KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』インタビュー集 三浦聡雄氏 インタビュー

三浦聡雄氏 インタビュー

(元・東大民主化行動委員会議長)

東大民主化行動委員会議長として,民青(共産党系の青年組織)の側から,東大闘争の過激化に反対した三浦聡雄氏にインタビューをおこなった。代々木系(共産党系)の民青は,反代々木系の新左翼・全共闘と,闘争のあいだ,長きにわたって激しく対立していた。三浦氏は『東大闘争から地域医療へ志の持続を求めて』(三浦聡雄,増子忠道著,勁草書房)の著者であり,東大医学部を卒業後,みさと健和病院の建設など地域医療の発展に尽力してきた。全共闘運動の裏に隠された,「革命運動化への暴力的な転換」について,氏は語る。

エスカレートする暴力

──東大闘争の天王山は,1969年1月18日・19日の安田講堂攻防戦であるというのが一般的な認識だと思うのですが,三浦さんは『東大闘争から地域医療へ』の中で1968年11月12日・14日に大きく局面が変わったと仰っていますね。12日は全共闘の学生たちが本郷の中央図書館を封鎖しようとして民青と衝突,14日には駒場封鎖を巡って,同様の衝突が起きています。まずお聞きしたいのは,闘争の中でゲバ棒や鉄パイプが登場し,武装もだんだんと先鋭化していきます。内ゲバでは死者まで出るわけですが,エスカレートする暴力について,三浦さんはどのようにご覧になったのでしょうか。

全共闘の中心になっていた,社学同,中核派,革マル,社青同解放派などの過激派は,誤った「革命理論」にもとづいて,「非和解的実力闘争」,ゲバルトによる暴力的革命運動を進めようとしていた。1970年安保闘争が決戦の時だとあせっていたわけだ。そこに,1968年1月以来の医学部ストライキが起きた。卒後研修の要求や不当処分撤回,医学部のわずかな過激派が時計台を占拠したのに機動隊を導入したことの大学当局の自己批判などを求めて,全学の学生たちがストライキに立ち上がった。こうした,医学生や研修医,東大や全国の学生たちの現状への不満,改革へのエネルギーを,強引に自分たちの暴力革命路線に流し込もうとしていた。

学生たちの激しい怒りや混乱に乗じて一定の支持を得た秋頃になると,全共闘は「東大を破壊せよ。全学バリケード封鎖で解放区を」と,学生の真の要求とは無縁な過激な方針を提起する。こんな方針が学生たちに支持されるわけはない。そこで,本来は権力への抵抗手段のはずだったゲバルトが,彼らに反対する民青や一般学生に向けられるようになる。当時の東大全共闘の機関誌「進撃」は,「バリケードの向こう側に立つ者は敵だ。『敵は殺せ』…これは,権力の論理であり,僕たちの論理でもある」と書いています。自分たちの過激な戦術,「全学バリケード封鎖」に反対する者は,ゲバルトでやっつけろという公然たる宣言だ。自分たちの考えを暴力で押し通そうとした。

この段階で,全共闘が,急速に一般学生の支持を失い孤立していく。当初,全共闘に幻想を抱いて支持した人たちも含めて「クラス連合」,「有志連合」などのノンセクト学生の組織が各学部につくられ,僕たち民主化行動委員会(駒場では,東大闘争勝利全学連行動委員会)と連帯していく。

こうして,11月12日には,ヘルメット,1メートル位の木や竹の棒など,正当防衛のための最小限の装備で本郷の中央図書館前に座り込んだ僕たちが,長い角材を持って突入してきた全共闘をはね返し,図書館封鎖を阻止することができた。14日には,僕たちと圧倒的な数の一般学生や教官たちが,非武装・ハチマキ姿で,駒場のバリケード封鎖に反対して座り込んだ。全学バリケード封鎖は,学生たちに支持されず,どこの学生大会でも決定されていない。封鎖に反対し,阻止する闘いには大義名分があった。全共闘は,長い角材を林立させて襲撃して来たが,まわりで見ていた学生たちも怒って一斉に取り囲んだ。

お互いの身体が密着すると,角材は役に立たないんだ。「多勢に無勢」の全共闘は,ボコボコにされ,角材もヘルメットも取り上げられ,武装解除されて退散した。それから後は,この民青・ノンセクト連合が東大闘争の主導権を握り,各学部で学生大会を成功させ,七学部代表団(+医学部代表はオブザーバー)をつくって東大当局と1月10日,秩父宮ラグビー場で全学集会(大衆団交)を行い,学生参加・大学民主化を認める歴史的な「十項目確認書」締結へと進んでいく。全共闘は,学生大会粉砕,大衆団交粉砕,「確認書」粉砕といって押しかけてくるが,相対的に少数なのでことごとくはね返されたというのが真実だ。

1月9日には,翌日の全学集会を妨害しようと,僕たちが本拠にしていた教育学部の建物に,全共闘の,それも日大全共闘などが中心で武器をエスカレートした激しい襲撃があり,第二次の機動隊導入があった。

1月18日・19日の安田講堂(時計台)攻防戦は,ほとんどが他大学の過激派によるもので,孤立した一部の東大生と共に,暴力革命の実験・演習を行い,最期の散り花を咲かせようとしたものだ。テレビ映像では安田講堂の正面中心に中核派の旗が目立つが,当時,東大内の過激派は,社学同,革マル,社青同が中心で,中核派はほとんどいなかった。

彼らの派手な暴力,耳目衝動戦術にマスコミが乗り,政府権力・機動隊の大学自治へのさらなる介入,入試中止を呼んだ挑発行為で,全東大生の意志とは全く反するものだった。絵になるビデオが何度も報道され,多くの国民が,時計台攻防戦が東大闘争の頂点だと勘違いさせられてしまった。

