教養
by 有賀 雄大
昨日で立花ゼミがひとまず終了となった。
貴重な体験ができました。ありがとうございました。
そしてもうすぐ僕の東大教養学部時代も終わるのである。
この二年、なかなか楽しませてくれた。東大ナイスプレイ、といったところである。
教養ってなんだろう。
それはとりあえず、「なるべくいろんな人と話題を持てるようになること」といえる。
誰と話すときでも、自分とその人が共通して持っている知識がなければ会話ができない。
好きな歌手、好きな本、好きな町、そういったものをきっかけに話ができる。
さらに、「これ、ビートルズっぽくない?」とか、「イカ東のイデアってなんだろうね?」とかいったぐあいに、共通の知識があることによって、使える言葉も増えるのである。
どんな教養を身につけたいか、という問題は、どんな人と話がしたいか、という問題と直結する。
教養といって、読書と古典芸術しか思いつかないようなやつは、結局自分と似たような人間ばかりとなれあって生きていくことになる。
新書すら読まないような人たちとも会話したかったら、ポピュラーな音楽とか、うまい食い物とか、漫画とか、そういったものになるべく多く触れておいたほうがよい。それも、立派な教養なのである。
ところで、タバコという教養は今危機にさらされている。
近年の禁煙ブームの中で、タバコを知ろうともしないことがあたかも賢明な態度であるかのような風潮がある。まことによろしくない。
インテリのみなさんにもわかりやすいように例えれば、若者が古典を読まなくなっていることの危機とまったく同じなのである。
あの、ニコチンが欠乏したときの理性と本能の間にあるエロスは他ではなかなか体験できない。それに、タバコを知らずして、村上春樹の文学について論じるなどちゃんちゃらおかしいのではないか?
ちなみに僕は春樹の文学は全然わからない。
教養学部生でいられるのもあとわずか。
僕は立派な教養人になるために、漫画を読んだり、カラオケに行ったり、おいしいものを食べたり、お酒を飲んだり、女の子にちょっかいを出したり、といったストイックな勉学に励む所存である。
別の道を辿って、同じ結論にたどり着いた気がする。人と話をするには、コンテンツとなる知識と、スキルとなる言語能力の二つが要求されて、その二つを合わせて「教養」と名付けているのかもしれない。
ピンク・フロイドとか前衛戯曲とか意味の分からない世界に耽溺するのも教養なのさ―!