KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』インタビュー集 最首悟氏 インタビュー

最首悟氏 インタビュー

(10月4日,「むくどりの家」にて)

世代的な感覚

──今日はよろしくお願いいたします。まず僕らの問題意識としては,学生運動をやっていた時代の人たちと,今の学生である僕らのメンタリティーがそんなに違うのかな,という問いから発しました。しかし,「当時の人たちはなぜあれほど運動をしていたのか」という素朴な疑問があったんです。また「同じ学生運動でも,全学連運動と全共闘運動の質的な差はあるのではないか」ということにも気付き始めました。本日は,当時の学生のメンタリティーを探りながら,団塊の世代の方々や,学生運動の興隆期を複数回にわたって体験された最首さんのような方が今何を考えているのか,ということについてお伺いしたいと思います。

──当時の運動について,語りたがらない人が多いんですよね。「あの運動」を,歴史としてどういうふうに我々が見たらいいのか──それが我々学生の側からの,すごく素朴な疑問なんですけど──よくわからなくて。「そもそもあの時代は何だったんだろう」というところから,この企画がスタートしているのです。

そうだねぇ…。年代としては阿部知子(ともこ)たち,つまりあの当時の大学一年生が一番若いんだろうね。その後「高校全共闘」が出てきて,「中学全共闘」もあったかな。阿部知子って知っている? 小児科医で社民党の衆議院議員。ぼくは今 72 歳だから,だいぶ年が違うね。山本義隆が 42 年生まれ,67 歳。もうそんなになっているのか…。

──山本義隆(よしたか)さんは,まだ予備校で元気に教えていらっしゃいますよ。

まだ教えている。有名な坂間さんをのぞくと坂間さんは授業がないから,年齢的に現役ではぼくがトップなんだ。2 番目が山本義隆。山本義隆は現役合格で,ぼくはちゃんと「駿台卒業」(笑)。

──なるほど,OB というわけですね(笑)。

──それでは,当時のお話を伺うところから始めたいと思います。当時,最首さんは東大の助手という立場だったんですよね?

そう,67 年の 6 月に教養学部の生物教室助手になった。ドクターコース(博士課程)の1年,2ヶ月で中途退学。67年というと,31歳です。1936年生まれなので,寺山修司とか,長嶋茂雄とかと同じ歳。

ぼくは,社会的年齢と生理的年齢が6年くらい違っている。小学校が9年かかって,それも1年はごまかしたんだ。予備校1年,駒場に行ってから3年,本郷に行くと「学校に来ちゃいけない」って言われて,3年。それで大学だけでも6年。ぼくは「34・S1・2組」(昭和34年入学理科一類2組)で,今でも毎年同窓会をやっている,理科系の「国会突入クラス」なんだよ。

──1960年の,樺(かんば)美智子さんが亡くなった時の「突入」ですか?

そう,「6・15」。樺美智子さんはぼくより1つ下。そういうわけで,周りからずれていて,最初の「34・S1・2」をのぞくと,そのあと誰が同級生なのかわからないんだよね(笑)。

──当時は,“長く”学生をされていた方って結構いますよね。

いるいる。ぼくが駒場寮に入ったのは 1959年の暮れ頃で,中寮の「くるみ会」。結核予後の学生の部屋で,「夜9時には寝なさい」とかいう規則があった。そういう部屋が3部屋(1部屋あたり6人)あり,3部屋とも満員。そこへ入ると,年食った連中がいっぱいいた(笑)。ぼくの部屋にも「入学して即日退学」という厳しい目に遭った人がいた。合格発表後の結核検診で「退学」。翌年また東大を受験して入った,こんどは「『くるみ会』へ入れ」という条件付き。その人が「長老」だったね。

同部屋で,僕より1つ上の喘息の茅野寛志(かやのひろし)さんという人がいたんだけど,60年秋,喘息で死んだ。ぼくも喘息だから,辛かった。そんなふうに,結核がまだまだ残っている時代だった

──そういう点からしても,「普通の人と違う」という感覚はありましたか?

小学校から同年齢の同級生がいないからね。そもそも大学に入りたかったのは,大学で初めて「年齢が問題にならなくなる」からだね。それまでは歳が違ったらまずだめ。小学 校6年のときから,昭和14年生まれの弟のクラスに入れてもらった。昭和12年生まれのすぐ下の弟はもう中学生。その同じクラスの弟から情報をもらって,あんまり学校には行かなかった。

──そうした体験は,最首さんの後の人生にも影響を及ぼしたとお思いになりますか?

