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戸塚洋二先生の「二十歳の頃」(暫定最終版・7月15日午前10時半公開)
■二十歳の誕生日
二十歳の誕生日? 覚えてないよ、そんなピンポイントじゃ。二十歳のころかあ。けっこう激動の世界だったんだよね、僕らの二十歳のころは。
大学に入学したのは、1960年、安保の年。同級生には山本義隆君とか、大変な人物もいたんだけど、僕は典型的なノンポリだった。
それでも、デモには2、3回行ったよ。国会突入のときのデモにも行った。だけど、これはとても学生の手に負えるものじゃないという感じがした。
ノンポリのほとんどの人がそう思ったんじゃないかなあ。人生を賭けるようなものだとも思えなかったな。
驚いたよ。だって、大学に入ったら、いきなりストライキでしょ。授業のストライキって何だ、って思った。今の若いみなさんは、どう思いますかね。
青春ってのは、僕にとっては大学に入った60年から72年、大学院を卒業した年までかな。
僕には、いいかげんなところがあってね。富士高(静岡県立富士高等学校)の生徒だったとき、この成績じゃ理1(東大理科1類)に入れないと思ったんだ。でも、とにかく東大に入るために、思いきって理2に入ろうと。進振(進学振り分け)で物理学科に入ればいいと考えたわけ。
そして理2に入った。
それで駒場寮に入るために、剣道部に入ろうと思ったんだ(当時は運動部ごとに駒場寮の部屋が割り振られていた)。剣道ってどこか上品な感じがするじゃない。
でも駒場寮には入れなかった。その代わり静岡県の県人寮に入った。じゃあ暴れてやれってんで空手部に入部した。それで空手にハマっちゃったんだな。
ただ、勉強は一生懸命やったよ。理物(理学部物理学科)はけっこう進振の点数が高いから、1、2年生のころは、けっこう勉強した。哲学とか生物とかも一生懸命やった。面白かったなあ。
だけど、歴史の勉強をもっとやればよかった。スライドを使って面白い授業をする高名な先生がいらっしゃってね、それをまじめに聞かなくて惜しいことしたなあと思う。
誰かって? 覚えてないんだよ。騎馬民族説を唱えていた江上(波夫)先生かな(「そんな話、初めて聞いたわ」と、少し前から話に加わっていた奥様が言う。「今、思い出したんだよ」と戸塚先生)。
今考えると、当時は、空手部で暴れまくっていたけれど、案外ちゃんと学問と両立していたかな、と思う。
ただし、それも本郷(専門課程)に進む前まで。進学先が理物に決まってからは遊んでたなあ。完全に学問とは離れた生活をしていたよ、ハハハ。
学者になるつもりはあったんだけど、そのために必要なスケジュールは無視して、学部時代を過ごしてるんだよね。
さっき二十歳になった誕生日のことは覚えてないって言ったけど、どっかで麻雀やってただろうね、きっと。僕の誕生日は3月6日なんだけど、そのころはもう進振が終わって、理物に行くことが決まっている時期だからね。
――理学部物理学科は当時、花形の学部だったでしょう?
そうだね。けっこう進振の点数が高かったんだよ。でも、たまたま僕の進学する年は、理2から理物に行くときの点数は低かった。それで入れたんだ。うまいことね。要領がいいんだな(笑)。
3年生、4年生、それから僕は落第しているから5年生のときは、一切勉強しなかった。朝、大学に行くとまず部室へ直行。夕方から麻雀(笑)。
もっとちゃんと勉強しておけばよかった。あのころちゃんとやらなかったことが僕の研究人生で、汚点としてずっと残っている。困ったよ、後で。基礎がないから。
――取り返すのに苦労された?
