KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』 用語集

用語集

学生の立場から見て説明しておいた方が良いと思われる用語を厳選して解説を加えた。 (バイアスが入っていることは重々に承知しつつ,できるだけオリジナルな説明を心がけ た。Wikipedia はあえて見ないようにして,一部は書籍を参照した。あくまで「現代から 見た当時」がテーマである。)

配布資料でも同じものがご覧いただけます。)

青年の青は若さのイデオロギーである。学生運動における若気の至りを表している。「社青同」や「民青」に青が入っていることが象徴的である。まだ青い青春ということ。赤と対照的だ。
赤は革命のイデオロギーである。社会主義の象徴として使われる。「アカガリ」=「レッドパージ」が有名。ソ連の旗の色も“アカ”。
浅間山荘事件
過激派革命組織,連合赤軍が 1972 年に引き起こした事件。長野県軽井沢町にある「浅間山荘」に連合赤軍が閉じこもり,警察官と長期間の銃撃戦を繰り広げた。警察庁長官・後藤田正晴の命で,警察庁からは,今回の企画でゼミ生がインタビューした佐々淳行氏も警備実施の責任者として長野に派遣された。浅間山荘事件を扱った映画としては,原田眞人(まさと)監督『突入せよ!「あさま山荘」事件』や,若松孝二監督の『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』などがある。
アジる
アジテーション(英 agitation)。つまり,扇動すること。当時は,マイクを持って大衆に対して勢いのあるあおり立てをすれば「アジっている」と言われた。
異議ナシ
当時は「その通りだ」の代わりにこのように言う文化であった。
内ゲバ
左派なら左派で本来味方同士であるはずの組織が内部分裂・内部反乱を起こすこと。ゲバとはゲバルト(独 Gewalt)の略で,暴力を意味する。 70 年代には内ゲバがさかんとなり,殺人に発展するケースも頻繁に起きた。
オルグ
現代のサークルや部活動が行っている「勧誘活動」と基本的には同じようなもの。左派的な政治色が加われば,「オルグ」となる。組織化する(独 organizien・英 organizing)の略か。
火炎ビン
学生運動で使われた学生側の武器。1950 年代のデモや,60 年代,70 年代の学園紛争時にも多く用いられた。
革マル派
「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」の略。学生組織は日本マルクス主 義学生同盟革命的マルクス主義派。黒田寛一が組織。東大では新入生歓迎期になると,自治会が「革マル派と原理研究会に関わってはいけません」という内容のビラを配布する。 警察庁のホームページによると,「革マル派による違法な調査活動は,民主主義社会に対する挑戦であり,平穏な社会生活を確保していく上で看過することのできない犯罪行為と言えます。」だって。
原理研究会
統一協会(世界基督教統一神霊協会)の学生による下部組織。大学内で政治活動も行った。一般的には左翼系学生との対立が指摘される。こちらも,東大自治会のビラに載っている。
国際反戦デー
1966 年に日本労働組合総評議会(総評)がベトナム反戦統一ストを行ったことから始 まる。1968 年の国際反戦デーでは新宿騒乱に騒擾罪(=騒乱罪)が適用され,多数の逮捕者が出た。
駒場寮
東大駒場キャンパス内にあった寮。(現在のコミュニケーション・プラザの位置。)当 時,学生たちの熱心な議論の場になった。近年,名目上は老朽化のため,取り壊された。
佐世保闘争
1968 年 1 月 19 日,米軍原子力空母「エンタープライズ」の日本への入港拒否を目指して闘われた。背景としては日米協力体制の打破・ベトナム反戦があった。
三派全学連
1966 年,中核派・ブント・社青同解放派の三派によって結成された組織。以後,学生運動はこの組織が大きな指導的役割を果たした。
ジグザグデモ