そうだね…一つには「人恋しい」かな。「集団行動」に憧れる。「運動会」と「修学旅行」がキラキラしていた。両方とも縁がなかったから。そして人恋しいのと逆に,人が煩わしい。「人恋しい」思いと,「独りになりたい」思いが交互にやってくる。

──家にいる間は何かやっていらしたんですか?

いや,特に何も。ただおかしいことに,元気なときに小学校に凧揚げに行ったりすると,以前クラスが一緒だったやつが出てきたりして,「お前いいよな,学校に来なくて凧 揚げてて」とか言われた(笑)。牧歌的だね。

そういうわけで,「社会常識」がないんじゃないかな。「みんな一緒に」っていう体験がないし,「いじめ」にあうとも違う。3年も違っちゃあ,「いじめ」にはならない。

──それでは,そうした「人恋しい」感覚が,学生運動によって満たされたという部分はあるのですか?

「学生運動をやっている」という意識はあまりなかったね。1960年の安保闘争の時はもう,人恋しいのもそうだけど,「お祭り騒ぎ」だから。それで,学生運動というよりはクラス単位で運動をやるという感じで,さっき言った「S1・2組」もそういうクラスだった。先生の協力はどうしても必要で,担任が,久賀道郎(くがみちお)さんという若手のすごい数学者だった──この人は悲劇的で,ニューヨークで死ぬんだけどね──その頃は 30 歳になるかならないかで,非線形幾何学のバリバリ。そのすごい先生の授業はデモに行くといえばほとんど休講にしてくれた。後で,夏休みにその分の授業を全部やる,といわれてがっくりきちゃったけど(笑)。

──当時,駒場にそういう先生方はたくさんいらっしゃったんですか?

結構いたね。

──それではもう,60年安保闘争は「学生だけ」というよりは「国民運動」というイメージだったんですか?

そうだね,「学生運動」というと,相当プロフェッショナルなんだよ。やっぱり「革命運動」だから。ただ学生運動が独立し始めたのが 1958年。共産党から学生や相当数の文化人が飛び出した。共産党からすれば除名した。

それまでは左翼と言ったら共産党しかなかったんだけど, 1956年から本家のスターリン主義共産党のスッタモンダで,日本ももちろんその波をかぶって,学生が共産党から飛び出して,「共産主義者同盟」をつくった。1920年あたりからの「東大新人会」の系譜からすれば画期的だった。新左翼の誕生です。

国会突入まで

──58年に発生した共産主義者同盟(ブント)の活動は,60年の安保闘争でわりと結実するわけですよね。

そして潰れる。結実したと思ったら潰れて,革共同,そして中核派と革マル派とになっていく。共産主義者同盟の学生組織である社学同の中に中大の「セクト・ナンバー 6」という自立派ができて,ぼくはどちらかといえばその辺りにいるというような感じだったけれども,あくまでも「ペリヘリ」(周辺部)で,組織ならざる組織に共感していただけかも知れない。

ぼくは 1960年の頃は学友会が活動の場で,学友会は自治会と対立していた。学友会は学生と教師の親睦団体で,体育会系なんだね。駒場寮には寮委員会がある。それに自治会があって三つどもえ。学友会と自治会は犬猿の仲なんだ。そうした組織の垣根を取っ払って,動き出したのが,60年の直接民主主義的な国民的なうねりだった。ぼくは学友会の方で,6・15の前辺り,4月の段階かな…「淡青旗」っていうのをつくった,生地を用意したんだ。──本来は運動会の旗なんだけど──それにクラスの名前を書き込んで,それが70 本くらい翻った。これは自治会ではできないことなんだね。

──学友会と自治会を両方含めて,活動をしたということですか?

クラス選出自治委員だから。

──学友会が中立的な組織としてやった,ということなのですか?

