の会しか歴史には残らないよね.でも,楯の会はいわゆる民族派学生運動ではないからね.ビラを巻いたり,サークル作ったりとか,そういう「学生運動」は入ってない.それでも,三島の楯の会しか残らないだろうな,って.

全共闘世代の「今」

──38年間,そういう風な形で時があって,今の自分と当時の自分,決定的に何が違うと思いますか.メンタリティーとしては.

何だろうな.あの頃は人間も素直だったし,視野も狭かったと思うよね.だから,今だったらもっと全共闘の連中も巻き込んでやるくらいのこと考えられたかも知れないけれど.ただ,左翼の連中は敵だ,殺すしかないと思ってやっていたから.でも,そういう殴り合いした仲間たちだけでも,何か牧歌的な闘いだったな.殴り合いしてコノヤローとやって,それであとは,恨みは残さないみたいなのはありましたね.そういうのは良い時代だとは僕は思いますよ.何かものを持って,バールを持って内ゲバで殺すとかね,そういうのはない時代だったから.だからこそ,もしそこまで行ったら,何十年経ってそういた連中と再会することはなかったかも知れないよね.その頃に殴り合ったりした中でも色んな集会とか色んな場で出会ったりすることあるから.宮崎学さんなんかもそうですね.あと,呉智英(くれ ともふさ)さんなんかもそうですね.それから大谷昭宏(おおたに あきひろ)さんなんかもそうですね.そういう人たちにも「あぁ,あの頃は頑張ったね」みたいなね.本当は敵味方だったのだけれども,同じ時代を闘った戦友みたいな感じがしちゃうのよね.何なのだろうな.お互い色々と立場は違っても真面目にやったというのはあったと思うし.やっぱり卑劣なことはしなかったということがあったから,会えるのではないかと思うけれどね.今思うと,あまり変わりなかったのじゃないかなって気はするのだよね.例えば,アメリカに対する考え方とかね.それなのに,何か殴り合ったな.

──バールで殴っていたら再会はなかったというのが興味深いです.やはり,暴力というのは,「許される暴力」と「許されない暴力」があるように思います.

だから,僕は殴り合いくらいできるような情況のほうがいいと思うよ.例えば,秋葉原の加藤青年のように,例えばあれは会社で上司と論争したり,打たれたら殴り合いするくらいのものがあれば,やっぱり殺人はしないのではないですか.普通の人は喧嘩したことがないから,口論して,つかみ合いの殴り合いをして,それがエスカレートして殺し合いになると思うけれども,全然違うのですよ.やっぱり,殴り合いしてみると分かるけど,殺し合いにならないのだよ.殴り合いも口論もできないから,いきなり殺すしかなくなるのだよ.最近の事件ってみんなそうなんじゃないかな.外の大きいところに向かわないから,家族の殺し合いみたいになる.今家族の殺し合いの方は全体の何割りかな,かなり多いのではないかな.暴力的な衝動が権力者や政治に向かわないで,みんな最初から諦めている.

──先ほど「全共闘の連中も巻き込んでやる」とおっしゃいましたが,今でしたら具体的にどういう形になると思いますか.それは,今の鈴木さんの活動とも関係してきますか.

当時は心からは分からなかったのだけれども,右翼の思想家の中でも,安保条約反対の人が何人かいたのですよね.けれども,目前の危機に関して共産化反対,反共で闘うので精一杯だった.色んな思想家のことも知らなかったし.今だったら,安保反対,アメリカ反対という方がかえって民族主義的な主張も出せたし,運動も大きくなった可能性があるんじゃないかなって.三島由紀夫もそういう意味では60年代安保ではそういうことを考えられなかったかもしれない.70年代安保に関しては,左翼の運動が大きくなることで,逆に利用できるって考えたよね.だから,そこまでのものは僕らは持ち合わせていなかったよね.70年争乱になると,警察力だけでは押さえられない,それで自衛隊も出てきて,そこのなかで楯の会の出番もある,と.まぁ,僕らも分からないところがあるけれども,とにかく動乱を望んでいたのだよね.動乱になって,中核派が皆暴れる.争乱情況になって,警察官・自衛官出てくる,そうすると自衛官の武器は人民に向けるだろう,と.そうするとどうなる.あるいは自衛隊の先端に立って,楯の会は出動して,殺されるかもしれないけれど,その中で自分たちは逆に革命情況を逆にとってクーデターをやるんだ,とか三島は言っていた.その点,色んな考えができたなと思って.そこまで考える才能も僕らにはなかったし.

