文学企画について

 私は現在、立花ゼミにおいて文学企画に所属している。というよりむしろ、文学企画にしか参加していない。

 

 企画の流れが本格的に「伝」の作業に入った今、この企画に参加した動機・意図などをまとめてみようと思う。

 

 今の時代の小説と、漱石や太宰の小説とを比較したとき、現代の小説はその「軽さ」が極めて目立つ。小手先だけで書いている感が否めない。その感覚が、私の中に確固としてある。

 漱石や太宰の小説を読むと、彼らが自らの人生を背負って、まさに身を削ってその小説を書いたことがしばしば伝わってくる。だからこそ、私たちは彼らの小説を深く理解しようと思ったとき、彼らの人生に関する知識を得なければならない。その小説が、彼らの人生のどの部分で書かれたものなのか。それを知ることが、小説をよりよく理解するための近道だからだ。

 しかしながら、近年の作家が生み出す作品はどうか。それらはたしかにある立場や主張を持ち、我々を感動させる。でも、「この人でないとこれは書けない」という印象はとても薄い。次々と現れる「大物新人」たちの作品は、どれもが似たようなメッセージの書かれた帯を携え、本屋の入り口近くに山積みにされている。実際にそれらを読んでみると、「帯に書かれてるのと全然違うじゃん」と感じることも多い。

 確かに、昭和の文豪たちのいわゆる「名作」を読んでも、「なにこれ」と思うことがしばしばある。しかし、ここで感じる作品に対しての一般的な評価と自分の感覚とのギャップは、現代の小説に関するそれとは明らかに質が異なるものである。厚みというか深みというか、とにかくそれらが現代の小説には足りないのではないかと思うのだ。

 現代の小説の全てがダメだと言いたいわけではない。私にも、新作が出たら必ず買って読む作家は何人もいる。だが、大正・昭和の小説と現代の小説との間には、明らかな質の違いが感じられるのだ。その違いがプラスのものなのかマイナスのものなのかはわからない。ただ、私自身としてはマイナスのものなのではないかと思っている。

 この企画を始めて、私とほぼ同じ思いを持っている人が何人もいることがわかった。山田悠介が売れる時代。『恋空』を読んで涙を流す時代。そんな時代の中で作家の人たちは、一体どんな気持ちを抱き、どんな思いをこめ、何のために小説を書いているのか。

 

 それが知りたくて、私は現在、立花ゼミにおいて文学企画に所属している。というよりむしろ、文学企画にしか参加していない。

 

2 Comments

  1. 横レス失礼します。

    んーそうでもないと思うけどな…。
    僕の好きな何人かの作家はまさに自分の人生を削って作品を書いているように思う。

    昔と今とでは小説家になるために要する覚悟が全然違うということは確かにあり、「軽い」小説の割合が増えていることで本当にすごいと思えるような作品に出会いにくくなっているのは確かかもしれない。
    どんな分野においてもそうだが、社会が豊かになるにつれ仕事に対するある種の切実さが失われていっているという印象はある。

    でも現代でも、自分の全存在を作品に刻み込むような、そういう書き方をしている小説家は確かにいると僕は思う。

    たとえば天童荒太や、柳美里などはどうだろう?

  2. 坪井 真ノ介

    パソコンの問題があったので、今頃になっての返信です・・・。

    もちろん、現代においてもそういう小説家がいることは否定していません。天童荒太なんかは僕も好きですし、まさに身を削って小説を書いている方だと認識しています。
    ただ、そのような人たちが「例外」になっているのが今の状況ではないでしょうか?
    それはつまり、多くの人たちが小説に対して求めているものが、天童さんなどが目指してらっしゃるものとは乖離しているかもしれない、ということだと思います。
    「純粋な」エンターテイメント、単なる暇つぶし、そういったものへと小説が傾いているのではないかというが僕の印象です。

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