KENBUNDEN'08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』インタビュー集 干場革治氏 インタビュー

干場革冶氏の「全共闘体験,そして学生時代」

(5月31日,渋谷にて)

東大入学,そしてML派へ

──今の世代って,全共闘運動とは何だったのだろう,あんまりよく分かってなくて,僕らもやっぱり分かっていないのですけれども,漠然と興味を抱いている,ということがあるんです。「なんだったのだろうあの運動は,あの世代は」という素朴な感覚があって。あれから40年ということもあって,学生の側から全共闘運動運動を見てみよう,というのがこの企画なんです。

──干場さんにまずお伺いしたいのは,東大に入ってから何を思い,学生運動に参加したのでしょうか。

ぼくは66年に大学に入って,すぐに学生運動初めていたのだけれど……当時は少なくとも,貧しいっていう現実がまだあったんだよ。あるいは貧しい記憶があったから。

みんなが生まれた時はほら,とりあえず目の前の人間はどうにか食べていけるでしょ。もちろん例外的にホームレスしたりとか,例外的って言っていいのかどうかは分からないけど,ぜんぜん少数でしょ。僕の実家は一応郵便局で,国家公務員だった。まあ子沢山だから大変ではあったけれど,食べていけないって事はないわけだよ。ただやっぱり周りにはね。うちに一升の米を借りに来たりする,いわば日雇い労働者みたいな,土地もない,畑もない,田んぼもない人がたくさんいるわけだ。それで,どっかの手伝いして食べていってる人間がいるわけだよね。銭湯もない小さな村なんだけども,するとお風呂もない。すると僕のうちへたまに風呂貸してくれ,ってやってくる。それでも気を使って,湯船には入らないで体だけ流していくとかね。そういう貧しい現実が目の前にあったから。

やっぱり若者らしく,なんでそんな違いがあるのか,不平等があるのかという事を考えたのだと思う。

僕が東大に入った。しかも法学部だ。それで,法学部入ってどうするか。このままいくと,エリートコースを突っ走る。なんだ,向こう側に行ってしまうじゃないかと。貧しかった,今も貧しい魚民や農民とどういう関係になるんだと。搾取する側に回るのかと。どうしたらいいのか。それには搾取のない,階級のない社会を作るしかない,と。

──干場さんが共感したセクトというのは?

僕はどちらかといえばブント系で,ブントもいろいろと分かれていくから,その中でML派。東大闘争の時には,社学同のマルクス・レーニン主義者同盟というのを選ぶわけ。

そしてちょうど文化大革命の時に,中国派になる。「文化大革命万歳」というわけ。僕らはいわばソ連の社会主義に対しても,中国に対しても,彼ら国家独占社会主義だ,社会主義ではない,と批判するわけだよ。

そのときに僕らが批判してきた中国が,やはりカッコつきの「社会主義」になっても,革命は必要なんだと。理想としては世界革命ってのがあるわけだよ。世界全部同時に。

搾取される労働者が,今度は搾取のない,階級のない社会を作っていこうというわけ。それでいわば究極的には,「能力に応じて働いて,必要に応じて取る」という社会を作る。その前の段階で,「能力に応じて働いて,労働に応じて取る」という,狭い意味での社会主義を考えて,それを実現する。

大学に入るまでは僕,あまり社会に目を向けていなかった。だから,そこでやはり深刻に悩んでしまった。結局,階級を廃絶することによって彼ら(=労働者)と一緒に社会的に上昇する必要があると考えたんだろうね。

そこでじゃあ自分はどうするんだ,と考えた時,革命を秘めるところはたくさんあるわけだから。最初は弁護士にでもなって,社会党辺りから国会に出て,社会を変えよう,なんて思ってたんだよね。でもそんなことして本当に世の中は変えられるのかなぁ,と。それは無理だろう,という話で。

学生運動の高まり

──東大では,医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分を発端として,大学当局に対する抗議活動が高まり,7月5日には山本義隆を議長として東大全共闘が結成されました。最初の医学部の闘争から,もう運動にはコミットしていたのですか?

