慰めへの壁

今年の駒場祭で立花ゼミのプロジェクトのテーマは「壁」。一本ぐらい「壁」に関連した文章を書いてみよう。 悩んでいるとき、どうするか。 外に出て気分転換する。 人に話してすっきりする。 「心の風邪」なので薬で治療する。 酒を飲んで忘れる。 いろいろあるが、そのような「元気になる」手段になかなか踏み切れない時がある。そこには一つの「壁」があるのである。 彼女ができない、勉強がうまくいかない、そういった悩みならましだ。壁はない。 彼女を作るために努力すればいい。勉強法を考え直せばいい。そして、それらをうまくやるために、たまには「元気になる」手段に踏み切れば良い。うじうじしてたらもてない。考えてる暇があったら勉強したほうが良い。 最も深刻な悩みは、自己嫌悪だ。自分はだめだ、自分なんかいないほうがいいんじゃないか、自分を好きな人間なんて一人もいないんじゃないか、そう考えてしまい、深い深い洞窟に入っていってしまう。 自己嫌悪に悩むときほど、「元気なる」手段に踏み切りにくくなるときはない。 なぜか。 元気になんかなってしまったら、このみじめな自分がのうのうと生き続けてしまう。自らの醜い姿に気付かず、またわけもわからず楽しく生き始めてしまう。 例えれば、鏡を磨いて磨いてぼんやりと自分の姿が見えはじめ、その自分の姿にがく然としかけた時に、鏡を壊してしまうようなものである。 または真実を求めて悩みの洞窟をさまよいつづけているときに、洞窟の入口まで無理やり引き戻されるようなものだ。本当に求めているのは、向こう側へ通じる出口なのに。 だから、 「元気出せよ、飲んで忘れようぜ!」とか 「心の病は誰にでもあります。それは病気なんだから、風邪と同じで治療できるものです。だから恥ずかしがらずに医師に相談しましょう」とか そういったことを素直に受け入れるのは難しい。 自己を嫌悪しているからこそ、自己を救済する気になれないのである。 そういうとき、どうすればいいか。 今のところ僕が最も良い方法だと思っているのは、「書く」ことである。 ノートを買ってきて、自分の考えを「書く」。それは、鏡を壊すことでもなければ、洞くつの入り口に戻ることでもない。 自分自身と向き合い、本気で考えるのである。 「書く」と、悩んでいるときの思考がいかに飛躍に満ちたものかが見えてくる。 文字に起こすと論理が明確になる。現実的に考えるとある程度の論理の飛躍は避けられないが、悩んでいるときの思考は、さらに飛躍に満ちている。 書いたところで、とうてい洞窟の出口になどたどり着くことはできないのだが、少しの慰めにはなる。
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太宰のせんべい

今年は太宰治生誕100周年。 青森では「生まれて墨ませんべい」とかいう代物が売り出されているらしい。青森の特産品であるイカと、太宰治を同時に宣伝して経済効果をあげる、という大変能天気なコンセプトのもとに作られたのだろう。 僕は、「生れて、すみません」という言葉が太宰の死ぬ前に最後に残した言葉だと思い込んでいたので、とても腹が立った。自殺者の最後に残した言葉をそんな風にもてあそぶのは許せないと思った。 調べたところ、「生れて、すみません」という言葉は遺書にあった言葉ではなく、自殺を遂げるはるか前に書いた「二十世紀旗手」という作品の副題だった。 とはいえ、やはり「生れて、すみません」という言葉はせんべいにしていいような言葉ではあるはずがない。 僕は太宰治が好きだ。 太宰治の作品の中で、まともに読んだのなんて「人間失格」だけだ。「走れメロス」すら読んでない。 でも「人間失格」は大好きだ。だから太宰治も大好きだ、と堂々といいたい。 自殺について語りたい。 わけもわからず楽しく生きることができている人は、ここより下は見ないでほしい。 そもそも僕などが自殺について語る資格があるのか、とは思う。なんだかんだいって僕は自殺したことがないから、本当に自殺に至ってしまう心理を理解することは絶対に不可能だ。わかったときは死ぬ時だ。 そう考えれば、この世で本当に自殺について語ることのできる人など一人もいないだろう。(自殺未遂をした人には資格はあるかもしれない。) だからこそ、僕は僕の語れる範囲で語りたい。単なる一つのサンプルとして。 自殺したら、世界すべてがなくなると思う。 この手も、この目の前の壁も、天井も、東京も、家族も、友人も、社会も、昔の恋人も、みな消えてなくなる。世界との交流の一切を失う。 それなのに、やはり遺書を残したいと思う。他人になるべく迷惑をかけない形で死にたいと思う。ぶざまでない形で死にたいと思う。不思議なものだ。心のどこかで、自分が死んだあとも世界が続いていくだろうと思っている。自分は二度とその世界へは戻ってこれないにもかかわらず、その世界に何かを残そうとする。 残したいのは、金では買えない何かである。 よくわからないが、自分が生きていた「意味」のようなものだと思う。 そのように考える者に対して、生き残った者たちが最もしてはならないこと、それは、その死を「要約」することだ。 「あいつは友達が少なかったから死んだ」 「あいつは高校の頃はできてたんだが、大学へ入ってから初めて挫折を経験した。だから死んだ」 「あいつは恋人に振られたから死んだ」 このようなことは言ってほしくない。その人の死を、聞こえの良いフレーズに当てはめて片付けている。 死んでしまった人がどのような考えを経てその行為に至ったのかを、完全に知るすべはない。「人間失格」を全部読んでも、それは部分的にしかわからない。 だからこそ、答えを出さないでほしい。その人に対する記憶をすべて捨てずに持ち続けてほしい。そして考えてほしい。 僕は少なくとも太宰の死を要約しない。 自殺について考えてみたが、まだまだわからないことだらけだ。 中途半端な文章を書いてしまった。また書こう。

