2月

今日から2月。一年で最も寒い時期がやってきた。

生ぬるい東京にもようやく雪が舞った。

2月と言えばバレンタインデーである。
クリスマスに次いで、世の中のカップルと、デパートと、コンビニと、そして自虐ネタを生きがいとする男たちが元気になる日である。

そろそろチョコレートを食べるのを控えようと思う。
なぜなら、今月の後半には、もうチョコレートなど見たくないと思うほどチョコレートを食べることになるであろうから、今のうちにチョコレートを絶っておいて、バランスを取ろうというわけである。

同時に、チョコレートを我慢すれば節約にもなる。
僕は節約をしなくてはならない。
なぜなら今月の後半は自分で食べるためのチョコレートを大量に購入することになるであろうから。もはやチョコボールを買えば金のエンゼルを討ち取る勢いである。

義理チョコちょこちょこ三チョコチョコ
合わせてチョコチョコ無チョコチョコ
さあ、早口言葉で言ってみよう!かえるのやつと違って全然難しくないよ!

まじめに、「義理チョコ」という名称は廃止すべきである。
「義理」といってしまうとなんだか、人間関係を保っていくための損得計算みたいではないか。
いわゆる義理チョコの中にも、会社の同僚に本当に義理で、慣習的に渡す人もあれば、純粋な、損得を度外視た気持ちで、たくさんの男にチョコを渡してくれる女の子もいるのである。

本命じゃなくたっていい。その優しさで、大多数の男子はこの日を乗り切れるのだ。そんな心やさしい女の子たちのチョコを、「義理」だなんて呼ぶのはあんまりだ。

他に名称を考えよう。

うーん・・・




「友愛チョコ」!

(笑)

久しぶりにバラエティ番組を見て笑えた。

「しゃべくり007」
ハイクオリティな番組だった。
お笑いもベテランに達すると職人芸である。
お笑い芸人の人間国宝が現れる日も遠くはないだろう。

もういたら、まじですいません。

笑いの受け入れられ方は様々だ。

われわれは、ある時期においては、「うんこ」というだけで大爆笑できた。 古き良き時代である。
我々だけでない現代の子供もそう。おそらく未来の子供もずっとそうであろう。

確かめたかったら試してみればいい。

道でであった子供にかたっぱしから「うんこ!」と言ってみよう。

90パーセントぐらいの確率でウケる。
だがそのあとで90パーセントぐらいの確率でおまわりさんにも会える。

世代も大きく影響する。
親戚のおじさんやおばさん、おじいちゃんやおばあちゃんの大勢集まる席で、不本意に受けを取ってしまった経験はないだろうか?彼らの好む笑いは、普遍的なものが多い。

それ以外にも笑いの形はさまざまである。

①異質性
不自然なものは、たいてい面白い。
道を歩いているスーツ姿のおじさんが持っているものが、革のかばんではなく、バナナ一本だったら、ちょっとおもしろい。
講義が始まるときに、教官がムーンウォークで教室に入ってきたら、結構おもしろい。
辞書を広げるや否や、ページをむしゃむしゃ食べ始めたら、もっとおもしろい。

②言葉遊び
僕の友人が飛ばしたもっとも秀逸かつ簡潔なダジャレを紹介する。
「下駄箱の上に・・・げ、たばこ!」

③リアル
いわゆる「あるある」ネタである。

指と爪の間のところから出ているかさかさが気になって、ひっぱったら必要以上にむけて出血

・・・え、ない?

④その他
「イワシの頭ぶん投げてトゥナイト」

言葉で書けるだけでもこれだけたくさんあるのである。

このような多様な笑いがあるなかで、理解できる、できないが人によってかなりわかれるのである。
だから、自分が面白いと思ったことがうけなくても、そんなに気にすることはないのである。

そう、気にすることはないのである!!