あの頃,全共闘が派手に暴力的に騒ぐと,マスコミが大々的に取り上げ,政府自民党は「大学は自治能力が無いではないか」といって「大学法」など介入・管理を強めようとするという状況があった。実際,中曽根氏は,「暴力学生があばれると,反射的に,国民の支持が自民党にまわる」と言い,保利茂などの自民党幹部も,日本共産党への対策上,「三派系(過激派)は泳がせておいたほうがいい」などと本音を語っていた。

全共闘諸派は,孤立しても暴力で自分たちの方針を押し通す,運動内部でも,学生相手でも暴力を行使する,そして,やられればやりかえす。そうした考えでゲバルトをやるから,東大闘争の終盤では,武器がエスカレートし始めた。彼らが1月9日教育学部の建物を襲ってきたときには,鉄パイプだとか,建築現場の工具などいろんな危険な物を持ってくるようになった。そんなことをだんだんと進めてやっていくと,東大闘争では鉄砲や殺人まではいかなかったけど,そこまで行き着くこともあり得る。お互いにやりあっていれば,軍拡競争と同じで,武器も戦術もいつの間にかエスカレートしちゃう。

だから,そんな土俵に乗るとまずい…と考えて,僕たちの側は,戦略的な転換をした。そういう局面では武力で対峙するようなことはやらないと。その場は逃げてもかまわないから,時間をかけて,とにかく圧倒的な多数の学生で包囲してやっつける。武器や暴力の先鋭度で戦うんじゃなくて,大衆の支持で,政治的に封じ込める。そうなると,完全に孤立した方は,実際にはなかなか暴力を振るうことができなくなるから。だから,11月14日の駒場での戦い方がそういう方法論だったわけだ。その場でこちら側の頭数が多くても,やばい状態で来たときにはいったん逃げてもかまわないから…と。激しい,エスカレートした武器を持って来られたらやられちゃうっていうような,そういう喧嘩はしない方針に変えたんだ。そしてそれは正しかったと思う。事実,東大闘争以後のいわゆる内ゲバの拡大は,全共闘諸派の内部で行われ,われわれ共産党・民青系は巻き込まれることが無かった。

──その転換は民青側の学生たちが話し合う中で,ということでしょうか?

共産党や先輩活動家の助言も含めて,僕ら民青・ノンセクト連合の学生自身が話し合い,その方がいいっていう判断をしたんだね。暴力を先鋭化して行く路線に巻き込まれれば,そのうち際限のない内ゲバになっていくわけだよ。そんな闘い方だったら,別に人数が少なくても,より強力な武器を持っているほうが勝ってしまうからね。鉄パイプを持っている方がね。

事実,東大闘争の後では,彼ら全共闘系過激派の内部で,各セクト対セクト,また四分五裂するそれぞれのセクトの内部で,ひどい内ゲバが日常化し拡大していった。ヤクザの暴力よりひどい陰惨な殺し合いでたくさんの人が死んだ。ついには,1972年の連合赤軍事件のような凄惨なリンチ殺人・浅間山荘の銃撃戦に至ってしまったのは,周知の事実だ。その後の学生運動が沈滞することにもつながってしまった。全共闘や過激派の幹部,リーダーだった者たちには,重い責任がある。自分たちの運動が内包していた何がこうした事態を招いたのか,自分はその過程にどうかかわり,どう自己批判するのか,一人一人明確にしなければならない。実際は,ほとんどの人が無責任にほおかぶりして,自分に都合のいいことだけを語っている…許されないことだ。

ただ,東大闘争で過激派,全共闘とけんかしていろいろやったけれど,一面,彼らも,今井澄,鎌田実両氏がリーダーになった「諏訪中央病院」や「ゆきぐに大和総合病院」などの地域病院では,私たちと似たようなことをしている。また,かつての全共闘や全共闘シンパで,まじめな問題意識を持っていた人たちのなかには,南北問題のボランティアや格差社会を変えるNGO活動など,面白い生き方をしている人もいる。「諏訪中央病院」の「日本チェルノブイリ連帯基金」の活動なども優れた先進的な取り組みだ。

あの時代の空気と大衆的な高揚の中で,多くの学生が,当面の要求実現だけでなく,個々人の生き方,社会変革の理念や自分のかかわりといったことを,セクトの思惑をこえて,真剣に考えたことは間違いない。これは,民青系の運動でも,全共闘や小田実の「ベ平連」系の運動でも同じだ。全共闘運動は,武装・軍事行動のエスカレート,人間的退廃へとつながる危険な本質を内包していた。それでも,多くのノンセクトラジカルたちが,全共闘の呼びかけに触発され,その流れに加わりながら,視野を広げ誠実に自分の生き方を変えていったことも事実だ。<かつての敵>とも,志を持ってまじめに生きている者どうしなら連携協力していけるのではないかと思っている。かつての<暴力>についての誠実な総括の要求を譲る気はないけれどね。

──民青の中で,「ある程度は武器を持っても戦うべきだ」といったようなことを主張する人もいたのではないですか?

「武器をもって戦うべきだ」というと,ちょっとニュアンスがちがう。11月12日の図書館封鎖を阻止した時が典型的だ。こちらから先に武装や暴力は行使しない。しかし,相手が武器を持って襲撃して来るのが明らかなとき,最小限の正当防衛は許されると考えた。ゲバ棒が登場した初めの頃は,こちらは素手の無抵抗で,彼らのゲバ棒でおどされ蹴散らされることが多かったのでね。暴力に屈してはならないと考えたんだ。とにかく,こちら側からは手を出さなくても,むこう側からゲバ棒で突っ込んでくるんだから…ヘルメットをかぶり,一番初めは1メーターくらいの竹の棒だったけれど,身につけた。それから木の棒,鍬の柄みたいなやつね。大体それくらいが僕たちの限度だったけど。後では,そんな物も使わない方針に転換した。