欠乏

時々、漠然とした欠乏感を覚える。
あるいは「もや」がかかったような感じ、とも言える。
運動が足りないのか?ビタミンか、カルシウムか、睡眠か、異性か、カフェインか、アルコールか、ニコチンか、人との会話か・・・
自分の体が何を欲しているのかはよくわからない。
僕には僕の体のことしかわからないが、僕の体に関して言えば、欲望なんてものは実はあいまいなものである気がする。本能なんだから、頭で考えてもわからないのは当然かもしれない。
腹が減ったときは、わかるときもある。腹部に感覚を覚える。だが確実なのはあくまで物理的な感覚だけだ。「欲望」の存在は確信できない。
「そろそろ飯の時間だな」という判断で食べる、つまり理性が先行する時も多い。また、飯を食うのを我慢しすぎてあるピークを過ぎると、じぶんが腹が減っているのかどうかよくわからなくなったりする。確実に栄養は欠乏している場合でも、「空腹」は常に感覚として感じられるわけではないのだ。
ところで、満腹中枢というやつは食事後しばらく経たないと満たされない、という話を聞いたことがある。少なくとも「食べたら腹がいっぱいになった」という感覚は思い込みである、ということだ。
眠い時もそうだ。夜12時になると必ず眠くなるとは限らない。多くの場合、理性で判断して寝る。そしてある程度眠気を我慢すると、かえって自分が眠いのかどうかわからなくなる。(朝、寝続けたいという欲求だけは確信できるが。)
ましてや、「自分の人生どうしたいか」「どのように生きたいか」などと聞かれたって、「別になにも思いつかない」としか答えようがない。
「人間失格」の主人公の葉蔵は、幼少期のころ「『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかった」と描かれている。僕は「人間失格」のこのあたりが一番好きである。
おなかが空いたから、食べて、それで幸せになれる、そういう「正常」な人間に、自分はなれないのか。自分はこちら側の世界で生きることしかできなのか。
そういったことをこの作品は語っている気がする。
自分の「欲望」を確信している人たちからすれば奇異に見えるだろうが、人間のありかたは、多様である。
時々、漠然とした欠乏感を覚える。 あるいは「もや」がかかったような感じ、とも言える。 運動が足りないのか?ビタミンか、カルシウムか、睡眠か、異性か、カフェインか、アルコールか、ニコチンか、人との会話か・・・ 自分の体が何を欲しているのかはよくわからない。 僕には僕の体のことしかわからないが、僕の体に関して言えば、欲望なんてものは実はあいまいなものである気がする。本能なんだから、頭で考えてもわからないのは当然かもしれない。 腹が減ったときは、わかるときもある。腹部に感覚を覚える。だが確実なのはあくまで物理的な感覚だけだ。「欲望」の存在は確信できない。 「そろそろ飯の時間だな」という判断で食べる、つまり理性が先行する時も多い。また、飯を食うのを我慢しすぎてあるピークを過ぎると、じぶんが腹が減っているのかどうかよくわからなくなったりする。確実に栄養は欠乏している場合でも、「空腹」は常に感覚として感じられるわけではないのだ。 ところで、満腹中枢というやつは食事後しばらく経たないと満たされない、という話を聞いたことがある。少なくとも「食べたら腹がいっぱいになった」という感覚は思い込みである、ということだ。 眠い時もそうだ。夜12時になると必ず眠くなるとは限らない。多くの場合、理性で判断して寝る。そしてある程度眠気を我慢すると、かえって自分が眠いのかどうかわからなくなる。(朝、寝続けたいという欲求だけは確信できるが。) ましてや、「自分の人生どうしたいか」「どのように生きたいか」などと聞かれたって、「別になにも思いつかない」としか答えようがない。 「人間失格」の主人公の葉蔵は、幼少期のころ「『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかった」と描かれている。僕は「人間失格」のこのあたりが一番好きである。 おなかが空いたから、食べて、それで幸せになれる、そういう「正常」な人間に、自分はなれないのか。自分はこちら側の世界で生きることしかできなのか。 そういったことをこの作品は語っている気がする。 自分の「欲望」を確信している人たちからすれば奇異に見えるだろうが、人間のありかたは、多様である。
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今日、神に会った。 最寄駅から自宅までの帰り道、僕は下北沢で買った食糧をもって薄暗い道を歩いていた。ビニール袋の口からはカブの葉が長くとびだし、いかにも「買い物帰り」といった格好だ。僕は何事もなく家へ帰り、あさりのスパゲッティを作って食べるつもりだった。そんな午後6時。 一人の少女が僕の前に現れた。 幼稚園に通うくらいの小さな女の子。 彼女は僕の斜め前に躍り出て、僕のことなど気にも留めず、突然始めた。 彼女は突然「あっばっぼーお」をしたのである。 両手のこぶしを天に向かって高く掲げたまま、足を踏み出す。「あっ」で一歩、「ばっ」で一歩、「ぼー」で一歩、「お!」でとどめの一歩を力強く踏みしめる。 これが「あっばっぼーお」である。なんと神秘的な全身運動だろうか。 「あっ、ばっ、ぼー、お」 彼女が僕の前で踏みしめる。 「あっ、ばっ、ぼー、お!」 念を押すように力のこもった二回目。 二度の「あっばっぼーお」を終えると、母親の声によって回収されていった。僕の中に確固たる痕跡を残して。 僕の前で「あっばっぼーお」をした彼女。彼女は僕など見ていなかった。目の前の道路も、道路の向こうの公園すら見ていなかっただろう。彼女は遥かかなたの何かを見ていた。 彼女の「あっばっぼーお」には目的もなければ利得もない。生存のためでもない。彼女は全身にみなぎる生命のエネルギーをただ表現したのだ。ただ楽しんでいたのだ。ただ生きて、動いていたのだ。 彼女がうらやましかった。僕の生は、目的と利得と義務にまみれている。 彼女のごとく、踊るように生きてみたいと思った。 「わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。 「いまわたしは軽い、いまわたしは飛ぶ、いまわたしは私自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている 「ツァラトゥストラはこう語った。」 『ツァラトゥストラ』(ニーチェ) より