教養

昨日で立花ゼミがひとまず終了となった。
貴重な体験ができました。ありがとうございました。

そしてもうすぐ僕の東大教養学部時代も終わるのである。
この二年、なかなか楽しませてくれた。東大ナイスプレイ、といったところである。

教養ってなんだろう。
それはとりあえず、「なるべくいろんな人と話題を持てるようになること」といえる。

誰と話すときでも、自分とその人が共通して持っている知識がなければ会話ができない。
好きな歌手、好きな本、好きな町、そういったものをきっかけに話ができる。

さらに、「これ、ビートルズっぽくない?」とか、「イカ東のイデアってなんだろうね?」とかいったぐあいに、共通の知識があることによって、使える言葉も増えるのである。

どんな教養を身につけたいか、という問題は、どんな人と話がしたいか、という問題と直結する。

教養といって、読書と古典芸術しか思いつかないようなやつは、結局自分と似たような人間ばかりとなれあって生きていくことになる。

新書すら読まないような人たちとも会話したかったら、ポピュラーな音楽とか、うまい食い物とか、漫画とか、そういったものになるべく多く触れておいたほうがよい。それも、立派な教養なのである。

ところで、タバコという教養は今危機にさらされている。
近年の禁煙ブームの中で、タバコを知ろうともしないことがあたかも賢明な態度であるかのような風潮がある。まことによろしくない。
インテリのみなさんにもわかりやすいように例えれば、若者が古典を読まなくなっていることの危機とまったく同じなのである。
あの、ニコチンが欠乏したときの理性と本能の間にあるエロスは他ではなかなか体験できない。それに、タバコを知らずして、村上春樹の文学について論じるなどちゃんちゃらおかしいのではないか?

ちなみに僕は春樹の文学は全然わからない。

教養学部生でいられるのもあとわずか。
僕は立派な教養人になるために、漫画を読んだり、カラオケに行ったり、おいしいものを食べたり、お酒を飲んだり、女の子にちょっかいを出したり、といったストイックな勉学に励む所存である。

リンダリンダ

ブルーハーツの詩はすごい。
聴くたびに泣いてしまいそうなくらいすごい。

高尚な芸術とはかけ離れた、凡人に向けてのメッセージである。
ちっぽけで不器用だが、純粋で美しい人間を力強くうたっている。

「リンダリンダ」より

「愛じゃなくても 恋じゃなくても
君をはなしはしない
けして負けない 強い力を
僕はひとつだけ持つ」

誰かを好きになったときは、これは「愛」なのか、「恋」なのか、と考え始めてしまうが、そう考え始めていることそのものが、その時点で愛なのである。

言葉は分解するとエッセンスを失う。

これは「愛」か、「恋」か。
では「愛」の定義とは何か。
損得勘定を完全に廃した純粋な欲求が愛か。
それは無意識の損得勘定や性欲とどう区別するか・・・・

このようにして、言葉を「分析」(どんどん細かく切り分けて、調べる)しはじめると、その言葉のもつ意味がどんどんわからなくなる。

それは、フルーツをを限りなく細かく刻んでしまうと、そのジュースがみなこぼれ出ていってしまう、というのに似ている。

愛じゃなくても 恋じゃなくても 君をはなしはしない、

きっとそれが「愛」なのだ!

工場野菜

NHKの番組で工場栽培野菜が取り上げられていた。
畑ではなく、工場の中で、野菜が栽培される。

太陽光の代わりに機械照明で光合成をさせ、水分と養分を混ぜ合わせた溶液に浸して水生栽培する。温度や二酸化炭素量は徹底管理されており、早ければ1か月ほどで野菜が育つという。もちろん、季節なんて関係ない。一年じゅう栽培できる。場所も関係ない。雪国でも、砂漠でも、お店の中でも、トラックの中でだって野菜ができる。

気味が悪い、などといってもしょうがない。新しいものには、反感はつきものである。

それに、僕には「そんなものやめてしまえ!」といえるだけの批判材料はない。

だが、少なくとも、土で育った野菜を食べなくなってしまうことだけは避けるべきだと思う。
工場野菜を少しくらい食べても問題ないと思うが、週7日のうち6日ぐらいは、土で育った野菜を食べたい。

