愚の痕跡

Just another KENBUNDEN weblog

裸の王様NEO

むかしむかし、ある所に、大変教養のある王様がいました。

王様は年に200冊を超える本をひも解く多読家として知られ、その知識量は王国随一という評判でした。

 

ある時、王様は家来に、パレードで着るための服を新調するよう命じました。命令を受けた家来は、王様の体の寸法を測り、王国で最も注目されているデザイナーに委託しました。

 

二ヶ月後、デザイナーが王様のもとに、新しく出来上がった服を持って現れました。

 

 

 

 

 

デザイナーは言いました。

「王様、お待たせしました。パレード用の新しい服がやっと完成いたしました。教養深い王様のことですから、美学に関しても大変お詳しいと存じ上げます。今回のこの衣装も現代美学・哲学の最先端の理論の恩恵を受けて生まれたものでございます。クロード・サモンによる現実光学主義の観点を取り入れた配色と、ジョン・ケイルズの形態美学を弁証法的に結合させた新たな美学が、今回の作品の基調となっております。」

 

王様は満足そうに言いました。

「なるほどねー、サモンをこういう風に解釈するっていうのは新しいね。ケイルズの言っていた『シリウス的表象』が、このクツのあたりに表れているのかな?いやー、ほんとにびっくりさせられるぐらい意外な組み合わせっていうか。こう来たか!って感じだよー。いいと思うよー。」

 

 

隣で見ていた大臣はその服の美しさを全く理解できませんでした。彼は心の中でこうつぶやいていました。

「うわー、サモンもケイルズもしらねー。王様の教養すげー。おれにはまだまだこの服のよさはわかんねーな。きっと教養が足りないからだな。おれももっと勉強しないとな。」

 

 

さて、パレードの当日。王様は大通りの中央を、自慢の服をまとって歩いていきます。大人たちはみな、王様の着ている服を見て驚きました。

「きれいだわ―。」

「きれいねー。」

「難解だわ―。私にはちょっとハードルが高いかも。」

「何でも美学の最先端の理論で美しいとされているものらしいわ。王様はその理論をきちんと理解してらっしゃるみたい。やっぱり教養ある方だわ―。」

 

 

母親に手をひかれてパレードを観にきていた一人の子供がいました。その子が大きな声を出しました。

「ママ―、王様は何であんなダサい服着ているのー?」

大人たちは大笑い。

「まあ可愛い子ね!まだちょっと子供にはわからないわよね!」

 

 

パレードの中に二人の大学生がいました。

「実際、あれ、きれいなんかな?」

「え、あんた知らないの?あれをデザインしたのは王国で一番有名なデザイナーで、クロード・サモンとジョン・ケイルズの理論に基づいて作られたもんなのよ?」

「いやー、それはそうなんだけど、俺にはイマイチきれいと思えなくて。」

「てか、それあんたの教養が足りないだけっしょ。ひとまずサモンかケイルズ読んでから言えば?」

「教養がなきゃ美しいと思えないもんなの?そもそも美しいってどういうことかよくわかんなくなるんだけど・・・」

「はは、そうなんだぁ~。(うわーなんか哲学し始めちゃったんですけどこの人。マジひくんですけど。だれか助けてー。)」

 

 

教養のある人たちは、いろいろな学説とあの服との関係について、一生懸命しゃべっていました。

おばさんたちは、基本的に「きれいだわー」ばっかり言っていました。

まじめな大学生たちは、もっと勉強しなきゃな、と思いました。

ふまじめな大学生たちは、お酒を飲んで騒いでいました。

 

 

王様は無事最後までパレードを歩いて行きました。

 

こうして、王様はいつまでも市民の尊敬を集め、その発言は注目され続けましたとさ。

 

紀伊国屋と、海

海の深さと広さは、怖い。
海水は透明なはずなのに、海中では遠くなるほど暗く暗く曇ってゆき、見えなくなる。 はるか遠くの闇のような、闇でないようなところから、ぬっと何かが姿を現すかもしれない。 その姿も、見えるような、見えないような、輪郭のような、影のようなもので、徐々にこちらに近づいてくるごとにかたちを得て、色を得てくる。