愛について①

愛は、それを信ずる者前にのみ現われ、そのものに幸福をもたらす。

その点で愛は、神と似ている。

愛シリーズ、はじまり。

想像してみよう。君はある人を好きだ。とても好きだ。抱きしめたい!

彼女のどこが好きか?

これこれこういう理由で彼女が好きです!と「説明」してしまったら、それは「愛」ではない。たとえば、「彼女とは趣味が一緒であるため話題が多く、一緒にいてとても心地よく、生活リズムが似ているため会う時間も作りやすいし、経済的・社会的にお互いに自立しているため安心して付き合い続けられるからです!」なんて言ってしまったら興ざめである。

なぜダメか?それは「説明」という行為が客観性・抽象性と密接な関係にあるからである。

価値は、客観的・抽象的であればあるほど、交換可能なものになる。例えば、「あの目が好き」という表現は主観的・具体的である。対して、「目が大きいから好き」というのは抽象的・客観的な表現である。「あの目」を持っているのは世界で彼女ただ一人であると言い切れるが、目が大きい人は世の中にいくらだっている。交換可能とはそういう意味だ。

「目が大きいから君が好きだ。」と述べることは「目が大きければだれでもいい」ということに等しい。

交換可能な価値をいくら並べて彼女を賛美したところで、それは「愛」ではなく、単なる「最適解」なのである。

彼女を愛していることを表現しようとすると、「あの目」「あの鼻」「あの声」「あの髪」「あのにおい」「あの雰囲気」「あのしゃべり方」・・・というように「あの」という言葉を多用せざるを得なくなる。