最初は医学部の内側だけの闘争だったから。それが全学的な運動になるときに,安田講堂に突っ込むとか,卒業式粉砕や入学式粉砕なんて叫んでね。卒業式がなくなったり入学式がなくなったりして。

──革命への意識で繋がっていたという感じですか,全共闘というのは?

いやもともと革命運動組織ではないから,全共闘は。あくまで大衆運動であってね。単純に大学に不満を持っている人間もいるわけだし。その中でやっぱりはっきりとした目的意識を持っているのが,まあ党派の人間なんだよね。だから主導権を取っていくわけだけれども。ある意味で社会の矛盾がいろんなところに現れてくる,と。それに対してはっきりとした分析をして,答えを与えることによって革命運動を組織していく,社会に対して影響力を行使していく,という。だからいろんなことに首を突っ込むわけだよ。大学のことにも,ベトナムのことにも,労働運動にも首を突っ込む。だから当時は,スパッと全部,マルクス主義で社会の問題は分析できて,割り切れて,解決策を出し得た,つもりでいたわけ。みんなね。なかなか本当はそうはいかないわけだけれども。そこでやっぱり労働者を説得できなかったから,組織できなかったわけ。するとやっぱり日本の高度経済成長によって労働者たちも失うものを持ってしまった,という。

──「怒りを歌え」という当時の映像記録を見たのですが,やはり人数の規模が違うな,と感じます。多くの学生が一体となってひとつのことをしている。1968年10月21日の新宿騒乱のときの映像などを見ていると,ここが本当に新宿かという感覚すら覚えました。

新宿騒乱の時は,まさかあんな展開になるとは思っていなかったね。あの時はまだML派のヘルメットが一番多かったような気がするんだけれども。なんでML派がこんなにいるんだ,どっから湧いてきたんだ,と思っちゃったよ。

──あの時に騒乱罪が適用されたんですよね?

そう,初めて。

あの時も捕まったよ。三鷹寮の若い一年生,43入寮の連中とね,行って。おい,なんか破防法適用されたらしいぞ,じゃあ帰ろう,とか言ってね。タクシー拾って帰ったわけ。そしたら途中で警備線が張られていてね,そのままタクシーごとね,警察署入っていったわけ。だけど,どこの警察か分からないんだよね。それでみんな並んでね,すると僕以外みんなはじめて捕まった人間なわけだよ。すると僕が机叩いて「黙秘します!」というと,みんな合わせて「黙秘します!」なんて言ってね。最後はみんな,名前ぐらい言って,二泊三日で帰ったんだと思うんだけど。僕はあの時,何日ぐらい拘留されてたのかな。結局警察署出るまでずっと黙秘します,と言っていたから,どこの警察署に拘留されているのかすらわかんなかった。

──教えてもらえず?

そう(笑)。なんのことはない,三鷹警察だったんだけれど。

最後の逮捕,全共闘の終息

──ところで,干場さんの,「革治」というお名前は,やはりご両親が革命なんかを意識して……

親父は戦後の混乱した世の中を見ていたから,「革命を治める」という思いを込めたんだろうね。僕のほうは「革命して治める」と勝手に読み替えていたけど。

──当時の親の世代との,意識のギャップというのはやはり大きかったのですか?

やっぱりほら,僕らの親は戦争行ってるでしょ。満州というか,東北のほう行ってるわけだよね。それでやっぱり,チャンコロだとか,ロスケだといって,軽蔑してるわけだよね。差別的な発言をして。そして戦争責任をちっとも反省しない。そう意味ではやはり意識の違いを肌で感じていた。

──最後の逮捕のきっかけというのは?

69年の11月に,佐藤栄作総理が70年安保の改定でアメリカに行くと。それを物理的に阻止しようと。それでみんなで羽田に押しかけたわけ。69年の11・15,16の時にね。それで羽田行こうと思って京浜急行の品川駅にいたんだけど,みんな京浜急行になだれ込んで,電車が止まっちゃったんだもんな。しょうがないから国道一号線を走ったのかな。それで鎌田警察署の周りに直線が引かれてて,もうあの頃は火炎瓶も持ってなかったはずなんだけれども,後ろから火炎瓶が飛んできて,燃えたりして。それでも一応機動隊の警戒線を突破したんだよ。阻止線も突破して,逃げるお巡りさんを追いかけて,パトカーの上に僕一人乗っかっちゃってさ。そしたら,気がついたら誰もついてきてなくてね。パトカーの中に引っ張り込まれて。そのまま鎌田警察署に連行されて。

──全共闘体験を持つある人が,68年の9月ごろまでは大部分の学生が主体的に,自主的に運動に参加していたように思えたのが,12月くらいになり卒業が間近になってくると,卒業したい人間は抜けちゃうし,運動自体が下り調子になってきた様に思えた,と語っていたのですが,干場さんはそういった印象は受けましたか?