民青の一部やノンセクト一般学生たちの有志連合には,どんなときでも暴力は一切使っちゃいけないっていう,ガンジー主義者のような人,クリスチャンだとか,非暴力・不服従主義者もいて議論した。今から考えると,ガンジー主義などは,運動の人間的な堕落を防ぎ,道徳的な輝きで人々を結集するので,そういう思想はなかなか正しいと思うのだけど。その頃の僕は正当防衛論者だった。とにかく,あの11・14駒場封鎖阻止・全共闘の武装解除の闘いや,1月9日教育学部周辺での激しい闘いを総括し教訓にして,エスカレートする暴力の土俵に乗らないという正しい決断をした。本当に良かったと思っている。軍拡競争と一緒で,相互の恐怖と怨念をバネにした暴力は際限なくどんどん行ってしまうものだからね。

共産党について

──三浦さんは学生時代,20歳前後に共産党に入党されて,1967年春の「61日間スト」の頃に一度離党されている。それからまた復党され,かなり経ってから離党されている。その心理というか,やはり運動の中で共産党に対して違和感を覚えたのでしょうか? また,今の世の中における共産党の存在意義についてもお聞かせいただきたいのですが。

当時の社学同や新左翼というのが,民青とは相容れない立場で,駒場では生協の牛乳を盗んで「革命のためには許される」と開き直ったりしていた。信用できないおかしな連中だと思った。しかし,本郷に来てみると,東大医学部の社学同なんかは,広汎な学生・研修医を結集して大衆的な,立派な運動を進めていた。人間的にも結構まともなんじゃないかと感じて,彼らのどこが本当に悪いのかよくわからなくなってきた。それで,1967年,「61日間スト」の頃に離党届けを出した。医学連や青医連の運動,「インターン制度廃止,卒後研修改革要求」のストライキなどを,彼らと一緒に,先頭に立って思い切りやるために共産党から離れたわけ。ただ,このときには,先輩党員が僕の届けを預かったままで待っていてくれたので,正式の離党にはなっていない。

「春の医学部61日間スト」が終わって,鹿児島県人寮の同学舎に引っ込み,寮委員長をやりながら冷静になってよくよく考えたら,やっぱり共産党は大切だと思い直した。しかも,1968年1~3月頃,東大闘争序章の医学部ストで過激派の本質が見えてきた。彼らの落とした内部文書に「非和解的実力闘争」,「70年安保決戦」(後には「武装行動隊の創出」)などといった言葉があってね。彼らの隠してきた本音が表れてきたわけだ。それまで迷い考え抜いてきたからピーンときた。やっぱり誤った,観念的な革命理論による挑発者集団であると確信した時点で,彼らと闘う決意をして共産党と民青に復帰したわけだ。

こうして僕も医学部の民青も,理論的政治的にしっかり団結して東大闘争を戦い勝ち抜くことができた。東大闘争後の医学部自治会の活動は活発で,文字通り広汎な学生が参加し,医学部の根本的改革や反戦・平和・民主主義の課題にも取り組む素晴らしいものだった。全学連の中の拠点校として,大学法の問題などでストライキをやろうというと,中心になってストライキを打つような強力な自治会になった。僕は,卒業前には,崩壊した医学連の再建に取り組み,一年間全学連の中央執行委員もやった。

卒業後は,相棒の同級生医師増子忠道君と一緒に足立区北千住の民医連の小さな柳原病院に就職して,住民と共に民主的な地域医療づくりを進めてきた。東大闘争でかかげた理想を実現しようと,共に闘った後輩の青年医師たちが次々と合流して,病院は拡大発展していった。そして,1983年に開院するみさと健和病院の建設を医療過疎地域の住民運動として進めた。三郷市80町会の過半数の町会長を含む,保守革新の広汎な層の人々が参加し,住民が多額の出資をする大きな運動になった。こうして「みんなでつくるみんなの病院」が誕生し,発展した。

ここで協力関係のできた自民党反主流派の幹部を市長選の統一候補としてかついだが惜敗した。その次の選挙で,この統一協定がうまくいかず分裂した。その混乱をひきずる中で,1994年7月,最終的に,私も共産党を離党したという経過だ。幕末,薩長連合をつくった坂本龍馬は,脱藩していたから,自由にあんな統一戦線工作ができた。自分も,そんな立場に身を置きたいという感じだったね。いつまでも国際共産主義運動の負の遺産を背負っていきたくはないという考えもあった…南方系の開放的な自由人だから,体質的にも,窮屈な組織は肌に合わないところもあったのに,よく30年も続いたものだ。それだけ,より良い世の中をつくりたい,困った人を助ける,人々の役に立つ人間になりたいという情熱はあったと思う。その後,僕自身が,保革の広汎な市民と共産党の推薦を受けて1998年10月の三郷市長選挙の候補になり,現職市長にわずかの差で敗れた。住民参加の市政・町づくりの市民運動を前進させるのに,一定の貢献はできたと思っている。

共産党については,今でも大事で,存在理由はあると思っている。自分の勤務する組織をほめるのはおこがましいが,民医連(全日本民主医療機関連合会)の医療・福祉活動も良くやっている。今の格差社会で,困窮してどこにも救いが無い人たち,健康保険も無い外国人労働者,公害や労災・職業病の患者,そんな患者さんたちに寄り添い,支援する運動を続けてきた。自殺や孤独死の危険から救えたと思う人が,僕がかかわっただけでも何人かいる。民医連という組織が,議員や弁護士,行政などと協力し,全国規模でどれだけのことをしているかということを見れば,その実績は大きいと思うよ。共産党や支持者の人たちはその中心になって献身的にがんばっている。

昔の共産党は,分裂した一方が犯した1950年代の極左冒険主義の誤りもあって,狭く暗いイメージがあった。その後,宮本顕治や上田耕一郎,不破哲三兄弟らがソ連や中国の干渉と闘って,自主独立路線を確立して上げ潮に向かった。それでも,まだまだ,身内だけが納得するような議論をしてね…私たちは正しいと言ってるだけで,世間の人があんまり信頼して相手にしてくれずに孤立している面もあった。今も,壁にぶつかって一進一退しているね。ただ,今,活動の中心になっているのが,僕らのような東大闘争,医学部闘争以後の世代の人間だから。あの時代の,学生運動で磨いたセンス,思想信条の異なる幅広い層の人々と連帯協力して多数派を形成していく柔軟なやり方を身につけた人も少なくないからね。