いや、結局、取り返せなかったなあ。だから今、死に間際になって、もう一度勉強したいと思ってるんだ(笑)。
みなさんに言いたいのは、やはり、優秀な先生方がせっかくいるんだから、学部時代はしっかり学んだ方がいいということ。じゃないと、もったいない。そういうことに気が付いたときは手遅れでね。
でも僕は、どうしても学問をやりたいと思った。65年、大学院で小柴先生に拾ってもらって、そこで僕の人生は大きく変わったんだ。
■物理研究者を目指したワケ
勉強していないのに、どうして大学院に入れたか? それがね、入れるんだな(笑)。当時は、面接をごまかせたんだ[「ちっともいい話がない」と奥様]。
ひどいもんだよ。全然、筆記試験はできなかった。
空手は大学院の初めの2年間は、審判員として後輩の面倒を見ていた。でも、大学院に入ると研究と両立できないから、そこで空手はやめて、人生を開拓する方に切り替えたわけ。
やっぱり研究には、朝から晩まで時間をとられるんで、両立は無理だね。特に能力のない者はね、時間で稼ぐしかないんで。
――これまで、第一線で活躍されるいろんな研究者の方にお話を聞いてきましたが、けっこう「自分は時間で勝負する」と言う方が多くいらっしゃいました。
ガリガリやってね、僕もそういう研究生活を送ってきましたよ。
実は、こういう雑誌が出てきたんですよ。
1969年の「LIFE」。これまで何回も引っ越ししているんだけど、この雑誌だけ残ってたんだよ。
今考えると、我々の世代にとって、ケネディの与えたインパクトは非常に大きかった。アポロ計画っていうのは、探検なんだけれども、すごいと思ったねえ。アメリカのアレを見て、もっと研究したくなった。
――そもそも、物理学者になりたいと思ったのはどうしてですか?
なんでだろうねえ。高校のときに、アインシュタイン、インフェルトの『物理学はいかに創られたか』(岩波新書)という本を、図書館で手にしたんだ。面白い本だなあと思ってね。それがきっかけかな。
もっと古いことを言うとね。この話も、あんまり役に立たなくて申し訳ないんだけれども、僕は、子供のころから、モノを壊しては作ってってのが好きでね(笑)。
ラジオなんか、バラバラに壊しちゃってね。うちの両親が、ラジオが聴けないって泣いてた。あの当時、トランジスタなんてないんだけど、僕は真空管を買ってきて、入れかえちゃった。取り替えるのに、一週間くらいかかって、両親も困ってたんだけど。
でも、その頃から、だんだん原理に興味を持ちだしてね。
今のラジオだと、壊しても、あまり面白くない。でも昔は、ボビンにコイルが巻き付けてあって、そこから少し離れた位置にキャパシタがあって同調するんだけど、ボビンに数十回、エナメル線が巻いてあるんだ。
でも巻く回数はいったい誰が決めたんだろうと。そう思ったわけ。
調べたんだよ。そうすると、かなり電磁気学の式を使わないと分からない、ということが分かったんだ。
これは奥が深いな、と子供ながら思った。そこらへんから、基礎的なことに興味を持つようになっていった。
高校に入っても、そういう興味の傾向は続いていたんだけど、そこでアインシュタイン、インフェルトの本を読んで、物理はもっともっと奥が深いんだということがわかった。
もし可能なら、こういう学問がやってみたいなあと、思ったんだな。
■艦載機が来る
僕は、戦時中の1942年、静岡県富士市で生まれた。
片田舎なんでね、町が破壊されたという記憶は一切ない。でも、富士市には軍事工場が一つあって、艦載機が爆撃に来るんだよ。
1945年のいつだったか、3歳のころの記憶がちょこっとだけある。
家の庭に防空壕があったんだけど、父親が夜、庭で空を見上げて、「艦載機が来る」と言っていた。その様子を、僕が防空壕の中から見ていたのを覚えている。
戦争が終わって、外に遊びに行くと、まあるい池がいくらでもあるんだよ。艦載機が残った爆弾を落としていった跡なんだな。そこでよく釣りをした。
そういう幼いころの記憶もあることはある。でも当時は、とにかくひもじかった。その記憶のほうが強い。
家でサトウキビを栽培して、製糖工場で絞って砂糖にしてもらってね。そういう生活だった。
■妻・裕子さんとの出会い
――奥様との出会いはどういう風だったんですか?
出会いはね。実はこうなんだよ。小柴先生の所に入って、あそこは原子核乾板を持ってたんで、原子核乾板で核反応の解析を修士課程でやってたんだけども、核反応を見つけるときに「スキャナー」という人がいて、つまり原子核乾板を顕微鏡でのぞくお譲ちゃんが何人もいたわけ。そのうちの一人だった。それで、釣られちゃったんだよ(笑)
[奥様]結局、大学院までにさんざん遊んで暮らしたので、結婚してから「遊び」ってことが一切無かったんですよ。不満を言ったら、「もう散々遊んだから、遊びはもういい」って言うんです。だから、残りはもう全部研究生活でした。つまんない所だけ付き合ったんですよ。最初の、遊び時代につきあってればよかったんですけど(笑) 残りの40年間は一切遊びが無かった。
――そこまで研究を続けられるというのは、やはり研究がおもしろいから?