そう。ぼくらは,自治会執行部と一線を画しながらも,文化連合でもあるし。「赤旗を立てる」意識ではない。「淡青旗」を立てたということは,自治会からみれば噴飯もの(笑)。──だって「淡青旗」なんて「一高」の旗みたいなものじゃないか──。もちろん,寮には一高時代の落書きはいっぱい残っているし,酒呑めば猥歌に決まっていたしね。

そしてぼくらはクラス決議で「国会に突入しよう」と決めた。国会の前でも「死ぬ危険がある」とか「やっぱり入らない」とかいろいろ議論したあげく,人数をしぼって突っ込 んで,全員が怪我した。ただ,クラスからは逮捕者は出なかった。ぼくら「駒場組」の5mくらい横が本郷の文学部で,そこで樺さんが死んでるんだ。人が押し合う圧力はそれは凄かった,転んだらおしまいのような。「国民的うねり」というか,「お祭り騒ぎ」というか…でも何より,「直接民主主義」を一番感じた。まとめて言葉にすれば,「直接民主主義なくしては間接民主主義は成熟しない」という気持ち。その後,自民党は,ことごとに「直接民主主義は民主主義ではなく衆愚政治だ,民主主義とは間接民主主義のことだ」というわけだけれど。それはその時の人々の流れに,真っ向から反するものだ。

ぼくらがその頃聞きかじっていたのは,ことあるごとに激しいデモに繰り出したり,街頭バリケードを組んだりするようなフランスの伝統。そういう状態を,ぼくらは「直接民 主主義が息づいている」と思っていたわけ。ことあるごとに,何かしらの身体を張った「意思表示」をしなければいけない,と。

第1次安保闘争は,その機運が一番盛り上がったもの,その後──日本人はおとなしくなって,生来おとなしいのか──結局,そういう風習にはならなかった。マスコミの労働組合,全学連叩きもすごかったけれど。労働組合にストライキをやめさせるように徹底的に弾圧する,その一翼の大きな役割が新聞だった。 もっとも表面的に出てくるのは交通事 情,デモで渋滞になる,その辺りで街頭行動もなくなってくるね。それで直接民主主義としては,条例のような形で盛り返してきた。原発建設の計画を住民投票で否決した巻町(まきちょう)(新潟県西蒲原郡)などそのはしり。自民党はあいかわらず「認めない,民主主義じゃない」と言う。

今のところ,日本の直接民主主義といえば住民投票,中間的なのがアンケート,世論調査。そういうのを直接民主主義と言うのはいかにもおとなしくて,「紳士的」。やっぱり直接民主主義というのは,敷石を掘り返して投げたりすることだと思うんだけど(笑),その点は日本には根付かなかった。もっとも敷石をすぐアスファルトに代えられたり,対応も早い。石畳でできたパリの街なんかとは違うんだね。

──「神田カルティエ・ラタン闘争」の時は,投石に利用されないように警察が敷石を全部ひっぺがしたらしいですね。

そうなんだ。せこいよなぁ(笑)。

──そういう警察の介入だとか,体制側の書いたシナリオがあって,それにうまくはまってしまったという意識はお持ちですか? そうしたことが原因になって,日本における「直接民主主義」的活動が沈静化したのかな,と思うことがあるんですが。

でも,やっぱり日本人は穏和なんですよ。「刀狩り」が成立するんだから。百姓一揆は権力奪取ではないし,明治以降の暴動は被差別者に向けた暴動だから。もっとも状況によっておとなしい日本人は何するか分らない。「おとなしい叔父さん」という類型があって,お酒が入ると,中国戦線で何したか得々としゃべり出す。ふだんはものも言えないような善良そのもの。

学生運動の変質

──運動のことに話を戻しますと,60年と 68年・69年で運動としての「断絶」があるように感じます。その 2つの時期を比べると,参加者たちのメンタリティーの違いのようなものは大きかったのでしょうか?

そうだね,6・15は,インターネットでみると,デモをしたのは「800万人」って出てくる。ものすごい人数が動いたんだけど,続かない。

学生は 62 年の暮れまではまだ「燃えた」。僕が「大学に来ては行けない」と言われたのは,62 年の安田講堂前の「11・30 全都学生総決起集会」というものを開いて学部自治会の責任者が多く処分された頃。直接には「総長缶詰事件」,茅総長を安田講堂の総長室に一晩軟禁したという罪。