なぜか。
それは、土で育った野菜を食べることで、体に「カオス」を取り込むことができるからである。

自然は、本来カオスである。つまり、わけがわからない。ぐちゃぐちゃである。
昨日はおいしそうだったおにぎりが、気がつくと変なにおいがしてねばねばしていたり。
船を浮かべて旅に出ようとしても、すぐに水が漏れたり、しけにあったり。
ちゃんと除草剤をまいたはずなのに必ずちっちゃい草ははえてきたり。
自然は、人間の思い通りに運ばない。いったいどんな法則によって動いているのか、そもそも法則なんてあるのかさえ、まだまだわからない。

そんなカオスな自然に対して、人間は何とか法則性を見つけようとしてきた。
さっき、手にもっていたコーヒーカップを放したら、床に落ちて割れた。
今、机の上にあったコーヒーカップを誤って肘で引っ掛けて机から落として、また割れた。

「もしかしたら、コーヒーカップは支えを失うと上から下に移動するものなのか?」

と思った時、座っていた椅子が突然壊れ、今度は自分が床に落ちて尻もちをついた。

「おれの体も落ちた。上から下へ移動するのはコーヒーカップだけではなく、この世にあるものすべてがそうなのか?」

次の日、大きな発見がなされた。どうやら地球は丸いらしい。

「地球の裏側のものは、下から上に動いていることになる。では、この世にあるものすべてが、上から下へではなく、地球の中心へ向かって移動するものなのか?」

このように人間は科学を発展させてきた。科学は、常に壮大な仮説の域を出ていないのである。

科学を否定するつもりはない。我々は科学によってとりあえず恩恵を受けることができるからである。だが、自然はまだまだ未知である。

レタスの培養液の中には、どんな成分が入っているのであろうか。それは人間が、「おそらくレタスにとって必要だろう」と予想した成分であって、見落としがないとも限らない。もしかしたら、土育ちのレタスには含まれていた決定的な栄養素を欠いたレタスが生産され消費されているかもしれないのである。

人類が自然の中に見出した法則性を信じ、科学の恩恵にあずかりながらも、常にその理論体系に懐疑の目を向けることを忘れてはならない。万が一仮説が不十分であった場合に備えて、カオスな自然をなるべくカオスのまままるごと食べておいたほうが良いと思う。

いつだって、自己の理論体系の外にあるものを取り入れ続けなければ、大変なことになるのである。栄養学の最先端の知識を持つ教授だって、サプリメントと純水のみで生活したら絶対とんでもないことになる。

カオスに触れ続けることは、どんな場面においてもj重要である。

人づきあい

他人に対する真心とは何か、最近よく考える。

特に、自分が持っていた、まちがった「やさしさ」について。

極力相手を傷つけないことを最優先することは、本当のやさしさではない。
それはやさしさによく似た、非人間的な態度である。

たとえば、相手が約束の時間に遅れてもおこらないこと。相手に申し訳ないという気持ちを起こさせてしまうことを避けるやさしさだ。

たとえば、相手に甘えないこと。自分がどんなに自己嫌悪に陥っていようとも、「どうせおれなんか!」とすねてみたり、「どうにかしてくれ!」と理不尽な要求をしないこと。相手が対応に困るような事態を避けようとするやさしさだ。

たとえば、相手の生き方、考え方に対して意義を唱えないこと。「彼は彼の生き方があるから」「人それぞれ自由だから」といって、干渉することを避ける。

このようなあり方は、相手の「自由」を最大化するが、人間的ではない。
相手に対して何の働きかけもせず、泳がせる行為である。
例えて言えば、相手を鬼ごっこの鬼のように扱うことである。極力接触を避け、個々人の世界を断絶する。

人間は「人」の「間」にあってこそ人間らしいのであって、接触を繰り返すことによって互いの中に人格を感じ、温かみのある関係を保っているのだと思う。
甘え合い、迷惑を掛け合うような関係でも、そこには相手を機械ではなく人間だと確認できる呼応関係がある。

だから、恋人に「ひかれる」心配ばかりしている人が「愛」などと口にするのは、ちゃんちゃらおかしいと思う。

二十歳を過ぎた今、やっとそのようなことに気付き始めた。

音楽と詩

椎名林檎の「すべりだい」はいい詩だ。別れの時に感じる、どうにも抗うことのできない「流れ」に対する無力感と、むなしさとが生々しく伝わってくる。

いままで、この曲については、音楽のすごさを感じてはいたものの、詩については何となく雰囲気だけで聞き流していた。だがある日歌詞について細部を吟味し、全体として表わそうとしていることは何なのか考えてみた。すると不思議な感動を伴ってこの歌詞の素晴らしさが、ちょっと、わかった。