体制への反発から生み出された,ジグザグに行進するデモ。違法とされている。
自己批判
左翼系学生は「論理」を重視する。革命のためには緻密な論理性が必要であるから。その論理性に忠実に生きようとするため,自分で自分の行動・思想を吟味し,反省する「自己批判」という行動様式が常識になった。真面目な学生ほど矛盾に充ちた自己を批判し,主体性を求めたがるものかもしれない。自分のこれまでの行動や思想を論理化する「総括」とも関連。この「自己批判」を相手に要求するという原理が過激化することにより暴力を産み,内部リンチとなって連合赤軍による事件を生み出した(山岳ベース事件では 12名が粛清)とも言える。ちなみに,浅間山荘では,クッキーを食べたことに対する「自己批判」が要求された。
シュプレヒコール
デモの際,皆で声を合わせること。「シュプレヒコール,……」とリーダーが叫び,皆が声を出して団結した。合唱せよ(独 sprechchor)の略。
助手共闘
全学助手共闘会議。東大における全共闘運動には,学部生だけでなく大学院生や助手 も加わった。ゼミ生もインタビューを行った最首悟氏は助手共闘結成の中心メンバーであった。
新左翼
60 年安保以降,旧来の左翼(特に共産党系)を否定する形で現れた左翼勢力のこと。 スターリン批判1956 年,絶対に正しいはずであったスターリンが死後,フルシチョフにあっさりと批判されることになった。社会主義の国々は大混乱になり,ハンガリー動乱・ポズナニ動乱などの形として噴出し世界的な衝撃となった。
スチューデント・パワー
1968-69 年は世界で同時多発的に学生運動があった。学生(スチューデント)に力(パワー)があった時代であった。
スト
ストライキのこと。学生運動の文脈で語られるとき,労働者が業務を停止することの他に,学生が団結して授業や試験をボイコットすることも含まれる。大衆団交に大学当局を応じさせることが,学生側の一つの目的となっていた。バリケードを築いてストが行われた。保守派の学生はしばしば「スト破り」を図った。
セクト
組織の派閥(英 sect)のこと。セクト同士が内乱する「内ゲバ」が 70 年代以降目立つ。
全学連
全日本学生自治会総連合。戦後すぐに結成された学生組織。初代委員長は武井昭夫(たけいてるお)。60年安保の際にブント指導下の主流派と共産党指導下の反主流派に分裂した。全共闘運動期には,上記の三派全学連が登場した。
全共闘
全学共闘会議。68 年・69 年の運動,70 年安保の学生運動で大きな役割を果たす組織。はじめは日本大学で,20 億円の使途不明金をめぐり学生からの抗議が起き,1968 年5月27 日に秋田明大(あきためいだい)を議長に結成されたのを皮切りに,7 月 5 日には山本義隆を議長に東大全 共闘が結成,その後も全国の大学で結成の動きが進んだ。60 年安保の際の運動鎮圧の後,学生運動は一度沈静化するが,68 年・69 年に再びピークを迎える。全共闘自体は,セクト・ノンセクトの別を問わず学生が参加し,また組織に属するかどうかは本人の声明次第でどうにでもなったため,組織の幅が非常に不明確な側面を持つ組織でもあった。(全共闘という組織の性質については議論が分かれる。)ヒエラルキー性を認めず,実質のリーダーであった山本義隆も議長という位置づけであった。大学進学率が今よりも低かった当時,また運動が学生全体によって行われたものではないということから「全共闘世代」は必ずしも「団塊の世代」とイコールにならないことに注意。
総括
自分の行動や思想を反省させること。「総括せよ!」ということと「自己批判せよ!」と いうことは,意味合いが近い。
造反有理
「反乱することには道理がある」という毛沢東の言葉で,文化大革命(全共闘運動に与えた影響が大きい)のスローガンとなった。共産主義者同盟の一派・ML 派の標語でもあった。全共闘運動時には,東大本郷キャンパス正門の壁にある落書きが有名である。
第一次羽田闘争