──共産党自体も変わってきているということでしょうか。

変わってきている。最近もテレビなんかでよく見る,僕らの十年くらい後輩の小池晃共産党議員なども,よく聞いていれば,結構説得力あることを言っているよ。共産党は,僕が見る分には結構変わってきていて,民主的な開かれた政党になって,幅広い人々と協力してやりましょうという方向に動いている気がする。実際に,自公が少数派になったときに,民主党や社民党などと手を組んで政権をとるのか,そこには入らないで外から協力するのか,共産党としても微妙だとは思うけど,結果的に日本の政治が一歩前に進むようなことをしたほうがいいと思うけれどね。その辺が共産党の正念場だろうとは思う。

報道の分野でも,値打ちのあることをしていると思うよ。最近はNHKが批判されて少しは良い方向へ変わってきたようだけどね。日本のマスコミっていうのは,程度の差はあっても,みんな権力にぶらさがり,そこから情報をもらって伝えているという側面が強い。自立した立場で,独自に調査して報道するっていうのが弱いように思う。本当の自立は,ミニコミやブログのレベルでしか存在しないんで,主要なマスコミはある意味みんな体制側に飼われているような感じだ。それからすると,やっぱり共産党の機関誌「赤旗」の存在は大きいからね。そういう権力から独立した貴重なメデアだから。世界を見渡せば,最近でこそアルジャジーラのような一方通行的でないメディアが出てきたけど,アメリカがアラブを攻撃しても,アラブの立場からの情報なんていうものは,本当にごく限られたものでしかないわけだ。マスコミが「国際社会は」と言うときは,実は「アメリカと一部の同盟国は」という中身にすぎないことも多い。そういう,内外の強い権力の側から操作されない報道をやっているということは,やっぱり大きい。

ただし,うんと変わってきたけれども,日本共産党も,そもそもの出発点はスターリンたちが作った国際的な組織の一部であった。そういう体質が,どうしても少し残っている。少数意見や異端の人が言うことを大事にしようというのが,足りないわけだよね。懐(ふところ)の深さが足りない。なにかのことで意見が分かれて共産党から出ちゃった場合が問題だ。傷が浅く,それまで勤務した組織に残り,是々非々の協力関係も続けば幸いだ。ところが,党関係やそれに近い企業の勤務員だとか,議員とかが党の決定に刃向かったということになれば,党からも仕事からも外されて生活にも困ってしまうことがあった。今まで仲良くしていた人たちも付き合わなくなってしまったりね。

1972年の「新日和見主義事件」というのがあって,分派事件として大量の民青や全学連関係の共産党員が処分追放された。僕は関係しなかったが,何人かの友人が処分を受けた。その取り調べのやり方(いわゆる査問)が,古い共産党の体質を感じさせるものだった。また,民青や共産党の専従といった経歴の友人たちは,一般企業への再就職も難しくて,生活していくのに大変な苦労をした。スターリン時代とはちがうけど,そういうゆがんだ形の部分が,体質的にちょっとは残っているんだよね。そういった点が,一般の人が共産党と付き合っていてどうも違和感を覚える部分,何か匂いを感じる部分があるのだろうし,そのために共産党が大きく広がらないのかもしれない。まあだんだんと良い方向に行っているとは思うけれどね。

僕は,今後の共産党は,過去にあった共産党というものについてもっとキチンと総括したほうがいいと思うのだけどね。日本で唯一,侵略戦争に反対して,弾圧された政党。「蟹工船」を書いて虐殺された小林多喜二も共産党員だ。天皇制軍国主義の時代に敢然と戦争に反対した政党なんて他にはないわけだから,それは確かに立派で貴重なことだと思う。

しかし,逆に言えば,そのときスターリンが命令すればその命令どおりに,日本を引っ掻き回したかもしれないという限界をもった未熟な政党だった。終戦の時,仮に共産党が政権を取っていたら,宮本顕治は消されて,かつての東欧社会主義国のような悲惨なことになっていた可能性が強いと思う。だから,そこのところを,いっぺんもっと徹底して総括しないといけないと思う。もちろん今までにも総括しているんだけど,僕は不十分だと思う。徹底してやってしまうと,今までの蓄積を維持しにくいから,なかなか難しいのだろうけれど。イタリアなんかは左翼民主党といってそういう風に別れちゃった政党と,昔ながらの共産党とがあるけれどね。

僕らの場合,昔の学生運動やっていたころの共産党員の仲間では,三分の一以上はまだ共産党に属してがんばっている。三分の一近くは対立,三分の一は離れて協力している。大雑把に言えば,そんな感じだね。だけど,僕らの世代は,誰か昔の仲間が死んだとか言うと,今共産党とケンカしている人も,僕みたいに離れて協力している人も,今も共産党の中でやっている人も,みんな集まって来る。一致点での運動にも協力する。まっとうな人間らしい関係ができていて,それはいいことだよ。少なくとも,そういう時代にはなった。

医学部というコミュニティー

──東大で学生たちが最初に声をあげたのも,医学部からでした。東大医学部は100人弱程度の定員で他学部に比べると小規模であり,組織内の関係も密であるように思います。また,インターン制度への反対など,教育制度や社会制度のゆがみがまずはっきりと現れたのも医学部であったように思われるのですが,医学部というコミュニティーについてお話しいただけますか。

家族主義的な部分は大きかったんじゃないかな。そういう点で言えば,東大闘争でも,医学部の中でやっている最初の段階では,社学同が主導権握っていて,僕ら民青は医学部の中では少数派だったから,「民青の裏切り者,腕の一本もへし折ってやるぞ」なんて野次られたり脅されたりしたことがあったけど,実際にそんなことされるのは医学部生の中ではなかったね。そこにはやっぱりある程度,お互いによく知り合っていて一緒に運動もしてきた家族意識みたいなものがあるんだよね。とくに,東大闘争の前半,東大医学部の中では,最低限の良識・遠慮はあったのだと思う。秋頃から,過激な暴力的衝突が日常化する中で,一部の学生たちの心にも,すさんだやくざのような気分が生まれていったと思う。

