太宰のせんべい
by 有賀 雄大
今年は太宰治生誕100周年。
青森では「生まれて墨ませんべい」とかいう代物が売り出されているらしい。青森の特産品であるイカと、太宰治を同時に宣伝して経済効果をあげる、という大変能天気なコンセプトのもとに作られたのだろう。
僕は、「生れて、すみません」という言葉が太宰の死ぬ前に最後に残した言葉だと思い込んでいたので、とても腹が立った。自殺者の最後に残した言葉をそんな風にもてあそぶのは許せないと思った。
調べたところ、「生れて、すみません」という言葉は遺書にあった言葉ではなく、自殺を遂げるはるか前に書いた「二十世紀旗手」という作品の副題だった。
とはいえ、やはり「生れて、すみません」という言葉はせんべいにしていいような言葉ではあるはずがない。
僕は太宰治が好きだ。
太宰治の作品の中で、まともに読んだのなんて「人間失格」だけだ。「走れメロス」すら読んでない。
でも「人間失格」は大好きだ。だから太宰治も大好きだ、と堂々といいたい。
自殺について語りたい。
わけもわからず楽しく生きることができている人は、ここより下は見ないでほしい。
そもそも僕などが自殺について語る資格があるのか、とは思う。なんだかんだいって僕は自殺したことがないから、本当に自殺に至ってしまう心理を理解することは絶対に不可能だ。わかったときは死ぬ時だ。
そう考えれば、この世で本当に自殺について語ることのできる人など一人もいないだろう。(自殺未遂をした人には資格はあるかもしれない。)
だからこそ、僕は僕の語れる範囲で語りたい。単なる一つのサンプルとして。
自殺したら、世界すべてがなくなると思う。
この手も、この目の前の壁も、天井も、東京も、家族も、友人も、社会も、昔の恋人も、みな消えてなくなる。世界との交流の一切を失う。
それなのに、やはり遺書を残したいと思う。他人になるべく迷惑をかけない形で死にたいと思う。ぶざまでない形で死にたいと思う。不思議なものだ。心のどこかで、自分が死んだあとも世界が続いていくだろうと思っている。自分は二度とその世界へは戻ってこれないにもかかわらず、その世界に何かを残そうとする。
残したいのは、金では買えない何かである。
よくわからないが、自分が生きていた「意味」のようなものだと思う。
そのように考える者に対して、生き残った者たちが最もしてはならないこと、それは、その死を「要約」することだ。
「あいつは友達が少なかったから死んだ」
「あいつは高校の頃はできてたんだが、大学へ入ってから初めて挫折を経験した。だから死んだ」
「あいつは恋人に振られたから死んだ」
このようなことは言ってほしくない。その人の死を、聞こえの良いフレーズに当てはめて片付けている。
死んでしまった人がどのような考えを経てその行為に至ったのかを、完全に知るすべはない。「人間失格」を全部読んでも、それは部分的にしかわからない。
だからこそ、答えを出さないでほしい。その人に対する記憶をすべて捨てずに持ち続けてほしい。そして考えてほしい。
僕は少なくとも太宰の死を要約しない。
自殺について考えてみたが、まだまだわからないことだらけだ。
中途半端な文章を書いてしまった。また書こう。