その時までは、詩は考えるものではなく感じるものなのだから、なにも構えずにボーッと聴くのがよい聴き方と思っていた。だが、言葉をかみしめながらじっくり考えることで、その良さが分かることもある。

僕の好きな歌の中には、歌詞にひかれる歌と、メロディーやコード進行、リズムといった音楽的な部分にひかれる歌、の二種類がある。時に両方を兼ね備えたものに出会うが、そうでなくても、どちらかを備えた歌であれば満足してしまう。

そもそも音楽と詩はなぜくっついているのだろう。

確かに、人の声を加えないインストゥルメンタルな音楽もあれば、音楽を伴わない詩もある。

だが、音楽と詩の結びつきは古くからユニバーサルに存在する。きっとなにか本質的なつながりがあるのだろう。

ところで、椎名林檎の詩の魅力は、「距離」にあると思う。

言葉と言葉の間のつながりが不明瞭、すなわち「距離がある」のである。

「すべりだい」の一番の歌詞は以下のとおりである。

あなたが八度七分の声を使うときは

必ず私に後ろめたいことがあるとき

汗ばんだって恥じらったって

理由もなく触れたがったりした

凍えたって甘えたって

只の刹那に変わった二人

その時すべて流れ落ちた

冷たい秋はたった二度目でも

砂場の砂も気持ちも全部

二人の手で滑り落とした

はじめの二行で「あなた」の行動について述べているが、それ以降、ここで述べたことには言及しておらず、その言葉から演繹は続かない。

だれが汗ばんだのか、だれが恥じらったのか、誰が何に触れたがったのかについては言葉がない。したがって、「触れたがった」ことが、どこにどんな影響を及ぼしているのかも語っていない。

言葉が、前提としても、結論としても、例示としても、主張としても地位を獲得しないまま、ただただ聴く者の内部にストックされていく。

このように互いに距離のある言葉を投げかけていくことによって、その行間にあるものをぼんやりと浮き上がらせ、言語化できないものを言語によって表現しているのである。

ちなみに、この曲は椎名林檎の詩の中では比較的「距離」のない方である。

まだまだ僕には林檎詩はよくわからない。

慰めへの壁

今年の駒場祭で立花ゼミのプロジェクトのテーマは「壁」。一本ぐらい「壁」に関連した文章を書いてみよう。 悩んでいるとき、どうするか。 外に出て気分転換する。 人に話してすっきりする。 「心の風邪」なので薬で治療する。 酒を飲んで忘れる。 いろいろあるが、そのような「元気になる」手段になかなか踏み切れない時がある。そこには一つの「壁」があるのである。 彼女ができない、勉強がうまくいかない、そういった悩みならましだ。壁はない。 彼女を作るために努力すればいい。勉強法を考え直せばいい。そして、それらをうまくやるために、たまには「元気になる」手段に踏み切れば良い。うじうじしてたらもてない。考えてる暇があったら勉強したほうが良い。 最も深刻な悩みは、自己嫌悪だ。自分はだめだ、自分なんかいないほうがいいんじゃないか、自分を好きな人間なんて一人もいないんじゃないか、そう考えてしまい、深い深い洞窟に入っていってしまう。 自己嫌悪に悩むときほど、「元気なる」手段に踏み切りにくくなるときはない。 なぜか。 元気になんかなってしまったら、このみじめな自分がのうのうと生き続けてしまう。自らの醜い姿に気付かず、またわけもわからず楽しく生き始めてしまう。 例えれば、鏡を磨いて磨いてぼんやりと自分の姿が見えはじめ、その自分の姿にがく然としかけた時に、鏡を壊してしまうようなものである。 または真実を求めて悩みの洞窟をさまよいつづけているときに、洞窟の入口まで無理やり引き戻されるようなものだ。本当に求めているのは、向こう側へ通じる出口なのに。 だから、 「元気出せよ、飲んで忘れようぜ!」とか 「心の病は誰にでもあります。それは病気なんだから、風邪と同じで治療できるものです。だから恥ずかしがらずに医師に相談しましょう」とか そういったことを素直に受け入れるのは難しい。 自己を嫌悪しているからこそ、自己を救済する気になれないのである。 そういうとき、どうすればいいか。 今のところ僕が最も良い方法だと思っているのは、「書く」ことである。 ノートを買ってきて、自分の考えを「書く」。それは、鏡を壊すことでもなければ、洞くつの入り口に戻ることでもない。 自分自身と向き合い、本気で考えるのである。 「書く」と、悩んでいるときの思考がいかに飛躍に満ちたものかが見えてくる。 文字に起こすと論理が明確になる。現実的に考えるとある程度の論理の飛躍は避けられないが、悩んでいるときの思考は、さらに飛躍に満ちている。 書いたところで、とうてい洞窟の出口になどたどり着くことはできないのだが、少しの慰めにはなる。
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太宰のせんべい