1967 年10 月,佐藤栄作の南ベトナム訪問に反対し,首相の羽田空港からの出発を阻止するために起こされた闘争。ゲバ棒が登場し,京大生・山崎博昭(やまざきひろあき)が機動隊との衝突の中で死亡した。
大衆団交
「団交(だんこう)」とは労働組合の用語だが,これが学生対大学という構図に使われた。学生側が 大学に要求をする際,交渉の手段として用いられた。
立看板,タテカン
学園紛争時には,政治的主張のためにベニア板などを用いて作られ,キャンパス内に 設置された。他にも,学生の文化活動の告知にも使われた。今では,駒場キャンパスには サークル勧誘のタテカンが立つ。(特に新入生入学シーズン。)
中核派
日本マルクス主義学生同盟中核派。上部組織は革命的共産主義者同盟全国委員会。革共 同第三次分裂の際に革マル派と分かれ,のちに両者の間で苛烈な内ゲバが起きた。
帝大解体
帝大は帝国大学の略。東大全共闘運動の一スローガン。
デモ
政治的な示威のために行われる大衆運動。今でも渋谷でよく見かける。デモは警察に届け出をすれば合法でできる。似たようなものにパレードがある。
テント村
1968 年 6 月 17 日の機動隊導入以後,東大本郷キャンパスを監視するために安田講堂 前の原っぱにテントがいくつも張られた。夏休みを利用して運動をうやむやにしようとさせた大学側に対する抗議の意味合いもあった。そう,あそこにズラーッと並んでいたのです。
当局
大学,もしくは警察のことを言う。特に,体制を敷いてくる諸悪の根源であるように語られる。
東大新聞
東京大学新聞。1920 年創刊。学生運動とも歴史をともにしており,その縁もあってか,この前の五月祭でも全共闘に関連した企画を行った。
登録医制度
インターン制の改革案として厚生省が提案してきた制度。タダ働きに近い「登録医」への反対の声から,68 年の闘争は口火を切ったのである。
時計台放送
毎日定時に,安田講堂に立てこもっていた学生たちが放送を行っていた。安田講堂陥落の際にも放送を行った。今井澄(きよし)氏によるものとされる最後のメッセージは「我々の闘いは勝利だった。全国の学生,市民,労働者の皆さん,我々の闘いは決して終わったのではなく,我々に代わって闘う同志の諸君が,再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで,一時この放送を中止します」というものだった。
トロツキスト
レーニンの後継者には世界革命を唱えるトロツキーと一国革命を唱えるスターリンがいたが,後継者争いでスターリンが勝利した。(トロツキーはアイスピックで使者に暗殺された。)日本の新左翼はスターリン主義を攻撃し,トロツキーの思想に共感した者が多かった。一方この言葉は,代々木系の学生が新左翼の学生を揶揄するときにも用いられた。
ナンセンス!
無意味という意味。相手に「反対!」であるとき,こう言う文化であった。
日大闘争
日本大学では,22 億円の用途不明金があることが明らかになり,学生が会頭・古田重二良(じゅうじろう)に抗議,1968 年5月 27 日に日大全共闘を結成した。また利益追求のため大学施設のキャパシティーをはるかに越えた学生を入学させていたため,授業のために教室に入れないという状態であった。このような大学側のずさんな経営も,運動が興隆する一因であった。右翼学生や体育会,暴力団との激しい抗争も大きな特徴であった。
日米安保条約
独立後の非武装日本の安全保障のため,米との同盟関係を組み,米軍の日本駐留を認めた条約。60 年に日本の権限強化のため,この条約を改正(強行採決)しようとしたところ,国民運動が発生した。「アンポ・フンサイ」って。
日共
日本共産党。戦前からあり,歴史は古い。スターリン批判までは反体制派の主流派であった。その組織のヒエラルキー性を嫌う左翼も多い。
ノンセクト・ラディカル
セクトに属さない過激派。全共闘時代は,政治的な思想のない人も運動へと参加できる 流れだった。ノンセクト・ラディカルの存在が運動の拡大を可能にしたのである。
パクられる
逮捕されること。今でも使う?