海中における遥か彼方のあり様は、まさに深淵という言葉がぴったりくる感じだ。
海抜700メートルで育った、海に慣れない僕には、それが何ともいえず怖かった。



TSUTAYAにCDを返すついでに、新宿の紀伊国屋書店に行ってきた。

紀伊国屋は、楽しい。

情報という情報があふれている。タダでいくらでもつまみ食いできる。

料理雑誌を眺める。気になった新書の目次をぱらぱら。軽薄っぽいハウツー本は立ち読みだけでおいしい部分を読む。
高くて買えないし理解もできない難解な哲学書にべたべたさわるのもまたオツだ。


楽しいのだが、ふと悲しくなる。

僕はこの膨大な知の海の、本当に一部しか知ることができないのだ。一部なんてもんじゃない。読書が苦手な僕には、世界の海の中の、海水浴場一つ分がいいとこだろう。

僕には民主党の何がいけないのかわからない。政治について一言も意見を持てないようだと、なんだかかっこ悪い気がするが、民主党の政策が正しいのか、間違っているのか、どんな文脈で行われていて、どんな人の利益になっていて・・ということを考えるためには、政界の動きとか、沖縄の歴史とか、国際情勢とか、最先端科学とかを知らなければいけない。文学も哲学も読みたい中でそんなに、そんなに読めるか?
その上、みんな口をそろえて、「情報を鵜呑みにするな」ときたもんだ。ぼくは一つの情報を鵜呑みにすることすらできてないのに・・・


と、無力感に陥るが、それは、自分が持っていないものにばかり目が行く人間の悪い癖である。

自分が持っているものにちゃんと目を向けよう。

少なくとも、いくつかの素晴らしい考えや人に触れてきたし、それらをじっくり消化して、自分の中に沈殿させてきた。数は少ないが、それは僕の考え方を根本から変えてくれるものだった。今、自分の中にある知恵は、体によくなじんで、まるで良く履きならしたスニーカーのごとく、愛着の湧くものだ。

みなさんもぜひ、自分のスニーカーを大事にしてやってください。

ガキのすることでした。

ずっと良い子で育ってきた。

だから、叱られる経験は、人より少なかったと思う。

それだけに、一つ一つが心の底に深く刻み込まれている。

高校二年生の時、サイエンスフォーラムを無断欠席した。

僕の高校はSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定されており、全校向けに、あるいは希望者対象に、なかなか面白い科学の講演が行われた。ちっちゃなロボットを作ってる人や、光ファイバーを開発している人が来た。

僕は高校物理も知らない文系の生徒だったが、興味を持ってときたま参加した。

当日、生徒会の用事が入って出られなくなった。参加希望を出していたが、特に支障もきたすまいと、なにも言わず欠席した。

後日、担当をしていた理科の先生から呼び出しをくらって、お叱りをいただいた。

「それはガキのすることやないか」

悪かったとは思ったが、戸惑いもあった。ちょっと意味がよくわからなかった。
そんなに悪いことしたか?と思った。

あれから4年、今となっては先生の言葉の意味がよくわかる。

確かに、ガキだった。

「行きます」と言っておいて行かなかった僕に、担当者はどんな感情を抱いただろう。

たとえば、同じマンションに住んでいる住人とすれ違った時に、「こんにちは」も言わず、無視したら、相手はどんな感情を抱くだろう。
あやしいやつ、と思うだろうし、その人を何かの時に助けてあげようとも思わないだろう。

「べつにマンションの住人に助けてもらうつもりなんかない」

その考え方がガキなのだ。

ガキは守られて生きている。
家に帰ればご飯が出てくる。お金を出せば物が買える。点数を取れば大学に入れる。
ガキにとっては全てが機械のスイッチみたいなものだ。
スイッチを押せば欲しいものがでてくると思っているのである。

社会は、そんなもんじゃない。

社会は人と人とが作るものだ。
何をするにも、まず人と会わなければならない。人と会って、互いに信頼を築き、協力し合うのが社会だ。
互いを「人間」としてみとめ合っているからこそ社会が成り立つのである。