そうだね。やりだしたら止められない、という性格もあるしね。まあ、面白くない時もあった。「こんなことやって、何になるんだろうな」って思うときもあったけれども、「こいつはおもしろい!」っていうのも時々ありましたから。
■教授になるまでの紆余曲折
湯川秀樹のノーベル賞は、1949年。7歳の時だった。
やっぱり、興奮しましたよ。日本に素晴らしい学者がいるんだって。この頃から既に、理科少年だったかもしれない。
だけど、この頃から理論が日本に定着したんだよな。理論の方が実験よりも偉いんだ、という考え方が。僕はそれはちょっと好きじゃないんだけど。
理論も人間の頭脳が考えることとして非常に重要なんだけども、僕はやはり、理論を採用するかどうかを決めるのは自然であって、だからやはり自然から情報を得るというのが一番重要なことなんだ、と思ってる。その辺両立していけばよかったなぁ、と思う。まあ、これから両立させなきゃいけないんだけど。
――4月にお会いした時に、観測されていないものは信じない、とおっしゃっていた。僕もそれまでは理論の方が上だと思ってたんですけど、確かに実験もかっこいいな、とあの時始めて思いました。
ええ、やはり、自然が採用しなきゃ、それはジャンクですから。そこがまた面白いところなんだ。なんで自然は採用しなんだろう?と考えてみる。
たとえば、生命科学系の方はご存じだろうけども、要するに「左手形」ですよね。なぜなんだろう。右手形になると、サリドマイドになったりしちゃう。理由はまだ解決されてないですよね。この程度でもまだわかってないことがある。それを提供するのは、観測とか実験事実ですよ。
どこでもそうだけど、特に物理学はそうなんだよ。例えば、宇宙を見てみたら、万有引力だけだったと思ってたのが、万有斥力が効いているかもしれないというのは、誰も予想しなかったわけでしょ?(参考:ダークエネルギー) これは、観測してみたらそうだった、ということで、つまり、人間の頭脳では考えられないことなんですよ。だから、やはり観測というのはものすごく重要なんだ。
――「観測されたもの以外は信じない」という時、戸塚先生が言う「観測されていないもの」というのは、本当に誰も知らないことですよね。そこがやっぱりすごいなぁ。その先の知識は誰にもない、という。
うーん。やるんなら、ブレイクスルーがあるようなことをやりたいですから、そういうところを狙うわけです。
――大学院に入るときも、狙いをつけて、小柴先生の元に行かれたんですか?
いやぁ、何が狙い目だぁ(笑) 誰か、とってくれませんか!? って言って。
――そんなに入りやすいところだったんですか?
当時、僕が院に入る1年前に、小柴先生が助教授で東大の物理学科に来た。その時2人の学生をとったんだけど、それがすごく優秀だった。それで、小柴さんは「院に来るやつは皆優秀だから、東大の教官なんて何も世話がいらんのだろう。よっしゃ、次は3人くらいとってやろう」って言ってね、私はその中の一人で、「お前もいいや」って言われてとってもらっちゃった。あとの二人は、真面目な男だったんだよ。
――その時一緒に入った方は、今どうされてるんですか?
一人は、筑波にいる。まだ、時々研究に出かけてるって。もう定年だからね。もう一人は、若くして死んじゃった。小柴先生のお弟子さんはね、早死にが多い。
――小柴先生は長生きなのに・・・
ハハハ、それを言っちゃぁ、おしまいよ。結構若死にが多くてね。「俺はエネルギーを吸ってるんだ」って(笑)
――ところで高校時代は、何かスポーツをやってたんですか?
1年剣道をやっていた。中学の時は、3年間真面目に野球部にいた。で、高校入って剣道を始めたんだけど、高校と自宅が遠かったもので、通うのがしんどくってね。それで、やめたんだ。やっぱり、もう勉強やった方がいいな、と思ったもん。剣道部は結構強かったんでね、どっちにしようかと思ったんだけど、結局、大学に入るのを優先しようと思って辞めた。
――東大に入ろうというのは、決めていたのですか?
そうね。高校1年の時に、もう「東大目指そうかな」と思ってた。そうそう、それはあったなぁ。
――受験勉強はどれくらいされたんですか?
いや、しなかったよ。前も言ったみたいに、物理の本を読んだりはしてたけど。
今よりも、入試は楽だったと思いますよ。だから、予備校なんてのは、夏休みにちょっと通っただけで、入試対策という本格的な勉強はやらなかった。それでも通ったんだよ。受験戦争みたいな話はあったけど、当時はまだひどくなかった。特に田舎にいたら何も分かんないんだよ。だからこんなもんでいいんだろ、と思ったら、そんなもんだったんだよ(笑)
――貧乏時代抜け出すのは・・・どうやって?