ことは大学管理法案をめぐってで,安保闘争の名残であると同時に,「学生の自治は大学の自治ではない」という決定的なポイントを含んでいた。そこで「学生の生徒化」を決めたわけだ。つまり,古典的な大学像から,ドイツと日本の「富国強兵」の大学像へ,という流れの中でも生き残ってきた「『学生の自治』は『大学の自治』の一番の要」という考え方,つまり「大学の自治は学生がどう動くかによっても決まる」という,イタリア以来の「伝統」が潰された。「学生の自治を大学の自治から切り離すから,大学管理法案を引っ込めてくれ」というのが,国立大学協会と自民党のボス交渉の場で出された大学側の妥協案だった。

そもそも大学管理法案がなぜ出てきたかというと,1960年の「滑り出し」のところで「科学技術10年計画」というのがあって,その布石のために 57年,理工系の茅誠司(かやせいじ)が東大総長になった。ところが,その茅総長が,樺美智子の死に対して抗議声明と受け取られるものを出したから,自民党はカチンときた。「蜂起した学生は大学から出撃してきた」ことを旗印に,なりふり構わぬ高度成長のために大学を管理しなければならいという方針を打ち出した。

茅総長の前が矢内原忠雄(やないばらただお)でしょう。さらにその前が,𠮷田茂が「曲学阿世」と罵った南原繁(なんばらしげる) 。二人とも内村鑑三の門下で無教会派のクリスチャン,太平洋戦争に抵抗し終結させようとした。しかし南原繁を「曲学阿世」と罵る𠮷田茂も凄い(笑)。「曲学阿世」とは「学を曲げて世に阿(おもね)る」っていうことだけど,それとは逆の人だからね。ぼくらは茅誠司の方が親しみはあったんだけどね──理科一類は工学系だから。理学系にいくっていうのがちょっと「へそ曲がり」,ところがぼくみたいな「へそ曲がりの曲がり」は,動物学科へ行った(笑)。その頃,理一から動物科へ行くなんていうのはあり得ないことだった。また話が脇にそれたけれども,1962 年の大学管理法案のところまでは学生も持ちこたえたんだ。学生自治会が先導しながら,直接民主主義の「火照り」の名残のようにいろいろ大衆的に抗議していくんだが,その後,急速に冷え込んじゃって,「三無主義」や,政治とは関係がないアパシー,「ノンポリ」という言葉が流行りだした。

「やっと『戦後復興』した」という高揚感のもとで,1960 年は,安保条約改定,石炭産業の終結(大争議),石油産業の勃興,農業基本法の制定,国民皆健保,科学技術立国がひしめく。農業基本法っていうのは「農業の切り捨て」「食糧は結局は輸入でやっていくしかない」ということを示した法案だった。防衛はアメリカに,エネルギー,食糧は輸入に頼って,すべてを精密工業製品,特に自動車の輸出に賭けた。

それで,石油産業の勃興に伴い,水俣病が広がっていたんだけれども,当時のぼくらはそんなことを全然知らなかった。59 年 12 月 30 日に水俣病の処理を終えて 60 年を迎え,チッソは大増産に転じるなど露知らなかった。政府は,片方では「貧乏人は麦を食え」なんて言いながら,片方では「理工系倍増」,理系のぼくなど,まさに「売り手市場」のなかにいた。大学院生はあっという間に助手になる。文系は今も昔も厳しいけれど(笑),理工系は浮ついていた。もっとも,時代の移り変わりの中で東大工学部の鉱山学科がなくなる。土木も落ち込んで「華の三化(さんば)け」,つまり応用化学・化学工業・工業化学が大変な人気だった。優秀なのはチッソに行くと言われた。電子部門と原子力もね。

「全共闘」の下地

──63年から66年頃までは,学生運動の一種の沈滞期が続くわけですよね?

日本の混乱期・高度経済成長への離陸──朝鮮動乱を背景にしているから,ある程度は後ろめたさもあるんだけれどね──つまり,その時代に,日本の進路が決まったわけだよね。これは,昭和21年と比すべき時だ。21年には,天皇が人間宣言をした──これは大きいんだよ──。61年は,「日本は輸出で,技術で食っていきます」「そのためには農業を潰してもいいです」という宣言をした時なんだよね。

そして,急速な生活転換が行われる。ちょうど,「初速から抜けて,やっとフィールドを駆け始めた」ような時。60年代は,オリンピックがあって,新幹線が通って,一万円札ができて…という3つの出来事で象徴されるように,日本中が沸いてるわけだよ。そこでは「革命」とか「市民運動の成熟」とかいうものは一旦落ち込んで,深閑としていたよ。世界的には結構盛んなところもあったんだけど。