バリケード
運動の一環で建物を占拠する際,敵の侵入を防ぐ目的で作られた「壁」。机・ロッカー を積み上げて作られた。バリケードの中は学生たちによる(青春の場に相応しい)自治空 間が広がっていたが,自給自足の生活空間としては大変なものだっただろう。山下洋輔氏(ジャズピアニスト)が早稲田大学構内のバリケードでピアノを演奏した話が有名。
ピケ
スト破りの監視役のこと。学生運動は闘争である。バリケードは要塞であり,敵が来ないように見張ることが必要であった。
ヒッピー
1960 年代のアメリカで,既存の価値観に反撥した若者集団。セックス・ドラッグ・ロッ クンロールという開放的な文化が象徴的。ヒッピーの自由な価値観や文化が日本の若者にも大きく影響を与えた。英米文化の影響力の大きさは,The Beatles の来日やその後の Led Zeppelin の流行を考えれば,よくわかる。
日和る,ヒヨる
日和見主義からの転用で,一般的にはご都合主義的に闘争から逃げることに使う。ただし,根から運動にコミットしていない人に対して「あいつはヒヨっていた」と使うこともある。
ビラ
今でこそ印刷機があって便利だが,当時はガリ版を利用して,製版は手作業でやるすごい作業だった。(それこそ徹夜でやっていた。)こういった文化の下では「職人」はもちろん出てくる。(ニコニコ動画のアスキーアート職人も同じ?) 山本義隆は東大闘争の後に,当時印刷されたビラを集めて国会図書館に寄贈した。(『東大闘争資料集』(68・69を記録する会,全23巻,1992年)
ブント
同盟・連盟という意味(独 Bund,英 band)。バンドと同じ意味だと思って良い。武装革命方針を放棄した共産党から分裂して結成され,60 年安保の際には主流派(反日共系)を指導した。
ベ平連
「ベトナムに平和を! 市民連合」。反戦作家小田実氏の呼びかけで,1965 年に始められた市民運動。
ポポロ事件
1952 年,東大構内で学生劇団の劇の観客に私服警官が導入され,一悶着あった事件。「大学の自治」のあり方全般が問われた。現在でも,早稲田ビラ撒き逮捕事件であるとか,法政大学タテカン検閲の闘争であるとか,「大学の自治」にまつわる問題は解消されていない。
マルクス主義
マルクスは左派による理論武装の教科書になった。資本主義のメカニズムを分析した『資本論』は世代を超えて読まれている。最近,的場昭弘氏(まとばあきひろ,神奈川大学教授)が『超訳資本論』を出したことが象徴的。マルクスは左派勢力以外にも広く読まれ,その後のアカデミズムのある種の「共通言語」となった側面もあることも見逃せない。
三島由紀夫
69 年 5 月に駒場の 900 番教室で東大全共闘と対談(三島一人 vs 全共闘学生大勢)。 70年 11 月 25 日に市ヶ谷で事件を起こし,自決。この時,一緒に自決した森田必勝(まさかつ)の死をきっかけに,民族派団体一水会(いっすいかい)が結成された。
民主化
大学の民主化要求が唱えられた。当時,大学という組織が学生に開かれていることが民主的だとして,大きな価値が置かれた。
民青
日本民主青年同盟。共産党の下部組織で,キャンパスで青年を中心に組織されている。東大紛争時には全学バリケード封鎖には反対し,全共闘とは対立した。
連帯を求めて孤立を恐れず
「力及ばずして倒れることを辞さないが,力を尽くさずして挫けることを拒否する」。有名なスローガン。
よど号ハイジャック
1970 年 3 月,赤軍派が旅客機「よど号」をハイジャックし,北朝鮮に向かった事件。たったの 9 名でハイジャックが可能なのかという衝撃は世界中に広まった。その頃のメンツは北朝鮮でまだ生きている人もいる。