いや、抜け出すって・・・結局抜け出さなかった。(奥様、「一生ね!」と笑う)
要するに、職をどう取ったかということだと思うんだけど、大学院でドクターとるのにえらく時間がかかってね。まあ考えてなかったんだな。でも、これもやっぱり小柴さんに助けてもらった。
ドクターとる前に、このままではたまらんから、民間の企業に就職するか、当時原子核研究所というのが東大にあったんだけど、そこの先生が僕を助手でとってくれるかもしれない、っていう話があった。だけど、それは加速器の研究で、学問の研究じゃないから、どうしようかなと思った。民間の企業に入ってもいいんじゃないの、って。
というのは、当時僕は延々と遅れてたし、家内もいるし、だからアルバイトして遊んでいられるわけでもない。しっかり生きようと思って、研究を諦めようと思ったね。
そしたら、小柴先生が、「電子・陽電子を使った新しい研究をドイツでやろうと思う。職はないけども、理学部で、半年の職を借りてきた。10月に職があって、次の年の3月に切れる職があるけど、どうする? もしやるなら、学部長に言うけど」っておっしゃる。「いや、それでもいいです」って返事をした。まず学部長のところに行って、「一身上の都合により、1973年3月31日で退職します」という書面を書いて、半年の職をもらった。「じゃ、すぐドイツに行け」って言われて、それで出張で行ったんですよ。
ドイツには半年しか居ないつもりだったから、妻を置いて一人で行った。それで「期限が切れたらどうしたらいいか?」って聞いたら、「いや、あっちで探せ」って言うんだよね。いやぁ・・・困った。でも、まあいいや、って言ってそのまま行っちゃったの。そしたら小柴先生が頑張ってくれて、その職がテレテレと続いたんだ。半年が1年になり・・・ってね。その間、ずっと変なポストを借りていた。理学部って言うけど、僕が知らないようなところから借りてきてくれた。みーんな期限付きのポストだった。
正式に助教授になったのは37、38くらいの時かな。そのころ、ようやく少し落ち着いたかな、という感がある。
今の皆さん見てるとね、ポスドクでかなりいるでしょ? あれはちょっと気の毒だな、と思う。私だったらとっくにやめてる。
■1970年代のドイツ
僕がドイツで研究してた頃、友人が会いに来て、飲みに行こうということになった。レストランに行ったら、グラスに何ミリリットルという目盛りが入ってるわけ。
さすがドイツ!って言って写真を撮って帰ってきたよ(笑) ビール飲むのにもちゃんと数値がついてる。
それと、ドイツ語で、「ああいう言葉は日本では無理だな」って思った言葉があった。議論してる時に、日本だと、「それが正しい」って言うじゃない? あちらでは「ローギッシュ!」って言うんだよ。「論理的である!」と。それが「正しい」っていう意味なんだよ。いやぁ、日本人って、会話の中で「論理的」なんて使わないなぁって、びっくりしましたよ。そういう人たちなんだよ。
――70年代のドイツのイメージは? やはり、日本より進んでいるな、と感じたのでしょうか?
断然進んでいるっていう感じ。特に、研究所のエレクトロニクスとコンピューターまわり。見たこともないような機械があるんだよ。
ドイツ人というのは面白くて、物を丁寧に使うという方針を持ってる。古いものと最先端が両方ある。我々は、最先端の方にびっくりしているんだけど、彼らは古い方も使うんだよね。
当時すでに、日本はトランジスタがだいぶ使われ始めていた。でも、向こうは真空管だったんだよ。それを丁寧に使ったもので、あれには感心したよ。でも、私の研究の原点だし、今でも友人が何人もドイツに残ってますよ。
――当時、まだ冷戦中でした。ソ連は最重要のところは外部に出さなかったと思います。ただ、冷戦による競争で、アメリカもソ連もそれぞれ発展したところもあると思います。冷戦というのは、科学にとってプラスだったのか、マイナスだったのか?