今年は太宰治生誕100周年。 青森では「生まれて墨ませんべい」とかいう代物が売り出されているらしい。青森の特産品であるイカと、太宰治を同時に宣伝して経済効果をあげる、という大変能天気なコンセプトのもとに作られたのだろう。 僕は、「生れて、すみません」という言葉が太宰の死ぬ前に最後に残した言葉だと思い込んでいたので、とても腹が立った。自殺者の最後に残した言葉をそんな風にもてあそぶのは許せないと思った。 調べたところ、「生れて、すみません」という言葉は遺書にあった言葉ではなく、自殺を遂げるはるか前に書いた「二十世紀旗手」という作品の副題だった。 とはいえ、やはり「生れて、すみません」という言葉はせんべいにしていいような言葉ではあるはずがない。 僕は太宰治が好きだ。 太宰治の作品の中で、まともに読んだのなんて「人間失格」だけだ。「走れメロス」すら読んでない。 でも「人間失格」は大好きだ。だから太宰治も大好きだ、と堂々といいたい。 自殺について語りたい。 わけもわからず楽しく生きることができている人は、ここより下は見ないでほしい。 そもそも僕などが自殺について語る資格があるのか、とは思う。なんだかんだいって僕は自殺したことがないから、本当に自殺に至ってしまう心理を理解することは絶対に不可能だ。わかったときは死ぬ時だ。 そう考えれば、この世で本当に自殺について語ることのできる人など一人もいないだろう。(自殺未遂をした人には資格はあるかもしれない。) だからこそ、僕は僕の語れる範囲で語りたい。単なる一つのサンプルとして。 自殺したら、世界すべてがなくなると思う。 この手も、この目の前の壁も、天井も、東京も、家族も、友人も、社会も、昔の恋人も、みな消えてなくなる。世界との交流の一切を失う。 それなのに、やはり遺書を残したいと思う。他人になるべく迷惑をかけない形で死にたいと思う。ぶざまでない形で死にたいと思う。不思議なものだ。心のどこかで、自分が死んだあとも世界が続いていくだろうと思っている。自分は二度とその世界へは戻ってこれないにもかかわらず、その世界に何かを残そうとする。 残したいのは、金では買えない何かである。 よくわからないが、自分が生きていた「意味」のようなものだと思う。 そのように考える者に対して、生き残った者たちが最もしてはならないこと、それは、その死を「要約」することだ。 「あいつは友達が少なかったから死んだ」 「あいつは高校の頃はできてたんだが、大学へ入ってから初めて挫折を経験した。だから死んだ」 「あいつは恋人に振られたから死んだ」 このようなことは言ってほしくない。その人の死を、聞こえの良いフレーズに当てはめて片付けている。 死んでしまった人がどのような考えを経てその行為に至ったのかを、完全に知るすべはない。「人間失格」を全部読んでも、それは部分的にしかわからない。 だからこそ、答えを出さないでほしい。その人に対する記憶をすべて捨てずに持ち続けてほしい。そして考えてほしい。 僕は少なくとも太宰の死を要約しない。 自殺について考えてみたが、まだまだわからないことだらけだ。 中途半端な文章を書いてしまった。また書こう。