──けれども,目指すべき方向性としては,自分の共同体を大事にするということが原点なんですよね.それが,郷土愛とも結びついていく,と.

寛容の精神はどこから生まれるか

──話は変わりますが,僕が最初に鈴木さんにお会いした時に感じたのは,この人は何て謙虚な方なのだ,ということです.そういう生き方にある種のモデルを示していただいたと考えています.鈴木さんは様々なところで「弱さを認める勇気」ということを語ってらっしゃいますが,そのような態度はどこからやってくるのですか.

やっぱり,運動が長かったからですね.大学の4年間やっていて,新聞記者になって,僕は転向することはなかったけれども,それでも独立して言論人になっていたら,もっとワガママな人間になっていたと思うね.思い上がった人間に.というのは,自分たちが正しいことをやっているのだ,何で分からないのだ,と.そういう人間には愛国心を強制してでも,法律で取り締まってもやるべきだって,そういう風になっていたと思うね.それはいわゆる右翼の世界にずっといたから,いくら信念とか心情が立派でも,立派であるからこそ思い上がっている人とか,怖い人とかものすごい見てきたし.それじゃあダメだなというのはものすごくある.反省が.

──体験から,ある種の寛容の精神が生まれる,と.

それから,自分たちが少数派だったから,早稲田の時にずっと,社会に出てからも.だから,少数派の人も権利を認める形でしか自分たちも発言できないだろう,と.ヴォルテールの言葉にあるよね.

──「君の意見には反対でも,君の命は守る」.

本当はヴォルテールが言っていないという説もあるのだけれど.色んな人に聞いているのだけれどね.ヴォルテールが友達につまらないことで喧嘩をして,つまらないことでも好きなこと言うのなら言えばという手紙を出している.それか,近い人がきっとヴォルテールの考えはこうだろうと推測したとも言われているのだけれども.二つ説があって,まぁ,どちらにしてもすばらしい言葉だしと思っているよね.実際には高校の社会の授業でそういう言葉習って,「これが民主主義の基盤なのです」と先生が言っていたから,印象に残っている言葉なんですよ.けれど,社会で実行している人誰もいないじゃないか,と.朝まで生テレビ出たって,色んな討論番組出たって,もう,少しでも考えが違ったら全力で潰すからね.喋らせまい,と.また,俺ら右翼学生がずっとそうだったね.自分たちが気に食わない意見があったら,全部つぶす,と.自分たちが気にくわない,あるいは反日的な考えは国民の目に入ったら困る,と.だから,消してやる.掃除してやるんだ,と.掃除人ですよね.そう思っていた.

──それが道義心.「日本の良いところはおおらかさだ」とも書かれてありましたよね.

それは色んなところで挫折したり,いじめられたりして,考えてきたことだよ.日本って案外こう,おうらかで.天皇も殺し合いしたり,兄弟で争ったり,不倫したりしているじゃないか.我々,その子孫の人間も色々,間違ってもいいんだろって.間違ってもいいじゃないか,人間なんだからって.だから,案外当たり前の話なんだよ.けど,その中で色々理論武装されてきた.右翼の人たちもどんな新左翼でも過激な人でも,言論の自由は言うと思うのですよ.それは,自分の言論を十分に言わせてくれと.気に食わないやつ潰すのは言論の自由じゃないよね.「自分の」言論の自由ではあっても.自由な言論ってなると,やはり自分たちの一番気の食わない,存在してほしくないやつの言論も大事にする,と.だからこそ,自分たちも喋らせてくれ,と.それしかないだろう,と.だから,それでしか右翼の言論だって,できないだろう,と.一般の人に喋らせない,俺たちは右翼だワーァツって反対を許さない.疑問を許さないとして喋るのは違うと思う.それが,運動の中で反省したこと.別な道で来ていたら,別の結論を出したかもしれない.

