音楽と詩
by 有賀 雄大
椎名林檎の「すべりだい」はいい詩だ。別れの時に感じる、どうにも抗うことのできない「流れ」に対する無力感と、むなしさとが生々しく伝わってくる。
いままで、この曲については、音楽のすごさを感じてはいたものの、詩については何となく雰囲気だけで聞き流していた。だがある日歌詞について細部を吟味し、全体として表わそうとしていることは何なのか考えてみた。すると不思議な感動を伴ってこの歌詞の素晴らしさが、ちょっと、わかった。
その時までは、詩は考えるものではなく感じるものなのだから、なにも構えずにボーッと聴くのがよい聴き方と思っていた。だが、言葉をかみしめながらじっくり考えることで、その良さが分かることもある。
僕の好きな歌の中には、歌詞にひかれる歌と、メロディーやコード進行、リズムといった音楽的な部分にひかれる歌、の二種類がある。時に両方を兼ね備えたものに出会うが、そうでなくても、どちらかを備えた歌であれば満足してしまう。
そもそも音楽と詩はなぜくっついているのだろう。
確かに、人の声を加えないインストゥルメンタルな音楽もあれば、音楽を伴わない詩もある。
だが、音楽と詩の結びつきは古くからユニバーサルに存在する。きっとなにか本質的なつながりがあるのだろう。
ところで、椎名林檎の詩の魅力は、「距離」にあると思う。
言葉と言葉の間のつながりが不明瞭、すなわち「距離がある」のである。
「すべりだい」の一番の歌詞は以下のとおりである。
あなたが八度七分の声を使うときは
必ず私に後ろめたいことがあるとき
汗ばんだって恥じらったって
理由もなく触れたがったりした
凍えたって甘えたって
只の刹那に変わった二人
その時すべて流れ落ちた
冷たい秋はたった二度目でも
砂場の砂も気持ちも全部
二人の手で滑り落とした
はじめの二行で「あなた」の行動について述べているが、それ以降、ここで述べたことには言及しておらず、その言葉から演繹は続かない。
だれが汗ばんだのか、だれが恥じらったのか、誰が何に触れたがったのかについては言葉がない。したがって、「触れたがった」ことが、どこにどんな影響を及ぼしているのかも語っていない。
言葉が、前提としても、結論としても、例示としても、主張としても地位を獲得しないまま、ただただ聴く者の内部にストックされていく。
このように互いに距離のある言葉を投げかけていくことによって、その行間にあるものをぼんやりと浮き上がらせ、言語化できないものを言語によって表現しているのである。
ちなみに、この曲は椎名林檎の詩の中では比較的「距離」のない方である。
まだまだ僕には林檎詩はよくわからない。