飲食店で飯を食って、黙って出ていくやつはガキだ。
金を払えば飯が出てくる、と思っているのだ。
「ごちそうさま」の一言があって初めて、飲食店は人が人をもてなす場となるのだ。
店員さんも、働いた甲斐があるというものだ。
黙って店を出てしまった時点で、その関係は調理機械と消費機械の接続になり下がる。

僕は講演会に行けない理由を「説明」するべきだった。
「用事があって行けなくなりました。」
この一言があるだけで、ずいぶん違っただろう。
用事があるなら、それはしかたない、私でもそう考えるだろう、と相手は納得する。
僕は人間としての信用を保てたのだろう。

信用を保つことなどに全く気を配っていなかった僕は、まだまだ守られた環境しか知らない「ガキ」だったのだ。

イグチ先生、ありがとうございました。

タバコと、「オスの美学」

タバコは、かっこいい

やはり、そう思う。

タバコを吸い始める人の動機の大半が「かっこつけ」であると思ってしまうくらいだ。

だがタバコを吸うことが無条件にかっこいいとは思わない。

喫煙所に大勢集まってタバコを吸っているスーツの集団はかっこよくない

しょぼくれたおっさんが歩きながらタバコを吸っているのはかっこよくない

黒の革ジャンを着て無精ひげを生やしたワイルドな男がバイクに乗りながらタバコを吸っているのはかっこいい

オックスフォードシャツを粋に着こなした男が難解な哲学書片手にタバコを吸っているのはかっこいい

なぜだろう。

金がかかる、依存する、口が臭くなる、寿命が縮む、といった 現世的価値を並べ立ててタバコを否定する健康主義はかっこよくない。

これは確かだ。
不健康であるからこそかっこいい。

おそらく、タバコをかっこよく吸えるのは、もともとかっこいい男だ
かっこいい男がタバコを吸うからこそかっこ良い。
かっこ悪い男がタバコを吸ったところで、かっこよくはならない。

そして、タバコは、かっこいい男をよりかっこよくするとおもう。

なぜだろう。

タバコが体にいいものだったら、絶対このかっこよさは生まれなかっただろう。
かっこいい男があえて自らの生を縮めようとする、そのスタンスがかっこいい気がする。

男は、否、オスは、本来刹那的な存在である。

生物の群れの中ではメスと違ってその価値は有限だ。
メスは、基本的に価値がある。子供を産むという神聖な能力を持つからだ。
メスが一頭いなくなったら、群れはかなり確実な損をこうむる。
群れとしての増殖能力が確実に減少する。
だが、オスが一頭いなくなろうとなるまいと、群れにとってさほど影響はない
オスは、何らかの能力を発揮する限りにおいて、そして価値ある遺伝子や遺産を残す限りにおいて群れに貢献するのである。男の自殺率が高いのも、このことの反映ではなかろうか。
オスの価値は有限だ。

それは逆にいえば、オスらしく生きるということである。

長生きはオスらしくない。
刹那的に生きることにオスの美学があるのではないか。
華々しく散る美徳は、いつも男性の戦闘者によって担われてきた。
それはある意味ではみじめな生であるともいえるような、美学である。

あえて自らの寿命を縮める行為としてのタバコは、そのオスの美学と通じるものが、きっとある。

おしゃれと人間愛

おしゃれとは、他者の目を媒介にしたナルシズムである。

おしゃれとは、他者を快適にさせるような容貌そのものではない。
「他人からよく見られたい」という切なる願いを持ち、その願いを容貌において実現させようとしている、その姿勢が「おしゃれ」の本質なのである。

世の中にいわゆる「ださい」人はいっぱいいる。

だが、あえて「ださい」恰好をするという「おしゃれ」も存在するのだ。
(もちろん、「ハズし」といわれる、ファッション上級者が用いるテクニックのことをいっているのではない。)

みなさんは中学生の時、世間の価値観にただひたすらに対抗しようとした時期がなかっただろうか?
高給職、アイドル、流行、そういったものに「流されない」というキャッチコピーは、未熟な人間にはいつの時代も魅力的だ。彼らは流行に「あえて乗らない」ことで、「流されない」自分を演出し、自己陶酔する。これはとくに小中学生男子によくみられる現象だ。(男というのは、大人になっても、愚かな自己陶酔にひたりがちである気がする。)
かれらは、「流行に流されていない」というメッセージを発することで、他者から「かっこいい」と思われることを期待するのである。それはある意味で、容貌を媒介として自分をよく見せたい、たいへん「おしゃれ」な姿勢なのである。