闘争も最終盤になると,暴力がだんだんとおさまり,ぼくら民青・ノンセクト連合が学校側と交渉をまとめ,ストライキも終わって授業再開となった。それまでゲバ棒振り回して襲ってきた医学部の全共闘の連中も,あきらめて授業に出て来るでしょ。すると,それまでの衝突のなかでその全共闘メンバーに殴られた人間がいて,結局民青なんかよりもむしろノンセクトの殴られた人たちの方が怒っているから,出て来た全共闘を素手でポカポカ殴るということはあったけれど,手加減はしていたと思うよ。まあそれも一度殴れば気持ちがすんで,それでおしまいという形で収拾だよ。その程度のことだね。

僕も,紛争の最後あたりでも大学構内を平気で一人で歩いていたけど,東大の法学部のM君なんてリンチされた人もいたし,安田講堂で,中に他大学の学生がいっぱいいるところでつかまってやられた人もいたよ。逆にこっちも,同じ東大の中で顔を知っている相手どおしだったらやらないけども,全学連の支援部隊,他大学の外人部隊のような連中は,全共闘の迷い込んだのを捕まえて,殴ってほっぽり出したとか,そういう話はあるよね。

──医学部というコミュニティーのある種の特殊さというか,東大の中でも際立っているような気がします。学生たちの間の関係は今仰ったようなものだとして,教授たちとの関係はどのようなものだったのでしょうか。やはり家族主義的な面があったのでしょうか。

そりゃあやっぱり,あったね。同じ医学部同窓会,鉄門の先輩・後輩という感じ。一学年100人足らずの小さな所帯で,ほとんどの卒業生が東大病院と系列病院という共通の職場に就職して長期間仲間として暮らす。他の学部とちがうところだね。戦前戦後,学生運動・政治活動で逮捕され処分された者も,後でみんな許されて復学している。教授たちが,いろいろと不肖の弟子たちの面倒をみているんだ。

先生たちとの関係でいうと,東大闘争の経過の中で,切羽詰まった状況に置かれて,その人間がどういう人間なのかがわかってくる。要するに,信頼できる人間と,そうでない人間がいる。人間的に信頼できるかどうか,これが一番であって,今に至るまで,僕はこれがすごく大事なことだと思う。

思想や考え方が違うということは,自分がその人と付き合うかどうかの基準にはならない。思想は違ってもいい。ずいぶん違ってもいい。ただ,信用できるまっとうな人間と付き合う。だから教授とか助教授なんかでもね,学生なんかがワアッと押し寄せて来ると,多少へつらうようなタイプの人間っているわけだよ。そして,なにかあるたびにくるくる意見が変わるような人間。それに比べると,簡単には妥協しないで,自分の考えを頑固に主張するけれど,しかし学生のことは一生懸命に思っている,そういう先生がいるでしょう。まあ要するに古い侍みたいな,直球一本でくるような人。結局,そんな人が学生に一番信頼されるし,愛される。

──たとえば文学部の林健太郎文学部長のような教授でしょうか。彼は173時間に渡り革マル派によって軟禁されましたが,学生側も強情で一貫した態度に敬意を示したそうですが。

そう,僕は医学部で直接は彼を知らないし何とも言えないけれど,林健太郎もそうかもしれない。医学部の中では,中井準之助医学部長(解剖学教授)や学生委員長の津山直一整形外科教授がそうだった。本当に古い侍みたいな気骨のある人。結局,全共闘でも民青であっても,やっぱり認めるのはそういう人だよね。わかったようなことを口で言っていてもだめだ,本気で体張って,自分ひとりでも真剣勝負しに来るような,肚のすわった人間じゃないとね。何か,ものをまとめようとしたり解決したりというのは,そういう人じゃなきゃできないからね。

ノンセクトとの共闘

──ノンセクトと民青との連合によって7学部,及び医学部代表による大学との交渉が行われ,1969年1月10日には秩父宮ラグビー場での10項目確認書が取り交わされることになりますね。

自分なりの信念と考え方を持ち,肚を据えて真剣勝負するやつが物事をまとめられるという点では民青・ノンセクト連合というのもそうだった。医学部の中のノンセクト有志連合は,富坂のセミナーハウスを拠点にしていたので僕らは「富坂派」と呼んでいた。何人か主要なリーダーがいたけど,頭が切れて,情熱とエネルギーのある素晴らしい人たちだった。

柴田洋一君という中心人物がいた。彼は,2・26事件の将校の所にお墓参りに行くような男。別に頑なな右翼っていうのじゃ無いけれど,変わっていてね。全共闘に言わせれば右翼なんだけれど,それがノンセクト側のリーダーで,僕は民青のリーダーで,お互いに3人くらいの代表で会って,統一戦線結成の話をしたわけ。骨のある男なんだ,これが。

ついこの数年間もね,文部省を相手に裁判をして,ついに勝った。彼の名前でインターネット検索すれば出てくるけど。これは今の官僚政治っていわれるものの実態だけど,文部省っていうのはとんでもないことをしているわけ。全国医学部長病院長会議を不当に牛耳ったり,国会で,その記録が無いと真っ赤な嘘の証言をしたり…世間の人は知らないだろうけど…ひどい話だ。文部省の一官僚が,大学の事務長とか東大病院の事務長とか,そういうポジションに出向してきて就いている。東大病院長といえば偉くて事務長はその配下なのかと思うと,事務長は自分の出世を左右する文部省上役の方を伺っているわけ。しかも,文部省の課長というのは,大学病院でえらいはずの東大教授に対しても,どういう研究にどんな予算をつけるかという主導権をみんな持っている。だから教授たちはこれが怖いんだよ。文部省がなにか変なことしたときに,正面切ってこれはおかしいと言える教授は少ない。東大教授といえども,「これはちょっとなんとかした方が…」というくらいしか言えない。よっぽどの人間でもそのくらいで,後の仕返しを恐れて何もいえない人も多い。そんな中で,文部省と正面切って喧嘩したのが,学生時代に「富坂派」の幹部で,東大輸血部の教授だった柴田君。僕の政治思想とはちがうところにいる人間だけど,不屈に闘う民主主義者でありたいという点では一致している。まっとうな人間,もっとも信頼している友人だ。

