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科学入門シリーズ2
アインシュタインの「E=mc2

第5回  ニュートリノ、デイビス博士の思い出


 2002年、小柴昌俊博士とレイモンド・デイビス・ジュニア博士は、ニュートリノ天文学を創始した業績でノーベル物理学賞を受賞しました。小柴教授はテレビや新聞にしょっちゅう出てくるので紹介する必要はないと思います。今日はデイビス博士の思い出を書きたいと思います。

 ノーベル物理学賞を受賞した時、レイ・デイビス博士は88歳でした。下の写真をご覧ください。


 ストックホルムでノーベル賞授賞式前のレセプションの時に撮った写真です。中央がレイ・デイビス博士、左が長年の共同研究者でペンシルバニア大学のケン・ランデ教授です。右に顔が半分欠けた人物が写っていますが、スウェーデン王立工科大学のペル・カールソン教授です。ペルが物理学賞受賞者の業績紹介をしました。ケン、レイ両氏ともに髪の毛がほとんどありませんが、ケンはまだ若いですよ。

 残念なことにレイ・デイビス博士は既にアルツハイマー病が相当進行していました。デイビス博士がノーベル講演を行うのは難しく、彼の息子さんでシカゴ大学のアンドリュー・デイビス教授が専門外にもかかわらず見事な講演をしました。

 講演が終わった後で、息子さんと一緒にいるデイビス博士のところに行って、「レイ、受賞おめでとう」と挨拶したら、写真にあるような満面の笑みを浮かべて喜んでいました。しかし、彼は私が誰であるかわからなかったと思います。

 講演記録はノーベル財団のウェブサイトに載っています。講演タイトルは「太陽ニュートリノの半世紀」。その中にあるものも含め、いくつかのエピソードを紹介したいと思います。

 デイビス博士は1914年生まれで、イェール大学卒業後、ニューヨーク郊外のロングアイランドにあるブルックヘブン国立研究所に就職しました。専門は化学で、いわゆる放射化学(Radiochemistry)の専門家です。

 入所後、化学部長に挨拶に行き「何をやったらよろしいでしょうか」と聞いたところ、部長は「図書に行って何か面白いものを探して来い」と言ったそうです。当時はのどかな時代だったですね。

 図書で彼はニュートリノの論文を読み、その検出に放射化学が使えることを見つけました。当時まだニュートリノの理論的予言はあったものの、誰もその存在を検証していませんでした。1955年、デイビスは3.8立方メートルの4塩化炭素(CCl4)の液体を使って、ブルックヘブン国立研究所にある原子炉で実験を始めました。原子炉の中で起きる核反応から大量のニュートリノが作られることは、理論的に予想されていました。残念ながらニュートリノの発見には至りませんでした。

 (理由は今から考えれば当たり前で、原子炉からは「反」ニュートリノが作られるが、デイビスの装置はニュートリノのみに感度があり、反ニュートリノは信号を出さなかったのです。原子炉からの反ニュートリノは、1956年、カリフォルニア大学のフレデリク・ライネスとクライド・コーワンの二人によって見つけられ、ライネスはその功績によって1995年ノーベル物理学賞を受賞しました。彼のエピソードもいくつかありますが省略します。)
 
 また、太陽中心で起きている核融合反応からニュートリノがたくさん地球に来ていることも理論的に予想されていました(前回の記事参照。最近の測定値や計算値によると、毎秒・毎平方センチ当たり660億個のニュートリノが我々の体を常に突き抜けている)。太陽ニュートリノはいつも装置を突き抜けているので、装置をほっておけば自然にニュートリノの信号がとれるはずです。残念ながらニュートリノの信号は見つかりませんでした。信号なしの観測値でも太陽からくるニュートリノの流量(フラックス)の上限値を解析で出すことができます。無論その上限値はおおざっぱな理論予想と比べても数万倍も大きなもので、最初の観測としては歴史的に意味があるものの、科学的には何の重要性もありませんでした。

 いずれにせよ、実験をやればその結果は論文にして発表しなければなりません。論文の草稿を読んだ担当者は、デイビスの結果がほとんど意味のないことを知って、
 「必要な感度を持たない本実験は、ニュートリノの存在という研究目的にほとんど意味のないものである。実験家が山に登って手を伸ばし、月はまだ手の先にあることを確認したとする。その結果を論文にして、『月は山の頂上から8フィートより高い所に位置する』と結論するようなものであり、本論文の意味を認めない。」
とコメントしたそうです。昔の査読者は厳しい意見を書いたものです。

 その後、ジョーン・バコールによる太陽エネルギー源の計算が始まり、太陽ニュートリノ・フラックスの精度の高い計算結果が得られるようになりました。

 デイビスは、最初の実験結果にめげず、バコールとよく連絡を取りながら新しい実験計画を練りました。1965年にその計画の予算が認められ1967年に装置が完成しました。今度は、4塩化エチレン(C2Cl4)を378立方メートル使い、ノイズを落とすため、装置を1500メートルの金鉱地下に設置しました。これはかなり大掛かりな実験で、いわゆるビッグサイエンスのはしりです。

 この装置は、その後常に改良されて1994年まで運転されました。デイビスは1984年にブルックヘブン国立研究所を退職しましたが、ペンシルバニア大学に雇われ(むしろ拾われ)、共同研究者のケン・ランデとともに観測を継続したのです。1985年から1986年にかけて装置のポンプが故障しましたが、ペンシルバニア大学がお金を工面して(確か2万ドルより安かったと思いますが)ようやく観測が再開されるという、気の毒なこともありました。

 彼は、1967年以来一貫して
「バコールの計算値の3分の1しかニュートリノが観測されない」
と主張してきました。放射化学的手法というのは、ニュートリノを専門とする物理学者にはよく理解することができず、気の毒なことに、彼の結果は長年信用されなかったのです。

 しかし、世界は彼の観測結果をほっておくわけにもいかず、いくつかの新たな実験がスタートしました。1988年、小柴教授によって始められた日本のカミオカンデ実験が、太陽ニュートリノは計算値の2分の1しか太陽から来ていない、という結果を出しました。カミオカンデの観測値はデイビスの結果とちょっと違うけれど、とにかく理論と観測値が合わないという確認が取れました。

 その後、実験技術は進歩して、前回に書いたように、日本とカナダの新実験で、2001年、太陽ニュートリノの精密観測から、ニュートリノの新事実と太陽エネルギー源の検証、そして何よりも、デイビスの30年に及ぶ観測結果が正しい、ということが確認されたのです。

 1994年、確かスペインのトレドだったと思いますが、レイ・デイビスの80歳を祝うシンポジウムが開かれました。ジョーン・バコールが彼の業績を紹介したのですが、30年以上に及ぶ共同研究を思い出したのか、話の途中で感極まって声を詰まらせ涙を流す場面がありました。当時カミオカンデの観測結果が出ていて、デイビスの観測も研究者が真剣に検討するようになっていました。我々は、立ち上がって拍手をし、デイビスの80歳を祝いました。楽しい思い出のひとコマです。

 アメリカには2種類の科学者がいると思います。蝶のように舞いながら研究分野を次々に変えて常に流行の最先端に位置する科学者、一つの研究を不器用に生涯続け最後にその真価が認められる研究者、の2種類です。デイビスは無論後者の部類に属します。

 レイ・デイビスは2006年5月、91歳でこの世を去りました。その1年前、ハンス・ベーテは2005年5月に99歳で、ジョーン・バコールは2005年8月に70歳で亡くなりました。

 太陽の研究は現在でも、デイビスから数えて第4世代の研究者が続けています。
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