ださくなってしまう原因は、他者の視点というものを正確にとらえられていないことである。「おれは彼女がおれのことをかっこいいと思うはずだと思っているが、本当は彼女はおれのことをかっこいいとは思っていない」という感じだ。

だが、ここで「ダサくなくなる方法」について語るつもりはない。
なぜなら、他者の視点は多様だからだ。
おしゃれの最高峰に位置する雑誌モデルや芸能人たちも、ださ中学生にとっては「ださい」のである。

大切なのは「おしゃれ」な人たちはみな、他者の存在を強く認識しているという点だ。 他者が存在し、自分と同じような心を持って、ひとりの人間として生きているということを強く信じている。
千万光年のかなたにいるはずの他者へ、彼らは求愛しているのだ。
そして、求愛は、それ自体一つの愛情表現である。

そう思って世界に目を向ければ、

不自然に眉のつりあがった、顔中粉だらけのおばさんも、
異様にでかくて太いズボンをはいた怖いお兄さんも、
タイツみたいにぴったりしたジーンズと、道化師のようなとんがった靴をはいたホストも、

みんな、なんだか愛らしい、ほほえましい存在に見えてはこないだろうか。

自分の頭で余白を泳げ

先週、宇宙からメッセージが舞い降りた。

「本は遅く読むべし。」

 

論理は、浅瀬に打ち込まれた杭のようなものだ。自分で板をかけてはじめて、向こう岸への橋が完成する。

あるいは、目的地にたどり着く方法を書いたメモのようなものといってもよい。

「駅の南口を出て、郵便局の奥の道を入り、わかれ道を右に曲がって、左手に見える青い建物」

その途中にある一歩一歩の歩みは読者にかかっている。

 

「軍部が暴走した。だからWW2は始まった。」

「むしゃくしゃした。だから殺した。」

「われ思う、ゆえにわれあり」

この「だから」「ゆえに」には必然性など全く存在しない。軍部が暴走したって誰かが止めていたら戦争など起こらない。むしゃくしゃしたからって、君たちは人を殺すか?そんな心理現象を自らのうちで体験したことがあるのか?

杭と杭との間には必ず隙間が存在する。それはどんなに杭を打ち足しても同じだ。

「むしゃくしゃした。だから殺害意欲がわいた。だから殺した。」

杭と杭の間を埋めるのは、体験と熟考によって生み出される確信である。杭から杭へと板を渡すには、自分の力で泳がなければならない。川底に足はつかない。

それが哲学である。

「われ思う、ゆえにわれあり」

杭だけ暗記して唱えるのは簡単だ。しかし本当に理解しようと思ったら思考の両腕を一生懸命動かしてクロールしなければならないのだ。

 

ひたすらに杭をうちこみまくる速読競争に少し疲れた。

いまは自由にクロールで泳ぎまくる日々を謳歌している。

それにしても、ニーチェ先生の杭の間隔は、遠い・・・

本人いわく

「山脈の中では最短の道は山頂から山頂へと渡ることである。が、そのためには君は長い足を持たねばならぬ。寸鉄の言とはそういう山頂でなければならぬ。」・・・「ツァラトゥストラ」より

贅沢は味方 Part2

50mlの中に、官能と、誘惑と、謎がある。

ウイスキー「山崎」なんて、貧乏学生の僕にはなかなか手が出ない。
でも今日はどうしてもウイスキーを、しかもちゃんとしたうまいやつを飲みたかったから、 50mlの小瓶を買ってしまった。これなら700円くらい。一晩楽しむには十分だ。

小さなグラスに浅く注いで、くるくるゆすってもてあそぶと、
香りがグラスのふちから漏れだしてくる。
かいでは、しばらく楽しむ。
甘い、アルコールの香りなのだが、どこか穀物っぽい、香ばしく焼いたパンを思わせるようなにおいがウイスキーにはあって、僕はそれがたまらなく好きだ。
一口含んで口の中でよく味わう。
甘いような、苦いような。古びているような、生き生きとしているような。