いや、そりゃマイナスだよ。
我々は基礎研究に携わっていたんだけれども、東のコントリビューションは、理論的には非常に大きかったけれども、残念ながら実験的にはそれほど多くなかった。それに、交流もなかった。
ドイツは、そういう面では特に恐ろしいところだった。ハンブルクからちょっと行くと東ドイツの国なんだよ。そこまで散歩に行くと、フェンスがあるとこまで見に行くわけですよ。そしたら、ドイツ人が「だめだよ、危ないから!」って。壁に無人のライフルがついてるんだよ。やたらと近づくと撃たれるよ、って言うの。そんなことは知らなかった。
他には、国際会議なんかで、フランスにハンブルクから汽車で行くんだけど、夜に煌々と電気で照らされている地帯があった。フォルダ渓谷と言って、一面地雷が埋まってるようなところなんだよ。その真ん中を通って行くわけ。そういう恐ろしさを、ちょっとは味わった。
だけど、我々の分野の研究には、それほど大きな影響はなかったな。
――冷戦が終わった後は、壁はなくなったんですか?
ないです。壁はないけども、貧富の差がある。
2年前になるかな。ドレスデンという、東側の町に行ったんだけど、そこが貧しいんだなぁ。ドイツは何兆円も使ったんだけど、まだ平等になってない。
でも、あれだけの東西の冷戦の中に、あそこまで国を保ったというのは、ドイツは偉いと思いますよ。
――ドイツは、実験装置が日本と全然違ったという話がありました。しかし、ドイツも日本と同じように敗戦国です。なぜ、そんなに差があるのですか?
やはり、アメリカの援助だね。ドイツは、当時ソ連とのショールームになってるわけでしょ? だから、途方もない援助がある。マーシャルプランというのが始まって。
それと、やはり日本人とアメリカ人との交流に比べて、アメリカ人がドイツ人と交流するのは、密接さが全然違う。
■チームプレー
若い時は、何でも自分で解決したがって、要するに「チームプレー」というのがなかった。それで、ほとんどノイローゼになっちゃった。ドイツでね。夜眠れなくって、仕事のやり方もひどい。
アパートと研究所は近いので、朝9時に出て行って、夕ご飯を食べに帰ってくる。そしてまた出ていっちゃう。夜中3時とか4時まで仕事をして、次の日の朝また出ていく。・・・完全にノイローゼだ。
結局どう解決したかというと、「何か問題があったら、相談するんだ。自分で抱えるな」ということ。ドイツ人は非常にフランクだから、話をすると、そうだなぁ〜、って相談に乗ってくれて、結構解決したんだよ。あらゆることが。
「研究というのはチームプレーでやらなきゃいけない」ということをドイツ時代に学んだんだね。これは大きかった。だから、日本に帰ってきてからは、何でもかんでもみんなに相談する。周りは、馬鹿な奴だと思ったでしょう。
――そのころ抱えていた課題とは、具体的に何でしょうか?
当時、大きな観測装置があって、そのうちの一部、責任持ってる物があった。それが突然動かなくなった。どうしていいかわからない。
例えば、信号を送るケーブルがあったんだけど、それはフラットケーブルを積層にした8000本の太いケーブルだった。ところが、隣り合った層がクロストークを起こして信号が一方から他方に移っちゃった。実験が始まるって時にこんなことが起きるんだよ。それを一人で抱えちゃうわけ。
そこで、隣の実験グループのところに行って、「お前、確か層と層の間に、シールドの網を置いて解決してたよな」って言ったら、何とかなった。「よし、じゃあ手伝ってやろう」って言ってくれて。
そういうことが、何度もあったんですよ。とにかくもう、駆け回って解決してました。
それで「抱えるな」ということを覚えた。当時は、小さな問題だったんだけど、その経験をもとに、もっと大きなトラブルも解決する手法を得た。
向こうに行ったのは30歳。ドイツの大きな実験装置の一部だけど、そのリーダーだったのが31歳。その歳でテクニシャンとか技術者を使ってるわけ。
そういう立場だからつぶれそうになっちゃうんですよ。しかも、研究費はドイツ持ち。日本はお金をほとんど出してなかった。だから、研究の反響だけは大きい。――まあ、それだけ認めてくれてたってことはありがたいことなんだけど。
今から考えると、若い時によくやってるんだなぁ。それまでは遅れ気味のポヤンとした学生だったんです。
■異文化の中で学ぶということ
――今の学生も海外に行った方がいいでしょうか?