駒場がストライキに入ったのが68年の夏休み,前なんだよね。はじめはとりあえず一週間ぐらい。夏休みが終わってから確か,無期限のストライキに入っていくんだよね。結局,全共闘が三分の一で,民青が三分の一で,残りがノンポリなわけだよ。そうするとこの三分の一の層をどっちが獲得するか,というね。だから最初は全共闘がストライキをやらなくちゃいけないんだ,ということを主張して,この三分の一を獲得して,多数派を形成していくわけだよね。だけどだんだん卒業が近づいてくると,え,なんだ,このまま行くと留年じゃないかとか,卒業できないんじゃないかとか,という風になって,もうストライキはやめようと。共産党のほうにこの三分の一が流れていくわけだよ。すると二対一が,一対ニになるわけだよね。舛添だとか,町村だとか,ああいう連中も今度はなんかクラス,クラ連だとか作って,共産党と一緒になって全学スト反対を主張するわけだよ。

──そういう状況の中でも現実と理想に揺れるというか,そういう感覚はなかったんですか?

それはやっぱりあったよ。それで学内だけではもう片がつかないと。もっとこれを全国化して,社会化していかなくちゃならない。だから全部の大学みんなオルグに行くわけ。九州行ってアジったり,ね。それとあと,労働者を巻き込まなくちゃいけない,と。まあ社会化ってことだよね。全国化,社会化。それで革命運動につなげていくんだ,ってわけ。

学生だけじゃ出来ないから,それを社会化していかなくちゃならない。やっぱり労働者を組織しなくちゃならない。それで労働者の中に,組合の中に入っていく人間も出てくるわけだよね。

じゃあどうやって組織していくんだ,と。そこでまた大きく分かれていくんだよね。現実的に今ある暴力を,機動隊の暴力を破るために,とりあえずは火炎瓶を用意した。それが爆弾まで行くわけだよ。じゃあ,そこから先,どうするんだと。どういった意味の暴力で突っ走っていくのか。大衆運動を盛り上げていく中で,あくまで大衆の力として組織していくのか,それとも先鋭的に,少数の人間が組織した暴力で突っ込んでいくのか。それで赤軍派なんていうのが生まれてくるわけだよ。

──干場さんが運動を続けていく中で,このままじゃあ革命は出来ないな,と明確に意識した瞬間というのは?

ええとね,東大闘争の時かなあ。図書館の前でね,全国全共闘の結成大会があったの。あの時僕ね,何回目かな,捕まっていて,全くその時,スポッと僕の体験の中からぬけちゃっているわけ。そのへんかな,最後まで僕,体感できなかった。

帰ってきたらみんな重っ苦しい雰囲気でいるわけ。革命家になるかならないか,ということを大衆運動に参加している人間に突きつけちゃっているようなところがあったんじゃないかな,と思うんだよね。

そうすると逆に,そこでついていけない人間がボロボロと脱落していく。やっている連中はどんどん過激になっていく,そして逆にこぼれていくやつを,批判する,みたいなね。まあ極端な形が連合赤軍の自己批判させて殺してしまう,リンチしちゃう,という。

──それでは連合赤軍に繋がる何かを感じ取ったというか?

うん,なにか,理解できないな,ついていけないな,という感覚があの時にはあったね。

あの運動はなんだったのか

──あの運動が大きな高まりを見せてから40年という時間が過ぎました。学生運動を振り返って,何が得られたとお感じになりますか。

何というかね,革命というものは遥か遠くにぼやけてしまったんだけれども,まあ生きている間に起きそうもないしね。そうなるとまた違う関係の仕方というのもあるんじゃないかと考えるようになった。中国へ木を植えにいったりとかさ。

──それじゃあ今の仕事をされている,っていうのはまた違った形の社会貢献ができるんじゃないか,という意識からなのですか?