若井晋君は熱心なクリスチャンだ。優秀な脳外科の教授で台湾に2年間移住して指導にもあたった。JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の中心になって活躍し,東大の国際保健学の教授になった。加我君孝君は耳鼻科の教授になったが,一貫して医学教育の改革に取り組んだ。廣川信隆君は,解剖学の教授で,世界のトップレベルの業績を上げ,アジア各国のリーダーになる若手研究者を育てている。素晴らしい人物が一杯いて一々あげきれない。

東大闘争の時期,彼ら「富坂派」が,「フェニックス通信」という小さな機関誌を出していた。レーニンの「社会民主党の二つの戦術」とか,デイミトロフの「反ファシズム統一戦線」などを研究して,過激派の「エセ革命論」は,社会変革の理論としてもおかしい,レーニンの理論に照らしてもおかしいと,反論していたんだ。僕らも協力したんだけど…本当に,面白い時代だったし,今日まで続く多くの貴重な友人を得た。

体感した貧しさ

──続いて今の学生についてお伺いしたいと思います。私のような今の学生からみると,今の世界情勢が学生運動の興隆期に似ていると思うようなところもあって,たとえばベトナム戦争によってアメリカによるアジアへの侵略戦争が始まったという40年前の状況と,イラクなど中東の国々に,様々な理由でアメリカが進駐していくという状況が,ある種パラレルで,すごく似ているという気がします。同時に日本国内でもアメリカナイズされた資本主義やネオリベラリズムが広まり,格差が広がっているという実感があります。

それにもかかわらず,学生が主体となって政治的に声を上げるような動きというのはあまり無いように思います。そしてシラけていること自体に,あまり違和感もない。そのことについて三浦さんはどのようにお考えになるでしょうか。それはやはり40年前の全共闘運動が,運動として総括をなされないまま終結し,さらに一部の過激な組織の登場によって悪印象を残してしまったことが原因なのでしょうか。

直接的にはそれもあると思うよ。連合赤軍のような過激化した組織の中で内ゲバだとかリンチがあって,学生運動というのは怖いものだと,それが非常に印象づけられたというのはあると思う。もうひとつは,やっぱり,いろんな格差の問題はあるにしても,時代として豊かになってしまって,若者が子供の頃にひもじい,とかそういう思いをあまりしていないんじゃないかと思う。テレビやゲームなんかの,画面を通した感覚で,自分の実感としてではなくてアフリカの人たちはかわいそう,イラクの人はかわいそう,とは思うかもしれないけれど,自分の共感する原体験というのがちょっと少ないのかなあ,というのがありますね。

──実感としての貧しさがないと。

そうそう。いくら理屈だとか,テレビとかゲームとかで知識として知っていても,体の感覚としてそういうものを共感しないとなかなか動きにくいのかなと思う。そういう意味では,自己責任とかで不当な責任追及をされたけど,イラクで捕まった高遠さんや郡山君,ああいう青年たちのような存在が貴重なのだと思うけれどね。インドやアジア,アフリカでもイラクでもいいけど,若者が実際に行って体験するっていうことは非常に大事なんじゃない。

──現場を見るということですね。

そう。例えば,テレビでバングラデシュを見て,ああ貧しい国だなってただ見ているのと,実際に行って何人かの人たちとしゃべったり,子供としゃべったり,その中に自分の友人もいて,中のことをいろいろ知っていて,それで,何かが起きたときに,「あ,あの子がこういう目にあっている」と思うのとは,全然違うんだよね。

たとえば誰かが線路に飛び込んでね,「人身事故がありまして電車が何分遅れます」というアナウンスがある。みんな「あ,会社に遅れる」とか,「困ったやつだ」とか,そんなに気の毒な人がいるのに,人間が一人死んだっていう重みなんて伝わってこないでしょ。

それが,もし,自分の家族・親戚とか友人とかだと,すごい重みを感じて心が動くよね。そういうところが,みんな表面的な受け取りかたをして流している場合が多いんじゃないかと思う。

僕らの世代の場合はどうだったかというと,1950年代,小学校のときに,弁当を持ってこれないとか,持ってきてもサツマイモだけとか,そういう友だちがいたわけ。頭にはシラミが沸いていて,目はトラホームというやつもいる。とにかく,みんなが裸足で,いつも腹が減っているわけ。そんな体験があるから,貧しいということが,今の世代の若者がテレビでみて,気の毒だね,というのとは違いがあるのだと思うよ。自分の中に,相手の苦しみに共振・共感する弦の響きが聞こえてくる。

イラクとベトナムが違ったのは,まあベトナムが地理的に身近だということもあるけど,ほら,中国や韓国,ベトナムなんていうのは,みんな黄色人種で顔かたちも自分とそっくりなやつがいるってこともあると思う。そういうところに,爆弾がボカボカ落ちる。そして,それがアメリカによってやられている,ということに反発する意識ね。

僕は,今の若い人たちは,外国や国内の今まで知らないいろんな所に行って友達をつくったほうがいいって思う。自分の足で歩いたという感覚以上のものを人間は考えられない,勉強をいくらしてもね。その感覚の上で,自分の知識もより深いものになるだろうけど,とにかく,体で動いて見て感じるってことが大事だと思う。

あとは,日本は今のままの状況であれば,間違いなく将来大変な落ち込みがあるんじゃないかと思う。どうせ来るなら早く来たほうがいいと思うけどね。そうするときっとみんなが必死に動き出す。日本人はなんか,明治維新も黒船だけど,目の前に大きな危機が迫らない限り,このままではいけないとは思っていても,なかなか自分から根本的・本質的な改革をやろう,というふうになれないところがある。まして,今,一部では格差が広がって,ホームレスになったり困ったりしているとは思うけれど,なんとか食べられないことはない。一応,大多数は,食うのには困っていない状況だろうから。

最近すこし反省期に入ってきたけれども,アメリカ型の勝ち組負け組のような枠組みで,セレブがいいとか,社会がホリエモンみたいなのをもてはやした時期もあったわけでしょう。これは僕らの責任でもあるけれど,思想や哲学なんかの文化的なリーダーが力を発揮していないからだよね。そういうものも,世の中が本当に困って,みんなが求め始めれば出てくるのかもしれないけれど,みんなを気づかせ動かすようなものが足りない。

それで,若い学生のあなたはどうなんですか? この時代をどうしようとしているんですか?