──でも,それが,今の「どういう社会が理想か」という部分なのですよね.

そうですね.けれど,一水会の若者たちの間で考え方が違う者もいる.

──現実には上手くいくかどうかということでしょうか.

だから,それは体験の差だよね.警察にもいじめられてきたから,『公安警察の手口』なんていうのも書いたから.あれを読むとね,なんでそこまで公安を敵視するのですかなんて後輩に聞かれる.説明しても分からないところがあるし.警察は別に我々に悪いことしないじゃないですかって.街宣の現場に来ても黙って聞いているだけじゃないですかって.体験の差だからね.難しいよね.戦争体験じゃないけど,体験は伝わらないっていうところはあるかもしれないね.小さい戦争なんだけど.

──相手に意見を押し付ける人は鈴木さんには傲慢に見えるのですか.

そういう人たちは多いなって思う.特に,保守派の人たちは多い.自分たちは当然だろう,愛国心を持つのは,国のことを考えるのは,と.当然のことは,分からないのは許せない,と.僕らが若い頃は愛国心なんて当然じゃなかったからね.天皇制も当然じゃなかったし.日本も当然じゃなかったし.こんな日本は間違っている,天皇制なんか廃止しろ,愛国心なんかあるから戦争が起こるんだ,そんなものは必要ないからっていうのが主流だったからね.そんな中で,そんなものかなぁ,と.自分たちの運動を自分たちで客観視して考えられたよね.今の若者たちは客観視できないじゃん.当然じゃないか,日本人に生まれたら,外国に何を言われようと,と.そうしたらやっぱり,そういうものはねかえって,論理じゃないから,かえって傲慢になってくる.それを疑う人間は許さない.疑う人間も思想だと思わないんだ.

若者へ

──最後に,経験がない若者っていうことに関して話を伺いたいです.鈴木さんは,河合塾のコスモでの指導など,若者と触れ合う機会が多いですよね.そういった中で,若者特有の何かを感じますか.

道具ばっかりが進化して.パソコンだとか携帯だとか.やっぱり,色んなすごい人がいないのではないかなって.でもあまりにもね,若い時にすごい人に会っちゃうと,それも不幸かなって気がするよね.例えば楯の会の若者とか.二十歳くらいで三島由紀夫っていう存在に会って,三島由紀夫以上の人って一生会わないのではないかな.それに近い人にも会えないでしょう.そういう人に会っちゃうと,あとはもう自分たちは三島由紀夫を超えよう,近づこうって無理でしょう.あまりにも偉大すぎる.だから,何かかわいそうだよね,楯の会の人たちは,三島由紀夫を信奉して.それで,三島さんに恥じないような生き方をしていきたいというだけじゃない.だから,かわいそうだな.それだったら楯の会にこだわらない方が,もうちょっと色んな人に会えるし,客観的に見られるし,また当時は命をかけた思想家もいっぱいいたなぁって.今は命をかけてやっている思想家がいない気がするよね.当時だったら,愛国心や天皇制だって言っただけで,全共闘の連中に突き上げられたりしてね.林健太郎さんでも何日間か缶詰にされていたよね.それでも,絶対屈服しないで,全共闘の人たちは感動していて.丸山真男(まるやま まさお)なんかは研究室を荒らされて,こんなことはナチスもしなかったとかって言って,みんながっくりきた.そういう色々普段のことでも,体を張るか命を懸けられるかって.かつては学者たちがみんな命を懸けていた.今は,保守派の人は体制だからというか,安全圏にいるよね.かつてはやっぱり,天皇制だとか愛国心だとか言ったら,突き上げられて,大学を追われた先生だっているわけなのだから.そういう人々と比べたらね,今は全くないよ.むしろ保守派の方がどんどん安全圏に動いているし.左翼の人の方が少数派でしょう.そういう中で,当時は,良い先生に出会えたな,と.自分たちでものを考えたり悩んだりする自由があった.今はみんなパソコンで検索して,自分で悩む自由がないのではないかなって.それは僕らの偏見なのかもしれないけれど.