日本で再び運動が高まり始めたきっかけがアメリカのベトナム北爆なんだ。65年になると,べ平連が出てくる。これは日本の市民運動の先駆けだよね──。既に「日本の位置」が世界的に問題になり始めていた。なにせベトナム戦争の時の米軍機は沖縄から飛び立っていて──沖縄はまだ日本じゃなかったけれど──,「沖縄をどうするか」という問題もあった。朝鮮動乱もそうだったけれど,日本は占領されていたから,みんな日本の基地から飛び立っていく。アメリカの「核の傘」のもとで,これだけ軍事費を抑えた国は他になくて,工業育成に(汚職まで含めて)お金をつぎ込めた。その辺りが問題になってきたのが65年だよね。そして,四日市問題のような公害の激化も兆していた。

──では,その時期は静かなようで,「70年安保」につながるような運動の下地もつくられていった,ということですか?

そう,ベトナム戦争でその下地がつくられていった。世界的には,62年のキューバ危機を乗り越えたところで,一応冷戦は終結なんだよね。ケネディとフルシチョフが話し合えるまでは,「核戦争まで一触即発」という,恐るべき時だったね。

──日本の,国家として抱える矛盾があったということなんですか?

それはもう,ねじれにねじれていたんだけど,その状況を冷戦構造の中で,それを保存したわけでしょう。ルース・ベネディクトの『菊と刀』──相当に実行力のある政策提言書だったと思うけれども──には,「天皇制を残すべし」とか,その代わりに「宗教教育を一切禁じよ」というのがあった。(同じく占領された)ドイツはキリスト教だったから,「宗教教育」はそのまま残されたんだけどね。…やっぱり,天皇制・日の丸・君が代を残したのは,一つの「ねじれ」の原因だろうね。ずるずると引きずって──それが日本らしいんだけれど──けじめがつかないんだよ。65年辺りから,ベトナム戦争をきっかけにして,朝鮮半島・中国・フィリピン・インドネシア・ニューギニアまで展開した日本の侵略に対する責任が問われてくるわけ。65年の日韓会談では,日韓基本条約によって日本と韓国とは早々と国交正常化を果たすんだけれども,その時にも,「国民の責任」,つまり「国民はもはや『無辜の民』ではない,という議論があった。

──国民としてもそのことに自覚的になり始めた,ということでしょうか。

「国民の責任」論を論客たちや,(大衆学生運動のような場で)学生が主張せざるを得なかった僕らは「ベトナム反戦会議」というのを65年につくった。理工系の学生が主体で,その中心が山本義隆なんですよ。そこでは,べ平連が「非暴力の個人」を標榜していたのに反発して,ベトナム反戦会議では「人民の武器としての暴力」を捨てない,と言っていたわけ。だけど,もしそれを主張しようとすれば,結局は個人で「一人一殺」のような感じになってしまうんだ。

──68年・69年の学生運動の流れの中で,べ平連も運動として続いていくわけですか?

そう。やっぱりべ平連は日本の,「組織運動」とは違う「市民運動」として重要でしょう。共産党を出てきた人たちの団体でもないからね。それまではみんなそうだったんだよ──演劇・音楽・文学──みんな共産党のもとにある活動だとか,共産党からパージ(追放)されたのか追ん出たのかわからないような人たちが渦巻いていた中の活動で…とにかくみんな共産党と縁があったわけだね。

それとはまた違って,ベトナム反戦会議は──僕らが勝手に「重要でしょう」と言っているようなところもあるけれども──学生主体・ノンセクトの運動としては重要なんだよ。

全共闘ってのは「セクトのせめぎ合い」なんだけれども,それが成り立ったのはノンセクトがいるからなんだよね。ノンセクトに入ってもらって(異なるセクトが)なんとか同じ席に着く,という「ノンセクト頼み」の状況。ノンセクトとしては,「セクトを噛み合わせ,戦わせ,潰し合わせるといいんじゃないか」とか思ったりしていて(笑)