この味が、だれでも魅了するとは思わない。
今の僕には「おいしい」の定義すらもあいまいだ。

けれども、今日のウイスキーはいろんなことをほのめかし、感じさせ、考えさせ、楽しませてくれた。それで満足だ。

この、主観的なところがよいのである。

「贅沢するにはきっと財布だけじゃ足りないね
だって麗しいのはザラにないの
洗脳(わな)にご注意」

お金だけじゃなかなか贅沢はできない。
値段がつくものは、客観的に価値のあるとされているものなのだが、それだけではやはりだめだ。なぜなら、先ほども言ったように、本当に贅沢するためには、主観的に、対象に意味を見出していかなければならないからだ。だから、某有名ブランドの服を買い求めるだけでは、美しいものには出会えないのである。

「ご覧 ほらねわざと逢えたんだ
季節を使い捨て 生きていこう
夜も 秋も 盗めないよ
貴方は私の一生もの」

使い捨ては、気持のよいものだ。
それは、所有への執着から解放されるからである。
季節は所有できるものではない。
贅沢な料理のように、それを楽しめるのは一回限りで、必ず終わりがくる。
終わりがあることを悲しまず、さわやかに別れを告げて、颯爽と生きていく美しさがうかがえる。

一生もの、という言い回しも素晴らしいと思う。
「もの」などと呼んでしまうのは、人格の冒とくであろう。
しかし、ここではただの「もの」ではない。「一生もの」なのである。
高級な万年筆、財布、靴などで、生涯の伴侶とすることのできるほどに良質なものを、「一生もの」という。
そのような「一生もの」を手に入れた時、ほかの道具には感じることのない愛着を覚えることは、おそらく多くの人の経験するところであろう。
一生ものに感じる愛情、それは人に対する愛情と実は同じなのではないか、と少し思った。

使い捨ても、一生ものも、ともに贅沢である。
これらに共通する価値は何なのだろうか。

この詩全体に漂うのは、一つの爽快感に満ちた「価値観」である。
贅沢は味方、財布だけじゃ足りない、わざと逢えた、季節を使い捨て、美しいのは図れない、無駄がなけりゃ意味がない・・・
随所に現れる表現は、すべて、今の価値観への反抗であるように僕には思える。

だが、残念ながら、若くて貧乏な僕には、まだまだ本当の贅沢を知りつくしてはいない。
この歌の詩を読みこむのは、ひとまず終わりにしようと思う。

そろそろ寝よう。土曜の朝日という最高の贅沢品を味わうために!

贅沢は味方

YEBISUは、ちょっと贅沢なビール。
350ミリリットル缶一本を、ゆっくりと時間をかけて味わって飲む。
合わせるのはピーナッツがベストだが、今日はない。

贅沢についてうたった名曲について語ろうとおもう。

東京事変の「キラーチューン」である。作詞:椎名林檎 作曲:伊澤一葉

「贅沢は味方 もっとほしがります負けたって
勝ったってこの感度は揺るがないの
貧しさこそが敵」

明らかに、戦時中に日本で唱えられた標語、「贅沢は敵。欲しがりません勝つまでは」との対比である。
この有名な標語は、戦争において勝利するために、一般市民の出費を抑えようというものである。
未来における価値を優先し、現在における快楽を我慢する考え方が表れている。
確かに、一瞬の快楽にばかりとらわれていたら、いかなる目標も達成できないであろう。
だが、未来における価値のために、今を楽しむことを放棄するべきなのだろうか。

「欲しがりません、勝つまでは」と聞くと、「勝つ」という言葉がきわだって響く。

・・・今の人は「勝つ」ことにばかりこだわる。
仕事に「勝つ」、受験に「勝つ」、就職に「勝つ」・・・近頃は恋愛や結婚にも「勝つ」ものらしい。

だが、勝利によって手に入るものは、いずれも幸せそのものではない。それらは幸せの手段なのである。

受験に勝ち、就職に勝ち、仕事に勝った人にはお金が与えられる。
結婚で勝った人には安定した所帯、家族という紐帯が与えられる。
恋愛で勝つということがどういうことなのかはいまだによくわからないが、おそらく「付き合っている」という契約関係を築き、持続させることを指すのだと思う。

