KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』 駒場祭に向けての事前対談

駒場祭に向けての事前対談

駒場祭での全共闘企画に向けて,東大生として壇上に上がるゼミ生で対談を行った。

参加者:
学生S: 関翔平(せきしょうへい,教養学部文科 III 類 2 年)
学生H: *(教養学部理科 II 類 1 年)
学生K: 近藤伸郎(こんどうのぶろう,教養学部文科 I 類 1 年)

学生K: 学生運動って一口に言っても,60 年代付近に限っても60 年ごろの第一次安保闘争と しての運動と,それが一度衰退した後,再び盛り上がった 68 年,69年のいわゆる「全共闘」運動がある。60 年安保の運動というのは,大勢の人がやった。10 割の学生のうち 9割くらいが参加したと一説には言われている。一方,68 年,69 年の方はだいたい 1 割か 2割くらいだよね。逆にいうと,8~9 割の学生は運動をしていなかった。という感じかな。

学生S: 僕は 60 年安保と,60 年代末の学生運動とではずいぶんと性質上の違いがあったのだと思っている。立花先生はそこを両方とも体験しているから,学生運動がどう変化しているかという部分を個人史的な観点から語ってもらえるんじゃないかと思う。

第一部は立花先生の視点から見た東大のあり方,学生,そして学生運動の変化。第二部では,運動に直接参加した方々と,運動については何も知らない僕らのような今の学生との対談。運動に参加した人たちは当時何を思い,そして今何を考えているのか。僕ら学生がそうした人達に対して感じるギャップ。そして世代を超えて,何が変わらないものとしてそこにあるのかを探りたい。

学生K: 60 年安保の方は学生運動というよりは国民運動という感じもある。

学生S: 60 年代末の学生運動に参加したある人は,「60 年安保の方は国民運動だったけれど,68 年の運動から,70 年安保までは革命運動だった」というようなことを言っている人もいたりする。

学生K: もちろん,世代も違うし,運動の性質も違うし,参加している人のメンタリティーも違うんだよね。そこがどう違うのかということを探り出すことが面白い。例えば,70 年以降は運動の一部が過激化していって,爆弾とかが使われていくのだけれども。どんどん少人数になっていって,そして少人数になればなるほど過激になる。その一つのなれの果てが,浅間山荘,あの連合赤軍の事件だよね。その辺りも,世代,年代で運動の性質が全然違ってくる。

学生S: 今はもうほとんど昔のような形での運動をする学生がいないということを考えると,運動することそのものがだんだん先細っていったという見方もできるよね。一人の人が運動全体を包括して,「あれはこうだった」と語ることは出来ない。

学生K: やっぱり,全共闘世代といわれる世代よりは少し下だけど,運動についての対談に参加していたりする某教授が,「僕は語るべきじゃない」と言ったように,そういうのはあるんですよね。実際に運動に参加したものじゃないと語れない何かというのがあって,それは言葉にはたぶん言い表せるものじゃない。肉体を直接動かすことによって,体験のレベルで得るものだと。

それをした人と,しなかった人との間で明確な質的違いがある。実際に体を動かせというのが,60 年代の動きだったのだし。その点からしても「語る」ということの意味は非常に大きいですね。一方,東大全共闘の議長だった山本義隆は,実際に運動をやった人だった。やったけれども,彼は彼なりの信念があって語らない。運動をやったけれども語らないという人と,やっていないけれども語るという人と,やっていないから語れないという人と,色々いるのですね。

学生S: 一つ面白いと思ったテーマとして,実は全共闘に関してはいろいろな本も出ていれば,写真集も出ている。形は様々だけれど,色々な方法で語られている。しかし未だに,「全共闘」というものについて「語られないもの」として語られている気がする。

学生K: ウィトゲンシュタインになって来ましたね(笑)。

学生S: だからこそ,ある面としてはしこりのようにずっと解決されない問題として扱われているのかな,と思う。体験談を聞くだけでは懐古話になってしまう。何を聞けば,どこにあの時代の経験を投射すればいいのか。具体的な質問のレベルが難しい。

学生K: 少なくとも言えることは。我々は体験していない。それだけは言える。「僕たちは知らないです。教えてください」と言って,問いをぶつけるというのは正しい姿勢だと思うし,立花先生もどんどんやれといっている。それは本当に,僕たちが素朴に不思議だと思う事を問いとして立てられたらいい,と思いますけどね。

学生H: 今の我々学生からみて,あなたたちの行動は不思議だ,と。我々とは何か違った文化的背景があるだろう,と。

学生K: その文化的背景を探っていく。

学生H: だから,運動は現代の学生から見たら不思議な行為である,と?