求めるのは、特殊な存在としての彼女なのである。

愛とは、無条件にある対象の存在そのものを肯定することである。少なくとも、僕はそう定義している。そのような愛だけが、人をして生かしむる力をもっているのである。

存在そのものを肯定する愛、というものを考え始めた時が本当に悩ましいのであるが、それはまた今度書くことにしたい。

最後に、椎名林檎の「ありあまる富」から引用したい。引用するのも恐れ多いほどの名文である。

「もしも彼らが君の何かを盗んだとして

それはくだらないものだよ

返してもらうまでもない筈

何故なら価値は生命(いのち)に従ってついている

ほらね君には富が溢れている」

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JK、すなわち女子高生

今日、電車の中で女子高生が会話しているのが聞こえた。 JKA「あたしインフルエンザで体重二キロ減って、そのあと一キロ増えただけでキープしてるよ。」 JKB「えー!いいなぁ~!」 僕「『いいなぁ』!?」 なんとも言えない違和感を覚えた。なんだろうこの違和感は。じつはこの手のやり取り、高校時代、同級生の間でも聞いたことがある。そのときも「ん?」と思った。 僕だったら「いいなぁ」という言葉は使わないだろうな。 JKを馬鹿にするのではなく、あの子たちと僕との価値観の違いについて考えたい。 羨望とは、自分が持っていない価値物を相手が持っているときに覚える感情である。自分が貧乏な時には、お金をたくさん持っているやつのことを「いいなぁ」と思うし、自分に彼女がいない時には、リア充している人に対して「いいなぁ」と思う。本当に。 減量そのものは手段である。適正なプロポーションを実現するために、不必要なぜい肉を落とす必要があるのである。だから適正なプロポーションをすでに保っている人には減量の必要はない。減量が価値あることになるかどうかは個人によって、またその置かれた状況によって変化するのである。減量は誰にでも価値あるものではない。プロボクサーが減量しているのを見ても全然うらやましくない。 さらに言うと、「やせている」ことに仮に絶対的な価値があるとしても、「やせる」こと自体に価値があることにはならない。仮にJKAが41キロ、JKBが40キロだったとしよう。(こんな失礼な仮定をしていいのだろうか)1キロ減ったJKAは40キロとなり、JKBと同じ重さになったことになるが、ここでJKBがJKAをうらやましがったらやはり変だと思う。したがって、価値をもつのは体重の減少そのものではなく、減少後の適正な体重なのである。 結論:僕にとって体重の減少は、ある特定の状況に置かれた、ある特定の個人にとってしか価値がないものであり、したがって羨望の対象とはならないのである。JKにとっては体重の減少は絶対的・普遍的な価値をもつものであり、天空のイデア界に存在する価値なのである。 ちなみに僕はけっこうやせ型の女の子が好きである。自分は全く矛盾などしていない。うん、してない。 さて、体重の減少の価値を絶対視しているJKはバカなのだろうか。 いや、JKをバカにしたいという本能のためにこんなちまちまとした理屈をこねている僕のほうがよっぽどバカであろう。哲学をしているとき、他人を軽蔑したい本能が自分の中にあることにしばしば気がつく。ニーチェ先生のおっしゃるとおりである。

はじめに

今日から本格的にブログを書き始めようと思う。 ブログのタイトルのとおり、今の自分の能力で書けるだけのものを、とにかく書きとめてみたい。 僕は家庭教師と個別指導の塾講師をしている。だから子どもと話をする機会は多い。 彼らと話をしていると、ときどき昔の自分と話をしているような感じがする。 大人となった今の自分は、「なにわかったような口をきいているんだガキめ」と思ってしまいそうだが、ふと冷静になってみると、かれらの言い分もよくわかる。今、僕が昔の自分にもどったら、彼らに共感すらしていたかもしれない。 人は、ある程度似たような道をたどって、精神的・知的に成長していくのではないだろうか。 今僕の書ける文章は知的にも、精神的にも未熟である。でも、世の中には僕と同じくらいの頭の良さをもった人間がたくさんいるんだから、その人たちは共感してくれるはずだ。それで十分だと思う。 もちろん、それで共感を得て満足しようなんて思っていない。僕よりも進んだ考えの人が僕の文章を読み、僕の未熟さを指摘してくれたらありがたい。それに、ただ文章にすることで、僕自身考えを深めることはできると思う。 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざが僕は大好きだ。 同様に「言うは一時の恥、言わぬは一生の恥」でもあると思う。

自己紹介

こんにちは、立花ゼミ新入生の有賀雄大です。 まだどんなことを書いていくかも決めていませんが、よろしくおねがいします。