──東大の先生方も今の学生は与えられたことしかできないと言っています.自分の運動を行うことは,与えられたことをやることとは違うのですか.そこは今と違いますか.

──何かコミットする対象があるかどうかということでしょうか.

そうだよね.今でも運動があったら,若者たちはやったと思うし.当時の学生が優秀で今の学生がそうじゃないっていうわけではないよね.質の違いはないと思いますよ.ただ,じゃあ,今テレビもネットも携帯も取り上げて,それで考えろってそういう時代には戻れないよな.そういう意味では,かわいそうだなって.何かな,色んな思想全集とか学生のことは読んでいたよね.よく分からなかったけれど,読んだ.それで,そういうのを読まないと付いていけないっていう雰囲気があってね.その頃,『世界の大思想』とか『世界の名著』とか読んでね,それが今でも残っている.卒業してからはあまり難しい本を読んでいない.思想全集とか.本当言ったら,あの時代は左翼がいて,授業もないし,勉強なんかできないのだよ.勉強できないのだけれども,そういう時の方が本読んでいた.今は誰も授業をボイコットする人いないでしょ? 学問をしたい人たちがいくらでもできるじゃない.それを阻止する人がいない.でも,そういう方が本読んでいないし,勉強していない.昔の方が,なんでデモがあるんだ,なんでストライキがあるんだ,なんで授業ができないんだって考えることがあって,世界と直結しているとこがあったね,ベトナム戦争とかね,我々は豊かでいいのかってね,全然豊かでないのにね.そんな感じがして.

──若者を世界と関われ,本を読め,と(笑)

──そういえば,この企画を始めて面白いことを言う子に会いました.その子は,内海信彦(うつみ のぶひこ)さんの教え子なのです.彼は政治的な運動はなくなったけれど,表現者としては今ほど若者が運動している時代はないと言っています.

雨宮処凛(あまみや かりん)さんのプレカリアートの運動もそうだし,河合塾の予備校の先生方でもいるからね.内海さんもこの前生徒を連れてアウシュビッツに行っていたよね.あれも真剣に勉強しに行っている.生徒の方が僕なんかより真剣に勉強しているなぁ,偉いなぁ,って.そういうのに飢えている人たちがいるわけなのですよ.

──彼らは,体制に批判的になって運動をすることはバカだと言うのですよ.そういうことをしても何も変わらない,それだったら運動をして意味があるのかって.

アウシュビッツに行ったり,あるいは自分探しの旅をしたり.あるいは,イラク行って人質になったり,アフガンに行ったり.ああいうのは,一人で全共闘の運動をやっているようなものだよね.色んな形で出てきている.今ちょうど模索の情況だよね.ただ許せないのは大学の中で,大学当局が自分たちの管理を第一に考えて,学生たちがものを考えたりすることを第一に考えていないのは良くないと思うね.法政大学で学生がタテカンを出そうとしたら,すぐに逮捕だとか.

──早稲田でもビラ巻き逮捕がありましたね.

なんか,だらしのない話だよ.今度,早稲田大学と明治学院大学に呼ばれて講演に行くのだけれども,昔は行けなかったのだよね.何度も潰されて.元気な左翼がいなくなって,私もどこでも自由に行けるようになるのは,嬉しいようで悲しいね.それに今,政治的なサークルや宗教に入らないようにって妙に警戒しているじゃない.そういうのに入らないようにって.僕が学生の頃は左翼になったり,宗教に入ったり,それほど怖くなかったよね.今,一番怖いのは,田舎の子供が東京出てきて,変な男にひっかかって,左翼に入らないように,宗教に入らないように.その二つなんじゃないかな.だから,それさえ大丈夫だったら,男遊びして女遊びしても良いだろうと,親の許容範囲も変わってきたのだね.