いやいやこれは生業で,ついつい顔が広くなったもんだから。

──当時の体験が今の仕事をやる上で目に見えて役に立つ,ということは?

生業とはあんまり関係ないよね。

──でもやっぱり自分の中の支えと言うか?

ただやっぱり何というのかね,人間はどういう存在なのか,やっぱり社会的な存在なんだと。人とのつながりの中でしか生きていけない。人を助けて,自分も助けられて。それでどうやって人のために役に立つのか,っていうね。昔はただ革命,っていう形で世の中を全部ひっくり返そう,そうする事で世の中の役に立とうとした。だけどもう自分一人でできるわけじゃない,そういう時代でもないから。じゃあ,というとね。そういう意味で人の役に立つ,類的存在としての人間を考えるんだ。

全共闘の言葉で,「一人は万人のために,万人は一人のために」というような言葉があってね。そんなことばかり立て看やなんかに書きまくったわけだよ。やっぱりそういうのは生きてるよね。やっぱり他人の痛みを自分の痛みとする。それはずっと,脈々と流れている。自分の人格として形成されてきている。

今の社会,今の学生

──当時と比べて,今の学生が持つ意識というのは根本的に変わっていると思いますか?

いやどうなんだろね。最近問題になっているワーキング・プアの,組織してやっている人間いるじゃないですか。あの,法学部出てね。多分彼らなんかは僕らの時代に生きていればやはり学生運動の先頭に立ってただろうな,という感じだよね。そういう意味では変わらない部分っていうのはあるんだな,と。それが世の中をどういう風に見るか,という事な訳だけれども。確かにこう,僕らの時みたいに,貧しい人が多数で,豊かな人が少数だ,っていう時と違うからね。今はまあまあみんな食べられて,その辺の問題だろうとは思うんだけどね。それでも,小数であっても組織していく人間というのがいるわけでしょ。女の子でも仕事よこせ,とかいってね。やっぱり君たちよりもちょっと上の,30歳ぐらいの人間たちがやったりしているわけじゃないか。

──そういう熱さみたいなものは変わってないかもしれないですね。でもそういうものも,歴史的にみて・・・?

だいぶ薄くなっているよね。

──やっぱり全共闘世代の方々の活動というのをみていくと,それが正しい行動かどうかは別にして,とりあえず集まって,何かに立ち向かっている気がするんです。今は社会全体,あるいは学生全体が一体感を持って何かに取り組むというより,個別の問題に小規模で集まって,ちょこっとやっている程度の気がしてしまうのですが。

ただそういうのが幾つも集まっていくと,つながってくると思うよ。環境をどうするか,労働問題をどうするか,といったようにね。

──現代では携帯電話やインターネットといった手段を介して,今までにはなかった人間同士のコミュニケーションが可能になっているわけですが,そういったものを介して,当時の学生が抱えていたような「熱さ」が繋がりあうこともひょっとしたらありえるかもしれませんね。

それはあり得るかもしれないよね。やっぱり技術が発達してくるとそういう問題も変わってくるからね。僕らの時代にはそれが非常にアナログな形であっただけであってね。

だけど,ビラなんかも・・・いつも同じようなステロタイプのものを書いてたな。毎日出すんだから,いつも違ったものなんて書けないもんな。三鷹寮でオルグして,夜中に旗書いて,朝方までかかって三鷹寮のタテ看書いて。それで寮バスに乗って。一限の前に駒場の駅前でビラ撒きして。

全共闘運動が社会を変えたか,と聞かれたら,それは分からない。でも社会や大学に対する異議申し立てとか,「自己批判」とか,割と風通しはよくなったんじゃないかな,とは思うね。ただ,運動がなかったらそうならなかったかというと,それは本当に分からない。しかし自由な社会になったというようには感じる。風俗,文化なども含めてね。着るものや,音楽なんかもすごく変わったでしょ。

──ありがとうございました。