全共闘の政治的な場面というのはほとんどセクトの仕業なんだよ。その一方でノンセクトは,学友会が自治会に馬鹿にされたように,セクトから馬鹿にされていた。「ノンセクトには理論がない」とか。これは僕が後になって問題にするところだよ。「理論って何なんだ」とね。ノンセクトが育ってきた背景は,1960年の安保闘争時の「直接民主主義」,それから,65年のべ平連ができていく流れの中にある。もちろんべ平連と言っても,吉川勇一(よしかわ ゆういち,べ平連2代目事務局長)なんてのはポポロ座事件──東大構内に私服警官が入った──の被告で,その辺りの学生組織はみんな共産党だった。小田実(おだ まこと)とか,鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ)のような,共産党,あるいは共産党を追ん出た連中からみれば右翼みたいな人たちがべ平連を指導するわけだから──どちらかといえば小田実より鶴見俊輔の方が大きいだろうけど──凄いことだった。他にも日高六郎(ひだか ろくろう)とか,いろいろいましたよ。べ平連というものがあるがゆえにノンセクトの学生組織も育っていった,とも言える。そしてべ平連もノンセクトも,ポイントは「個人」なんですよ。それまでは全然そういう感じではなくて,必ず組織だって動かなくちゃならなかった。

「理論」と《トウ》

この前,土本典昭(つちもと のりあき)さんの弔辞を『図書新聞』に書いたんだ。土本さんは戦後の学生運動の立役者で──一時は共産党の中央にもいた人で,そこから飛び出してくるわけだけれども──,現実の「党」に対して,幻滅するわけだよね。でも,あくまでクリアーかつクリーンな,理想的な「党」を持ち続け,それを実現しようとする自分のことを「未党派(みとうは)」って呼んだんだよ。

例えば,野間宏(のま ひろし)が『《トウ》はそこに建つ』という時の《トウ》は,時計台の「塔」…だけどそれは共産党なんだよ。大学の時計台は「塔」で,そのイメージにつながるんだよ。倉橋由美子の『パルタイ(Partei)』は「党(Party)」という意味。全共闘が安田講堂の時計台を占拠したりするのには,そういう流れがあるわけ。「時計台を占拠する」というのは凄くシンボリックな行為なんだよね。大学の象徴・権威の象徴でもあるし,「経済外的強制」というんだけれど,なんだかわからないけれど神秘的な権威を持つものをみんな「塔」と呼ぶわけだ。土本さんは終生,未党派…「未だに《トウ》が建てられないでいる──だけど《トウ》はそこにある」と言っていた人。

それに対して僕らは,自分で言うのもなんだけれど「無党派」とか,ノンセクト──これはマスコミがつけた名前なんだけれども──とか言っていて,既に《トウ》がないんだよね。そうすると途端に,「見取り図」はどうする,理論はどうする,という話になる。結局,組織を背景にしないで政治や社会は語れないだろう,ということになる。「個人のレベル」から一歩踏み出さないとどうしようもない。つまり,無党派というのは「非政治派」なんだよね。でも,「非政治派」の学生運動といえども,それが大衆的闘争の担い手であるとすれば,「権力奪取」を掲げているわけだよね。無党派には「権力奪取」の思想がないから,それは政治とは言わない,というよくわからない状況になってしまう。

──最首さんの意識の中では,どこを目指していたんですか?全共闘時代のゴールとしては。

ある意味では文化運動…いや,「個人論」だね。「私たちには《個人》というイデオロギーがない,受け入れる下地がない。じゃあ個人に代わるものを何というのか」というのが一番の問題だった。それはずっと今でも続いている問題。それどころか,もっと強くなってしまった。

明治以来の「和魂洋才」の問題をどう解決したらいいか,ということだよね。日本の「個人」はみんな「和魂洋才」「精神なき《個人》」なんだよ。「精神」というのは,キリスト教を土台とした近代ヨーロッパ──ウェーバーとヘーゲル──のイデオロギーで,キリスト教の国にはそういうイデオロギーがある。ウェーバーの『プロテスタンティズム』や,ヘーゲルの「『私』とは絶えざる現在の否定である」という思想だね。その辺りで,一応「個人」というイデオロギーは完成しているんだよね。そんな16・17・18世紀に培った《個人》というイデオロギーを日本人はどうみるか,という問題で,「進歩的文化人批判論」あるいは「大学批判」の一番の論点も,そこにあるんだよね。みんなそれがわかったような顔をして日本人批判をする。「そうやって批判する自分はどうなのよ」と問われたときに答えに窮してしまうことが日本の一番の病弊で,これを改めないといけない,この問題を自分は引き受けよう,というのがノンセクトラジカルだと言ってもいい。「個人を原理として」と言った途端に《個人》が問題になるわけだからね。“individual”ってのは難しいよ。