行った方いいと思う。うん、行った方がいい。
学生だけじゃなくて、若手研究者もそうなんだけど、今はだんだん海外に行けなくなってきちゃったから、非常に残念なんですよ。やっぱり、カルチャーの違いというもっと学んで、経験してほしい。全然違うんだよ。
そういう意味では、僕は、アメリカがあまり長くないんで、それはちょっと残念ですね。友人はいっぱいいるけれど。
自然科学の土壌というのは、ヨーロッパとかアメリカにあるわけで、向こうに行くとふっと気がつく。日本で学べないことがある。それが具体的に何かと言われるとわかんないんだけど。その辺は、今の人たちにも肌で感じてほしいっていう気持ちがありますね。ほんとにおもしろいですよ。
あんまり長期で行くと大変だけど、まあ2年くらいは行った方がいいと思います。
――ある量子力学の先生が、テレビで「向こう(欧米)は科学に対する壁がないというか、空気みたいに科学に接しているところがある」と言っていたのですが。
そうだね。「国」ってことを考えないんだよ。
(「国」を意識するのは)ちょっとおかしいでしょ? 「国」っていうのは、単にお金を出してくれるくらいの存在であって、自然科学に人間が作ったバンダリー(境界)はないはずなので。その辺は考え方が全然違いますね。
ヨーロッパに行っても、横に座ってる奴はドイツ人じゃなくてアメリカ人だった。苦しかったけれども、誰とでも一緒にやれるから、そういう面では楽しかった。まさにそこを学んでほしいんだよ。
何でもそうだと思うんだけど、まずは「国」なんていうバンダリーをとっちゃう。それに、向こうに2年もいれば友人もできるだろうから、そのあとの研究に大変役に立つと思いますね。少なくとも僕にとっては非常に役に立った。いや、よかったですね、苦しかったけれども。
私は今でも非常勤で、日本学術振興会でお手伝いさせて頂いてるんだけど、やはり重要なこととしては、日本の若手を外国に派遣するということは、抑えちゃいけない。そういうことを少しは努力してるんですが。
――日本は昔から遣唐使とか遣隋使とか、外国に行って知識を吸収してくる国だったんだけど、ある時期から留学する人が減ってきた。
そうそう、誰かそういうことを言ってるんだよ。
若手の意識として、日本があまりにも発展したので、一流の研究は日本にいてもできるんですよ。だけど、さっきも言ったように、やっぱりカルチャーの違いということから絶対に学ぶことがあるんだよ。それを忘れちゃいけないと思うんで、「日本でいいんだ!」というのには反対なんです。
特に、文科系の先生方にそういうことをおっしゃる方が多い。だけど、それはやっぱりおかしいと思う。
■貧しい生活からスタート
大学院時代に結婚してから、僕は、稼がなきゃいけないと思って、アルバイトで高校の先生をやってた。でも、大学院にせっかく行ったから、研究もやりたいと思ってる。だけども、自分たちの生活からやってかないといけないというんで、高校の先生を1週間に2回か3回やって、残りの時間は研究室に戻って研究をやった。しんどかったですね。
終電で帰ってきて、朝5時くらいに起きて、朝一番の授業をやらせてもらうんですよ。物理の授業をね。そのあとすぐ研究所に行って、また終電。だから夜ごはんはいつも12時過ぎ。まあ、体潰すような生活してたわけですよ。まあ、気の毒だったけれどもしょうがないね。それでもやりたかったんだろうなぁ。(奥様も一緒に当時を振り返る)
――仕事がない大学院生時代に、結婚されたんですよね。
[奥様]あんまりこういう生活が待ってるってことを、深く想像できなくて(笑) でも、なんとなく平凡じゃない人生が待っているっていうのは想像ができて、人生1回ぽっきりだから賭けてみるか、って感じ。
[戸塚先生]そう、そういうのは僕に聞くよりも彼女に聞いた方がいい(笑)
[奥様]その時点で、普通に結婚したら、普通にまあまあな生活ができたと思うんですけど、なんかもうひとつ、迫力が無いかなぁ、と。やっぱり当時は若かったんですよ。
[戸塚先生]だから、ほとんどの方は、結婚というのは、ドクターとってからだよね。人生設計ができてからだと思うけど、そんなことはあんまり考えないで結婚しちゃった。
[奥様]あの時代は、反対も多かった。みんなに反対されて、反対されたから余計、ってところもあったよね。夫の両親も反対してたし、うちも「とんでもない!」だし。
――最後の最後まで、つまり、スーパーカミオカンデあたりまで、大変な生活だったんですか?
