NHKの番組で工場栽培野菜が取り上げられていた。
畑ではなく、工場の中で、野菜が栽培される。
太陽光の代わりに機械照明で光合成をさせ、水分と養分を混ぜ合わせた溶液に浸して水生栽培する。温度や二酸化炭素量は徹底管理されており、早ければ1か月ほどで野菜が育つという。もちろん、季節なんて関係ない。一年じゅう栽培できる。場所も関係ない。雪国でも、砂漠でも、お店の中でも、トラックの中でだって野菜ができる。
気味が悪い、などといってもしょうがない。新しいものには、反感はつきものである。
それに、僕には「そんなものやめてしまえ!」といえるだけの批判材料はない。
だが、少なくとも、土で育った野菜を食べなくなってしまうことだけは避けるべきだと思う。
工場野菜を少しくらい食べても問題ないと思うが、週7日のうち6日ぐらいは、土で育った野菜を食べたい。
なぜか。
それは、土で育った野菜を食べることで、体に「カオス」を取り込むことができるからである。
自然は、本来カオスである。つまり、わけがわからない。ぐちゃぐちゃである。
昨日はおいしそうだったおにぎりが、気がつくと変なにおいがしてねばねばしていたり。
船を浮かべて旅に出ようとしても、すぐに水が漏れたり、しけにあったり。
ちゃんと除草剤をまいたはずなのに必ずちっちゃい草ははえてきたり。
自然は、人間の思い通りに運ばない。いったいどんな法則によって動いているのか、そもそも法則なんてあるのかさえ、まだまだわからない。
そんなカオスな自然に対して、人間は何とか法則性を見つけようとしてきた。
さっき、手にもっていたコーヒーカップを放したら、床に落ちて割れた。
今、机の上にあったコーヒーカップを誤って肘で引っ掛けて机から落として、また割れた。
「もしかしたら、コーヒーカップは支えを失うと上から下に移動するものなのか?」
と思った時、座っていた椅子が突然壊れ、今度は自分が床に落ちて尻もちをついた。
「おれの体も落ちた。上から下へ移動するのはコーヒーカップだけではなく、この世にあるものすべてがそうなのか?」
次の日、大きな発見がなされた。どうやら地球は丸いらしい。
「地球の裏側のものは、下から上に動いていることになる。では、この世にあるものすべてが、上から下へではなく、地球の中心へ向かって移動するものなのか?」
このように人間は科学を発展させてきた。科学は、常に壮大な仮説の域を出ていないのである。
科学を否定するつもりはない。我々は科学によってとりあえず恩恵を受けることができるからである。だが、自然はまだまだ未知である。
レタスの培養液の中には、どんな成分が入っているのであろうか。それは人間が、「おそらくレタスにとって必要だろう」と予想した成分であって、見落としがないとも限らない。もしかしたら、土育ちのレタスには含まれていた決定的な栄養素を欠いたレタスが生産され消費されているかもしれないのである。
人類が自然の中に見出した法則性を信じ、科学の恩恵にあずかりながらも、常にその理論体系に懐疑の目を向けることを忘れてはならない。万が一仮説が不十分であった場合に備えて、カオスな自然をなるべくカオスのまままるごと食べておいたほうが良いと思う。
いつだって、自己の理論体系の外にあるものを取り入れ続けなければ、大変なことになるのである。栄養学の最先端の知識を持つ教授だって、サプリメントと純水のみで生活したら絶対とんでもないことになる。
カオスに触れ続けることは、どんな場面においてもj重要である。