学生K: 不思議だと思わない?

学生H: うん,不思議だ。

学生K: なぜ不思議なのか,ということを素直に語りたい。それこそ,今運動しているやつらばバカだ,とそんなことをそのまま言ってもいいわけだと思う。けど,バカだと言うからには,なぜバカなのかとか,そういうことを掘り下げていく責任があるよね。

学生H: こちらが不思議だと思うように,向こうから見ても現代の学生は不思議だと思っているかもしれないよね。

学生K: 分からないよね。もしかしたら,必然だと思っているかもしれないし。だけど,皆言うわけなんですよ,何かが足りないと。五月祭のイベント(東京大学新聞が行った全共闘企画)で船曳建夫さん(ふなびきたけお,東大教養学部教授,文化人類学専攻)が言ったように,「確かに現代の学生は優秀で,少なくとも僕のゼミの子は勉強もよくしているけれども,もうちょっと何か熱いものを求めてもいいのではないか」みたいな。そういうことは,鈴木邦男(すずきくにお,民族派団体一水会顧問)も言っていたし。『怒りをうたえ』の上映会に参加したり,内海信彦さん(うつみのぶひこ,美学校・河合塾等講師)との対談のイベントをやった御厨貴さん(みくりやたかし,東京大学先端研教授)もきっとそう思っているだろうし。けっこう皆思っているんだよね。

学生H: 「何が足りないか」ということをもう少し言語化するとどうなる?

学生K: 何が足りないか……うーん。

学生S: 客観的に見ると,「熱さ」とか「エネルギー」とか「団結する力」という言葉になるのだろうけれども,僕らのような側からすると,「必要がない」となるのだよね。

学生K: この前行なった内海信彦さんの教え子たちとの対談で面白かったのは,今の若者で芸術系のことをしている人たちっていうのは,逆に「今の若者ほど運動をしている連中はいない」と言うんだよね。確かにそれは学生運動という形ではないのだけれども,自分なりのサークルならサークル,表現なら表現,芸術なら芸術ということに特化して,自分ができることを精一杯やっていると。エネルギーを注ぎ込んでいる,と。そう言うのですよね。今の世代ほど熱い世代はない,と。だから,「熱さ」という抽象的な言葉で言い表すならば,今の世代は「熱い」んだと。その辺が難しいですよね。

学生H: 今の学生は選択肢が増えた,と。自分なりのサークル活動,表現手段を持っているから,より自分の欲求をストレートに満たせてしまう。だから,フラストレーションが溜まらない。

学生K: それはどうかと思う。やっぱり,生きづらい時代って言われているよね。どっかでフラストレーションが溜まっているよね。

学生S: けれど必ずしも,それが政治とか,社会の問題意識として発現しないという。

学生K: だから,彼らと学生運動についても話したのだけれど,やっぱり彼らがそろって言うのは,当時の運動は「自意識回収装置」であったと。そのことは,運動が最終的に内ゲバになった時点でバレちゃったじゃん,と。同じことを繰り返してどうするの,ソ連ももう滅んだじゃん,だから運動しないんだよ,という,極めて明確な論理だよね。それは,まさしくそうだとは思う。

60 年代と今との違いについて言うと,やっぱり学生が「体制」を明確に感じるかどうか,「反体制」を意識するかどうかということに一つの違いがあるのだと思うのですよね。左翼というのは体制を無理矢理に仮想敵として作り出してきたというところはあったと思う。まあ,「体制」が何なのか,というのは非常に難しい問題なのですけど。ただ,果たして制度なり何なりに疑問を全く抱かない学生でいいのだろうか,という問いはありますよね。それは,今の僕でも思っていることだし。だから,そういうことに意識を抱かない東大生が嫌い。

確かに,制度にうまく適合した方が生きやすい。けれど,それにはある種の危険性があって,批判をする者がいなくなると,全体の体系がおかしくなった時にどうするんだという問題が出てくる。それは立花先生が『東大生はバカになったか』(文藝春秋,2001 年)でも言っているように大学に行く意味というのは,批判力をつけることだと。制度を批判的に見る力だと。全体の体系がおかしくなった時にそこに解決の手段を見出していけるインテリであること。そういうことですよね。それができなかったから,ファシズムになって,戦争になって,という言い方もできるわけで,今,実はまさしくそうなっているのかもしれない。プチナショナリズムの台頭もあって,今まさにその危険性があるというのは言えますよね。

学生S: きっと団塊の世代の人々は,自分たちが生まれる前に,国家としての日本が通過した第二次世界大戦という経験を生かして,「自己批判する」という装置を自ら身につけたんじゃないか。戦後教育が,それにどの程度影響したのかははっきりとは分からないけれど。