そうねぇ、大変な生活だったね。
やっぱり、職場が離れてるから、行ったり来たりの生活で、それもしんどかったよ。そういう意味で生命科学は、自宅と研究所が近いなんてのはいいよね。
我々は自宅から遠いところで研究をやったから大変だった。まあ、その頃は子供も大きくなってるし、幸いグレないで育ったし、そういう面では良かった。私は、息子と娘が一人ずつだけど、まあ、親に迷惑をかけるような生活は、今のところはしてないから(笑)
■切迫する環境問題
あと、僕は、もう少し大学の先生には、環境問題に取り組んでほしい。
大学の教官自体があまりやってないんだよね。まず、気候変動ですよ。それと、エネルギー。あと、食べ物だよね。これらは実はリンクしてるので、その辺りをなんとか解き明かしてほしいなぁ、と。
こういう、巨大な問題というのは、20世紀にあったかどうか。もちろん戦争はあったけど。これくらい大きいのは無かった気がするなぁ・・・。ちょっと心配だよね。まあ、今僕が心配してもしょうがないけど。
――「地球最後のオイルショック」という本で、「石油の消費はだいたい予測が固まっていて、10何年後かにピークを過ぎる。OPEC以外はもう既にピークを過ぎてて、全体はあと10年以内にピークを迎える」という話だったんですが。
うん。もうピークを迎えてるという話もあるよね。2007年じゃないか、という話も。
ただ、石油だけじゃないんで、世の中のエネルギーは。石炭とか天然ガスがまだあるんだよね。だけど、いずれにせよ化石燃料は問題があるんだよ。やることはいくらでもあるんだよね。
私がもう一度戻れるなら、環境問題をやってみたいな、という気持ちはあるんです。基礎研究じゃないけれども、非常におもしろそうで。面白いというのも申し訳ないけどね。チャレンジングだと思う。
――今、日本で廃棄される食物の量は、世界でアフリカに寄付している量の3倍もあるというデータが出てました。それは、僕らが食べ残すというのもあるけれども、流通しているお弁当とかお惣菜とかを捨てちゃったりとか、そういうのが多いらしくて。せっかく今IT技術があるのにもっと効率よくならないかな、と思いました。
まあ、それも重要だけど、たとえば気候変動でグリーンハウスガスというのがあるでしょ?
実は、日本が出しているグリーンハウスガスというのは世界全体の2%くらいしかない。だから、日本でいくら努力しても、たとえば仮に半分にしても、1%減るだけなんだよ。だけども、日本で技術を開発して、それを世界に普及させれば、大変大きな効果がある。そういうところの考えがあまり無いんだな。
日本はまず日本の中で、たとえば東京都なんて政策やってるけど、世界全体を見たら微々たるものなんだよ。ガスなんだから、日本の上をきれいにしたら、中国からどっと来るだけの話であって、何の意味もない。世界全体で考えないといけない、というのに、何考えてるんだかなぁ! という。研究としては、そこからスタートしないといけないと思うんだけどね。
今、都知事がやってるのは、要するに、「どうってことない」んですよ。ヘンだなぁ・・・と思うんだけど。世界に流通させる技術の方を発展させた方がいいんじゃないか、と思うんだけど。
――世界に回すためには、コストを下げないといけないですよね・・・
コストの前に、まだ技術自体が無い。日本が50%減らすって言ってるけど、その技術が無いのに言ってるんだよね。これから開発しようとしてるのに。そこには、何か巨大なブレイクスルーが必要なので、面白そうだな、と思うんだよ。まさに皆さんの時代。これから2050年まで、大変なことになるから。
――二酸化炭素を固化するみたいな話ですか?
そう、それは面白そうだね。昨日もテレビでやってたんだけど、炭酸ガスを取り除くことはできるけど、むしろ問題は埋めるところなんだよね。
結局また儲かるのはアラビア半島であって、あそこに炭酸ガスを持って行って埋めるわけだよ。日本なんて、埋めるとこがないよ。こんなところに炭酸ガス埋めて欲しくない。
――環境問題は、もうそろそろ、あと何十年かで悪化のピークが来ると言われていて、そのピークを下げる方向に進めるべきということを、このあいだ大学の授業でやったのですが。
IPCCという機関があるけど、そこで2つの柱があるんだよ。ひとつは、ミティゲーションと言って、ガスを減らす、という方針。減らなきゃどうしようもない。原子力はもちろん柱になるんだけども、とにかく今出している炭酸ガスは減らさないとどうしようもない、というのがミティゲーション。
もうひとつは、「もうこれは間に合わない」というわけ。これはアダプテーションというのがあって、もう増えるんだから、それを前提として、その中で人間は生きていかなきゃいけない、という二つの柱がある。日本はこちらをみんな忘れてるんだよ。これにも、巨大な技術開発が必要。
ところが日本はまだいい方なんだよ。南の方の島なんて、沈んじゃうわけでしょ?