──私にも漠然とした違和感みたいなのがあって,日本が末期ヴェネチアみたいに没落していくのじゃないか,みたいな漠とした危機感はあるのですが。東大に入って思ったことは,今の世の中で40年前と同様に学生運動するべきであるとか,そういう風には思わないのですが,それにしても今やっている以上にやるべきことはあるのではないかとは思います。サークル活動のようにそれぞれの組織がやりたいことに特化して,分派して集まることは多いのですけれど,異分野の人間どおしが関わることも少ないし,やっていることも多くの場合,自分の好きなスポーツをやるというレベルに留まっている。もちろん,その中でいろいろな葛藤や思想のぶつかり合いはあるのですが。

 取材の中で,全共闘運動に関わった人たちの話を聞いていると,学生時代に本気で色々なことを考えて,友人や敵から色々な話を聞いていく中で自分を醸造した人というのは,40年経って大人になってからも立派だな,と思うことが多いんです。私自身はジャーナリストとして,将来何かを伝える人間になりたいと思っていますが,そういう点から「異邦人」の話を聞くことはまず大切なのだと思います。全共闘運動に,様々な立場から関わった人達にどうしてあの時あのように振舞ったのか,そして今あの頃をどのように振り返るか,そして次世代に何を残そうとお考えなのかというお話を伺うのも,そういった意識から,という部分が大きいです。

東大闘争に関心をもってくれたってだけでもうれしいけれどね。そういう人はなかなか少数だから。例えばジャーナリストっていうのも,ジャーナリストになって何をしたいのか。どういうことがしたいんですか?

──僕はやっぱり,人が言わないようなことでも言えるようなジャーナリストになりたいです。必ずしも反体制である必要はないと思うんですけれど。お話を伺った,ある警察官僚の方が「体制内改革主義」ということを言っていらして,それが今の心情として自分のなかではしっくりくるように感じました。日本の社会政策にしろ,経済政策にしろ,相当ガタは来ているけれども一応は回っているわけじゃないですか。「東大解体」,「日本解体」といったように全てぶち壊して作り直すのは,まだ早いのだと思います。その中で,周りがあまり言わないようなことを言えるジャーナリストになれればと思います。

NHKでも民放でも,国際社会はどうだこうだ,という。それはほとんど8割方はアメリカがこうだというのを,「国際社会はこうだ」と言っているんだよね。だから一方にはアルジャジーラがあるけれど,日本だったら,アジアの民衆の立場から,独自の視点で真実を報道するということもできる。中国なんかでも,権力に捕まって弾圧されても犠牲を払って自分の報道をする人がいるし,現場を調べて,中国共産党としては隠したいものを告発している人もいるじゃない。やるからには,アレくらいの根性をもってやって欲しいと思うね。本当に少ないと思うよ,それくらいの人は。

僕が非常に有利だと思うのは,今の時代にはインターネットがある。確か,韓国かどこかで,市民のための放送局を作りかけて潰れてしまったものがあった。そういうものを,頭がよくて,ネットワークを持っている人が工夫して作れば成立すると思うよね。インターネットで調べて色んなつながりをつけようと考えれば,韓国で同じことを考えている仲間だとか,中国,インド,タイ,インドネシア,フィリピンなどで,それぞれ同じ意識を持った人間と連絡を取って,アジアにおける放送局を作るとかね。

僕らのころは貧乏で,飛行機で外国に行くってことすら考えにくい時代だったからね。だから,僕も学生時代までずっと,飛行機に乗ったことがなかった。東大闘争が終わって,その報告をするように招待されて,四国にYS11で行った。そのとき初めて飛行機というものに乗った。外国に行くなんてとんでもない。カメラだって持ったことのない貧乏人だから。医学部の中でも,一部の医者の息子とかはカメラ持っていたけど,車に乗って学校に来るやつなんてほとんどいない。僕ら民青の活動家の仲間でもバイク乗りが少しとかね。あとはみんな,そういうものないわけで。今はやろうと思えば,手段はいっぱいあって恵まれている。特にインターネットというのはすごい。だから,「赤旗」に負けないようなものを作ってくださいよと,あなたや今の若者に言いたいですね。ジャーナリストになりたいと言うならそれくらいの志をもってほしい。

大体,年を取ってくると,みんな,世の中に妥協しなきゃいけないとか,女房子供を食わせなくちゃいけないとか,もうちょっと広い家がほしいとかさ,いろんなことも考えてしまう。僕自身,二十歳前後に,日本の世直し・民主的変革の運動に,自分の一生を捧げようと決意した頃から比べると,今は大分堕落して隔たってしまったと思う。だけど,若い頃,それだけ高い志を立て命を燃やした,その残り火で後の人生を生き,今もこうして生きている。僕の「東大闘争から地域医療へ」という本に,「志の持続を求めて」というサブタイトルをつけたのもそんな気持ちからだった。

だから,若いうちから,そこそこのジャーナリストになって売れたらいいとか,ほどほどに金ももうけたいとか,そのくらいの志だったら,起業しても,どっかのお偉いさんに「お前なかなか見所あるじゃないか,俺は口は出さない,金を出す」って言われたらね,ほいほいと金をもらって,行く先はホリエモンの二の舞と,見えているようなもんでね。だから,それはやっぱり,いろんな世の中の現実を見て,自分の志を相当高くもたないと。

