愛は、それを信ずる者前にのみ現われ、そのものに幸福をもたらす。
その点で愛は、神と似ている。
愛シリーズ、はじまり。
想像してみよう。君はある人を好きだ。とても好きだ。抱きしめたい!
彼女のどこが好きか?
これこれこういう理由で彼女が好きです!と「説明」してしまったら、それは「愛」ではない。たとえば、「彼女とは趣味が一緒であるため話題が多く、一緒にいてとても心地よく、生活リズムが似ているため会う時間も作りやすいし、経済的・社会的にお互いに自立しているため安心して付き合い続けられるからです!」なんて言ってしまったら興ざめである。
なぜダメか?それは「説明」という行為が客観性・抽象性と密接な関係にあるからである。
価値は、客観的・抽象的であればあるほど、交換可能なものになる。例えば、「あの目が好き」という表現は主観的・具体的である。対して、「目が大きいから好き」というのは抽象的・客観的な表現である。「あの目」を持っているのは世界で彼女ただ一人であると言い切れるが、目が大きい人は世の中にいくらだっている。交換可能とはそういう意味だ。
「目が大きいから君が好きだ。」と述べることは「目が大きければだれでもいい」ということに等しい。
交換可能な価値をいくら並べて彼女を賛美したところで、それは「愛」ではなく、単なる「最適解」なのである。
彼女を愛していることを表現しようとすると、「あの目」「あの鼻」「あの声」「あの髪」「あのにおい」「あの雰囲気」「あのしゃべり方」・・・というように「あの」という言葉を多用せざるを得なくなる。
求めるのは、特殊な存在としての彼女なのである。
愛とは、無条件にある対象の存在そのものを肯定することである。少なくとも、僕はそう定義している。そのような愛だけが、人をして生かしむる力をもっているのである。
存在そのものを肯定する愛、というものを考え始めた時が本当に悩ましいのであるが、それはまた今度書くことにしたい。
最後に、椎名林檎の「ありあまる富」から引用したい。引用するのも恐れ多いほどの名文である。
「もしも彼らが君の何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返してもらうまでもない筈
何故なら価値は生命(いのち)に従ってついている
ほらね君には富が溢れている」