お金を手に入れたって、買うべきものを知らなければ宝の持ち腐れだ。
家族がいたって、愛ある関係を気付けなければしょうがない。
付き合っていたって、毎日を楽しく過ごせなきゃしょうがない。
贅沢できなきゃしょうがない。

勝つことは必要なことだ。
だが、その前に、今自分が「欲しがっ」ているもの、その「感度」を大切にしたらどうか。
今自分がしたいこと、楽しいことはなんなのか?
本当の贅沢とはなんだろうか?そう問うことが大事なのではないか。
そのことを、この歌詞は気付かせてくれる。

では、この先で歌われる贅沢とは、なんだろう・・・

思いのほか長くなったので続きは次回。
ビールが回ってもうれつに眠い。
贅沢に眠ってやろう!

脳MUSIC・脳LIFE

今まで隠していたが、僕は脳に軽い欠陥を持っている。

音楽が、鳴りやまないのだ。

いつも、一つか、二つの曲が繰り返される。
たいていは、サビの部分ばかりが延々となり続けるから、一日もたつとうんざりである。
本を読んでいても、パソコンをしていても、いつもごく小さな音で、僕の脳内では音楽がつけっぱなしだ。

だから僕の脳はいたって動きが悪い。集中力が続かないのである。

脳を作業用デスクに例えるなら、その隅っこにアリが巣を作っているようなものだ。
作業をしていると、手に登ってきたりして、気が散る。

暇なときは、いつも鼻歌を歌ってしまう。
暇でなくても歌ってしまう。
あと、鼻歌でなく普通に歌ってしまう。
湧いた音楽は、ほっておくと流れ出てくるのだ。

だが、今日はのどがつぶれて歌えない。
脳内の音楽はいよいよ行き場をなくしてあふれかえる。

「さ、よ、なら、は、じーめまして♪・・・」

ところで、同じような症状を抱えている人は、他にもいるんじゃないだろうか。
僕以外にも、脳内にアリが巣くっている人が。
アリどころか、ハエや、キリギリスや、コオロギや、もしかしたら、スズメバチや、かさぶたや、お父さんが、いるのかもしれない。

あー、からおけいきたい・・・

2月

今日から2月。一年で最も寒い時期がやってきた。

生ぬるい東京にもようやく雪が舞った。

2月と言えばバレンタインデーである。
クリスマスに次いで、世の中のカップルと、デパートと、コンビニと、そして自虐ネタを生きがいとする男たちが元気になる日である。

そろそろチョコレートを食べるのを控えようと思う。
なぜなら、今月の後半には、もうチョコレートなど見たくないと思うほどチョコレートを食べることになるであろうから、今のうちにチョコレートを絶っておいて、バランスを取ろうというわけである。

同時に、チョコレートを我慢すれば節約にもなる。
僕は節約をしなくてはならない。
なぜなら今月の後半は自分で食べるためのチョコレートを大量に購入することになるであろうから。もはやチョコボールを買えば金のエンゼルを討ち取る勢いである。

義理チョコちょこちょこ三チョコチョコ
合わせてチョコチョコ無チョコチョコ
さあ、早口言葉で言ってみよう!かえるのやつと違って全然難しくないよ!

まじめに、「義理チョコ」という名称は廃止すべきである。
「義理」といってしまうとなんだか、人間関係を保っていくための損得計算みたいではないか。
いわゆる義理チョコの中にも、会社の同僚に本当に義理で、慣習的に渡す人もあれば、純粋な、損得を度外視た気持ちで、たくさんの男にチョコを渡してくれる女の子もいるのである。

本命じゃなくたっていい。その優しさで、大多数の男子はこの日を乗り切れるのだ。そんな心やさしい女の子たちのチョコを、「義理」だなんて呼ぶのはあんまりだ。

他に名称を考えよう。

うーん・・・




「友愛チョコ」!