それが,東大という組織,国家側の最高学府の中で機能していたというのは大事なことだったわけじゃん。それが,60 年代末にああいう形で終わっちゃったから,今その機能がほとんど失われてしまった。これから,戦争に突っ走っていっちゃうような大きな流れが生まれたとき,それに歯止めをかけるようなクサビが失われてしまっている,という危機意識を持たないといけないんじゃないかとも思う。

学生K: 「体制」があるかないかは置いておいたとしても,何かしらの形でそれの中で踊らされている,と。その状況で一人一人は満足できる,エネルギーを上手く処理することができるのだけれども,果たしてそういう状態でいいのかということはありますよね。それでも悪くはないし,踊っていた方が楽ではあるのだけれども。あとは個人の問題になるとは思いますけどね。それで,その社会の仕組み,一人一人が自由に自己表現して,不自由なく生きていけるという仕組みが少数のエリートによって上手く築かれて,社会全体が上手く機能しているという状態だったら別に良いと思うのですよ。エリートはノーブレス・オブリッジで頑張ったら良いと。けれどどうも,それが理念通りに上手く行かないんですよね。内海信彦さんの教え子たちとの話の中でも出てきたわけですけど,それで,今の学生としては,現代を肯定する方向でいいんじゃないか,と。全共闘世代からすると,ひょっとすると「熱さが足りない」というそのギャップは残るわけなのですけれども。

学生S: そのレベルを突き詰められるような問いを立てられたら,そこが論争になるよね。

学生K: 一つは「体制」があるのかないのか。あと,「熱さ」は何をもって熱さというのか。それと,何のために生きていけばよいのか,ということにもヒントを与えそうですよね。若者なりの生き方の哲学。あとは上の世代に「足りないこと」を直接聞いてみるのがいいか。それから「革命」は何なのか,「革命」とは何のことを言っているのですか,と。今現役で運動をしている人でもそうなのですけれど,何を目的としてやっているのですか,と。

学生S: それは今やっている人に聞いた方がいいよね。お前らどこまで本気なのか,と。

学生K: 果たして変わるのか,と。まぁ,別に良いのですよ。学生の起業だってそうだし,東大を変えようという運動だってそうだし,変わらなくってもプロセスを楽しめるのならば,是非やったらいい。でも,果たしてそうなのか,と。変わらなくても,プロセスを楽しむために運動をできるのか,と。必ずしもそうじゃないと。皆に引かれながらも,苦しい思いでやっているわけなんで,苦しいのならやめちまえというところはありますよね。

学生H: 論争としての形を作りたいならば,向こう側に若者批判をさせるべき。若者への批判としては,たとえば恋愛至上主義・無教養主義・刹那主義とがある。それをぶつけられる。こちら側としては,結局稼げていないだろうとか,そんなダサいことして楽しいのか,と かある。

学生K: お金の価値,就職はある意味で,全共闘の敵だよ。

学生H: でも,今の多くの若者にとって就職とお金はきっと最高の価値でしょ?

学生K: もちろん。

学生H: これはいい。世代の違い。彼らはそれでも闘ってみようとしたわけだよね。ところが,今の東大生の多くはそうではない。最初から就職とお金にまっしぐらだよね。

学生S: ネコまっしぐら。

学生H: しかも,そうし続けないと,自分だけ生き場所がなくなる。自分だけ損するのが嫌だと。自分一人だけ要領悪くやって,取り残される恐怖感が今の東大生にはあるよね。自分一人だけ就職に失敗するとか。

学生K: それはあるよね。けれども,それが悪いとは言えない。

学生H: 正直,全共闘世代の人たちだって皆でワーワーやっていたやつも,要領のいいやつはコロッと変わって官僚になったり,大企業に就職したりしているよね,それで一部の人たちは仲間に騙されたという感がマックス。今の若者が冷徹に彼らを裁いたら,「要領悪く て残念だったね」という一言に集約されてしまう。「大人になれなかったのだね,ドンマイ」って。

学生S: でも,それは今の多くの東大生の意識に一番近いのかもしれない。

学生K: それをそのまま向こうに言うと,色んなフィードバックが返ってきて面白いと思う。

学生H: やっていいのか? 「今の学生からすると何と要領の悪い生き方してるの」と。

学生K: いいんじゃないの。何も知らない若者を代弁して。けれど,論理で行くべきでしょう。それに,逆に僕らが論理で巻き返されたりすると面白いでしょう。

学生H: 向こうの方が経験があるし,頭もいいから,巻き返してくるでしょう。どういう風に巻き返されるか楽しみだ。