問いかけと「個人」

──個人という問題について言えば,全共闘が出した『果てしなき進撃』(東大闘争全学会議編,三一新書)を読むと,ある学生のセリフの中に「彼にとってその時,『主体』とは,この現実世界の『秩序』の中でかぎりなくギシギシときしみ続ける自らの存在のことであり,『自己否定』とは,もはや安らぐふところを失った自らの生命の道程──ジグザグの道のことである」というような一節がありました。これは,「常に個人として自分に問いかける」ということなのでしょうか?

うん,それはあるよね。僕は「問学(もんがく)」と言っているんだけど,それも,「絶えざる否定」ということにおいては近代ヨーロッパの思想なんだよね。その「否定」が前に向かっているのと,後ろまで含んでしまうのとでは少し違いが出てくるんだよね。僕らの「否定」はけっこう後ろ向きの場合が多い…というより,《個人》という根無し草としては,根を求めるためには後ろを振り向かざるを得ないんだ。その辺りはみんな曖昧にしたまま,進んでしまうよね。

その点からするとやっぱり,《個人》を継承しているのはネオリベ・ネオコンだと思うよ。ネオリベ・ネオコンといえばフランシス福山ですよ。福山の「歴史の終わりから人間の終わりへ」というところで,「歴史の終わり」というのはベルリンの壁の崩壊によって「アメリカ型民主主義」が世界に浸透してしまうことへの憂鬱さが抑えられないこと。一方「人間の終わり」というのは,バイオテクノロジーが行き渡って,人間が死ななくなった世界に対して抱く,憂鬱を通り越した不安のことなんだ。その世界というのは,あくまで近代ヨーロッパの《個人》,「絶えざる前進」「抑制なき個人」というものの展開だね。そういう意味で,「個人」と言ったときには,その社会はやっぱりネオリベ・ネオコンなんですよ。

だから,ネオリベ・ネオコンの批判をやるからには「個人批判」をしなくてはいけないんだけれども,日本のネオリベ・ネオコン批判にはそれがないんだよね。日本では「絶えず『個人』というものを実現しなくてはいけない。その「個人」をどこかでゆがめているのがネオリベ・ネオコンだ」というけれども,それは嘘だね。やっぱり近代的個人の一番真っ当な展開というのがネオリベ・ネオコンだと思うね。みんなが長生きして死ななくなったときにどうすべきか,という困ったことが生じているんだけれど──。

──では,そうすると,今の時代は少なくとも西洋的・近代的な自我を問題にする場合,経済的な面でも環境的な面でも「ポスト」ネオリベ・ネオコンのようなものを考えなければいけない段階に入っているのではないかと思うんですけれども,そのパラダイム・シフトの先にある展望にはどういったものがあるのでしょうか?

僕は,《個人》というものを持っている限り,展望はないと思っている。ノンセクトラジカルとしては元に戻りながら,たとえばこの「日本列島」を考えざるを得ない。ヨーロッパにとっての森のような,日本列島にとっての「根」を回帰的に探っていかなければいけない。「学問」「科学」という限りは《個人》から出発しているからね…そこが,日本の場合はズレてしまうんですよ。

──ある意味では《個人》のあり方を問い直した全共闘運動から,最首さんがお感じになるそうした問題意識に対して何か手がかりのようなものは得られたのでしょうか? 現代に生かしうるような全共闘運動の要素というのは何でしょうか? 一言で表すのは難しいと思うんですけれども。

「自己否定」というのは大事だよね。でも,「自己否定」は「今在る自己を否定するのか」という問題ではないんだよ。それは「近代型」「ヘーゲル型」なんだよね。現在の自己を否定しなければ前進はないんだからさ。「前が先か,否定が先か」みたいなことがあって…つまり「右肩上がり」があらかじめ設定された上で現在を否定しなければいけないのか…きっとそういった点ではないかとは思うよ。

──今日は長い間,本当にありがとうございました。