その志は,年をとれば鈍り,すり減ってくるんだから。

今年亡くなった土本典昭っていう監督がいる。ずっと水俣現地に入って,記録映像を撮っていた。「医学としての水俣病」だとかいろんな素晴らしい作品があるけれど,是非,インターネットで調べて,DVDを見たほうがいい。彼は,それこそ自分自身で疑問を抱いたり,反対したりしながらも,武装闘争時代の共産党に入っていた。それで挫折して,迷い迷った上でこの映画の世界に入ったわけだけど。それで水俣にずっと入り込んで,水俣病を撮り続けた。彼が書いている文章に,「自分が多少のことをできたのだとすれば,若いときの高い志の余韻が残っているからだ」というくだりがある。だから,誰でも,いろいろと間違えたり,後から考えるとお粗末なこともしていたりするけど,しかし若いときの志の高さがね,残りの人生を導くんだ。だから若いときに高い志がなかったらもう次がないよ。

将来の日本が行き詰ったときに,それを切り開く情報を提供するのは私だ…くらいの気構えがほしい。でもそう思ったとしたら,結局それは後から考えるとうぬぼれだから,恥ずかしいこともお粗末なこともあるんだけど,それはしょうがないんだよ。

幕末・明治維新の時代には,西郷,勝海舟,高杉晋作も吉田松陰もいるけど,あの連中は文字通りいつでも自分の命をかけてやっている。すごいよね。これをやれば生きるか死ぬかっていう場面で決断するときも,「死んだら,それでよい。もし,時代の神様が俺を必要としているなら,俺を殺しはしないだろう」と言って飛び込んでいくわけだよね。そしてそんなのがいっぱいいたわけだよ。いっぱいいたから,明治維新ができた。逆に言うと,そういう連中は,俺がやらなくて誰がやる,俺は時代を切り開く男なんだっていう,うぬぼれがあるわけ。うぬぼれがないとそんなことできない。俺は平凡で,お粗末な人間で,別にたいした男じゃございませんと思っていたら,そこまでやれない。だからそのくらいのうぬぼれと,志の高さっていうものが若い人には必要だと思う。そしてそれを生むような,それを固めるような原体験が必要なんじゃないか。それは実感としての人間的感動だとか,そういったものに違いないだろうと思う。

思想の血肉化

──三浦さんは『東大闘争から地域医療へ志の持続を求めて』の中で「思想の血肉化」ということを仰っていますね。頭で考えたことをしっかりと自分の中に取り込んで,体現するように行動する。今の若者に「足りない」かもしれないもの,そして「思想の血肉化」について,学生へのメッセージと共にお話しいただけますか。

自分が学生時代のときにも思ったけど,都会の人っていうのはしらけているのよ。田舎で育つと違うんだよね。「都会は人間がつくった。田舎は神様がつくった」という言葉がある。自分の子供の教育もそうだけど,人間は,山とか川とか田んぼとか,そういう豊かな自然があるところで育てた方がいいという気がする。やっぱりテレビゲームとか仮想体験の比重が大き過ぎるのはまずい。土に触れたり石に触ったり木や風のざわめきを聞いたり,いろんな生き物に触れたりっていう豊かな実体験,それが人間の根本的な情熱とか,エネルギーを生むんじゃないかって思っているよ。今日の時代によくあるような状況,塾とか受験とかに時間も遊びもすっかり奪われて自由に伸び伸びと生きられない…というのが,子供や若者の感性や心のエネルギーをすり減らしているんじゃないかっていう気がする。だから,自然に触れるキャンプや登山,スポーツ,アジア貧乏旅行とか国内の自転車旅行でもいい,あまり金を使わず,自分の身体を使って思い切って好きなことをやってみるのがいいんじゃないかと思う。多少のリスクや失敗を恐れずにやってみないと。いろんな人や物,国,環境にぶつかってみて,自分がどんな存在なのか,どう生きたらいいのかもわかってくるのだと思う。

イラクで捕まった高遠さんや郡山君,彼らのように,思い切って飛び回るとリスクもあるけど,リスクを恐れていたら何もできない。もちろん,無謀では困る,賢く頭を使わなければいけないが…とにかく,行動しなければ何も始まらない。いろんなところに行って飛び込んでみないと,本当のことはきっとわからないんじゃないかと思う。

学生時代に木元君という仲間の演説をきいて,気に入った文句がある。僕も「過激派の正体がわかった」という演説によく使った。リンカーンの言葉にこんなのがあるんだ。「一人の人を長い間だまし続けることはできる。大勢の人を短期間だますこともできる。しかし,大勢の人を長いあいだだまし続けることはけっしてできない」。

このリンカーンの言葉と同じようにね,僕らが学生時代にいろいろやっているときにしばしば考えたことは「思想の血肉化」ということなんだよね。口でぺらぺらといろんなことを言っても,ちょっとした態度でその人が本当にそうした人間であるか,それとも理屈を覚えてただ口先で喋っているだけか,本当に自分のものにしているかどうかはわかってしまう。日々の行動ににじみ出て現れるくらいやらないと,それは本当の思想じゃないということをよく話し合ったけれどね。茶店や食堂でなんか食べても,どっかの中華料理屋に入って店のおばちゃんから料理をもらっても,「俺は金払ってる客だ」という調子で店員を馬鹿にした尊大な態度をとるやつがいるよね。こういう人間は評価できない。民主主義を説いても,それはニセモノで,最低の人間。人の思想は,日常の行動や言葉にも表れるものだ。

僕は若い世代の動きで,ひとつ希望を持っているのは,参議院議員の川田龍平君。あれは市民運動家で国会議員にもなったけど,もともと自分も被害者である薬害エイズの運動が原点でしょう。エイズの運動で,ラップをやりながら若者がみんなでデモ行進してた。

非常に今らしいね。だからああいうセンスで,何らかの運動に参入していったらいいと僕は思う。

──今日は長い間,ありがとうございました。