それと、最近ヨーロッパがなぜあんなに気候変動に対して一生懸命やってるのか、という理由は、IPCCで出たデータなどを見ていると、これから50年くらいの予想で、温度の上昇が一番高い所にヨーロッパがあるんだよ。5〜6度も上がるんだよ。彼ら、住めなくなるんだよ。スペインとかね。だから一生懸命やってるんだよ。
まあ、自分たちに降りかかってない日本は平気な顔してるんだよ。あと、案外中国は温度が上がらないんだよね。平気とまではいかないけど。ひどいのは、インドの隣のバングラディシュとかあの辺。人が住めなくなるんだよね。
――この前、ロシアの元外交官の人の話を聞いてたら、ロシアは温暖化を喜んでいる、と言うんです。温暖化で建国以来の願いがかなう、と。ずっと寒い所にいて、暖かくなるわけだから。そこで、これからはあんまり温暖化防止策には積極的には関わらない、という・・・
そうなんだよ。シベリアが温暖化すると、巨大な穀倉地帯になる。だから、彼らは儲かるんだよ。要するに、国を富ますことができる。だけど、南の方が、インドやバングラデシュの方がダメになる。本当に、あの10億の人々がどうやって生きていくんだろう、と思いますよね。
アメリカも案外うまくいくんですよ。カナダも非常に良くなるでしょ? アメリカの北方とカナダも穀倉地帯になる。だからアメリカは平気な顔をしてるわけ。だってさ、自分たちが苦労しないことに、なんで一生懸命やらないといけないんだ、という意見はあってもいいはずだよね。
そのへんをちょっとまとめたいな、と思ってるんだけど、なかなか、もう時間が足りなくなってきて。
――ぜひそれで科学入門みたいな記事をまた書いてください!
そうなんだよ。その辺をまた勉強したいな、と思って。この年になって勉強するのもなかなかだけど、まだやることがあるな、と。
■今の若者へ伝えたいこと
そう言えば、もし今の皆さんにやってほしいこととか、希望があれば、言ってください、みたいなことも言われてたんだけど、是非、希望はあるんだよ。
我々としてはね、もっと皆さんに知恵がついてないと困るんだよ。それは絶対にお願いしますよ。
例えば我々は、アインシュタインの理論を、それほど苦労せずにわかるわけでしょ? 同じようなことが、今の皆さんもできてくれなきゃ困るんだな。我々がやったことが簡単に分かって、それを役に立ててくれなきゃ困るんだよ。そういうことをぜひお願いしたいな。それには、やはり知恵がついていないと。
私が嫌いな言葉がひとつあって、「子孫に負を残すな」っていう言葉。僕は「どんどん残せ」っていうんですよ。放射性廃棄物の処理にしても、環境問題にしても、エネルギー・食糧危機にしてもね。我々より頭が良くなってるはずなんだから、彼らに任せれば簡単にやっちゃうよ、って。そういうのを、期待してるんですよ。
ただね、その「負の遺産」の量がね、20世紀が始まったときよりも、21世紀が始まったときの方が多いですよね。それが科学技術にリンクしちゃってる。それはちょっとお気の毒だと思うけども、廃棄物にしても、環境問題にしても、チャレンジングではあるけれども、まあ、解決できない問題ではないですよ。だから、ぜひそれにチャレンジしてほしいな、と思うんです。そこはぜひお願いしますよ。
――正直、戸塚先生や他の教授の先生とかを見ていても、僕らがそこまで行けるんだろうか、と思います。雲の上の存在みたいで。
ちがうちがう、そんなイメージいい加減なんだよ(笑)
僕らも、難しいって悲鳴を上げていました。昔も今も変わらないんだよ。いつでも、そうなんだよ。
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科学入門にもどる
取材:2008年6月25日 戸塚先生ご自宅にて 妻・裕子さんもご臨席くださいました (写真はこちら)
取材者:緑慎也(立花ゼミ一期生)、岩崎陽平(立花ゼミ二期生)、栄田康孝(立花ゼミ三期生)
記事中のイメージ写真は、スーパーカミオカンデの写真を除き、立花ゼミが独自に用意したものです。
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Copyright (C) 2008 戸塚洋二, 東京大学 立花隆ゼミナール All Rights Reserved. 表示が崩れますか? |
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