自分の頭で余白を泳げ
by 有賀 雄大
先週、宇宙からメッセージが舞い降りた。
「本は遅く読むべし。」
論理は、浅瀬に打ち込まれた杭のようなものだ。自分で板をかけてはじめて、向こう岸への橋が完成する。
あるいは、目的地にたどり着く方法を書いたメモのようなものといってもよい。
「駅の南口を出て、郵便局の奥の道を入り、わかれ道を右に曲がって、左手に見える青い建物」
その途中にある一歩一歩の歩みは読者にかかっている。
「軍部が暴走した。だからWW2は始まった。」
「むしゃくしゃした。だから殺した。」
「われ思う、ゆえにわれあり」
この「だから」「ゆえに」には必然性など全く存在しない。軍部が暴走したって誰かが止めていたら戦争など起こらない。むしゃくしゃしたからって、君たちは人を殺すか?そんな心理現象を自らのうちで体験したことがあるのか?
杭と杭との間には必ず隙間が存在する。それはどんなに杭を打ち足しても同じだ。
「むしゃくしゃした。だから殺害意欲がわいた。だから殺した。」
杭と杭の間を埋めるのは、体験と熟考によって生み出される確信である。杭から杭へと板を渡すには、自分の力で泳がなければならない。川底に足はつかない。
それが哲学である。
「われ思う、ゆえにわれあり」
杭だけ暗記して唱えるのは簡単だ。しかし本当に理解しようと思ったら思考の両腕を一生懸命動かしてクロールしなければならないのだ。
ひたすらに杭をうちこみまくる速読競争に少し疲れた。
いまは自由にクロールで泳ぎまくる日々を謳歌している。
それにしても、ニーチェ先生の杭の間隔は、遠い・・・
本人いわく
「山脈の中では最短の道は山頂から山頂へと渡ることである。が、そのためには君は長い足を持たねばならぬ。寸鉄の言とはそういう山頂でなければならぬ。」・・・「ツァラトゥストラ」より