三分間恋愛哲学・第一回 サルトル
「人はなぜ、恋愛をするのか」
人類普遍のテーマですね。私が大好きな日本の小説家・坂口安吾も、『恋愛論』というエッセイの中でこのように書いています。
「私たちの小説が、ギリシャの昔から性懲りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則が有って恋愛を割りきることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。」坂口安吾『恋愛論』
この文章では二つ、大事なことが書かれています。まず一つは、さっきも言った通り、人間にとって恋愛は普遍的なテーマであるということ。もう一つは、恋愛を巡る多くの問題には、なにか「正解」と呼べるような絶対の法則が、無いということです。だからみんな、迷うんですね……正解が無いから、迷ったり苦しんだり。人生と同じです
ここで思い出されるのが、昨年末に立花ゼミでインタビューに行った哲学者の内山節さんの言葉です。
「哲学とは現実の問題から始まり、現実の問題解決に帰るものである」(内山節 1950-)
そうなんです。哲学っていうと、みなさん、どんなイメージ持っているかわかりませんが、哲学は、遠いギリシャの昔より、生きている人が、人生における色んな問題に直面したその時その時で
「最良」の選択 ……最悪でも、「まだマシ」な選択をするための知恵
「最良」の選択を行う、例え良い選択肢が無い状況にあっても、せめて「最悪」じゃなくて「悪い」選択するための知恵、つまり、よりよく生きるための知恵でした。プラトンもカントも古くない。古かったり新しかったりするのは、それを読む私たちの「まなざし」の問題であり、古今東西の偉大な思想家や哲学者たちが遺していったテクストや思索のあしあとは、どんな時代の生きている人間にも開かれています。そう、
哲学は現実の問題を解決するためにあるのです! というわけで、人類の「知の歴史」から最高のメンバーをカウンセラーに選んだ、「最高の恋愛相談」をしましょう \(^o^)/
さて、いきなり質問です。 「今現在、好きな人はいますか?」
No、と答えた方。それは、どうしてですか?
「そもそも恋人って、作らなきゃいけないものなのか……」「勉強や趣味が充実していて、恋愛へのプライオリティが低い……」「最近失恋したばかりで、もう恋なんてしたくない……」「絶対数的に、周りに異性が少なくてチャンスがない……」「少し気になる人がいるにはいるけど、これって恋なのかなぁ……」
まあ、恋愛と聞いて少しは興味がないわけではないけど、実際問題現実になかなか好きな人がいないなあって人、結構いると思います。皆さんこのように、たぶん色々な理由がありますよね。それでも私はこう、言いたいと思います。
「皆さん、恋をしましょう」
しかし、自分には恋愛が無理だって、決めつけていませんか?
「もう済んだことと決めつけて 損したことあなたにもありませんか? (閉ざされてた扉開ける呪文Oh 今度こそあなたに聞こえるといいな)」
……と、引用したのは宇多田ヒカルのThis is Loveという曲の歌詞ですが、みなさん、このように恋愛に限らず、日頃「自分は○○だから」って決めつけて言い訳にしていること、多いと思います。例えば他にも、
「文系だから」「理系だから」「どうせ学生だから」「東大生だから」「男だから」「女だから」「小さい頃、○○だったから」「昔か××だったから」
「どうせ俺(ワタシ)はテニサー入ってないしコミュ力ないし勉強しかわかんないしつまりモテない。どうせ恋愛なんてムリだ」
こうやって、惰性や忙しさに流されて、社会システムや組織の部品の成り下がり、マスコミや多数派の意見に判断を委ねてしまい、「どうせ私は~」と合理化することを、激しく非難した哲学者がいました。ジャン・ポール・サルトルです。1905年から1980年にかけて生きたフランス人哲学者。フランス国内だけでなく、世界中の作家、芸術家、社会学者、政治活動家に大きな影響を与えたほか、「実存主義」という言葉を残したことで有名です。
サルトルは実は、生涯自分の思想に決して満足せず、後に実存主義を捨ててマルクス主義をとり、さらに結局マルクス主義を捨てました。さらにその間、膨大な著作を残したり政治活動に参加したりと、実践する哲学者として非常に真摯な熱意を持って生きた人でした。しかし今回は、やっぱり初期の中心思想である実存主義を取り上げたいと思います。
What is Existentialism ? 実存主義とは何か?
人間は実存だ、という考え自体は、あの「死に至る病」の言葉で有名な、19世紀のデンマークの哲学者・キルケゴールがつくったものです。
いま・ここに生きる・このわたし≫として、1回限りの、具体的な、個別的な生を生きる現実存在(existentia)たる自己=実存
キルケゴールはこういった人間の在り方を、キリスト教といかに折り合いをつけるかという、サルトルが抱えた問いとは全く別の問いとの戦いの中で結論づけていったのですが、サルトルはこうしたキルケゴールのアイディアを消化し改造していきました。第一次世界大戦の悲惨なヨーロッパの戦場を目にしたサルトルは、もはや神はいなくなったと考え、「実存は本質に先立つ!」「人間存在(実存)は、意味も目的も決意もなく、偶然に世界に投げ出されている。その本質(何ものか)は非決定的で、何者にもなりうる可能性であり、いまだ何者でもない」という思想を展開します。
神を失った人間は、その存在理由や目的に先立ちただ実存のみが存在していて、生きながら自らの自由によって自らの本質を作り上げなければなりません。これが「人間は自由の刑に処せられている」という、有名な言葉が意味するものです。
「人間は自由の刑に処せられている」
サルトルはこう続けます。各実存が自由に生きていくことによって社会は成立しているのだから、それぞれの人間の行為は、社会への参加を意味します。そして、もしたとえば戦争が起こったとして、自分は具体的に戦争を支持していなかったとしても、積極的に「戦争を阻止する方に行動しない」という選択をしたということは、消極的に戦争を支持したことになると考えるのです。
「人間は、自らつくるものである。自由を直視し不安に堪えて、自己を創造する自覚的な投企こそ、本来的な自己のありかたである」
「実存は本質に先立つ≒自己とは常に可変的な存在。「わたし」は形成されたものであるから、形成し直す、あるいは端的に新たに作り上げることができる」
つまり、
「オレ/私は○○だから~」という言い訳で何かを選択するのはおかしい!」
人間は、自らつくるものです。自由を直視し不安に堪えて、自己を創造する自覚的な投企こそ、本来的な自己のあり方です。
「もう済んだことと決めつけて損したこと あなたにもありませんか?(閉ざされてた扉開ける呪文 今度こそあなたに聞こえるといいな)」
どうやったら恋愛できるようになるの?どうせ自分には無理だわ……と決めつけ、悩んでいる時間があったら、少しでも行動して、そんな自分を作り変えちゃっていって下さい。その具体的な方法や実践については、私も日々なんとか勉強しているところなので、年明けの続きのプレゼンで、みなさんと考えていけたらいいなと思います。まずは、恋愛に対する心構えみたいなものから始めました。最後に、これはとあるサイトから拾った言葉です。
「俺は出来る!」「私、頑張って彼を落とす!」ぐらいの勢いを持ってくれよ。
もっとノリノリで行こうぜ。恋ってのは苦しむもんじゃない。楽しむもんなんだからさぁ。
楽しんでノリノリで行けば相手だって「この人と居ると楽しい」って思ってくれるだろ?」
実存は本質に先立つ → 恋愛は行動した者勝ちです!みなさん積極的に恋をしましょう。
※この発表で使ったパワーポイントはこちら。 http://cid-d63a4c23b1d6da64.office.live.com/browse.aspx/.Documents