おしゃれと人間愛
by 有賀 雄大
おしゃれとは、他者の目を媒介にしたナルシズムである。
おしゃれとは、他者を快適にさせるような容貌そのものではない。
「他人からよく見られたい」という切なる願いを持ち、その願いを容貌において実現させようとしている、その姿勢が「おしゃれ」の本質なのである。
世の中にいわゆる「ださい」人はいっぱいいる。
だが、あえて「ださい」恰好をするという「おしゃれ」も存在するのだ。
(もちろん、「ハズし」といわれる、ファッション上級者が用いるテクニックのことをいっているのではない。)
みなさんは中学生の時、世間の価値観にただひたすらに対抗しようとした時期がなかっただろうか?
高給職、アイドル、流行、そういったものに「流されない」というキャッチコピーは、未熟な人間にはいつの時代も魅力的だ。彼らは流行に「あえて乗らない」ことで、「流されない」自分を演出し、自己陶酔する。これはとくに小中学生男子によくみられる現象だ。(男というのは、大人になっても、愚かな自己陶酔にひたりがちである気がする。)
かれらは、「流行に流されていない」というメッセージを発することで、他者から「かっこいい」と思われることを期待するのである。それはある意味で、容貌を媒介として自分をよく見せたい、たいへん「おしゃれ」な姿勢なのである。
ださくなってしまう原因は、他者の視点というものを正確にとらえられていないことである。「おれは彼女がおれのことをかっこいいと思うはずだと思っているが、本当は彼女はおれのことをかっこいいとは思っていない」という感じだ。
だが、ここで「ダサくなくなる方法」について語るつもりはない。
なぜなら、他者の視点は多様だからだ。
おしゃれの最高峰に位置する雑誌モデルや芸能人たちも、ださ中学生にとっては「ださい」のである。
大切なのは「おしゃれ」な人たちはみな、他者の存在を強く認識しているという点だ。
他者が存在し、自分と同じような心を持って、ひとりの人間として生きているということを強く信じている。
千万光年のかなたにいるはずの他者へ、彼らは求愛しているのだ。
そして、求愛は、それ自体一つの愛情表現である。
そう思って世界に目を向ければ、
不自然に眉のつりあがった、顔中粉だらけのおばさんも、
異様にでかくて太いズボンをはいた怖いお兄さんも、
タイツみたいにぴったりしたジーンズと、道化師のようなとんがった靴をはいたホストも、
みんな、なんだか愛らしい、ほほえましい存在に見えてはこないだろうか。
ファッションに意識的でないときの服装の方が、後から写真なんかで見ると、とってもその年頃の人が着てる、その時代っぽいものになるから面白いよね。
みんなが孔雀に見えてきた。