欠乏

時々、漠然とした欠乏感を覚える。
あるいは「もや」がかかったような感じ、とも言える。
運動が足りないのか?ビタミンか、カルシウムか、睡眠か、異性か、カフェインか、アルコールか、ニコチンか、人との会話か・・・
自分の体が何を欲しているのかはよくわからない。
僕には僕の体のことしかわからないが、僕の体に関して言えば、欲望なんてものは実はあいまいなものである気がする。本能なんだから、頭で考えてもわからないのは当然かもしれない。
腹が減ったときは、わかるときもある。腹部に感覚を覚える。だが確実なのはあくまで物理的な感覚だけだ。「欲望」の存在は確信できない。
「そろそろ飯の時間だな」という判断で食べる、つまり理性が先行する時も多い。また、飯を食うのを我慢しすぎてあるピークを過ぎると、じぶんが腹が減っているのかどうかよくわからなくなったりする。確実に栄養は欠乏している場合でも、「空腹」は常に感覚として感じられるわけではないのだ。
ところで、満腹中枢というやつは食事後しばらく経たないと満たされない、という話を聞いたことがある。少なくとも「食べたら腹がいっぱいになった」という感覚は思い込みである、ということだ。
眠い時もそうだ。夜12時になると必ず眠くなるとは限らない。多くの場合、理性で判断して寝る。そしてある程度眠気を我慢すると、かえって自分が眠いのかどうかわからなくなる。(朝、寝続けたいという欲求だけは確信できるが。)
ましてや、「自分の人生どうしたいか」「どのように生きたいか」などと聞かれたって、「別になにも思いつかない」としか答えようがない。
「人間失格」の主人公の葉蔵は、幼少期のころ「『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかった」と描かれている。僕は「人間失格」のこのあたりが一番好きである。
おなかが空いたから、食べて、それで幸せになれる、そういう「正常」な人間に、自分はなれないのか。自分はこちら側の世界で生きることしかできなのか。
そういったことをこの作品は語っている気がする。
自分の「欲望」を確信している人たちからすれば奇異に見えるだろうが、人間のありかたは、多様である。
時々、漠然とした欠乏感を覚える。 あるいは「もや」がかかったような感じ、とも言える。 運動が足りないのか?ビタミンか、カルシウムか、睡眠か、異性か、カフェインか、アルコールか、ニコチンか、人との会話か・・・ 自分の体が何を欲しているのかはよくわからない。 僕には僕の体のことしかわからないが、僕の体に関して言えば、欲望なんてものは実はあいまいなものである気がする。本能なんだから、頭で考えてもわからないのは当然かもしれない。 腹が減ったときは、わかるときもある。腹部に感覚を覚える。だが確実なのはあくまで物理的な感覚だけだ。「欲望」の存在は確信できない。 「そろそろ飯の時間だな」という判断で食べる、つまり理性が先行する時も多い。また、飯を食うのを我慢しすぎてあるピークを過ぎると、じぶんが腹が減っているのかどうかよくわからなくなったりする。確実に栄養は欠乏している場合でも、「空腹」は常に感覚として感じられるわけではないのだ。 ところで、満腹中枢というやつは食事後しばらく経たないと満たされない、という話を聞いたことがある。少なくとも「食べたら腹がいっぱいになった」という感覚は思い込みである、ということだ。 眠い時もそうだ。夜12時になると必ず眠くなるとは限らない。多くの場合、理性で判断して寝る。そしてある程度眠気を我慢すると、かえって自分が眠いのかどうかわからなくなる。(朝、寝続けたいという欲求だけは確信できるが。) ましてや、「自分の人生どうしたいか」「どのように生きたいか」などと聞かれたって、「別になにも思いつかない」としか答えようがない。 「人間失格」の主人公の葉蔵は、幼少期のころ「『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかった」と描かれている。僕は「人間失格」のこのあたりが一番好きである。 おなかが空いたから、食べて、それで幸せになれる、そういう「正常」な人間に、自分はなれないのか。自分はこちら側の世界で生きることしかできなのか。 そういったことをこの作品は語っている気がする。 自分の「欲望」を確信している人たちからすれば奇異に見えるだろうが、人間のありかたは、多様である。