──時代は変わってきたのですね.良い時代だと言えるかもしれない反面……

右翼の人たち左翼の人たち,ものを考える人たちにはタテ看なんかも自由にさせたらいい.日本の文化ですよ.むしろ,学校なんかでタテ看の作り方を教える,デモなんか学校が率先してやる,先生たちもデモ連れて行く.そういう形で,入り口みたいなものは必要なんじゃないかな.飼われていた猛獣がいなくなって,みんなエサの取り方も知らないのだから.エサの取り方を教える,と.必要なものですよ.それはかつての学生運動がやっていた人たちや君たちの使命だよ.1972年の連合赤軍のショックがあまりにも大きかったから.それでも,世の中のことを考えて,世界のことを考えて,自分以外のことを考えるのは,皆ああいうふうになるんだ,と.革命なんか考えるからそうなっちゃうという,そういう変な括り方,総括で終わっちゃうとだめだよね.左翼は,貧しい人たちを考えてこのままでいいのかと考えること,あるいは戦争をなくそうと,不平等をなくそう,とそういうのは間違いじゃなかったと思うけどね.でも,そういうのは全然なくなっちゃって,排外主義だとか,声の大きいやつが勝つだとか,左翼の悪い部分だけが受け継がれたのじゃないかな.

──考えなくなった若者たちに対して一言アドバイスをお願いします.

友達を失ってもいいから,自分で考えてもよ,自分で暴れてみよってことですね.何か,どれだけ友達がいるか自慢みたいな,あるいは皆で仲良くしようみたいな部分があるような気がする.偏見かもしれないけれど.空気を読まないといけない,とか.パソコンも信じない,携帯も信じない,そういう人がやっぱり世界を動かすのではないかな.何か良い子ばっかりが育っているのではないかな.昔,ある人に聞いた言葉で,人に批判される人間になれ,というのがあるのですよ.皆に良く思われるのは簡単なのだ,と.それは,僕が右翼運動やっていたからなおさらそうなのですよ,身にしみる言葉だった.右翼の世界で皆で皆と仲良くするのは簡単なんだよ.それは左翼の世界でもそうだし,今の若者なんかもっとそうだし.一番楽だし.はいはいといって,色んなパーティーや集会出ればいいのだよ.けれど,そういう中で例えば,『靖国』の映画公開の問題もあるし,やっぱりそれは違うのではないかな,と言う,と.それが嫌な人がけっこう多いのですよね.そういう意味でも,人に批判される人間になれ,と.それで,潰されるかもしれないけれど,後から分かってきますよ.そのなかで言論人としてやってきたから.本に全部自分の住所と電話番号は書いているからね.人が訪ねてきたり,教われたりしたこともあるんだけれど,それがないとダメだなって.だから,皆も批判される人間になって,たたかれるようなことをどんどん言ってほしい.そのためにも言論の自由は必要だろう,と.だから,僕は自分の意見と全く違う人と話すのは楽しいですね.昔は許せなかったけれども.今は何でそんな変なこと考えるのだろう,知りたいと思うし,話をしてみるとどうなるのだろうと思う.そういうのがあるからこそ,我々も好きなこと考えて,好きなこと話せるということです.だから,一番大事なのは自由な言論ということです.オワリ.

──有り難うございました.

その後,予備校の話で盛り上がった. 鈴木さんは,インタビュワーの師の一人である表三郎(おもて さぶろう,大阪市立大学全共闘リーダー)をご存知だった. 「表さんのような人がもっと評価されてもいいのにね」とおっしゃっていた. 鈴木さんも予備校講師としての顔を持つ. おそらく彼らだからこそ持てる若者観というのが,明確にあるのだろうと思った.

インタビュワー:近藤伸郎,大石広行,中塚雄一朗